teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル
    
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]


(無題)

 投稿者:精進場健史  投稿日:2005年 2月12日(土)11時14分41秒
返信・引用
  早川さん、お久しぶりです。
暫く自分のページを放っておいたら、
1ヶ月近くも前においでいただいていたのですね。
失礼しました。
長らく体調を崩されていたとのこと、お見舞い申し上げます。
「聖ベルナール…」お読みいただき、恐縮です。
「緻密な考察」といただいておりますが、
私のエッセイには、学術的な正確さはありません。
雑駁な自分の知識の玩具箱をひっくり返して、
自由に考えを組み立てることを楽しみとしているだけですので、
気楽につきあっていただければと思います。
ただ、ネットの個人ページとはいえ、広く公開しているものですので、
客観的な誤りや、万一、多くの方に不快な思いをさせるようなことがありましたら、
ぜひ教えていただけますと幸いです。
「柊の家」は、下書きはほぼ終わっている状態ですが、
なにぶん「ダラダラ」と書いてきた長編なので、(それもはじめての)
しまりをつけるのが難しく、悩んでいます。
本年中には、PDFで全編を公開できるとよいのですが。
早川さんのページも、たまに訪問させていただいております。
無理をなさらず、頑張ってください。
 
 

明けましておめでとうございます。

 投稿者:早川和子メール  投稿日:2005年 1月16日(日)01時28分44秒
返信・引用
  精進場さん、明けましておめでとうございます。
早川和子です。覚えておいでてすか。すっかり
ご無沙汰してしまいました。昨年私は長い入院
生活を余儀なくされ、その上に左手が不自由に
なりパソコンの操作が思うように出来なくなりました。
長いリハビリの結果左手はほぼ回復し、体も健康時様態に
戻りました。精進場さんのホームページ訪問していたの
ですが掲示板に書き込みするのが難しく今に至って
しまいました。精進場さんの作品「聖ベルナールの
夢あるいは三日月に乗る聖母」詠ませて頂きました。
緻密な考察と精進場さんの博学さに改めて感心させ
られました。「柊の家」完結したら読もうかと思って
いましたが、もう少しづつからでも読んでいこうか
とか考えています。お忙しいので更新がなかなかなの
だと思います。私も昨日学生時代に書いた小説をアップ
しました。今読めば赤面してしまう代物なのですが
昨年ほとんど更新していないので、何とかホームページを
運営していきたいと思い切ってアップしました。今年からは
小説は無理かも知れませんが、詩からでも書いていきたいと
考えています。精進場さんの御健筆心よりお祈り致して
おります。これからもお互い頑張りましょう。
 

(無題)

 投稿者:精進場健史  投稿日:2003年 5月25日(日)19時14分54秒
返信・引用
  いろいろありがとうございます。
早川さん、nagai@ezoさん、拙作を精読していただき、恐縮です。
これまでは、意味論的にも方法の面においても、意識的に、「閉じた」世界、ひとつの完結性を持った作品世界の造形ということを主眼においてきました。
もとより、自らのアイデアや興味をいろいろ試したいという思いもありますので、また違った趣の作品も、いつかは手がけたいものです。まあ、いつのことになるやら、自分自身でもこころもとありませんが。
今後ともよろしくお願いいたします。
 

ロジックが抜けていた

 投稿者:nagai@ezo  投稿日:2003年 2月12日(水)00時16分43秒
返信・引用
  旧い美学が前提とする世界観は、現実を解釈するものである。それは人間の可能性の一面だけをとりあげ、別のものを捉えない。またそれは人間の根源的な経験を隠蔽したりもする。(たとえばハイデガー)  

旧い美学2

 投稿者:nagai@ezo  投稿日:2003年 2月11日(火)23時34分13秒
返信・引用
  さて、20世紀以降人間や文化や社会に対する研究は著しく拡張された。それは例えば我と世界が出会い思考や言葉の発生する場所を描き出す。またそれは、暗黙に存在する諸世界観の構造をはっきりと言語化し、時にはその精神的・物質的基礎を分析する。さらに、現代では狂人や異文化を理解できるようになったし、無意識だって発見された。理解すると言うこと自体すら研究対象となっている。(ぼくはこれら研究の全体は知らない。いくつかに触れたことはあるが。エコだって記号論の大家でしょう。)

これらの研究を前提に考える限り、ぼくには古い美学が前提しているような人間への理解は、あまりにも浅く一面的で特定の文化に限局されていると感じられる。それを前提にした作品も、いつもの予定調和としか感じられない。(それゆえ、今となっては芥川前期作品が評価に値するとは思えない。それには奥深いもの、たとえば我や思考や世界がたち現れる次元を、芸術として示唆することに欠けている。それに対して後期作品は圧倒的であるが。)

さて、ことばで言い表されたものは相対化できる。だから現代において、古い美学は選択的に使用できる方法の一つとなったのである。例えば、主君の殺害事件をテーマとした場合、あだ討ちへの読者の期待が発生するということを勘定に入れた上で、色々な描き方ができるだろう。期待通りあだ討ちさせるのもよし、ストレス状態の人間心理を分析するのもよし、主人公を発狂させたり別世界にトリップさせるのもよい。問題状況を解体するのだって面白い。現代では作品の可能性は著しく拡張されているのだ。

ぼくがこの間観た「戦場のピアニスト」はいい例である。

ここではホロコーストが描かれている。最初、ユダヤ人たちの平和な生活にナチが押し入り、理不尽な悪逆非道の限りを尽くす。ここでは明瞭にナチが悪役として描かれている。そして、普通のホロコースト映画なら、例えば「シンドラーのリスト」なら、最後に英雄が登場し悪役を制裁したり問題を解決したりして、観客は涙にくれるいうことになるだろう。

ところが「戦場のピアニスト」においてはそうではない。映画の進行にしたがい、ナチですら憎しみの対象ではなくなってしまう。そして最後はナチにも英雄にも、主人公の命をを助けた兵士にすらも、破局が訪れる。主人公はなにもできない。起こっていることにながされ、世界をただ見るだけだ。観衆は主人公に感情移入はできない。最初の問題提議(に思えたもの)はいつのまにか消えてしまう。

しかし、こういった方法をとることで、現実と精神や聖なるものの関係までも示唆することができ、ホロコースト映画として例外的な深みにまで達することができたと思う。(ただ、こういったやり方で優れた作品を作り出すのは大変むづかしいだろう。この作品にしたって商業映画として成功しているとは言えまい。だからこの作品がカンヌを制したのは驚きである。でもこの作品についてはまた述べることがあるだろう。)
 

旧い美学1

 投稿者:nagai@ezo  投稿日:2003年 2月11日(火)23時32分7秒
返信・引用
  旧い美学についてもっと書かなければならない。

ぼくが読んだその論文は、たしかカントの美学に基づいていると称していた。(ぼくは美学専門でもなくカントの読者でもないので、きちんとしたことはいえないのだが)しかしそこでのべられいた美学は、カントというにとどまらず、あるタイプの文学作品のあり方をいいあてていると思われる。

その論文によると、巨視的に見れば文芸作品とは、作者の問題提出によって読者に発生した期待を、結末に向けて満足させ解決する過程であるという。そしてその意味で文芸作品は論理的であるという。たしかに、この理論があてはまる作品は多数存在する。ことに旧い作品には。(現代でも、ある種の大衆文芸や社会主義リアリズム作品は、完全にこの議論の範囲内にある。)

こういう論理性が成立するのは、作者と読者が共通の場所に立っている場合に限られるのは明瞭である。その場所とは、人間とその反応・規範・価値観・社会状況や文化や宗教に対する共通の理解である。その理解は、ある社会全体すくなくともあるグループに共有されているものである。それは明示された行為の底にある暗黙の世界観であって、彼らが直面している現実がなんであるかを解釈しているのである。だたし、それは世界観であるから(可能性としては)言語化できる。そして当然ながら、その世界観が常に普遍性に適合しているとは限らない。 

(こういった論理性は音楽にも見られる。調性自体そうだよね。特に古典音楽はこういう論理性を強く意識しているようだ。しかし音楽の場合は、より普遍的な耳の自然に基づく部分が多いと言われているのだが。)

忠臣蔵を考えよう。伝統的儒教社会において、ある作品中に主君が殺められるとう問題が提出された場合、読者は臣下のあだを討ちへの期待が発生するだろう。その期待に基づき、作者は最後の結末に向けて色々なプロットを積み重ねていくことになる。あだ討ちへの葛藤、裏切り、脱落、そうして最後にあだ討ちを成功させたり失敗させたりする。

でも考えてみよう。あだ討ちを価値あるテーマとしてとりあげること自体が、特殊な時代状況の産物なのである。主君が殺められるという事件を重視し、臣下たるものあだを討たねばならないと考え、それに強く感情移入するのは、ある文化に特殊な思想なのである。

すべての文化において、主君が殺害された場合、臣下のあだ討ちが義務となるわけではない。だいたい、あだ討ちといったって、そこにはいろいろな思想体系や人間関係や利益や感情が絡まりあっている。それらさまざまなものごとは、あだ討ちにたいして単に正負2方向のベクトルを持つものばかりとはえず、あだ討ちからだけ評価できるものではない。
 

心理劇 と 理解

 投稿者:nagai@ezoメール  投稿日:2003年 2月 7日(金)05時01分7秒
返信・引用
  なるほど
早川さんは心理劇として読まれたのですか。

残念ながらぼくには対人関係の葛藤に対する感受性はありません。
それゆえ、ぼくには心理劇としては読めませんでした。
(同様にぼくが理解し書けるのはモノローグだけです。それゆえ皆さん
が小説の人間であるのに対し、ぼくは詩の人間なのでしょう。)

さて、十分に理解したかどうかよくわかりませんが、あの小説は
心理劇としてよめばきちんと理解できる。すべて書き込まれていると
思います。(この際理解しにくいかしやすいかは問いません。)

でもその点だけの完結なら、よくてまあせいぜい古典的完成程度と言えるに過ぎな
いでしょう。★注

でもあそこには別の要素もあるのです。「魔」や「聖なるもの」や「狂気」それから
背景としての時代状況や時代精神。これらは作品を深め魅力を与えてくれるはずのも
のなのですが、それらが単に心理劇をすすめる素材になってしまっている。それどこ
ろかこれらの素材を小さく扱うことで、作品の印象が小さくまとまってしまうような
気がします。
(つまり、例えば「ヌミノーゼ」が登場すれば、読者がわにある期待が生じるでしょ
う。でもそれを個人の葛藤劇の範囲で簡単にわかるように解いてしまうと、期待は裏
切られる。深淵はみえない。)
 「幽玄」についても同様ではないでしょうか。

★みなさんはどうかしりませんが、ぼくは完全に構成されて判るだけの小説「鼻」
などは、あまり優れているとは思いません。
そんなのより漱石のほうが(それほど知らないので印象ですが)、あるいは作者晩
年の方が、あるいはばななの方が深いと思います。(ばななの心理洞察はすごいで
すよ。あの人無意識を表層近くで捉える能力があるみたい。最近だめですが。)

昔の美学に、完全な作品とはまず読者の期待をつくりだし最後にそれをかなえる
ものだ、といったものがありました。ぼくはこの美学は古いと思います。まあ
これはいい悪いではなくて、好みの問題なのですが。
 

分かりやすいですかね。

 投稿者:早川和子  投稿日:2003年 2月 6日(木)20時25分36秒
返信・引用
  nagai@ezoさん、精進場さん今晩は。nagai@ezoさんと
精進場さんの書き込みを読み少し考えてみました。
現代にとり、花瘴物語が分かりやすいと言う意見に
この物語の持つ非常に巧みな構成力がそんなに分かる
人がどれほどいるかと考えてしまいました。物語の
遠さが「幽玄」へと連なるとすると、最初の花による
患いが時子へ復讐心から伝染し、主人公へと伝染して
いく様をもっとおどろおどろ描く必要が出てくると
思いました。そこへ笛の名手が現れその人物が最初
の場面の狂女の子供と言う伏線からその人物がこの
物語の軸となっている悪僧を退治しその母である
狂女を連れ京に帰りその後ひっそりと暮らしたという
最後への道筋は破綻無くかっちりと描かれており
大変感心させられる訳です。この緻密な構成が
分かる人がそれほど居るのかなと言うのが素朴な
疑問として湧いてきました。私は幽玄の美など分からない
人間のせいでしょう三角関係の心理の不足に少し
不満を持っていました。しかし全体の構成が人間の
絡みを的確に書くことにより大変おじょうずだと
思いました。人間の持つ謎と言うより人間が織り成す
どうしようもない物をあの笛の名手に解決させる
その母親が萱女の子供だったという設定にかっちりと
救いも描かれていると思ったわけです。私などが書けば
どうしようもなく救われない話になりそうな、それで
私には書けないものを精進場さんの作品に見出したのかも
しれないのですが。歴史小説とは私は読みませんでした。
舞台は遠くても人間の持つ業が引き起こす、一つの人間
ドラマとして読んだのです。ドラマとして読めばそれほど
長い作品ではないこの作品が長い作品に感じられるのも
巧みに描かれているからとしか私には考えられないのです。
「薔薇の名前」が出てくるあたり、凄い話に展開していますね。
nagai@ezoさんの書き込みに少し疑問を持ち書き込みしました。
 

おはようございます

 投稿者:nagai@ezoメール  投稿日:2003年 2月 6日(木)07時02分35秒
返信・引用
  早川さん、カステラはんとこでおあいしましたねえ。

○環境が変わって仕事が忙しくなると、なかなかかけませんねえ。集中できませんものねえ。ことばが浮かんできませんものねえ。ぼくのところもながらく開店休業。まずいっ

○花障記は現代人にとって分かりすぎるのじゃないかしら。韜晦したらいっそうおもしろくなるのでは?

花障記の文体や細部は大変優れていると思います。しかし全体構造は現代を生きる私たちにとって「分かり」過ぎる。逆に霊異記はごく簡単な文体であり、奈良時代に生きているものにとっては説明不要なぐらい明白であったはずですが、現代人にとってあそこでいわれていることは結局なぞなのです。
 さて、「遠さ」「幽玄」の本質の一つは、なかなか理解できないという点にあると思います(本当は知らないだけか)。とすれば、花障記において「遠さ」「幽玄」をいっそう表現しようと思ったら、全体のプロットを開いておく=謎のままにとどめておくほうがよりよいのではないでしょうか。そうすることで、読者の側に空想・推測をさせることになり、人間のもつ「謎」=心理に働きかけることができるでしょう。
 それから、「薔薇の名前」は謎解きなのですが、結果としてヨーロッパの全思想史が照明されるというような、より大きな問題が開かれる(これももちろん大きな謎です)。ぼくはそこに魅力があると思います。

○音楽と悪……たしかに音楽が責め道具になることもあるでしょう。
(ぼくは一度だけヘビメタのコンサートにいったことがあります。ミスタービッグ。はじめのうちはうるさいと言ったってこんな程度かと平気だったのですが、段段うるさく感じはじめました。さらに、音も音楽もいしたことがなくて猛烈に眠くなったのですが、耳栓をしてもうるさくて寝られず、本当に責められているようでした。ぼくはパイプオルガンのように低音の大音響は好きだけど、ヘビメタみたいに歪んだ中高音だけがうるさいのはもうごめんです。)

でも現代ではその関係はもっとねじれていると思います。

1.麻薬中毒のJAZZメンのように地獄の快楽に身を滅ぼす。また同様にJAZZやROCKの演奏家には黒魔術にかぶれた人もいます。(ROCKのほうはあまり知りませんが。)
2.東方紅のように、個人の善意と努力が合成され、社会全体でのとてつもない悪を結果する。(アダムスミスはこの逆を主張していました。)

○こないだ「戦場のピアニスト」と言う映画を観てきました。音楽についておもしろいことがかけそうです。(似たようなことを朝日にかかれちゃったけど)
 

おはようございます。

 投稿者:早川和子  投稿日:2003年 2月 4日(火)10時08分1秒
返信・引用
  精進場さん、おはようございます。「花瘴物語」の
中で笛の名手が出てきてこの作品を救いのある作品に
仕立て上げられていることについ最近気付きました。
先に「花瘴物語」を読み、れから精進場さんのエッセー
を読んだのでこの所の意味が最近になり分かったような
気がしています。音楽の持つ魔力を作品に導入されているのだ
と気付いたのです。エッセーを読み大変音楽及び絵画に
造詣が深い方なのでよけいそう感じさせられました。
読み方が間違っていたらごめんなさい。私も精進場さん
の作品を参考に音楽、絵画にとても関心を抱いて見る
様になりました。私はバッハはとても好きなのですが
精進場さんの書かれている作曲家を知らない人が多く
勉強させて頂きたいと思います。お忙しいでしょうが
「柊の家」頑張って書き進んで下さい。お互い頑張り
ましょう。
 

レンタル掲示板
/5