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桜前線を追いながら仲間達と連日の宴

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 4月29日(土)15時11分5秒
  瞬時に桜花爛漫となって咲き誇り、潔く散っていく桜の姿には、つくづく芭蕉の「さまざまの事おもひ出す桜かな」の句が浮かんでくる。

桜に誘われるままに、桜前線を追いながら、1週間にわたる旅をした。旅といっても6夜連続で宴を催したものである。

まず故郷に帰ると、まだ3分咲程度であったが、馴染みの上杉公園の光景にも桜が咲くと、人生の節目であった入学、卒業にまつわる多感な時代の思い出がよぎってくる。(下写真)

初日は、当家に興味を持たれている大先輩との歓談であり、これまで折々まとめた我が家の家系図資料も散失するので、これを機会に年表のようにまとめた。子供、親戚への継承のためにも、今回この音沙汰記に掲載する。
しかし、肝心の歓談は、大先輩の身内にご不幸があり見送られ、実家で米沢牛のスキヤキの宴でとなった。

2日目は、四三の会のFT君とSA君と飲む。SA君の次男が、東京中野で居酒屋を営んでおり、先日訪れた。美味しい郷土料理を自らの包丁でふるまい、気っ風の良い対応を伝えると非常に喜んでいた。今年の四三の会関東支部懇親会は、この居酒屋を会場にしたい。恒例の栄寿司からは、一家言をなす四三の会の騒々しさに他の客に迷惑と苦言を呈されていることもある。

故郷滞在最後の3日目は、中学時代の同級生が発熱でダウンし、飲み会が中止となり、急遽FT君に誘いを入れた。「昨夜はついつい焼酎がすすみ、2本半開けたので、今日は軽くなら良い」と言い、快諾してくれた。しかし、またもや酒豪の二人は同じパターンに陥り、逆に2次会のスナックに誘われるが、先を考えてこれは固辞した。

この故郷滞在で、飲んでばかりいないで、北国の遅い春の息吹を膚で感じながら、職人さながらに雪囲いをすっかりほぐした。

翌日は、大学OB空手部役員会のために山形市に移動し、満開の霞城公園を散策する。
役員会のメンバーは、私が若手と言われるほど歴代の重鎮の方々である。(下写真)

昨年11月24日のこの音沙汰記で、兄弟での県大会決勝での対決を書いたが、それが大学OBの機関誌に掲載され、兄も役員会に出席したので、その話題に花が咲いた。

懐かしい花小路へ2次会に繰り出し、空手部の酒量は並外れたもので、ヘベレケになりようやく宿にたどり着いたが、そこは、なんと1泊2600円であり、一抹の不安があったが、ルームキーを取り出すと、すべて無人であり、部屋は下記写真の通り、自炊のIHまで備え、実に快適であった。

ベッドに身を投げ出したところ、突然兄から電話が入る。「ホテルを探してくれ」との依頼である。米沢終点の各駅停車だったので、寝入ったところ、反対方向に列車が走っているという。眠り込んで、列車が折り返したことに気が付かなかったらしいが、途中で最終列車に飛び乗り、事なきを得たとか。

4日目は、四三の会の仙台滞在のメンバーとの飲み会である。時間が充分にあり、9時の電車に乗り、15分ほどで山寺に着く。冒頭の「さまざまの事おもひ出す桜かな」の芭蕉の句で、山寺での「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を思い出し、途中下車したのである。
山あいであり、桜はまだ3分咲程度だった。(下写真) とにかく1000段を越すという石段が応え、つくづく45歳の芭蕉の奥の細道での健脚ぶりに驚かされた。

青息吐息で仙台に着き、FK君の配慮で“ループル仙台”の一日乗車券を購入し、仙台市内の観光巡りをすることになった。桜は既に散っている。
最初に、仙台藩祖の伊達政宗の霊屋“瑞鳳殿”を訪れる。(下写真)幸運にも、教養の深い語り部のガイドと出会い、興味津々1時間半も寒風に晒されながら聴き入った。

我々の「伊達政宗の長男がなぜ家督を継がず、遠く宇和島の藩主になったのか」との質問に、「私見だが名前が秀宗であり、家康に配慮した」と説得力のある回答をしてくれた。秀宗の子孫は明治維新のときに、西郷隆盛が策謀した“四候会議”の一候として伊達宗城が就いており、傑物であったのになぜの疑問は氷解した。

そして、ガイドは「伊達政宗は、漢詩にも通じ教養ある武将であった、この詩は貴方たちのためにある」と下記を示してくれた。
馬上少年過  世平白髪多  残躯天所赦    不楽是如何
驚くことに、FK君が朗々と唱え、講釈してくれた。戦国の時代を生き延びた、老後くらい楽しまないでどうするのだということで、彼の新たな1面を見た。

結局、仙台観光は、この“瑞鳳殿”のみとなったが、途中バスは、八木山の東北大キャンパスを通り、48年前の桜と共に散ったほろ苦い思い出が甦ってきた。入試合否を知らせる電報は、「サクラ チル」であった。

周遊バスを降りて、一番丁を歩いていると、偶然長身の飲むメンバーであるKN君と出会う。そこにIH君が合流し、6時から飲みだす。飲み放題であり、一気に酔いが回り皆饒舌になった。

IH君とは、秋保温泉以来だが、これまでじっくりと話をしたことがない。高校時代に暴れん坊だった彼は、大学でボクシング部にはいり、推定通り破天荒な社会人生活を送っていた。いまは一国一城の造園家の主で、すっかり落ち着いている。

2軒目は、実に海鮮が美味しい店であった。ここも飲み放題コースをとり、さて帰ろうとするが酩酊でまともに歩けず、FK君に支えられながら無事ホテルに帰館した。

最後の日は、一関へ向かった。桜は満開だが、かつて2600人規模を誇ったNECの地方工場は、車の出入りもなくひっそりとしていた。ものづくりの凋落の一途を辿り、子会社の1事業所に格下げされ、もの悲しいものがある。夜飲みながら、かつての部下たちと、良き時代の思い出話をするが、やはりその後の皆がリストラの影響を受けた話に推移していく。

まだ若いST君は、先月のこの音沙汰記を読んで、“これからのこの国のかたちは”と投げやりのようにして締めたところが気になったらしく、誰か身近な高所大所から見つめる人物の本を紹介して欲しいとのメールがあった。
この答えとして、歴史に埋もれた草莽の士である雲井龍雄を描いた藤沢周平の“雲奔る”を紹介した。感激した返信をもらったが、大志を持った壮絶な彼の生きざまは案外知られていないので、ここで紹介する。

帰郷した時に、常安寺の雲井龍雄のお墓を撮ったので、下記に掲載しておく。これを読んで、今の高潔な志もなく自堕落し尊厳も矜持もない政治を憂える若い世代に、草莽の士として出てきてほしいものである。
FT君は、次のNHKの大河ドラマは西郷隆盛であり、なんとか郷土の士である雲井龍雄を登場させるように働きかけたいと言っていた。
山形、宮城、岩手とわたる宴の旅は、ここで終わる。

1. 雲井龍雄の人生

(1) 少年の頃

雲井龍雄は、私の実家の先隣である袋町の中島家の次男坊として生まれる。実家の向かいにある上泉清次郎(上泉伊勢守の子孫)から唐詩選を学び、清次郎の子の直蔵とともに、神童と評された。雲井は、直蔵に続き、14歳で私の母校である興譲館に入学し、直蔵とは、終生の友になる。

12才の時に、山田蠖堂門に入る。山田蠖堂は、安井息軒、塩谷宕陰と並んで三傑と称えられていたが、藩の洋式銃隊総裁の厚斎と大砲について対立し、調練総宰配の職を追われ、自刃する。雲井が18歳のときで、この師の自刃は後世大きな影響を残した。

(2) 上杉藩の江戸詰め

江戸藩邸では、籾倉掛役という暇な仕事で、三計塾の安井息軒に入門し、この塾生との交流が、上杉藩から日本全体への視野を転じるきっかけとなる。
雲井は、対外問題で和平派と抗戦派が対立し、混沌とする中、上杉藩に決死の上書を出すが無視される。「この国はどうなるのだ」と嘆息する。

(3) 探索方に着任
上書を見た藩主の上杉茂憲が、直接下級武士の雲井に探索方を命じた。これは、現在の上級諜報員であり、桂小五郎、西郷隆盛なども同様の役割であり、このとき雲井は23歳であった。

そこで、薩摩の西郷隆盛が、前述の四候会議を画策し、徳川慶喜との駆け引きを見て、雲井は「西郷というのは、どんな男だ」と薩摩藩の動きに注視していく。
雲井自身も、三計塾で培われた尊王反幕の思想があるが、薩摩藩の動きは一貫性がなく奇怪なものに映った。

(4) 鳥羽伏見の戦いへ
薩摩藩の策謀と挑発に乗り、徳川と薩摩、長州が戦い、上杉藩は、徳川に就くことを表明していた。武力討幕の強引な薩摩藩のやり方に雲井は「薩賊!」とほぞを噛む。

京の町を雲井は狂奔したが、周到に戦いの準備をしてきた西南各藩の前に、すべてが遅かった。会津藩征討などを避けようとする雲井に、新政府側の刺客が放たれ、間一髪でかわしたこともあり、雲井はすでに名のある志士であった。

(5) 戊辰の役へ
盟主を仙台藩とし奥羽越列藩同盟が設立され、官軍との戦いになった。雲井は“討薩の激”を描き上げ、全軍の鼓舞を図った。この“討薩の激”は、歴史上の名文とも言われ、おおいに士気が上った。

一方、雲井は前橋藩、小幡藩、そして上州も沼田藩を味方に引き入れ、官軍を挟み撃ちにしようとするが、交渉の最中にだまし討ちで銃撃され随行の者は殺されるが、ようやく逃げ切る。
そして、米沢藩は敗れ、官軍の指示で忍びない会津藩攻めに転じ、奥羽越列藩同盟は全面的な敗北となる。

(6)檻車墨河を渡る墨河を渡る
雲井は、新政府でも才覚が評価され、学校局のNO3の助教を任命された。しかし、わずか2カ月務めただけで、東京に出る。そこで、雲井は集議院寄宿生を任じられた。そこは立法機関ではなく太政官の審議事項に応える役割のみで、激論を展開する雲井は疎んじられ、やがて辞した。

そして、雲井は、かつて官軍を倒すために三計塾などの仲間で設立した同盟のメンバーを、正式に解散しようとして集めた。その集いは、西南の役のように不平不満の士族が多い。

新政府は、既に雲井を米沢の賊魁として警戒しており、この集いで政府転覆の罪で捉え、檻車に収容して隅田川を渡り米沢に戻し禁固させた。そして再び裁判で隅田川を檻車で戻したが、運命は決まっていた。
政府転覆の首魁として大獄となり、明治3年に処刑されさらし首となった。27歳の若さであった。

2.我が家の家系図

(1)いきさつ
室町時代に修理亮長常を始祖として、21代の兄、秀蔵までの550年間にわたる当家の歴史は興味深いものがあり、会社定年後に探究してきた。

本資料の根幹を為すものは、昭和23年に当時の米澤図書館長の赤井運次郎氏によって編輯された家系図であり、下記資料に基づいている。

   ・上杉家所蔵古記録  ・図書館所蔵古文書
   ・牌寺龍言寺過去帳  ・米澤市役所旧戸籍簿
   ・姓氏家系大辞典   ・尊卑分脈寛 ・改重修諸家譜
   ・紹運録 ・当家傳来系図  ・古老記憶

以上の家系図の資料を基に、国会図書館、米沢図書館郷土史コーナーなどで、精力的に丹念に調査を重ねた。
修理亮の居住地だったところにも出向いた。

折をみて、歴代の足跡を書き溜めてきたが、順不同であり散失していくと思われ、この度、時代の流れに従って取りまとめてみた。

まだ21代の先祖に対し、10人しか触れておらず、今後も引き続き調査を行い、版数を重ねていきたい。

(2)概要
①1446年 始祖 長常は信濃守護職の小笠原家を離れ、当家を名乗る。居住地は、信濃国筑摩郡桐原庄である。
②1512年 4代 宗弘は信濃の地を離れ、越後の上田城主の長尾家属臣となる。高禄500石で、感状を授かる。
③1570年頃 6代 景忠は謙信跡目争いの御館の乱で、上杉景勝の全幅の信頼を得て、上田庄興川の郷賜わる。
④1590年頃 7代 為忠は御館の乱で居城の坂戸城を守り景勝より書状を授かる。徳川の天下となり米沢に移封。
⑤1639年頃 8代 吉忠は切支丹処罰で、8年間無禄となる。
⑥1658年頃 9代 信忠は三姫の御傅役に抜擢されるが、吉良上野介に諌言して、切腹する。
⑦1780年頃 13代 利忠の代に、分家に傑物現わる。忠房であり、上杉鷹山の懐刀となる。
⑧1840年頃 15代 忠政は五十騎組鉄砲足軽組頭を務めた。この頃に分家と推定される砲術家厚斎がいる。
⑨1880年頃 17代 政直は織物に転業し米澤織物の基盤を築く。
⑩1930年頃 18代 龍八の弟、龍蔵が商社を興し、日本の貿易界を牽引した。大臣の座を辞退している。

(3)歴代の記録

①始祖 修理亮長常
 (室町時代 1446年頃小笠原家を離れて当家を名乗る )
長常は、小笠原家の次男として生まれた。居住地は、信濃国筑摩郡桐原庄で、現在の浅間温泉近くの岡田神社近辺である。

兄の政康は小笠原の家督となり、足利義持将軍より、1425年に信濃守護職に任じられた。
その兄と共に、1436年に、信濃の豪族である村上左京大夫頼清と戦い、軍功があった。村上は幕府に降伏し、政康は、足利将軍より感状を授かり、小笠原家による信濃支配は成された。

しかし、1442年に政康が亡くなると、頭領の相続争いが勃発し、三氏に分裂し対立したため、信濃守護職として権勢は衰退した。
長常は小笠原家を離れ、当家を名乗った。家紋、旗印、馬印を定め、始祖となる。群書系図部集(三)に小笠原家からの分家の記録が残っている。

②4代 彦三郎宗弘
 (戦国時代1512年、上杉家臣としての礎を築く、感状賜る)
1467年には全国規模で応仁の乱が起き、小笠原一族の内紛は70年間にもわたった。
宗弘は、信州に見切りをつけ、1512年に、越後の上田の城主である長尾越前守房長に高禄500石を賜り、属臣となる。

その後、主君の長尾房長は上田長尾家の当主であったが、越後守護代の長尾為景(上杉謙信の父)とは仲が悪く、関東管領の上杉顕定が、越後に侵攻したときには、関東管領側に味方し敵対した。

しかし、長尾為景に最終的には屈服し、その家臣となった。必然的に、宗弘も長尾為景の家臣となった。
越後の実情は、信州同様に、戦国時代と称されたように、上杉謙信が登場するまで内乱続きであった。信州でも、村上兵を従え、歴戦の強者だった宗弘は、ここでも500石に値する戦果を上げる。

1512年正月16日に、大規模な六日町廣居ガ橋の戦いで、勇猛で名を馳せた六人衆に対し、奮って粉骨砕身で軍功を挙げ、新しい主君である長尾為景より感状を賜った。
感状は、戦功を賞するもので、恩賞の元となり,また家門の名誉を誇示する文書である。

③6代ー石見景忠
(謙信跡目の御館の乱で上杉景勝の全幅の信頼
上杉謙信の姉を妻とした上田政景に執権職として仕え、感状を2通も賜わる。1571年に政景の子、顕景(後の上杉景勝)より、景の一字を賜り、宗忠から景忠に改名し、忠を当家正統の取字とした。

1578年に上杉謙信が突如亡くなり、北条家から養子となっていた景勝と謙信の姉の子、景虎が激しい後継者争いを行ない、御館の乱となる。
景忠は、執権職として采配を行い、息子の修理亮は、北条勢に対し、越後の入口として要の坂戸城を守る。
戦功により上田ノ庄興川ノ郷(現在の六日町余川)を賜わった。

④7代ー修理亮為忠
(上杉景勝とともに歴戦、会津移封後に米沢へ)
御館の乱で、修理亮は最前線の南魚沼郡の居城でもある坂戸城の守備を任されていた。
その戦いの最中に、修理亮に対する的確な指示と細かい配慮をする景勝花押の書簡がある。

[修理亮宛の上杉景勝公書状] (上越市博物館保管)
一昨日の十七日に御館が落城し、敵をことごとく打ち捕えた。景虎が逃れた鮫ヶ尾城の城主堀江宗親に、いろいろな計策を打っているので、落城も間もない。(景虎は24日に自害)
関東から北条氏が国境を攻めてくるとので、栗林配下の者をはじめ、ここもとに来ていた者を今日返したので、油断あるまじきのこと。樺沢城は早々と破壊するように申したので、いかがなことはあるまじきである。 【以下省略】

御館の乱後、修理亮は20年間ほど、平穏な日々を過ごしていたが、また天下を揺るがす戦いが起きる。
関ケ原の戦いの2年前である1598年、豊臣秀吉が死ぬ間際に上杉景勝の力を恐れ、背後の最上・伊達を牽制せよとの命を出し、上杉藩を強引に会津に移封させ、修理亮も同時に移った。

会津では、50人の三間柄の槍の精鋭“長手組”を召し連れ、最上信夫の陣で出陣の功をなした。長谷堂の戦いでも、直江兼続とともに、修理亮は、50人の槍隊“長手組”を率いて、見事に戦った。
1601年に、徳川の天下になり、上杉藩は容赦なく30万石に減封され米沢に移封されて、修理亮も移り、5年後に没する。

⑤8代ー五郎兵エ吉忠 
(キリシタン処罰で8年間無禄
三代目上杉定勝公は、幕府の圧力が強く、キリシタン断罪に踏み切り、改宗せねば斬首とした。
重臣甘粕景継の次男である右衛門信綱も捕らわれた。そして、1628年に、名門甘粕信綱妻子を含めて57人が処刑され、北山原に葬られた。

その11年後、1639年に、吉忠も召し取られ、家系図には「切支丹宗門不調法に付き、御勘気を受け、8年間無禄」と記されている。切支丹処罰の刑としては軽すぎる。
甘粕右衛門家から当家は50メートルしか離れておらず、影響されたのだろうかとも思った。棄教し、仲間を自白したならば、刑は、大幅に軽減される。

この中途半端な刑罰の真相を、徹底的に調べた。
実態は、“米澤藩内切支丹の実相”(奥村幸男著)を読み、ようやく把握できた。
吉忠の家臣で、霊名ショアンとその妻が隠れ切支丹と判明し 穴吊りで処刑された。
幕府の切支丹弾圧は、更に強くなっており、大目付の宗門改の井上筑後守までが直接関与し、主人である吉忠を、管理不行き届きとして処罰したものだった。

吉忠は、無禄となり、4年後に亡くなった。その不遇の間に、当家の古文書に基づき漢文で家系図をまとめており、赤井運次郎氏の編輯におおいに役立っている。

⑥9代ー五郎兵エ信忠
(吉良上野介に対し諌死、義にあらず鈴木由紀子著)
改易となった8年後の1646年に、ようやく切支丹御勘気御免となり、五十騎に戻り、上杉綱勝に使える。
父の不祥事にもかかわらず、才気あふれる気質ですぐに取り立てられ、1658年12月30日に上杉家三姫が、吉良上野介義央にお輿入れするときに、御傳役に抜擢された。

しかし、5年間吉良上野介に仕えた後、信忠は、上野介に、莫大な浪費による国許の財政の厳しさを説き、諫めて切腹する。いわば諌死であり、このくだりは、“義にあらず”(鈴木由紀子著)に、描かれている。

信忠は36才であり嫡男がいなかったが、上杉藩は、この諌死を忠臣として評価し、お家断絶することなく、弟の昌忠に家督を相続することを認めた。
米沢藩主は、上野介と三姫の子、綱憲となっていたが、母の三姫が、信忠の死を悼み、寛容な裁きとなった。

⑦13代ー次郎佐ェ門利忠
(分家に傑物、鷹山の懐刀となった忠房
本家の利忠の時代に分家で、傑物忠房がいる。藤沢周平の“漆の実のみのる国” “上杉鷹山と細井平洲”に登場し、鷹山の懐刀と言われた男である。忠房は明和8年 、1772年から鷹山の小姓を務める。

分家に至ったいきさつは次の通りである。
当家五代目の彦三郎忠家の弟、長続小四郎が分家し、その長男が内匠長政であり、上杉藩の当家の分家始祖となる。
当家6代目の石見景忠と同様に、内匠長政は、上田衆として上杉景勝の側近であった泉沢久秀河内守に仕えていたことが記録されている。

忠房を、鷹山の懐刀として物語る下記の逸話がある。
鷹山に対し、改革に反対し反乱を起こす重臣7人が、強訴の日の事前準備をしていた。鷹山派の登場停止であり、その一人が忠房であった。
この強訴に対し、鷹山公は、藩士全般の意見を聞いたうえ、切腹2人、隠居閉門5人の断罪を課すが、忠房の意見も重んじたらしい。

飢饉の対応、松平定信候への評価など、鷹山からは大所高所から見つめるところを買われ、御用人まで出世している。細井平洲が、初めて米沢に招かれ、松桜館で教えたときに、忠房が学力第一等と称された秀才でもあった。

⑧15代ー龍八忠政
 (分家に傑物、砲術家の厚斎)
1807年に家督を継ぎ、斉憲公に仕えた。御馬廻組の堀江家から五十騎組の当家に婿養子で入っている。砲術にも優れ1841年に五十騎組鉄砲足軽組頭を命じられている。火縄銃から西洋鉄砲への藩として大転換を図った時期であり、血がつながっていると思われる厚斎は砲術家として天下に名が轟いている。

厚斎(本名は翁助親賢)は、1805年に生まれ、御馬廻組の尻高家から五十騎組の文五親好の養子になる。
厚斎の6代前が庄助と称し、次代の武左衛門親政から詳述され、それ以前は不明状態にあり、上杉藩での始祖がわからない。
元禄10年の頃であり、当家では10代の半左エ門昌忠のときにあたり、厚斎側の記録は残されていないが、当家古文書に厚斎側の名が散見し、血はつながっていると思う。

厚斎の功績を称えた石碑は、いまも上杉公園内にある。上杉謙信以降の火縄銃を江戸末期にいち早く西洋砲術に切り替えた功績を讃えるものである。石碑の揮毫は、上杉藩最後の藩主斉憲自らによる。厚斎は、オランダから高島秋帆により伝えられた砲術を江戸で学び、1851に年に大砲を鋳造し、発砲に成功し、幕府より賞された。

米沢藩は、それまで直江兼続が火縄銃に注力し、上杉の雷筒とその轟音で名を響かせていた保守体質の米沢藩だったが、兵器の近代化を加速しようと、厚斎を鉄砲隊トップの鉄砲総支配に据え、戊辰の役では大活躍した。しかし、1853年には、ペリー艦隊が浦賀に来航し、4艦に73門の大砲を備えており、世界の趨勢では、日本はかなり遅れていた。

⑨17代ー 保四郎政直

(織物業の産業基盤を造る)
明治9年に士族に「金禄公債証書」が発行されると、これを元手に米沢士族の多くは、織物業を始めた。その数6000人とも言われている。
織物業に競って着手したのは、その100年前に、上杉鷹山がその基盤技術を育成していたからである。それまで産していた青苧、紅花の利用を考え、越後の麻織物の技術を家族ぐるみで米沢に招き入れた。

この技術を、五十騎、与板、馬廻の三組に伝習させていた。明治14年には、明治天皇が訪問され、この織物業の拝覧に供しようとしたが、観るべき工場もなかった。
あわてて、佐藤伴次、保四郎、白根沢信弥、丸山忘太郎等で30台の機台を集め、絹織物を織り、拝覧いただいた。

いっきに米沢織物の評判は高くなったが、あまりに、多数の機業家により統制機能が働かず、粗製乱造となり、信用を失墜してしまった。

そこで、明治25年に、佐藤伴次、保四郎が代表となり、絹織物業組合を、加盟者204名とともに設立した。このブランド戦略により、著しく品質は向上し、織物業は隆盛を誇った。屋敷も1200坪に拡張し、大きな二棟の染色と織物の工場が建てられた。

⑩18代ー龍八保忠
(弟が日本貿易会の大御所、大臣の座を断る)
龍八の弟である龍蔵は、片田舎から、東京に志を持って商社を興し、練馬に豪邸を持ち、成功した立志伝の人物である。“日本貿易会三十年史:日本の経済と通商政策の歩み”(日本貿易会発行)に草分けの業界の重鎮ぶりが語られている。

戦後荒廃し、昭和22年の経済危機に瀕し、占領政策を転換し、国際的な貿易を伸ばすことは焦眉の急であった。しかし、貿易の振興団体は4つもあり、それがようやく一つに統合され、世界的視野に立つ貿易理念と責務が確立された。

統一された組織の新会長は、商工大臣経験の中村久萬吉で、龍蔵はその副会長を務め、鉱工品貿易公団理事長を兼務し、自らの会社・千代田貿易商会も牽引していた。

山本正雄著“財界を支配する百人”に、詳しいプロフイール、功績が、掲載されている。百人には、日銀総裁、経団連会長、三井船舶会長など錚々たる人物が選ばれているがその一人に選出されている。山本正雄は、当時の経済界きっての辛口ジャーナリストである。

龍蔵は 「貿易庁長官の後釜が問題になったとき、“役人なんか馬鹿々々しくてなれるもんか”」と、言ったそうである。貿易庁は、戦後設立され、民間貿易に移った1949年に廃止されたが、白洲次郎が長官を務めていたポストである。

【上杉公園桜、霞城公園桜、空手役員会、2600円の宿、山寺、瑞鳳園、仙台メンバーと、雲井龍雄墓、家系図】
 
 

半世紀前の熱い政治の季節も隔世の感――唐牛伝から

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 3月27日(月)19時53分44秒
  昨日は、うらうらとした春の陽気に誘われ新宿御苑の花見のはずだったが、朝は季節外れのみぞれが降り、この数日間の冷たい大気の停滞で、桜は2分咲程度であった。それでもそぼふる小雨の中を、四三の会のYH君と、新宿御苑をそぞろ歩きをする。

気に入っている日本庭園の橋の傍らのソメイヨシノは、まばらに開花程度であったが、近くの枝垂桜は、見事である。(下写真)そこから大木戸門近くの八重桜のような紅色の陽光桜を観に行く。ともに、ソメイヨシノより1週間開花が早い。

満開のときは、ピンクの濃淡程度しか気に留めていなかったが、このような時期では桜の種別ごとに丹念に眺める。今まで気付いていなかったが、真っ白な桜が、陽光桜のそばにあり、紅白の花びらが、入り交じっていた。驚くことに、その白い大島桜は、日本の固有種で、ソメイヨシノの母種とわかった。

日曜にも関わらず、開花遅れと寒さで、人影も少なく降りしきる雨のもと静寂のなか桜を愛でることができた。

そこから、中野にある四三の会のSA君の次男の居酒屋に繰り出し、AY君も合流した。(下写真)
落ち着いた上品な雰囲気であり、閑散としたオフイス街の日曜であるが、年配者の客足も多い。何より米沢牛、芋煮、こんにゃく、出羽桜など郷土の本場の味を楽しめた。米沢牛のトウガラシという部位の説明があったが、聞き覚えがなく調べてみると、1頭から2kgしかとれない赤身の王道ということである。焼酎一升をキープし、あれだけ、贅沢に飲んで食べたが、値段は実に安かった。

ところで、先日紀伊国屋書店に立ち寄り、ふらりとノンフクションのコーナーに行ったところ、いきなり“唐牛伝”が目に入った。

“カラウシケンタロウ”、この人の列伝は郷土の政治家を志向していた先輩から聞かされ、青春時代に心に残った名前である。
その人物像を知ろうとして本を捜していたが、唐牛氏の同志であった西部邁氏による“センチメンタルジャーニー”の哀しき勇者ていどで、断片的であった。沢木耕太郎氏の60年安保の3部作“未完の6月”に期待したが、いまだ発行されていない。

ようやく列伝の人物を生い立ちから描いた本に出会い、しかも著者は“東電OL事件”で名を馳せた佐野眞一氏である。橋下氏の出自に触れて休筆していたが、その「現場、現物で現実を知る」3現主義のルポタージュは卓抜したものがある。

唐牛健太郎氏は、60年安保の起爆剤になった男であるが、世の中からすっかり忘れ去られている。60年安保で岸首相を退陣に追い込んだ立役者であり、その導火線に放った学生運動の炎は、10年後の私の大学入学時も70年安保として再び燃え盛ってきたので、熱い政治の季節を当時の自身の体験を交えながら述べる。

それらは、昨年、再び日本を戦争に巻き込もうとする安保関連の集団的自衛権に反対するデモとは、全く規模も激しさも異なり、隔世の感がある。

1. 唐牛健太郎という名が刻み込まれたいきさつ

(1) 60年と70年安保

60年安保は、日米共同防衛を前面に出した条約であり、全学連主導の空前の激しい反対デモがあったが、強行採決された。自然成立の前日となる6月18日には、国会周辺に13万人のデモ隊が押し寄せ、機動隊と学生が激しく衝突し、樺美智子さんが圧死した。

社会的大混乱を招き、岸首相は退陣を表明し、辞任の前日に暴漢に刺され重傷を負うという今では考えられない時代であった。このときの全学連委員長が唐牛健太郎氏であった。

70年安保は、10年間の時限立法だった安保条約の自動延長を阻止する活動である。学生運動は中核、革マル派などに分裂しながら、層が厚くなり激しさを増した。69年1月には、東大安田講堂籠城事件が起きて、学生は、投石と火炎瓶で烈しく抵抗した。この騒動で佐藤無策内閣は、東大入試中止を決定した。

私は、当時実家の蔵に籠城し、自宅浪人をしており、東大入試中止は、私よりも偏差値の高い連中がトコトテン式に押し寄せ、第一志望の東北大学を落ちた要因の一つと思っている。

学生は、分裂と共に過激さを増し、第一次羽田事件、新宿騒擾事件、沖縄闘争などを起こすが、内ゲバの同士討ちも始まった。
70年安保は、またもや岸信介の弟、佐藤内閣によって強行採決で自動延長になってしまった。

(2) 政治家志向の先輩の話

私の学生時代に、若くして政治家志向のNKさんがいた。彼らは、尾崎周道塾長のもと黎明塾なるものを結成し、空き家である隣家にたむろして、塾生は、梁山泊のような談義をしていた。
NKさんは、1964~65年頃に中央で激しい学生運動を牽引し、日韓条約反対などで活動家として渦中にいたせいか、しがない地元新聞社に就職し記者をしていた。

政治家志向であり、その話は見識豊かで、複雑な事象を単純化し直観力に優れていた。
ある時、私は「全学連で一番魅力のある者は」と聞いたところ、即座に「唐牛健太郎だ。頭のいい幹部はいるが、土性骨がある」と答え、次の話をしてくれた。

「60年安保で国会突入を全学連委員長ながら体を張ってやった。装甲車と警察隊の完全なバリケードに対し、ダイビングしながら装甲車によじ登り、アジ演説を行い、学生が次々と飛び込んでいった。
自分も、警察隊との衝突を体験したが、警官は警棒ですぐ殴ってくる状態であり、仲間とともに突っ込んだはずが、自分ひとりだった。
熱血漢の唐牛は、その後大物右翼の田中清玄と手を組み常人ではついていけない男だった」


そんなNKさん自身の経歴を追ってみる。
市会議員となれる最年少の25歳で市会議員に当選した。私は、学生の浮動票の取集めを行い、躍起になって奔走したものである。空手道部の主将をしており、寮関連にも顔が利き、かなりの集票力はあったと自負している。

市会議員は2期8年を務め、その後は、県会議員を4期16年にわたり務めたが、こちらも、自民党に入党し、県連幹事長、県連副議長を歴任した。

昨年9月17日の母校130周年の総会で、NMさんが、我々の四三の会のテーブルにひょっこり立ち寄り、歓談させていただいた。若い時の政治談議に花が咲き、いまはベトナムで日本語講師をしたり、前田慶次、直江兼続などについて執筆しているらしい。70代を迎え楽しみと、風貌は若やいでおり、意気軒高であった。(下写真)


2. 唐牛健太郎氏の生きざま

“唐牛伝”をもとに。生きざまを追ってみよう。1937年に函館に生まれ、享年47歳である。佐野眞一氏自らが、精力的に情報を集め、心の内側まで踏み込んだ“唐牛伝”は、人生は尾崎士郎の“人生劇場”のように感じさせられた。佐野眞一氏は、休筆で充電していたかのような真骨頂のルポタージュである。

唐牛氏は、高校時代に野球に励み、文芸部に入り、健全な青年だった。このスポーツマンであり文学青年という両立が重要であり、全共闘の多くの者のように文弱の徒にならず、一方また脳まで筋肉のような粗暴の輩にもならなかった。

しかし、高校生活後半で、突如校則を破り、柄が悪くなる。著者は、多分、自分が私生児という出自を知ったからでないかと推定する。芸者と海産物商の私生児だったが、海産物商が、唐牛氏が8歳のときになくなると、母は芸者をすっぱりと辞めて、郵便局勤めに変える。唐牛氏は、母親を終生慕っていた。

高校2年のときに文芸部雑誌に「サルトルの実存主義文学について」を寄稿し、北海道大学の入試では、唯一英語でなくフランス語で受験しており、バサラの片鱗を見せはじめた。

北大に入学しても、3カ月で休学届を出し、上京後は初めて砂川闘争の社会運動に身を投じる。翌年に北大に復学するが、日本共産党に入党し、北大全学中央委員長となり、政治色を濃くしていく。
彼のアジテーション演説は一流だったという。単調な抑揚でがなりたてる学生のアジ演説に一線を画していたらしい。

運命の年が急速に訪れる。翌1958年に、全学連は、日本共産党から、共産主義同盟(ブント)として決別して、1959年6月に唐牛氏が全学連委員長に就任する。

60安保の前年であり、委員長就任直後の7月には、防衛庁長官の東大にも造兵学科を設置との発言に対するデモを指揮し、最初の逮捕となる。そして、岸首相の羽田空港での訪米阻止、そして4.26の伝説的な国会デモで相次ぎ逮捕され、安保成立の6月19日は刑務所の中だった。翌年には、さっさと全学連委員長を辞めて24歳で結婚する。

この後も、流転の人生であり、転向右翼の大物である田中清玄氏から逃走資金400万円を受ける。田中氏の石油会社に就職しながらも、暴力団、右翼大物と昵懇になっていく。1965年には堀江謙一氏と“堀江マリン”を設立するが、4年後に「ヨットの学校の校長先生は飽き飽き」言い放ち、奥さんとも離婚して、蒸発した。このときは、無類の大酒のみで、新橋の飲み屋の親父も行っていた。

2度目の結婚の後は、しばし与論島に住み、その後は北海道の紋別で漁師になり、7年間暮らす。そして母のガン看病で函館に移り住むが、翌年に母は逝去する。最後は、血が騒ぐのか徳田虎雄の選挙に携わるが、47歳で、直腸ガンで亡くなる。
波乱万丈でやりたい放題の人生の幕を閉じたと思えるが、佐野眞一氏は、なぜか“敗者の戦後漂流”という副題を付けている。

3 私の学生時代の学園紛争から

(1) 学内機動隊と呼ばれて

上述の1月の安田講堂事件で、東大入試が中止となり、3月に受験を控えていた私の大きな関心を誘った。1月から重度の蓄膿症で、長時間読書はきつかったが、自宅浪人ゆえ膨大な時間があり、毎日通う図書館でマルクスの資本論をはじめ学生運動に関する本を次々と読破して、思索した。

そして、志望校に落ち、やむなく国立2期校に進んだ私は、桜吹雪が舞い散る中、異様な学園紛争の光景を目の当たりにした。北国の桜花爛漫は遅く、その長閑な春を打ち破るような、とてつもなく喧騒なキャンパスだった。

1年間自宅の蔵に籠り下界と断絶し、受験直後に蓄膿症手術をして入院していた私には、大きな立看板と貼り紙、ヘルメット姿での大音響のアジ演説は、異次元の世界であった。
政治の季節を感じさせ、しばらく通学すると“革命前夜”ではないかと感じられるほどであった。

教室に入っても、皆が微熱におかされたように、“民主化、体制打破”を唱え、学生ならば左翼的考えを持つべきとの風潮に気が滅入ってきた。

授業が中止になり、グラウンドに出て、教養部20組の討論会を行うことになった。皆がそれぞれ意見を述べ、I君のみの話が理論のかき集めではなく筋が通っていた。
しかし、彼を除く誰しもが“稚拙な反体制”を掲げ、辟易してきたので、私がおもむろに立ち上がり、説教した。“理論の受売り、消化不足、空論”と、反体制の熱におかされた連中に水をぶっかけた。

すると、暗い顔した長身な男がのっそり立ち、「オラがお前の素朴な質問に答えてやるワ」と言ったので、黙って5分ほど聞き、あまりに幼稚なくだらない話に、思わず手が出て、張り飛ばしてしまった。彼は、30人入部した空手部員の一人で、現富山県会議員のYT君である。集会は、一瞬で凍てつき、誰かの提案で散会となり、皆は私から距離をとりはじめた。

数日後に、授業が始まろうとしたときに、中核派の5人がヘルメット姿で、授業阻止に入ろうとした。驚いたことに、教授に「自己批判しろ。総括だ」と迫る。

私が、間にはいると、「お前は体制側か」と詰問する。私は、「ヘルメットをとれ」と怒鳴りつけ、面前の男のタオルを剥ぎとった。乱闘を予知して構えていたが、先に手を出さないように頑なに決めていた。

1年間自宅浪人中に、空手の自主トレーニングで鍛え上げた体は、鋼のようであった自負し(下写真)威圧的な態度をとったところ、彼らは、罵詈雑言を浴びせながら退室していった。
同じような小競り合いが何度か続いたが、一触即発で論議を交わしながら、臨戦状態のまま済んだ。

しかし、空手部のTH主将の場合は、格闘になってしまった。格闘とは言っても、一蹴りで終わってしまったが。
TH主将は、バリバリの右翼の考え方であり、対話もなにもない。

体育館の大学立法反対集会で、空手着姿で乗り込み、中核派の柔道部主将の大柄なKさんと対峙し、TH主将は胸ぐらをつかまれ突き飛ばされた直後に、本気で前蹴りを入れてしまった。
TH主将は、1m60cmちょっとだが、3年間鍛え抜いた空手技である。Kさんは、もがき苦しみ救急車で運ばれていった。

私とTH主将は、全く違う考えだが、同じように“学内機動隊”の扱いを受けた。
学生運動の渦中に入り、1年間の自宅浪人生活は、自分の精神生活と肉体を飛躍的に向上させてくれたのだと実感を持った。

(2)凄惨な同志大量リンチ殺人事件ーー学園紛争終焉へ

70年安保までは、このような小競り合いで済んだが、以降武闘路線が先走ってゲバ棒をふるうようになり、ついに惨い内ゲバ殺人へと進展していく。

その極めは、70年安保連合赤軍による同志14人のリンチ殺人である。妊娠8カ月の女性までも殺し、人はこんなに残虐になれるのかと嘆息した事件である。

理解を超える行動であり、死刑囚の主犯格である永田洋子著“十六の墓標”(下写真)を読んだ。永田洋子は、私と同じ1949年生まれで、1972年にこの事件を起こし、事件後11年目にこの本を著している。そして、2011年に65歳で多臓器不全により獄死した。

彼らがリンチ殺人を犯すときは、私が大学教室で遭遇した中核派と同じであった。ささいな事で反共産主義、反革命と因縁をつけ、自己批判しろ、総括と同志を殺していく。

永田本人は、想定もしなかった大きな誤りを犯すに至った理由を、次のように述べている。

「自分を見つめ自分の内面との闘いをしなかった。左翼運動に参加し、革命とか社会主義とかを第一に考えることによって、その前提として要求される近代的自我の確立、民主的な精神の獲得のための闘いを私は放棄したのである」

確かに、当時の学生達は、社会事象を流行で追い、自分を見つめ、自分の内面との闘いに欠けていた。
私が、大学入学後すぐに遭遇した全学連の若者の拙い考えが、そのまま継続し過激化してこのようなモンスターを産み出してしまったのだ。この連合赤軍の事件で、日本の学生運動は終焉した。

(3)これからのこの国のかたちは

一方、逆に学生運動の終焉とともに、この国は憂いを持つような事態にもなってきた。
昨年、安部内閣で憲法違反の集団的自衛権としての安保関連法案を強行採決した。この暴挙に対しても、国会周辺でのデモは3万人程度で整然とおとなしいものがあり、半世紀前のあの民主化と平和を願う熱情は隔世の感である。

佐野眞一氏は、唐牛伝で、三島由紀夫氏が自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺する4か月前に、“文化防衛論”に書いた一文を引用していた。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら日本はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう。」

三島由紀夫氏は、東大全共闘との対話など、極端に思想は違っていても、理解をしめしていたが、70年安保が自民党の強行採決で敗北した後に、“憂国”として割腹自殺をしている。
この国を突き動かした純粋な情熱が、枯れていくことを予見していたのだろうか。

トランプ政権で、米国の国際的威信が地に堕ちて、国際緊張が高まる中、対立勢力が拮抗せず、キャステイングボートを握る首長者と組織は低次元で俗物的であり、そして大衆も俗化しており、これからの日本は大丈夫なのか。

【御苑の桜、SA君の息子の居酒屋、唐牛伝、政治家NK氏と、入学直後(帯は柔道の黒帯)、16の墓標】
 

映画“沈黙”を観て‐――切支丹処罰の先祖の驚くべき真相を解明

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 2月27日(月)20時17分6秒
  前月は、今年の初夢を書こうとしたが、電通事件でつい書きそびれた。
1月1日黎明のその夢は、あまりにも鮮明な印象が残り、若い時のいろいろな思いが浮かび、まんじりともせずに、本を読みながら新年の夜明けを迎えた。初夢は下記のようなものであった。

私は、広大な砂漠をラクダに乗りながら、風がもたらす砂丘の風紋くらいの果てしない単調な景色を眺めながら旅していた。彷徨いながら、ラクダの上でこれが求めていた人生だと満足していた。白燃化した太陽からの熱波に、流れる汗も心地良い。
しかし、一転、月の砂漠で、スフインクスのもと目が覚めた。ラクダがいない。煌煌とした月明かりのもと、スフインクスが無表情に見下ろしており、しまったと、滅茶苦茶に砂漠を走り駆け回りラクダを探していたところで目が覚めた。

なぜ、このような夢を見たのだろう。
夢の中での若い時の焦がれた彷徨の感覚が、あまりにも生々しく現実感があった。目が覚めて、いまこの歳だとわかり、それはとうに失ったものともの悲しくさえなってしまった。
若い時は、仕事に忙殺され彷徨もなしえず、ようやく莫大な時間とある程度の資金を有したいまは、徘徊するような旅の心が削がれている。

眠れぬままこの夢の原風景を辿ってみた。砂漠の光景は、1995年に敦煌からゴビ砂漠に行ったときのものだろう。(下写真)
そのとき44歳で部長職と激務にあったが、前月書いたリストラのような負の任務ではなく、心身ともに活力に溢れ仕事をこなし、一方精力的に9日間の夏休みをフルに使い、上海から入り西安、敦煌、北京と駆け巡った。
ただ仕事は、いっときも脳裏から離れず、北京から2時間も時差がある砂漠のど真ん中のラクダの背で、仕事が浮かんでくることには参った。

ラクダがいなくなったことは、多分、上温湯隆著“サハラに死す”の影響と思う。上温湯氏は、私の3歳下で近くに住んでいたが、波乱万丈の人生を求め、1975年に21歳の若さでサハラ砂漠横断中に客死した。

高校1年で中退し、コックなどのアルバイトで資金を貯め、2年間50ケ国を巡る世界放浪のヒッチハイク旅に出る。帰国後、今度は前人未踏のラクダでのサハラ砂漠横断の旅に出る。
単なる放浪者ではなく、人生設計もしっかりしており、驚いた。彼が、母親あてに送っていた手紙には、以下のように書いている。

「・22歳 旅は終了し帰国。すべてのことを処理する。(体得した異文化) ・23歳 検定の勉強。受験勉強。そしてバイト ・24歳 早稲田クラスの大学に入ること。 ・仕事は国連勤務」

くまなく送った母親への手紙には、彼の異文化の体験、過酷な自然との闘い、そして人生設計とその準備状況などが綴られていたが、スケールの大きな生き方には感銘した。
どうやら、客死の原因は、ラクダに逃げられたためで、死因は解剖の結果、乾死らしいとの推定であり、大企業の小さな歯車のような人生になっていた私には、衝撃的な生きざまであった。

しかし、若き日を思い出してこの感触を思い出しても、それは良かれ悪かれ、終わってしまったことだし、「いまから先では、いまが一番若い」と思って生きていこう。

先日、大学空手部OBの月例稽古と新年会があったが、先輩の喜寿の祝いまであり、私はまだ若い方であった。稽古にも、喜寿の先輩が参加し、まだまだ体が柔軟で元気一杯である。(下写真)

ところで、今日は遠藤周作著“沈黙”という映画を観たので、私の切支丹処罰の先祖の生きざまと重ね合わせ、切支丹弾圧の実態分析と処罰の真相を解明したい。(下写真)

遠藤周作自らがクリスチャンで、“沈黙”は、キリスト教文学として世界的な評価を得ている。
17世紀のキリシタン弾圧で、想像を絶する拷問とあめを同時に味わされ、打ち続く厳しい試練でも、神は“沈黙”し、ついに棄教するポルトガル人のロドリゴ司祭の物語である。
史実に基づいて描かれており、神への信仰と存在を命題に、日本でのキリシタン布教の状況も、如実に描かれている。

私の8代目先祖の五郎兵エ吉忠も、このロドリゴ司祭と同じ頃に、上杉藩によって処罰された。
当時は凄惨な拷問の末、棄教せず多くの者が殉教していく中で、この“沈黙”では、司祭は稀に棄教していた。処罰された先祖と重ね合わせて映画を観て、そして本も読み、私の先祖の処罰真相を追ってみた。

私の先祖は、8年間無禄処分という中途半端な処罰であり、帰郷して図書館で、米沢藩の古文書を調べ上げ、ようやく我が家の系図の裏にある意外な、驚く真相を突き止めた。

1、 映画“沈黙”のあらすじ

1637年の最大規模の一揆でもある島原の乱が収束しても、なお隠れ切支丹が潜み、その地での弾圧の状況を生々しく描いている。

イエズス会の重職フェレイラ教父が日本に派遣され“穴吊り”という人間にあるまじき拷問を受け、棄教したという報告がローマの教会本部に届いた。
フェレイラの教え子ロドリゴは、棄教、つまり教会を裏切るという師の行為が信じがたく、日本に潜入するためマカオに行き、酒に溺れ優柔不断な日本人キチジローに手引きを願い、五島列島にたどり着く。

ロドリゴは、世の中から隠れるように棲みながらも、隠れ切支丹たちに歓迎されるが、長崎奉行所に追われ逃亡する。そして隠れている司祭達の眼前で、隠れ切支丹への拷問が展開された。
十字架に組んだ二本の木が波打ち際に立てられ、それに括り付けられ、3日間も苦痛が続き、絶命する。
映画では、腕を括った縄が緩く、いつでも脱走できると思ったが、本を読み、それは、縄から腕を外した瞬間に棄教した意味とのことで、合点がいった。

その惨い殉教に対し、ロドリゴは、「神は、迫害が起こって二十年間むごい犠牲を前にしてなお黙っておられる」と感じ、これでも神は“沈黙”を通すのかと嘆く。

ロドリゴはやがてキチジローの裏切りで捕らえられる。キチジローは、狡猾であるが、信者と棄教者の狭間であえいでいる純粋さも見受けられる。

長崎奉行所で井上筑後守により、「切支丹とよぶ樹は異国においては花も咲こうが、日本では萎える。我々が切支丹を禁制にしたのは、勘考の結果、日本国には無益と思った」と指
摘される。

一方、一緒に密航したガルべ司祭が、ロドリゴの眼前で、簀巻きにされ船から落とされ殉教する信者3人たちを前に、泳ぎ寄って命を落とす様子を見せられる。
ロドリゴは、神は、このときでさえも、黙っておられるのかと愕然とする。

そして、長崎奉行所で、棄教した師のフェレイラと対面する。名前は、沢野忠庵と改められ、切支丹の誤りと不正を暴く“顕偽録”を書かされていた。ロドリゴは、拷問よりひどい仕打ちだと嘆き、「主よ、あなたはこんな人生にも頑なに黙っている」と呟く。
フェレイラは、自ら究極の拷問である穴吊りの跡を見せ、「この国は恐ろしい沼地だった。どんな苗も、根が腐り始める」と諭す。

その夜、ロドリゴは、響いてくる無神経な役人のいびきのような音を止めてくれ叫ぶ。フェレイラが来て、それは拷問されている信者の声と告げる。

穴吊りの拷問を受けている信者3人の実態を見る。汚物の入った穴に逆さにつられ、首のところを板で挟まれ、真っ暗闇となる。逆さに吊ってすぐに死なないように、耳の後ろに小さな穴をあけて、血抜きをする。内臓が下がらないように縄でグルグルにまかれていた。

フェレイラは、「私は、この拷問を3日間耐え抜いた。しかし今夜と同じように5人の信者が穴吊りされ、死ぬ寸前に彼らの命を救うために踏絵を行った」とやさしく言う。
ついに、ロドゲスは転び、岡田三右衛門の名前をつけられ、死んだ男の妻を迎え、長崎奉行所に切支丹取り締まりで貢献し、日本に骨を埋め、仏教徒として葬られた。

2  切支丹の弾圧状況

(1)豊臣秀吉の時代
1587年に豊臣秀吉は伴天連追放令を出している。
一向一揆や国人一揆の団結力を目の当たりにしていた秀吉が、知行割で九州に切支丹大名が集中し、その布教状況を把握して、切支丹が一向宗や国人以上の脅威となりうると感じたためだろう。

伴天連追放令は、二十日以内の外国人宣教師の国外退去、布教禁止という厳しいものであった。しかし、当初の取り締まりは、南蛮貿易の奨励、天正遣欧少年使節の帰還などで烈しいものではなかった。

ただこの状況は、1596年に一変する。日本に漂着したスペイン船の船長に尋問した五奉行の増田長盛が、「スペイン人は征服者であり、彼らはまず他国に修道者を入れ、その後に軍隊を入れ征服する」と秀吉に伝え、厳しい処置が断行され始めた。

このとき、10代の少年4人を含む日本二十六聖人の殉教が磔刑で行われた。そして、秀吉は1598年に没し、徳川の天下取りで、しばらくは切支丹弾圧も小康状態になる。

(2)徳川時代
関ヶ原の戦いで西軍に勝利したが、改易された切支丹の武士達が、切支丹に好意的な大坂方に仕官し、更に切支丹大名高山右近らが暗躍し、切支丹勢力と大阪城の豊臣方とが結びついてきた。

徳川家康は、1614年豊臣家の息を止めるべく大阪冬の陣に先がけ、1月に「伴天連追放文」を公布した。
2月に京都から宣教師が去り、棄教しない切支丹71名が津軽へ流罪となり、高山右近などもマニラに追放された。

天下統一後、切支丹弾圧は、秀忠、家光の時代に厳しくなる一方であり、処刑は栄えある殉教と信者には映るので、拷問により殺すことより棄教させる方針になった。

そして、ついに1639年の島原の乱を契機に、一気に取り締まりは過酷さを増し、宗門改め制度が確立し、鎖国制度も盤石となり、キリスト教布教は下火になって、一部の潜伏切支丹のみが残った状態となった。


(3)米沢藩では
さすがに天下に名立たる上杉景勝公のときには、幕府も切支丹取り締まりの徹底を図れず、景勝公の「当領内には一人の切支丹も御座無く候」の報告を鵜呑みにするしかなかった。
しかし、1623年に景勝公が没し、若い定勝公が家督をついたときに、幕府の圧力が高まり、それに拍車をかけたのが、切支丹弾圧派の米沢藩家老の広居出雲守忠佳による領内のキリシタン実態報告であった。

驚くことに、上杉藩の上級武士である甘糟右衛門信綱と西堀式部政貞が含まれていた。
甘糟の父は、上杉景勝公に仕え白石城主であった重臣甘糟景継であり、上杉二十五将の一人である。
西堀は、定勝公の小姓として仕えていた。甘糟は無足町、西堀は馬場の町と上級武士の城下町に舘を構えている。

米沢藩の隠れ切支丹は、“聖母の組”と“御聖体の組”の2つの組織から構成されていた。甘糟は、2012年の江戸詰めのときに、ソテロ神父より洗礼を授かり、ルイスの霊名をもらっている。甘糟の二人の息子も洗礼を受け、1622年に西堀も洗礼を受けてパウロの霊名を授かっている。

甘糟はその2つの組を統括する“総親”で使徒を務め、彼の二人の息子と西堀が“親”であった。“親”は、領内の隠れ切支丹が住んでいる地区をそれぞれ担当し布教していた。

名門甘糟家を擁護する志田家老を筆頭に、上杉藩としても棄教することを懸命に勧めたが、甘糟の心は乱れず「殿のお心はまことにありがたいです。しかし、君命なれども、わが主ゼウスを裏切ることはできません。転び切支丹になるよりも磔にされる方が幸せと存じます」と拒絶した。

1629年12月18日に、雪の降る中、隠れ切支丹53名の処刑が執行された。57名処刑されたが、会津若松に潜伏していたポーロ神父が53名とローマ教会に報告していたのだ。
2008年にはその53名は、“ペトロ岐部と187殉教者”としてローマ教皇庁より列福されている。
処刑の様子は下記のように伝わっている。

午前四時に甘糟右衛門信綱の一族15人が雪の舞う中、刑場である北山原に向かう。聖母マリアの絵姿と、ローソクを持った二人の息子を先頭に、刑場までの40分間雪を踏みしめ、しずしずと進んでいく。オラショと讃美歌、多分「参ろうや、参ろうや パライソ(天国)の寺に参ろうや パライソの寺とは申すれどーーー」を唱えつつ、ゆっくりと進み、その姿には死を恐れる様子はなく、殉教できる誇りさえ感じられたと言われている。

ただ次男の嫁が、まだ17歳であり、その胸に抱かれている生を受けて間もない乳児まで巻き添えにしたことは忍びない。3歳の子も、事の次第がわかっていなかったろう。早朝だが、沿道は見送る市民が連なっている。

前日すでに、藩の使者が罪状を読み上げており、すぐに斬首が執行された。首は、街道に晒され、「この者共は、わが国の禁制を犯してキリシタン宗門を奉ぜしにより、斬首の刑に処せしものなり」との高札が建てられた。

1629年の甘糟の刑執行の翌年に、赤湯の豪農ヨハネ美濃の一族十人が捕えられた。棄教せよとの命令を一切受け入れなかったので、まず幼女の首を撥ね、次々子供から処刑すると脅したが、全員屈せず殉教していった。

その後も、隠れキリシタン詮索と処刑は、すさまじいものがあった。景勝公が黙認していたので、布教活動が活発となり、米沢藩の信者数は3000人と言われている。

3.私の先祖の五郎兵エ吉忠の処罰

(1)吉忠の父、修理亮は名高い剛の者―――甘糟と同じパターンか
景勝公は1555年に越後国魚沼郡上田庄の坂戸城下に上田長尾家当主・長尾政景の次男として生まれた。吉忠の父、修理亮は上田衆として、坂戸城で景勝公の臣下として仕えた。
この坂戸城は関東から攻める入口にあたり、謙信公の跡目争いの景虎との御舘の乱で、北条勢が攻めてきたときに、修理亮為忠が守り抜いている。

そのとき、の上杉景勝公から修理亮為忠に宛てた上越市博物館に展示してある直筆の手紙は、昨年5月21日に、この音沙汰記で紹介した。吉忠の父は、上田衆として上杉家屈指の名将であった。

(2)吉忠の切支丹処罰は甘糟の影響か
吉忠の兄の資忠が、本来家督を継ぐべきであったが、資忠は、無足町の潟上家で当家を名乗り分家のようになり、本家同様に五十騎組にはいる。
吉忠は1606年に家督を継ぎ、景勝公は1623年に67歳で没したが、そのまま定勝公に仕えた。

無足町に分家した資忠の嫡男鶴千代、同じ町内の甘粕右衛門の嫡男太右衛門、そして吉忠の嫡男信忠は親交が厚く、いずれも50m以内の距離で家族ぐるみの付き合いであった。分家した資忠も、甘糟家と同様に300石の上級武士であった。

そのような間柄ゆえ、吉忠が家督相続後の23年後となる1629年の甘粕右衛門一族の切支丹による斬首は衝撃的であったろう。
雪が舞うしののめが明けていく中での斬首とさらし首を、どのような気持ちで見ていたのだろうか。

甘糟は、自分の身に刑が迫っていることを感じ、大きな十字架を彫り込んだ信仰の石を埋めた。甘糟家は、刑執行で断絶となり、屋敷跡には不動明王の祠が建てられた。

余談となるが、小学生の頃、その祠の前で5町内の相撲大会があり、大人も大声援の盛況なものだった。既に柔道を始めていた私は、常時5人抜きの覇者だったが、その土俵の屋敷主の惨劇など、知る由もなかった。

その祠の改修の際に、その十字架が刻まれた大きな石が出てきて、現在その祠には甘糟右衛門信仰の十字架としての説明板が掲げられ、十字架の石は甘糟右衛門が眠る北山原に移設された。

私の家から50mほどのその場所に、恐らく私の先祖吉忠は、毎日祈りに来ていたのだろうか。そして、甘糟処刑後10年後に、上杉藩から吉忠に、切支丹処罰の断が下される。

(3)我が家の系図では
昭和23年に赤井運次郎氏によって編纂された我が家の系図では、下記のように記録されている。(下写真)
「寛永十六年四月十九日切支丹宗門不調法ニ付御勘気寛永十六年ヨリ正保三年マテ八年間無禄」

切支丹宗門につき処罰されていることは、事実である。
しかし、甘糟が、「転び切支丹よりは磔刑」を望み殉教したが、生き延びた吉忠は、棄教して転び切支丹になり、刑罰を軽減したのであろうか。

それにしても、8年間無禄で済んだことは、信じがたい。隠れ切支丹の信者を米沢藩に暴露したのであろうか。お家断絶にも相当する罪をなぜ逃れられたか、疑念が湧くばかりである。

尚、この8年間無禄で済んだことは、吉忠本人がわかっていたかどうか定かではない。米沢藩から断罪されて、失意のうちに、無禄となり4年後に亡くなったからである。

(4)背教者のパターンは
歴史的に、棄教するに至るケースを研究した書がある。
武田清子著“背教者の系譜”を紐解いてみた。どうやら背教者には、次の3つのパターンがあるらしい。

① 苛烈な宗教への拒否
美も歓楽も捨てて殉教することを強いる宗教とみることによって、神に絶対的に服従する信徒たることを拒否し、自我の追求などを行う。

② 敗残者としての隠れ切支丹
殉教の死を遂げ得ずに転び、仏教徒にさせられた中で、秘密に信仰を続け、キリスト教の根を腐らせるものと思えるところの精神的土壌に埋没する。“沈黙”の主人公がそれである。

③ 背教を意識することなく他力道に移行
キリスト教の中世期的な神秘主義思想を己が宗教思想の基礎としながら、東洋の宗教にひかれ、学もない素朴な衆民がただ念仏によって済度されているようなもの。

吉忠は、教養が高く、古文書を紐解き、漢文の家系図をまとめ上げ、当家の現代に伝わる家系図の礎になった。その家系図は、五郎兵エ吉忠の自分の代で止まっており、自分の不調法には触れていなかった。断片的で達筆で判読困難な沢山の古文書をよくぞ編纂したものである。①のパターンに似ているかもしれない。

しかし、我が先祖は、謹慎の身であり、切支丹に関する一切の書物は残っていなかった。残念ながら、先祖伝来のものにも、切支丹に関するもの物品はない。

(5)帰郷し真相を追う
帰郷して、まず北山原の甘糟一族が処刑され、殉教した場所に行く。
すっかり雪に埋もれているが、1929年に、米沢市の天主教徒によって、建てられたキリスト、ヨゼフ、マリアの像が見える。(下写真)甘糟一族の惨劇が思い浮かび、身が引き締まる。先祖の切支丹処罰の真相を探究する気持ちが奮い立った。

図書館の郷土史コーナーには、3日間連続して通い、克明に米沢藩と切支丹の記録を調べた。そして驚くべき吉忠の切支丹処罰の事実が解明できた。

① 御家中諸士畧系譜 十五
米沢藩の正史であり、原本の写しを丹念に調べた。五郎兵衛吉忠の名前と切支丹処罰の内容を見出した。(下写真)
我が家の家系図にない文字が飛び込み、夢中で解読し、飛び上がるほど仰天した。

[召し使い(家臣)が切支丹宗門に有り、これを慮らず(用心して考えをめぐらさない)索しない(手づるによって探し求めない)ことは、不調法に均しい。これは御勘気(主君のとがめ)を蒙る]

② 米澤藩内切支丹の実相
私なりの解読だけでは物足りなく、確固とした裏付けがほしい。懸命に探索すると、奥村幸雄著“米澤藩内切支丹の実相”との本に出会った。
奥村幸雄氏は、私の解読を具体的に裏付ける下写真の御家中諸士畧系譜の基礎資料を入手し、調べ上げていた。

そして以下のことが判明した。
【幕府老中阿部重次より上杉定勝公への手紙】(下写真)
・隠れ切支丹は、吉忠の家臣で霊名ショアンとその妻
・他の信者を訴え、転宗すれば、命を助け褒美もやる
・しかし、転宗しなかったので、穴吊りで処刑する。

そして、幕府大目付の井上筑後守が、踏絵の絵図を持って来いとかの細かい指示を出し、米沢藩への厳しい対応を迫っていた。井上筑後守は、“沈黙”でも、人間にあるまじき惨い拷問である穴吊り刑を考えだし、ロドリゴ司祭を棄教させている。

【米沢藩より阿部重次老中、阿部豊後守老中、松平伊豆守老中への手紙】(下写真)

・吉忠の家臣ショアンが切支丹であり、吉忠の責任を問い、改易する。

相当な幕府の圧力がかかっており、米沢藩は、翌月切支丹探索隊を編成し、山中草の根分けても探し出す、吉忠の3男の甚兵衛續忠を長井郷に派遣すると報告した。

切支丹処罰で、なぜ8年間無禄という中途半端な謎は解けた。しかし、剛直な景勝公が没した後は、幕府の顔を伺うような藩政になっていたことは残念である。
ただ、上杉藩は、幕府の面子を大事にし、裏で巧妙に私の先祖を復活させていた。

改易となった8年後(1687年)に、吉忠の嫡男である信忠は、五十騎組に戻り、綱勝公に仕える。
父の不祥事にもかかわらず、才気あふれる気質ですぐに取り立てられ、1658年12月30日に上杉家三姫が、吉良上野介義央にお輿入れするときに、御傳役に抜擢された。

その信忠は、5年間吉良上野介に仕えた後、上野介に、莫大な浪費と国許の財政の厳しさを説き、諫めて切腹する。いわば諌死である。36才であり、嫡男がいなかったが、上杉藩は、この諌死を忠臣として評価し、弟の昌忠に家督を相続することを認めた。三姫が、信忠の死を悼み、寛容な裁きであった。

【ゴビ砂漠、初稽古、沈黙、北三原刑場、我が家の系図、米沢藩正史、先祖の実相】
 

“第三の波”情報革命がもたらすものーーー電通事件に思う

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 1月20日(金)19時56分19秒
  輝かしい初日の出とともに、新年を迎えた朝は、格別厳かな気持ちになり、初詣をする。例年にない、抜けるような青空で、清々しく暖かい陽ざしの三が日であった。

ひっそりした穏やかな元日だったが、2日から娘一家が訪れ、孫二人にダックスフンドまで加わり、静寂は打ち破られ、実に喧騒なものになった。孫も犬も好きな長男が居れば多少楽だが、ミャンマーに旅立っている。

いまの子供は、凧揚げではなく、二人ともそれぞれのラジコンの飛行機を飛ばしている。1台は8000円ほどのドローンであり、驚くことに、地上からスイッチを押し、動画、静止画を撮ることができる。

かなりの高度まで上昇し、自由に旋回して着陸する。このように身近で7歳の子供でも操作できることに、ITの革新を実感する。(下写真)
帰ってから、ドローンのSDカードをパソコンに入れて画像を見たが、実に鮮明であり、かつて見たこともない角度、高さからの航空写真に驚く。その出来に満足して、二人ともスマホのYoutubeを音声入力で駆使している。ITが、家庭の隅々、そして幼児にまで浸透してきた。

実に長閑な娘一家と犬の光景であるが、昨年末からの暗いニュースが私の脳裏から離れていない。IT革新を目の当たりに見るとともに、電通の過労死事件を連想してしまう。

電通事件は、私の経験では、インターネットという情報革命が企業構造にパラダイムシフトを興した根深いものと推察した。企業が、情報革命の本質に追従できず、経営の誤りが悲惨な結果を招いたと思う。メデイアが伝えていることは、表層的なものである。

一昨年死去した未来学者アルビン・トフラーは、1980年に出版した著書“第三の波”で、「人類は狩猟採集中心から農耕を開始した紀元前8000年頃に農業革命を起こし、第二の波として18世紀に産業革命を起こした。そして第三の波は、情報革命である」と論じた。

企業が情報革命にのみ込まれ、ネット社会の光と影が際立ってきた。今日は、電通事件を機に、情報革命による企業構造のパラダイムシフト移行への問題提起について私見を述べてみたい。

ところで、四三の会のST君とON君の帰任懇親会を、昨年11月に行なったが、ST君は不慮の怪我で出席できなかった。彼は、19年もタイに赴任し、我々もタイ旅行では大変お世話になったので、今月改めて慰労会を開いたので、その模様も述べる。

1. 電通事件の真相は

(1) 事件のあらまし

電通の高橋まつりさんが、入社した年のクリスマスである2015年12月25日に電通女子寮の4階から飛び降り、自死した、昨年9月に労働基準署が過労死として労災認定をして、10月に東京労働局による異例の“臨検監督”が行われた。

11月には労働基準監督官が、強制捜査にはいり、石井社長、幹部社員に任意の事情聴取を行ない、12月28日に東京労働局は、電通と元上司を書類送検した。

亡くなった高橋まつりさんのツイッターが、その凄まじい激務を物語っており、以下に抜粋する。
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① 2015/10/14 誰もが朝の4時退勤とか徹夜とかしてる中で新入社員が眠いとか疲れたとか言えない雰囲気なので、火事とか地震の時でも逃げることに罪悪感覚えて最期までPCの前にかじりついて死ぬやつだわ。
② 2015/10/31 部長「君の残業時間の20時間は会社にとって無駄」「会議中に眠そうな顔をするのは管理ができていない」「髪ボサボサ、目が充血したまま出勤するな」「今の業務量で辛いのはキャパがなさすぎる」わたし「充血もだめなの?」
③ 2015/11/01 日曜日も弊社は輝いている。日曜の昼過ぎにお風呂はいって会社行って会社で寝るライフスタイルにはまりつつある。
④ 2015/11/03 生きるために働いているのか、働くために生きているのか分からなくなってからが人生。
⑤ 2015/11/05 土日も出勤しなければならないことがまた決定し、本気で死んでしまいたい。
⑥ 2015/12/16 死にたいと思いながらこんなにストレスフルな毎日を乗り越えた先に何が残るんだろうか。
⑦ 2015/12/18 1日20時間とか会社にいるともはや何のために生きてるのか分からなくなって笑けてくるな。
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(2) 高橋まつりさんのキャリア

① 学歴と職歴

高校は、私の母校と同じようなレベルの静岡の私立進学校である。ただ3つの教育方針の一つに“国際理解教育”を挙げて、中国語の選択も行えるなどに独自性がある。母子家庭であり、学費免除の特待生となり、現役で東大文学部に合格する。その高校時代の校風の影響か、東大在学中の2013年に中国に留学している。

2015年に卒業し、電通に入社し、ダイレクトマーケティング・ビジネス局デジタル・アカウント部に配属され、 インターネット広告を担当していた。

② 仕事の能力
大学1年から2年までに週刊朝日でアルバイトをしていた。そのときの活躍ぶりをlivedoor NEWS 2016.1019より抜粋する。
既に社会人の体をなしており、私が学生時代に肉体労働と家庭教師のアルバイトに明け暮れたこととは、雲泥の差である。
【livedoor NEWSより】
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2010年から11年にかけて、高橋さんは本誌のインターネット生放送番組(12年に終了)に出演していた。キャスター役を務めていた山口一臣元編集長は振り返る。

「テレビ番組に彼女が出ていて、『将来は週刊朝日の記者になりたい』と答えていたんです。『この子を探そう!』と見つけ出し、アルバイトしてもらうことになった。明るく聡明で、何事にも前向きな頑張り屋でした」

 番組アシスタントとして本誌最新号の内容紹介だけでなく、時には突撃リポーターにも挑戦。当時の編集部スタッフはこう話す。
「相手が大物政治家だろうが、有名人だろうが、物おじしない。機転が利いて、根性もある。あの子を精神的に追い込むことのほうがよっぽど難しい」


(3) ネット社会と企業

① ネット社会が企業に及ぼすもの

卓抜な才能に溢れ前向きな彼女を、なぜ企業が追い込んだのか。情報革命は企業にパラダイムシフトを起し、その革命に対応できない企業は、組織も人も軋みを起こしていく。

36年前のアルビンとフラーの著書“第三の波”をもう一度紐解いて、ネット社会の光と影を深堀する。
情報革命は、紀元前の農業革命、18世紀の産業革命に次ぐ人類史上3つめの大きな波であり、企業のみならず社会構造、ひいては文明の構造までも変えていくものである。

ここでは話が発散しないように、情報革命を“脱画一化したメデイア”に絞っていく。広告業で最も重要なポイントは、メデイアである。

アルビン・トフラーは次のように説く。
「第三の波がごうごうと押し寄せ、マスメデイアは急速にその影響を弱める。具体的には新聞、雑誌である。テレビの視聴者も減る。不特定多数のテレビ視聴者を細分化し、文化の多様化を推進すると同時に、今日まで完全にわれわれのイメージを支配してきたテレビネットワークの強大な神通力に深刻な打撃を与える。マスメデイアは大攻勢を受けている。第三の波は、脱画一化メデイアの時代を拓こうとしている新しい“情報体系”が、新しい“技術体系”とともに出現している。われわれのイメージと理解力を、根底からくつがえしてしまう」

以上の表現は、36年前のインターネットの技術もかけらもなかった時代に、看破したものである。

テレビ、新聞、雑誌は、“PUSH型”で視聴者に迫るが、ネット社会では、視聴者による“PULL”型となり全く様変わりする。広告業は、かつて猛烈スタイルで貢献したベテランのテレビ広告マンがのさばる世界でなく、経営戦略を根底から見直し、ネット社会のニーズの原点に戻り取り組まなければならない。

② 電通という会社

連結売上5兆円、営業利益率2.6%で、授業員は4万7000人である。給料は、年収平均1200万円 25歳で801万円と破格であるが、電通本社前は、深夜2、3時になると電通通りと呼ばれ、タクシーが行列を為している猛烈な働きぶりの会社である。

社会インフラとしてインターネッットが浸透し始めた2000年の電通業績は、1兆5000億程度、15年後の昨年5兆円である。日本の広告業界はあまり伸びていないが、電通だけは急成長である。

広告業界は、ラジオ、新聞が廃れ、若い人もテレビよりはスマホに向かっている現在、広告業の事業戦略は、かなり厳しいものがあるはずだ。電通は、日本の広告費が伸びない事業環境の中で、海外事業を58%まで高め世界ランク5位となり、活路を見出している。
部門ごとに、単体売上の15年間の推移を比較して、第三の波に乗り切れているかどうか検証してみる。

 【部門ごと電通単体売上比較】
       テレビ    新聞   雑誌  ラジオ インターネット
・2000年  7236億   2427億  753億  283億   41億
・2014年  6907億   1079億  336億  141億   780億

テレビは、業界売上は急減しているが、しがみついて大健闘している。
問題はインターネット部門であり、たかだかテレビの10%程度である。この先テレビと新聞離れが進んでいくと、やはりこの分野に注力しなければならない。インターネット分野は、この会社の弱点でもあり、放置すれば近い将来に凋落していくだろう

この会社は社員の猛烈さで成長しており、更なる成長のための大きな課題を持つ要であるはずのインターネット部門に高橋まつりさんは投入されたのである。

電通のような企業は、コアコンピタンスが人材である。社員手帳の社訓“鬼十則”が企業風土を表している。

―――――――――――――――――――――――――――
1)仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。
2)仕事とは、先手先手と働き掛け、受身でやるべきではない。
3)大きい仕事と取り組め。小さい仕事は己を小さくする。
4)難しい仕事をねらえ。それを成し遂げるところに進歩がある。
5)取り組んだら放すな。殺されても放すな。
6)周囲を引きずり廻せ。引きずるのと引きずられるのとでは、長い間に天地の差が出来る。
7)計画を持て。長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と正しい努力と希望が生まれる。
8)自信を持て。自信がないから君の仕事は迫力も粘りも厚みすらもない。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って一分の隙があってはならぬ。サービスとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れるな。摩擦は進歩の母、積極の肥料だ。でないと、きみは卑屈未練になる。

――――――――――――――――――――――――――――――
読んでいるだけでバテテくるような内容である。

東京大学工学部を卒業し、電通に入社した吉田望氏は、経営計画室時代の32歳の時に下記のような“裏鬼十則”を造っている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1)仕事は自ら創るな。みんなでつぶされる。
2)仕事は先手先手と働きかけていくな。疲れるだけだ。
3)大きな仕事と取り組むな。大きな仕事は己に責任ばかりふりかかる。
4)難しい仕事を狙うな。これを成し遂げようとしても誰も助けてくれない。
5)取り組んだらすぐ放せ。馬鹿にされても放せ、火傷をする前に…。
6)周囲を引きずり回すな。引きずっている間に、いつの間にか皆の鼻つまみ者になる。
7)計画を持つな。長期の計画を持つと、怒りと苛立ちと、そして空しい失望と倦怠が生まれる。
8)自信を持つな。自信を持つから君の仕事は煙たがられ嫌がられ、そしてついには誰からも相手にされなくなる。
9)頭は常に全回転。八方に気を配って、一分の真実も語ってはならぬ。ゴマスリとはそのようなものだ。
10)摩擦を恐れよ。摩擦はトラブルの母、減点の肥料だ。でないと君は築地のドンキホーテになる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

反骨精神にあふれ、有能でユニークな社訓に反するような吉田氏は、部長職を最後に44歳で、転職し起業する。
電通のインターネット分野の取り組みに見切りを付けている。経営の中枢部門におり、鬼十則も気に入らなかったのだろう。

日経ビジネス2007.9.19で、吉田氏は次のように語る。
「広告コンサルタントの会社を興したのですが、辞めようと考えた動機はまさに“ウェブで広告が変わっていく”と、確信したことである。広告会社はネット広告でも儲けられるようにビジネスモデルを変えていかなければならない、ということまでは自分の中で明快に予言できるんだけど、果たして電通のような既存の大組織にそれができるのか? と自問した」

これは、図星だったと思う。見かけは超優良会社だが、社員の猛烈な働き振りが命綱であり、高橋まつりさん配属のインターネット部門の強化が焦眉の急であったはずだ。

③ NECも別の意味でネット社会に対処できず

私が勤務したNECも別の意味で、早くから進軍ラッパを鳴らしながら、このネット社会の大波に乗れなかった。
1977年に小林元社長がC&Cを唱えドメインを明確にし、このC&Cは、現在のICTの用語そのものになった。
1988年に書かれた小林元社長の著書“私の履歴書”にその先見性が鮮やかに述べられている。(下写真)
「(C&Cの)世間の反応ははかばかしくなかった。当時、通信とコンピューターは異なる業種と考えられていた。“C&C教祖”とさえ言われた。」

そして、剛腕の関本元社長が電電公社の民営化とともに、C&Cのドメインのもと官公庁依存の組織文化を一掃し、民需体質にした。
NECは、2000年に売上5兆4097億、営業利益は3.8%を達成し、超優良企業となっていたが、そこから失速し凋落の一途を辿った。

つまずきの発端は、西垣元社長が、その絶好調の2000年に、HHKスペシャルで“インターネット事業に1万人の配置転換”を放映し、容赦のないリストラ光景を映しだしたことから始まる。
そのとき発表された中期計画は、3年後に売上6兆4000億、営業利益6.4%にするという実現不可能なものであり、突如組織の隅々まで軋み始めた。

以降10年以上にわたりリストラが繰り返され、新機軸の確立もできず、“タマだし”“マーケッテイング”の勢いはそがれ、閉塞感が漂う守りの組織文化になってしまった。目立つ経営戦略は、不採算からの事業撤退ぐらいで、優秀な凡人レベルの社長では牽引できず、実績をあげることなく経営責任をとらずに、次々と交代していった。

私の同期の学卒530人での入社式は壮大であり、NEC,本社スーパータワーが建てられたことは、隔世の感である。(下写真)

いま、5兆円の売り上げは3兆円となり、人員は15万人から10万人に減らされた。
今年度の1Qは、売上5187億に減り、299億の赤字になった。リーマンショック以降最大の赤字幅である。

要因の一つに、リチウムイオン電池の赤字が報告されていた。この事業は何度もブレて迷走した。私が、地方工場に赴任した時に、その生産設備を開発していたので、悔しい思いもある。ネットニュースをまとめてみた。

2009年に同事業を牽引していたNECトーキンが経営不振で、栃木工場の閉鎖を発表した。当然、日本でトップクラスの技術、ノウハウは散り散りになってしまった。
そして、2012年にNECグループを支える新しいエネルギー事業として自動車用リチウムイオン電池生産再び取り組んだ。

NECトーキン時代のリチウムイオン電池は、やがて到来する車載用電池をにらみ、他社のコバルトでなくマンガンで開発していた。体積は大きくなるが、安全性に優れている。軽薄短小の携帯電話では、厳しい戦いが強いられたが、歯を食いしばって頑張っていたが、閉鎖され、また3年後に復活劇である。

今年度1Qの赤字要因の一つが、またリチウムイオン電池になると、ビジネスユニットから事業部に格下げし事業の柱から外し、今度は従業員20%の削減である。

ネット事業から外れたドメインとして、撤退したことまでは理解できるが、売上が急減してきたので、なりふりかまわずに日産の電気自動車リーフ活用に飛びついてしまった泥縄式の戦略である。

“第三の波”に先端を切って乗っていたはずだが、すっかり飲み込まれてしまった。


④ 電通事件の原因追及

今月辞任する石井電通社長は、昨年の年頭訓示で次のように述べている。

限界まで考え抜く、やり抜くプロフェッショナリズムこそが今日の発展に導いた原動力に他ならないと話し、第4代社長の吉田秀雄氏がしたためた「鬼十則」の第8条「自信を持て、自信がないから君の仕事には迫力も粘りも、そして厚味すらがない」という言葉を紹介している。

もはや組織文化の隅々まで、熾烈な乾いた猛烈な働きぶりが浸透していた。武蔵大学の長谷川教授の次の言葉は、更に衝撃的だった。

【長谷川教授の7日の投稿】
――――――――――――――――――――――――――――――
「月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。
自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。それでも駄目なら、その会社が組織として機能していないので、転職を考えるべき。また、転職できるプロであるべき長期的に自分への投資を続けるべき。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この投稿には怒りさえ覚える。象牙の塔の世間知らずな教授ならまだしも、ニトリの取締役まで務めた人である。組織のトップには、自分の努力を尺度にして、部下の心情を思いやれず、育成の念に欠ける者もいる。仕事ができても、教養、品格の足りない者は多々いる。

転職と言っても、前述の吉田望氏のように、反骨精神に溢れ、アントレプレナーシップに富んだ者が可能であり、私のような愚直なものは、追い詰められていくだけで転職など逃れる術はない。

今回の事件を受けての、電通の対策は表層的である。残業の上限を5時間下げる、全館22時消灯、鬼十則を社員手帳から外す。石井社長引責辞任などで、組織風土が変わるものではない。
何より、労災に認定されマスコミ、ネットでバシニングを受けるまで、事件後9ケ月間も何ら組織風土の改革に取り組まなかったことは許しがたい。

1月17日に、電通はインターネット広告の不正請求を発表した。不適切業務は997件に達し、合計で1億1482万円分である。このうち広告の未掲載で架空請求していたのは、40件で計338万円にのぼった。この件で、専務以下17人を10~20%の減俸処分3カ月としている。
不適切業務の要因は、インターネット広告部門の要因が不足していたためであり、増強すると説明しているが、高橋まつりさんの事件から1年もたってこの体たらくである。

次期電通社長には、猛烈な働きぶりを削ぎ取り、第三の波を捉え、閉塞感のない仕事ができる組織文化を確立することを望む。

(4) 私のストレス体験から

高橋まつりさんのような心境に、私も追い詰められたことがある。NECの地方工場に赴任していたときに、リストラの遂行責任者を任じられた。

既に54歳となり、海外工場の立ち上げ、自主事業の黒字化など人並み以上の苦労を味わい、経営幹部職となり、企業人としての力量が備わってきたと自覚し、自信あふれていた頃であった。

1999年に赴任した時は、構内外注を含めて2600人で売上は500億を突破していた隆盛を誇る新幹線駅前の地方工場であった。

しかし、NEC本体がリストラへの進軍ラッパを吹いてから、ソルーションへの資源集中で“ものづくり”も撤退が始まり、3年後の2003年にNEC本体よりその地方工場にもリストラの指示が出たのである。

覚悟を決め、5人の部長を配下に、やむなく人員は大幅削減してもひたすら工場を残せることに注力した。

連日夜半まで残業となったが、その日のうちに帰宅することを心掛けた。帰途のスーパーマーケットのジョイスが田舎に珍しく午前零時まで開店しており、そこでお惣菜を買えることができたからである。しかし、それも叶わず天ぷらを冷凍したりして、生きるために食うようになってきた。

従業員の生活基盤を奪うことの罪悪感で、昼の面接が浮かび、不眠に苛まされ、ついに睡眠導入剤を飲み始めた。これも効かなくなり医者がアルコールと飲むと効果が急増するからダメというのを逆手にとり、酒で流し込んだ。

体重が落ち始めて、寒さが辛くなってきたので、帰宅すると2台の石油ストーブを同時に点火し暖をとった。

唯一の朝の楽しみは、焙煎までチェックして購入した珈琲であったが、なぜか美味しさを感じなくなった。医者にいったところ、神経性嗅覚障害とのことで、ビタミン剤などを処方してくれたが全く効かない。

熱が出ると、すかさず体温計で計るが、測定完了の音が出ない。体温計が壊れていると思い、薬局で買い直すが、やはり完了音が聞こえない。クレームをつけると眼前で「聞こえています」との回答である。そのまま医者に直行し、耳骨にピッカーをつけて測定してもらったところ、高周波領域聴覚障害で、ストレスは原因であり、治療法はないとのことであった。

次々と体に異変は起きた。生まれて初めての蕁麻疹が背中から始まり、顔にまで広がった。たまらず病院に行ったところ、前日食べた魚介類の刺身と睡眠不足で弱っている体に、アレルギーを起こしたとのことであった。2時間も点滴を打たれ帰された。

そして、負の連鎖に入り、ヤカン一杯水を飲むほどにのどが猛烈に乾く原因不明の高熱が出た。ついその先ごろ隣社宅の出向していた課長が、高熱でヘリコプターで筑波の病院に運ばれ亡くなった矢先であり、常務から頻繁に電話があり、その電話をとることさえ億劫であった。タクシーを呼び、這うようにして乗り込み、病院に行ったら、血液を採りいろいろな検査をされるが、結局解熱剤、抗生物質、そしてまたもや点滴である。

睡眠導入剤を飲んでも3日間も不眠が続いたことがある。ついに所定の2倍を飲み、安眠には成功したが、朝ひどくだるく、頭がぼんやりする。会社の門近くで部下が、“大丈夫ですか”と声を掛けてきた。右と左に黒と茶の靴をはいていた。

気管支喘息にも襲われた。冷たい空気のトイレに駆け込み、天井を向いて発作を治めるが、布団で横になるとヒューヒューとはじまり、布団に座椅子を持ち込み、まんじりともせず夜明けを迎える。ついに唇が紫色に変色し、医者から喘息吸入器を渡され、それで発作を抑えた。

出張の際、満身創痍で自宅に戻ると、暗い顔をしてため息ばかりついている私に、妻が「もう辞めてもいいよ」と声を掛ける。しかし、愚直な私には、工場存続だけを願い、転職という選択肢はなく、意地を掛けての直球勝負のみであった。

どのように頑強な心身を有していても、それ以上のストレスには脆いものであることを、身をもって知った。

5年前に2600人いた工場も、デバイス、設備事業の分社化なども行い、800人規模の会社になってしまった。
ただ、存続できたことが無上の喜びであり、その時苦しみを共にした仲間は、去った者まで、5年後の私の退職のときに、地元に招待し、歓待してくれた。(写真;2次会で)


2、四三の会の帰任慰労会Ⅱ

怪我から傷跡なく快癒したST君を囲んで、愉快なひとときを過ごした。
やはり5年前に、四三の会9名が、それぞれ勝手にタイで合流し、ST君と食べ、飲んだことが思い出される。グレートシャンハイの北京ダック、ソンブーンのカニカレー、そしてコカのタイスキと思い出すだけでヨダレがでる。日本ではありえない豪雨で遅れたことなども思い出話だ。

会員制の高級クラブでの、民族衣装をまとった艶やかなソンクランのショーに目を奪われ、作務衣姿のFT君が、タイダンス・コンペに飛び入り参加などには抱腹絶倒だった。世界遺産アユタヤにも、各自が独自のルートで気ままに旅したことも、さすがに四三の会のレベルの高さとうなずかされた。

それにしても、ST君は3度赴任し、累計19年間である。出張ベースを入れると33年に及ぶとのことで、本当にご苦労様でした。
私の4年間の滞在などおよぶところではない。運転手、メイド、プール付きの生活は快適だが、あの懐の深い策謀、いろいろなチャンネルの人脈、異文化の労務管理など現地ビジネスは、大変な苦労である。

スキー、テニスとスポーツで鍛えた頑強さ、動じない人柄、押し出しの良さと巧みな語学力で、現地のトップを務め上げたのだろう。

【正月ドローン、入社時、新本社ビル、地方工場、退職祝二次会、私の履歴書、第三の波、ST君を囲んで】
 

もう年の瀬――“これから先、いまが一番若い”を念頭に

 投稿者:管理人  投稿日:2016年12月23日(金)07時25分1秒
  実に穏やかな陽光で秋も深まり、近くの公園の夕暮れどきの晩秋の彩りである。一方、帰郷した街並みは、一足早く冬枯れの光景であった。今年も、実家の庭の樹木に雪囲いを行い、厳しい冷え込みを膚で感じ、季節の移ろいを楽しんだ。(下写真)

穏やかな故郷での時の流れの中で、四三の会のI・I君の壮行の飲み会をやり、第2回目の大学OB合宿も参加し、またその静謐な空間を破る途方もない通信料請求もあったので、記述する。
また、もう年の瀬であり、感じ入っていることも、今年の締めとして述べる。

1.通信費19万円、架空請求か

(1)月額190倍の請求


故郷での長閑なひとときをぶち破り、大変なことが起きた。「あなたの通信料が20000円以上を超えています」とAUを名乗るメールが入った。

最近はスマホにもランサム(身代金)ウエアのウイルスがはびこっており、新種の架空請求と思われたが、念のためにAUの157のコールセンターに電話した。
そこで、「ハイ、お客様への請求額は18万7974円です」と仰天の回答である。(下写真)私は、「AU加入後、11カ月間にすべて1100円だった」と言ったが、「間違いありません」とのことで、至急具体的に曜日とデータ量を明確にしろと要求した。

私は、通信料を抑えるために、2台のスマホを使っている。1台はMVNO(仮想移動体)のFIEMOであり、980円でインターネット使い放題である。もう一方が、AUの電話機能専門で、毎月1100円で使用していたが、こちらに膨大な請求が来た。

(2)事務的な途方もない対応

AUは、折り返し電話をしてくると言ったが、待てど暮らせど電話はない。4時間待ってようやくこちらから電話して、別の担当に変わり、冷ややかに「12月2日、1ギガ使用です」と告げられた。私も、自分のスマホからAUサポートメニューで使用履歴を調べており一致していた。

私は、激して「AU課金システムにバグがあるのではないか。それにしても19万になる前にアラームを出さないのか」と怒鳴りつけた。
相手は、事務的に次のように答えた。「課金システムの不具合は一切ございません。お客様には2万円を超えた段階でいったんサービスを止め、アラームを出しております」

なぜ、私にアラームが出なかったか、話し合ったところ、私のスマホ(電話専用に使用のもの)は3G(第3世代)の古いものであり、4Gから行っているこのサービスは受信できないとのことであった。私は、「お客様の持っている端末で致命的なサービスを差別するのか」と怒鳴った。

すっかり激高し、専門的な矢継ぎ早の質問をしたので、相手は辟易し、上級の者より改めて電話するとエスカレーションした。手ごわいときには、ネゴに強い上級者に上げていくことが常套手段である。上級の者は、権限も責任もあり決断するので、堂々巡りから脱っすることができるので、これで一安心であった。

(3)原因の推定――パケ死か

19万円は、年金暮らしのいまは大金であり、脳みそがすり減るほど、思い当たることを考えた。OB空手合宿の前日の12月2日を思い浮かべる。二つの偶然が重なっていることが、想定できた。

一つ目は、“モバイル通信”機能をOFFに設定し、電話専門で使っているスマホを、ONに切り替えたことだ。新幹線の中で、IPHONE6のスマホ電池がなくなり、窓際でないために充電できず、3Gの電話専門のスマホを目の前の後輩のスマホの配下でインターネットを使用するために、“デザリング機能”に設定した。つまり、“モバイル通信”をONにしていて、OFFに戻すのを忘れたのである。

そして2つ目の偶然は、後輩のホテルで、パスワードを入力し、空手の形の動画を無線LAN(無料)のもとで観て議論していたが、長くなるので、喫茶室に移動した。そのときに、場所が変わり、無線LANからモバイル通信に自動的に切り替わったのかもしれない。

こちらに常識を超えた運用技術の非があるとして裁判に持ち込んでも、誰も読まない細かい字の難解な約款に記述されている以上、法廷で闘っては負ける。

(4)上級の者との交渉

以下の点を強調した。
0.2円/パケットの料金は知っているが、いかにこちらが“モバイル通信”機能を苦労して殺していたかと、ユーザーには、高齢者も小学生もおり、このような高次元のミスが生じる可能性大きいシステムはいけない。
1年前に安倍首相が、携帯料金が高すぎるので安くせよと異例の指示を、監督官庁の総務省に出した。私のもう一台のスマホはMVNOを使用しており、3ギガまで980円でそれを超えたら通信速度が極端に落ちるだけであり、AUは3ギガ58万円だ。いかに高くかつ危険であるかを比較してくれ。

(5)交渉妥結

上級の者からは、こちらに万全の知識があると判断したのか、現象からするとウイルスかもしれないと指摘された。確かにこのスマホは、アマゾンにて2000円で買ったものである。パソコンの中古品買いはウイルスが潜み禁物だが、スマホは油断していた。

実のある専門的な見地のやりとりで、ようやく妥協点を見出した。19万近い請求を、1ケ月のみ“ISフラット”に切り替え5200円とし、以降はもとの1100円に戻すことに至った。

ネットを調べると、この請求は“パケ死”と呼ばれ、数万程度だと泣く泣く支払っているケースが多い。IT社会は、便利だが物騒でもある。

AUは、来月に違約金なしの解約をできるので、契約を打ち切って、月額100円のIP電話LaLaCALLに統一する。

2.四三の会のI・I君壮行

先月のこの音沙汰記で、I・I君が南アフリカ、ベトナムと2年間の滞在を終え、ともに八王子で飲んだことを書いた。そのとき、彼は、また海外でのビジネスを掲げていた。

帰郷したら、I・I君から連絡があり、来月から年単位で、ベトナムのハノイに赴任すると聞かされた。市内の温泉に入った後、FT君を交え歓談した。(下写真)
今度は、JICAではなく民間会社の引き合いとのことであり、給料は非常に恵まれている。凄まじいバイタリテイの持ち主である。

今回も、現地で原付バイクを乗り回すとのことだが、渋滞対策には良いが危険極まりない。私もベトナムを訪れたが、交通マナーはバンコク同様であり、スピードを目一杯だし、隙間があると急ハンドルで割り込んできて、命がけの運転である。

彼は、一部上場会社の部長まで務めており、先見性を持って高所大所から分析する力は、抜群だが、行動力は中小企業のガリガリ親父である。
私に、「いまは充電時期だよな」と問いかけるが、私は、「60歳で退場した。もうやらん。」と断言した。
四三の会のYH君も、最近企業を興したとのことで、その執念深さ、根性、持続する能力には恐れ入る。

3.大学OB合宿ーー空手道の形式知化と体現に学ぶ


12月3日に、16名が参加し第2回大学OB合宿が行われた。
飛鳥前師範の4時間にわたる直接のご指導であり、その底知れない集大成を形式知として解り易く、シリーズで拝聴する。心に刻まれましたことは多々あるが、“形と組手の位置づけ”と“当大学の大会出場の始まり”の2点について記する。

(1)形と組手の位置づけ

まず、冒頭に「形から入り、形に帰る」と説かれた後、これは年を取ったので、形に移行するという意味では無いと強く指摘され、近年の私の空手に対する姿勢が看破され、ぐさりと胸に刺さり、琴線に触れた。

形と組手の両方の同時並行鍛錬を心掛けるのが肝心と強調され、肩と組手の18項目に及ぶ相違点の座学に入った。
途中、“間合い”の項目では、形では鍛錬を積めず、実際に2人が対面し、種々の蹴り技をお互いに繰り出し、改めてこの重要性を体得した。

宴に先だち、飛鳥前師範がセイシャンの演武を行い、水を打ったような静けさとなり、ピーンと空気を張り詰める威圧感、静から動への移行、巌のようで俊敏な動き、裂帛の気合、そして殺気さえ漂っていた。鍛錬は、異種格闘技を想定して行うべきと言われたが、熊と対峙しても圧倒するような迫力だった。

(2)当大学の大会出場の始まり

まず、空手のルーツ沖縄の武道家の話があり、先達の並みならぬ情熱と執念を知った。そして、当大学の大会出場の始まりの説明は、実に興味深いものであり、前師範の鮮明な記憶を紡いで発する言葉に驚くばかりである。

1957年の第一回全日本学生選手権には、飛鳥前師範の代が出場しており、試合に関しての指導は、中央の大学が進んでおり、当大学は不慣れであったため惜敗したとのことであった。飛鳥前師範は反則負けとなり、競技規定に精通していればどうなったかわからないと述懐されていた。決勝は、明治と慶応が戦い、明治が優勝したとのことである。

1967年の第一回山形県選手権で、兄が主将を務め優勝したとのことである。

1972年の第1回全東北選手権では、準々決勝で私が極真チャンピオンの佐藤俊和選手を延長の末、2段蹴りで降したことを詳述された。壮絶な試合であり、顔面を打たれていた私が、青い顔して、試合後自宅に直行したのを心配されたとのことである。ベスト3に、その後世界チャンピオンになった東北学院の森俊博選手も入っていたと話され、学生2人がベスト3を占めた。

この合宿講習会では、空手道の奥の深さを再認識させられ、また先達からの伝統の積み上げを伺い、実に有益であり、心身を鼓舞された。当日、宴のあとの零時過ぎまで飛鳥前師範と直々痛飲させていただき、光栄の至りである。

帰郷後の12月11日に、日本武道館で、天皇陛下のご臨席を賜り、全日本選手権が開かれ、植草歩選手が2連覇するのを観た。3年前に当大学のNS選手が東京国体で善戦した相手であり、私はその試合を目の当たりにしていた。現役諸君に今後の奮闘を期待する。

植草歩選手は世界選手権も制しており、その選手と当大学のNS選手が国体で、堂々と渡り合ったのであるから、また現役には全日本の舞台で活躍してほしい。

4.今年の締めとして

先月発行された五木寛之著“とらわれない”を、読んだ。五木氏は、現在84歳と遊行期にあり、その心境、老い、生への姿勢が淡々と綴られている。あれほど心身ともに卓越した五木氏が、通常の人間と同じような心象風景を持つことに、改めて、いささか驚く。
そして、確実に“老い”はくるので、自分が、いま林住期にいることを大事にせねばとの思いに駆られる。

五木氏は、古代インドの考えに則り、現代の年齢で言えば、1~25歳を学少期、26~50歳を家住期、51~75歳を林住期、76歳~100歳を遊行期と分けている。
古代中国でも、青春、朱夏、白秋、そして玄冬と4つに分ける思想があった。

私がいま居る林住期、これから迎える遊行期に関して、五木氏の下記のような本を読んできた。
・林住期 ・他力 ・嫌老社会を超えて ・下山の思想 ・無力 ・遊行の門 ・孤独の力 ・玄冬の門 ・とらわれない

“とらわれない”の著書では、“老人もまた荒野をめざす”との目次で、社会での老人の位置づけを達観して描き、また老化した自分を正直に記し、それをもとに余生を生きる姿勢を説いている。

いま、私が立脚している期間を認識し、それに応じた悔いのない生き方をしなければならない。私は、いま67歳で林住期の最中にあり、まだ心身ともに元気だが、やがて老いは必ずやって来るはずである。

“これから先、いまが一番若い”とのことで、退職後に“生涯武道”として取り組んだ空手道を機軸にしよう。

数年前に、四三の会のOSさんより、村上春樹著“走ることについて語るときに僕の語ること”という本を贈られた。村上氏は、ひたすら走ることと書物だけで、豊かな精神生活を築いてきた。当然、異次元のワールドの人ではあるが。

OSさん自身も、40歳過ぎてマラソンを始め、フルマラソンでアマチュア夢のサブスリー(3時間未満)を達成し、2年前の東京マラソンでもサブフォーを記録している。
大学OB合宿で、高齢の師範の精進ぶりに驚かされたが、まだまだ動ける今、精一杯空手道に励み、書物に囲まれ実のある余生を過ごしていきたものである。

【近くの公園、雪囲い、AU請求書、壮行会、大学OB空手合宿、全日本武道館】
 

個々に生きても、なぜか武術の道にーー親子4代、2親等までも

 投稿者:管理人  投稿日:2016年11月24日(木)07時56分18秒
  秋もめっきりと深まり、彩りに包まれてきた。新しい空手の流派に入り、“撃砕”という初めての形を練習するのも初心者のような恥ずかしさが湧き、釣瓶落としの日暮れに、自宅傍らの公園で、独りで行っている。

驚くほど長く伸びたシルエットで、流れをチェックするが、基礎ができているため、もう白昼に人前で行ってもよいだろう。(公園―下写真)秋の彩りは日増しに深まり、寒気が漂い出し、冷徹に心身を張り詰めさせてくれる。いま、外は初雪に変わった。
今日は、空手入門にまつわり、親子、兄弟の不思議な空手の縁を振り返り、いろいろ心に浮かぶことを連ねる。

また、四三の会では、この冷気とは逆の常夏のような南の国に長い間赴任し、久しぶりに日本の豊かな四季を味わう2人の帰任懇親会を行った。

1. 四三の会の帰任懇親会

先月、今回の2人とは別に、八王子でI・I君と飲み交わした。彼は、シニアボランテイアとして、南アフリカに半年、ベトナムに2年間赴任し、今年帰任した。
彼の数値化したビジネスモデルと異文化を越えた逞しい生き方は、敬服に値する。60歳で社会から一切退場した私には考えられない人生観である。
もうすでに、次の仕事への準備を行い、人脈も築きつつあった。

一方、今回の懇親会は、タイに15年間赴任していたST君と、3年半にわたりトンガ王国にシニアボランテイアとして滞在したON君のための“帰任懇親会”であった。

しかし、ST君は、懇親会の直前に不慮の怪我をして、残念ながら欠席した。
ON君は、昨年9月末に一旦帰国し、また4月からやり残した仕事があると再び赴任し、トンガの風土、人々にも愛着を持っていたと思われる。

マグロをココナッツで食べる食文化、強烈なサイクロンが襲う自然の驚異、そして南国の楽園の様子も話してくれた。

私は、群青色の空の元、紺碧の海の白浜に波が寄せ、ココナッツの樹の下で、何をすることもなく過ごしたタイのサメット島、ピーピー島などを思い浮かべる。特にピーピー島は、私の好きな映画“ザ・ビーチ”の舞台にもなり、その巨岩は有名で、007のロケ現場になったピンガー湾の奇岩とは異なった、ユートピアを醸し出す。

TMさんも、タイのサムイ島でシュノーケルを楽しみ、その景観に魅せられたらしい。車と船で行くには不便な場所であり、プロペラ機で移動している。

トンガは、ニュージーランドで乗り換えの便しかなく、24万円もかかるそうだが、南国の楽園の魅力に、四三の会のメンバーで訪れようと話したところ、即座に4人の挙手があった。これまで、韓国、タイ、インドネシア、ミャンマーと現地経験のある者を頼りに楽しんできたが、ミャンマーでは二人きりになってしまった。

5名以上の参加が見込まれ、ON君に打診したところ、「俺はこれからも仕事をするんだ、参加できない」と一蹴され、残念無念である。

寿司屋では、あまりの喧騒ぶりに注意され、2次会も恒例ともなった西口の飲み屋で行い、盛会であった。

2.父から孫まで武道に

30年前、母校の100周年創立の記念誌が発行されたときに、父は写真を示して自慢した。県大会で唯一母校が優勝した時のもので、父は真ん中に座り、がっちりした体をしていた。身長も私より2cmほど高く、当時の者として、非常に大柄な男であり、強かったらしい。

兄は柔道から空手の道を辿り、私は全く別の生き方をしていたが、武道に関しては同様の道筋となった。

息子は、高校から剛柔流の道場に入門し、大学時代は松濤館の部にはいり空手道に励んだ。
驚くことに、小学校1年の孫までが、「空手をやる」と言い出して入門し、下の写真のように三代にわたる稽古が、このたび実現した。
私は、孫と息子に入門を勧めたわけでもなく、この巡りあわせに驚いている。

息子は、私の最後の試合で、会場に妻と共に呼んでおり、記憶があるらしく、その光景も影響したのであろうか。

私は40歳近くなり、引退しようと最後の相模原市の大会に臨んだのである。決勝まで勝ち進み、強豪の東魁塾との試合であった。顔面に拳を当てられ、グラッときたが、妻子の手前、冷静に2本蹴りを決めて勝った。2本目は、現役最後の蹴りと思い、渾身のものだった。私は、全試合に勝ち、最優秀選手賞をいただいている。(下写真)
それが、脳裏にでも残ったのだろう。

兄とは、全く異なる人生観を持ちながらも、同様の道を歩み、最後は、県大会の決勝で激突ということになったので、心象風景を織り交ぜながら経過を追ってみる。

3.兄と私の空手での対峙

(1)幼少からの兄と私

幼いころから、実に仲が悪かった。一方的に兄が悪く、意味もなく私の頭を殴った。あまりのひどさに、祖母は、「これだけ殴られているから頭が悪くなった。前の米屋の米つきに出すしかない」と嘆いていたという。町内会の旅行で、上級生と大喧嘩して台無しにしたこともある。

一方、その凶暴さに救われたこともある。小学校5年の頃に、私は夕刊配達をしていたが、大きな犬が放し飼いの家があり、吠えられ、ついに犬に噛みつかれた。兄に話したところ、翌日棒を隠し持ち、いきなり殴りつけ追いかけまわした。その棒を私に渡し、翌日から犬は目をそむけるようになった。

争い事が好きな兄も、中学で柔道部に入り、ようやく人格形成が始まり、その馬力ある試合を見て、私も影響を受け、小学校5年から警察の柔道場に通い始めたのである。
中学、高校とともに柔道を続け、私の中学時代は、市で個人2位、県でベストエイト16となり、兄と同様レベルであったが、高校時代は完全に取り組む姿勢が異なった。

私は、小国高校の小林選手との試合で、引き分けとなり、完全に柔道への限界を感じた。小林選手は、1m88cm、100キロ以上で、何を仕掛けてもビクともせず、引き分けに持ち込むことが精一杯であり、実戦の強さを想定していた私は、急速に柔道への情熱を失った。体重別という壁には、武道として耐え難いものがあった。
小林選手は、その後、大相撲に入り、“神幸”というしこ名で、幕内前頭8枚目まで務めている。

兄は、そのような挫折を感じず、高校時代も鍛錬を続け筋力をアップし、主将として進学校の母校を牽引し、体重の多いものにも旺盛な闘志で立ち向かい、実に強かった。

(2)そして空手の道へ

兄は、あれほど情熱を向けた柔道から、持ち前の喧嘩好きゆえ、それに似た競技として空手に出会い、スパっと転向した。庭に“巻き藁”を立てて懸命に打ち込み、形の練習をしていた。

私は直接教わることも嫌で、見よう見まねで、一人で練習していた。柔道に情熱を持てなくなったこともあるが、空手は実戦で使え、大男も倒せるとの感触を持ったことが大きな要因である。

私は、自宅浪人をしていたときも、指導者なきこの一人空手を続け、三島由紀夫著“太陽と鉄”に出会い、“文武両道”の地行体系化に目覚め、大学入学とともに空手部に飛び込んだわけである。

兄は、空手部でいっきに頭角を現していくとともに、腕が立つにつれて、大きな喧嘩もやらかすようになった。

深夜、ブレザーを血で染めて、帰ってきた。聞くと、元県議NK氏と飲んでいると、その筋の方に言いがかりをつけられ、兄は、NKさんの政治家の立場を慮り「わかった、一発殴って収めてくれ」といったところ、耳のところを殴られたと言う。耳の根元がざっくりと切れていた。兄は、「本気で殴ったな」と殴り返し乱闘になり、警察に連行されたらしい。相手が札付きであったので、注意程度で済んでいる。

ひどかったのは、喧嘩の末に相手の太ももを回し蹴りで折った一件である。警察に連行され、兄の繰り返す喧嘩に、警察も調書と顔写真を撮り、“過剰防衛”として起訴しようとした。兄を可愛がっていた母の叔父SN弁護士が、「前科がついたら与太者になる」と奔走し、無事収めたが、怒り心頭で、兄に、「電信柱でも蹴とばしていろ」と厳しい説教をしていた。

そうとうな暴れ者で、四三の会のE・CHI君は、危ないところを兄に救われたそうで、私に何度か礼を繰り返した。兄に、話しても、何のことかさっぱりわからんというくらい、喧嘩を繰り返していたらしい。
空手部も兄が主将となり、目覚ましい戦績を残した。

兄弟の仲は、相変わらず悪く、取っ組み合いでガラス戸やふすまを壊すほどの喧嘩を繰り返していた。空手の技を出すと、お互い只事ですまないことがわかっていたので、一触即発で控えていた。

当時の私は、蹴りが得意であったが、ハワイ大学のパーテイでブロック2枚を打ち抜いた拳もあった。(下写真)ハワイ大学の空手部員が1枚割って見せたので、2枚に挑戦したものであるが、海外で骨折するわけにもいかず、腰を入れず、拳を回転しないで、割った。

兄との空手での対決を紹介する前に、当時の私の戦績を、大学空手部が50周年記念で発行した本から3点ほど抜粋し、紹介する。全日本でもトップクラスの力があった。

①昭和47年度  (私が4年生)

・「第23東北地区大学総体空手道競技大会」で1回戦から圧倒的な強さを発揮し、ぶっちぎりの優勝を勝ち取った。これがこの大会における初優勝。このチームは、「第16回全日本学生選手権」に出場し、4回戦で慶應義塾大学を代表決定戦で破り、準々決勝では、1対2、2引き分けで敗戦したがベスト8まで進出した。試合の内容では我がチームが圧倒していたが、勝てば準決勝という場面で心理的なプレッシャーが重くのし掛かっていた。

②昭和47年度 (私が4年生)

・「第1回全東北選手権」が開催された。それまでは、流会派をこえた東北全県大会は大学生だけで、ようやく一般社会人を含めた大会に発展した。○○(私)が前年の「第1回極真会館世界オープントーナメント」優勝者の秋田県・代表・佐藤俊和選手(現在秋田県本荘市市会議員)を延長戦で破り第3位入賞した。

③ 昭和51年度

「第14回和道会全日本選手権大会」(和道流創始40周年記念)が開催された。記念大会のために世界各国から参加しており、拳友会(当大学OB)は団体戦の準々決勝まで難なく試合を進め、準決勝で桜空会「日本大学OB」と対戦し1:2、2引き分けで惜敗したものの、3位決定戦でアメリカ代表チームと対戦し、圧勝している。拳友会チームは、阿部、田畑、手塚、高村、○○(私)、星川であった。

(3)兄との1度目の対決

当時の1度目の激突のあと、何かがふっきれたようにお互い穏やかな顔で、木片の試割を行なっている下写真がある。

親戚のY一族が、当家にお茶のみにきたとき、さりげなく「○ちゃん(私)は自転車で九州の我が家まで来たよな。兄弟空手でどっちが強いんだ」、弟のYMさんも、兄の武勇伝を聞いていると火をつける。
お互いに庭に出ろと言い合い、空手着に着替えて、顔面打撃ありの喧嘩ルールにしたため、16オンスのボクシンググローブを付けた。

何度か蹴りもはいったが、お互い鍛えているので、効かない。顔面突きに切り替え、右の上段順突きで飛び込んだ。

兄は、仰向けに倒れ、信じられないことが起きたというふうな目を見張っている。すかさず、こんなことがあるのかと、ダメージがあったはずなのに、再び飛び起きてかかってきた。

YMさんは、「本気でやるな」と裸足で庭に飛び出してきたが、燃えついた火は消えない。
その後は、もう兄の足に効いていたので、再びとどめのノックアウトをした。
ついに喧嘩で優位に立っていた兄の人生は、この日で終結となった。

(4)2度目の対決

それは、昭和47年9月の第6回山形県選手権大会で起きた。私の学生空手は頂点に達し、県レベルでは歯向かう相手もなく、すべて1本勝ちで難なく決勝に進んだ。

相手は、兄のいる米沢支部であり、10年以上空手の修行をしてきた強者、巧者がいる。ようやく、準決勝を勝ち抜き、決勝で対決が実現することになった。

学生空手に名を残していた兄であり、団体戦だが満場が、兄弟直接対決に期待していたが、何より私自身が公の前で、決着をつけたかった。試合前、中堅(3番目)でやろうと話し合った。チームの勝敗が決まった後の消化試合では
面白くない。

思わぬ兄弟対決に、関係者は固唾を飲んでいた。

先鋒のAK君は、思いがけず引き分けに持ち込まれた。個人戦で優勝した直後で、息切れし、逃げ回る相手を捉えきれなかった。そして、次鋒のHK君は、2年で東北大会決勝まで進んだ逸材であるが、ときどき気の緩みをつかれ、ポカをするが、この試合もそうだった。県レベルの大会だが、私の番まで 1:0で負けてきている。

私は、溢れ出る闘志を抑えながら、大きく息を吸い、気合を入れて立ち上がった。
なんと、相手が変わっており、兄は控えでニヤリとしていた。
相手は、中学時代の先輩で野球部の捕手として鳴らし、蹴さばきの名手のHさんであった。

全身怒りに包まれ、足払いからの上段突きと、踏みこんでの左前蹴りの必殺パターンで、秒殺した。

1:1となり、副将もどういうわけかズルズル引き分けた。ついに、大将に回った兄とWJ君との試合にもつれ込んだ。私は、この試合が引き分けとなり、代表戦で兄と戦うことを願った。

しかし、あろうことか決着をつけようと強引に前に出たWJ君は、老獪な兄のカウンターの餌食になった。

私は、このチームが県レベルで負けたことに、肩を落とし、茫然としていた。
兄は、「戦術だよ」と満悦の笑みである。
私自身は勝っていたが、チグハグなチームの戦いぶりに、主将としての敗北感で一杯であった。
それにしても、あの好戦的な兄が、“逃げるに如かず”とは。

[夕暮れの公園、帰任懇親会、2次会、親子3代、市優勝、ハワイ大学で試割、庭先で兄と]
 

教える立場から学ぶ身に思い切って転換――道場入門

 投稿者:管理人  投稿日:2016年10月24日(月)22時05分5秒
  烈しい夏は執念深く首をもたげていたが、ようやく立ち去ってくれ、柔らかくなった日差しのもと、いつもの小径を散策していたが、ちょっと悲しい出来事に遭遇した。

皆に可愛がられていた、野生化した鶏が、野獣に襲われたのである。(下写真)
1年ほど前に、捨てられた小さな鶏は、池の水を飲み、虫や草を食し、懸命に生きていた。ハクビシン、アライグマが棲む森で、釣り人の残した木の椅子の間に小さな体を滑り込ませ、夜行性の獣から身を守り、昼はちょこちょこと無防備に歩き回っていた。

そんな姿が不憫と思った釣り人達が、階段のついた鶏の立派な小屋を造り、(下写真)周辺の草を取り払った。なんとか寒い冬もしのぎ、体も大きくなり、獣にも鋭いクチバシで対抗するようにも思えた。
私も散策の折り餌をあげるが、足音だけで寄ってきて餌をせがむようになった。近くのキャンプ場の子供たちも、わざわざ寄ってきて可愛がっていた。

釣り人が夕刻、ハクビシンらしきものを見たと樹木の高いところに、とまり木をつけてくれた。(下写真)そして、そこのとまり木に捉まらせて、おろしたりと訓練を始めた。懐いている。
驚くことに生き延びる術であったのか、私は鶏が飛ぶということを目の当たりにした。夜はそのとまり木に捉まりで寝ていた。

私は、「ハクビシンは木にも登れますよ」と釣り人に言うと、「下にいるよりずっと大丈夫だ」と確信ありげに応えてくれた。

しかし、9月17日の夜に、獣に襲われ、その懸命に生きた命は、儚く散ってしまった。喪主と称した釣り人の「皆さんに餌をいただいて可愛がって頂きました。ありがとう。鶏君も天国で喜んでいるでしょう」との弔辞に、花まで供えてあった。(下写真)
住む主のいなくなった鶏小屋は、祠のようである。
釣り人が、怒りに震えて、「法律がなけりゃ、ワナをかけてぶっ殺してやる」とつぶやいていた。

ところで、今月からは、寄る年波にめげず、思い切ったことを試みた。
昨年の大学OB合宿で、御年80歳の飛鳥前師範より、お教えいただいたことで、心に残った言葉がある。それは「日々向上心を失わず、生涯武道を歩むこと」、「空手道は教養の一つで生涯探求し積み重ねていくもの」とのお言葉である。

日々を反芻するに、学生時代に鍛錬した蓄積を吐き出しながら、動かぬ体に鞭打って、子供に教えることが関の山である。そして、大学OB空手月例稽古は、同じ和道流であり、伝統的に形よりは、実戦組手を重んじてきた大学のため、なかなか空手道を深耕できないことが実態である。

生涯武道が念仏に終わり、このまま朽ちていくのかーーー。空手道の歴史をもう一度紐解き、一大決心し、空手の発祥に近い流派、道場に入門を決めた顛末を記する。

1. 沖縄での発祥

沖縄がまだ琉球王国であった17世紀頃にさかのぼる。当時人口17万人程度のこの国で、なぜ空手があれほどまでに発達したのだろうか、理由を探る。

1609年に、薩摩藩は、3000名の兵と100隻の軍を送り。対抗する琉球王国軍も3000人の兵で迎え撃ち、激しい武力衝突を起した。
琉球王国軍は敗れ、以降薩摩藩の付庸国となり支配された。
当時の琉球軍は、倭寇、海賊対策のために商人までもが武装し、多くの者が大小を帯びていた。

薩摩藩は、反乱を恐れ、“禁武政策”を打ち出し、武器をすべて取り上げた。
しかし、薩摩藩の支配下にあるといっても、四方海に囲まれた点在した島では、海賊に襲われ、略奪される。そこで、素手で敵を打ち倒すために、琉球に古くから伝承された格技“手(テイ―)に中国拳法が加味され、空手として発達した。

2. 本土への伝播と四大流派

1916年に、船越義珍が京都武徳館で、空手の演武を行ったことが、本土での初めての披露である。
沖縄では、那覇手と首里手に分かれ、空手は隆盛を極めていった。

一方、本土では、1924年に慶応大学空手部、26年に東大空手部、そして27年東洋大学と続々と創設され、町道場よりも大学空手が先行していった。これは、次の4大流派の創始者のご尽力に負うところが大きい。

中央の大学から、空手部が創設され、私の大学は1949年に設立された。私が生まれた年である。
1930年前後には、沖縄空手を基にした。下記の4大流派が命名され、創設されている。

   ・松濤館 船越義珍  首里手の先駆者
   ・剛柔流 宮城長順  那覇手の先駆者
   ・糸東流 磨文仁賢和 那覇手の先駆者
   ・和道流 大塚博紀  船越義珍に師事し、柔術と融和

3. 四大流派内の分裂

武道の世界では偉大な創始者が亡くなると、高弟たちの跡目争いで分裂していくのが常であるが、その奥義、秘伝、原形までもが変わっていくことは残念である。
私が学んだ和道流は、唯一本土の柔術と融和した空手であり、独自のものであったが、大塚博紀師範が亡くなる直前に、高弟たちが別の組織を起し、2つに分裂した。

大塚師範は、神業の使い手であった。
私が、昭和47年に仙台で弐段昇段試験を受けた際、審査後に大塚師範直接のご指導がなされた。
審査の実技で、立て続けに蹴りを決めていた私がご記憶に残ったらしく、前に出され師範と対峙した。「試合のつもりで蹴ってきなさい」と言われた。

1発目は、さっと下がって間合いを切られ、「本気で蹴りなさい」と叱責された。渾身の2発目の蹴りを出したが、ヒョイと体裁きで軽く流された。
「力を抜きなさい」とのアドバイスであり、当時、大塚師範は齢七十九歳であった。

和道流分裂の複雑かつ難しい背景は、承知しているが、現在は創始者の宗家の勢力が落ちてきており、オリンピックが決まりスポーツ化した空手に背を向け、頑なに奥深い和道流の奥義を継承していることが懸念される。残念ながら、スポーツ化と真の武道の道を目指す修業人口は、相反していくと感じている。

私は、スポーツ化したポイント制の空手には興味なく、沖縄発祥の原形を継承している、相模原の流派道場を探し回った。

4. 剛柔流入門

残された時間は、少ないが幸い学ぶ気力も体力も保持しており、流派に捉われず、沖縄の原形の空手を維持している道場をようやく探しあてた。

ようやく見つけたその道場は、剛柔流であり、和道流の形とは全く異なるが、思い切って飛び込んだ。
指導者は、奇しくも知己のJE師範代であった。(下写真)

5.JE師範代との空手の思い出

(1)入社後の空手部

NEC入社後は、猛烈な忙しさであり、仕事以外は眼中になく、空手部の活動にも全く興味がなかった。

当時は高度成長の真っ只中で、NECはモノづくりがコアコンピタンスになっており、メッキ、鍛造からすべての製造を備えた巨大工場があった。
現場が技術者よりも強い力を持ち、親分子分、派閥みたいなものまで持っていた。
私が配属された生産技術は、現場と密接であり、新設備導入、新たな工法では、現場との一体協力が不可欠であった。

次第に、現場の内部事情まで精通してきた。鍛造部門に、意気軒高なグループがおり、そのリーダーが、私に空手の心得があることを聞いたらしく、空手部の現状を話してくれた。

なんと相模原事業所内に3つの団体の空手部があり、それぞれ25人ほどの部員を有し、現場では、一目置かれる荒くれものの集団だったようである。3つの団体はシノギをけずっていた。それらは、神道自然流の会社認定の空手部、剛柔流と空手道教育研究会の2つ同好会であった。

私は、鍛造グループのリーダーのKさんが、神道自然流の会社空手部の主将であり、彼に誘われるまま入部した、

ただし、2つの条件をつけ、生意気な奴と思われたらしい。私は、技術部門であり残業、休出、昼休みの会議などが多く、空手の練習を欠席することが多いこと、試合用組手のみの練習に絞り、神道自然流の形の練習は一切行わないことであった。

全員が現場配属であり、特別待遇の私は、練習当初は冷たい視線を浴びたが、試合で実力を発揮して、性格もエリート意識がまったくなく大酒のみであることも幸いし、皆が打ち解けてくれた。

試合の最初の実績は、昭和50年の相模原市の決勝での戦いであった。相模原市は、人口60万人を突破し、多大な企業・大学を抱え、空手人口は実に多かった。
試合には、わざわざ二段以上の部が設けられ、想定外にレベルの高い試合だったが、順当に勝ち進み、決勝に臨んだ。

決勝戦は、会場の雰囲気が異様に盛り上がっていた。相手側ブロックからはNEC相模原事業者内の剛柔流の主将JEさんが、勝ち上がってきたので、NEC相模原内のグループ代表対抗の様相を帯びてきた。

試合は、2度ほどぶつかり合いながら、膠着状態になった。おかしい。私よりも小柄なJEさんの体が大きく見え、どっしりとして、まったく隙がない。突如、思い切った踏み込み上段右順突きで飛び込んできたので、上段逆付きで返したが、ちょっと遅れ、技ありをとられた。そして、私は不甲斐なく敗れた。これは、仕事で失敗したときよりも大きな心の痛手となった。

しかし、翌年、EJさんは、第2回全日本剛柔会の試合で準優勝し、神奈川県の国体代表になっているので、満足に練磨を重ねていない私は、負けて当然だったかもしれない。

(2)オール日電

当時は、圧倒的多数であった現場労働者を重視する総務勤労の方針があり、5つの事業所による、年に一回の競技大会が盛んであった。社長自ら全競技者の前で、開会挨拶とともに激を飛ばす。

昭和のモノづくり隆盛の底抜けに明るい会社の雰囲気であり、現場がつぶされ閉塞感漂う現在とは隔世の感がある。
相模原、府中、三田、横浜、玉川の各事業所では、各種運動部が活発に活動し、厳しい練習を通して競い合っていた。

私は、相模原事業所の空手部のレベルが高く、これまで優勝してきたものと思っていた。
しかし、実績では、相模原は万年最下位で、三田が圧倒的に強かった。相模原は、会社公認の神道自然流だけのチームゆえ、1/3の力であった。

昭和51年のオール日電に、私が初参加であった。あまり合同練習に参加していないヨソモノの私を選抜してくれたお陰で自由な空気が流れ、他の2つの同好会の主将とも、流派に所属しない私が、仲良くなっていたので対立は緩和した。風来坊のような私が、対峙していた関係に一石を投じたらしい。
3つの団体に分かれた活動も、亡くなったNA君はじめ関係者の奔走で、一つのチームとなり、剛柔流のJEさんと教育研究会MTさんも相模原代表チームメンバーとして加わった。

リーグ戦であり、最初から三田との争いとわかっていた。JEさんと私が、決勝までのすべての試合で圧倒的に勝ち続けた。5人の中で二人が必ず勝つということは、破竹の勢いとなり、決勝戦のときには相模原の勤労総務担当の本部長も駆け付けた。優勝は、彼らの功績ともなる。

三田は、レベルの高い東京都実業団大会で、警視庁を破り優勝しており、山梨国体の中量級で優勝したKさんも擁していた。

やはり手強く、次鋒が敗れ、1:0でリードされ、私の番になった。相手は老獪な身体能力の高いMさんである。学生空手の粗野さを逆に活かし、間合いを強引に詰めて蹴りを放った。体裁きを覚悟してどちらが早いかであったが、足にきっちりと感触が残り、技ありをとった。
かなり効いたらしく、下がりながら間合いをとるので、左の前追蹴りで踏み込んで仕留めた。同点となり、大将のJEさんも勝ち、相模原は初優勝を飾った。(下写真)

私は、やがて空手部の部長に据えられ、牽引することになった。外様のつもりだったが、モノづくりが収束していく中、否応なく責任ある立場を任された。しかし、そこで築いた空手仲間との交流は、得難い人生の宝物でもあった。
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四十年以上前のそのような空手の付き合いが、突如復活するので、縁というものは不思議なものである。いまは、剛柔流の撃砕第一、第二を高校生に指導され、学んでいる。

[野生の鶏、小屋、とまり木、弔辞、剛柔流入門、オール日電優勝]

 

母校創立130年同窓会とOB駅伝大会優勝

 投稿者:管理人」  投稿日:2016年 9月27日(火)19時55分8秒
  今月は、最近久しくなかった、移動しながらの5連荘の宴会という過酷なスケジュールをこなした。天候は西から高気圧と低気圧が次々とやってきてはぐずつき、熱帯低気圧が生じて続々と列島を襲う台風となり、その台風の合間を縫って敢行した。

そもそも、「四三の会」の催しが、大半であった。15,16日は故郷にて四三の会の異なったメンバーでの懇親会、17日は、昼が母校OB駅伝大会、夜は母校の創立130年同窓会である。翌日は、福島で前ロータリークラブ会長の先輩と痛飲して1泊し、19日は東京に舞い戻り、昼は四三の会のメンバーとHJ君行きつけの麻布十番街の名物蕎麦屋で飲み、夜は東京に繰り出した。

飲み疲れと駅伝の足腰の痛みから、ほうほうのていで娘のマンションについた時には、一つの大きな仕事を為した感であった。
以下、創立130年母校同窓会とOB白布駅伝大会について述べる。

(1) 創立130年同窓会

母校の発祥と伝統は、素晴らしいものがある。藩校として設立され、現在までに継続している高校は、全国で9つしかない。

しかも、米沢藩の場合は、財政が最も窮乏していた時に設立している。上杉家3代綱勝公は、子供がいないまま急死し、吉良上野介の子を藩主として迎え断絶を免れるが、幕府よりこの世継ぎの件で、30万石から15万石に減知されたが、藩士を一人もリストラにしなかった。

そもそも、会津120万石から、関ケ原合戦で敗れ、米沢30万石に移封されたときも、藩士をそのまま抱えていたので、財政は苦しく、世継ぎの減知の件は、これに拍車をかけて困窮を極めたのである。

しかし、この窮乏の中でも、教学振興を掲げ、1697年に学問所として母校が設立された。戊辰の役で敗れた長岡藩が6割減知されたが、“米百俵”より学問所を優先させたことに似ている。
更に、母校では1776年から上杉鷹山公が招いた師、高名な細井平洲の講義を設けた。

130年記念式典の中、盃をかたむけながら、著名な先輩を思い浮かべた。雲井龍雄(志士)、浜田廣介(童話作家)、我妻栄(民法学者)、南海の皆川投手、南雲海軍大将はじめ大将3人、中将を5人も輩出しているが、なんといっても“敵兵を救助せよ!”の工藤俊作海軍中佐が思い出される。

連綿と尽きない130年の伝統のもと、自分が、在籍した高校時代が浮かんできた。受験競争のための教育に馴染めず、何事も中途半端にして彷徨していた頃は、逆に言えばひたむきで純粋だったのであろう。

後に、その何のしがらみもない多感な時代の触れ合いは、“四三の会”の活動源となった。

生誕半世紀たち、仕事上の競争もほぼ決まった頃に、無味乾燥に乾ききった青春を取り戻すかのように“四三の会”は活性化した。
四三の会の関東支部会のKA会長が、母校の130周年記念誌に下記の記事を寄稿しており、主に我々の生誕半世紀経ってからの活動が如実に描かれており、紹介する。


[母校130周年記念誌掲載予定記事 文責KA(写真は掲載せず、名前はすべてイニシャル化)]

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「四三の会」の歴史と活動
 本会は昭和43年(1968年)に卒業した同期の仲間の会だ。卒業当初はSTが会長をやっていたが、現在はASに替わっている。事務局はFTとITが務めてきた。関東支部会もあり、会長はKA、事務局はAKが担っている。会計はSTである。

 学校行事や部活で汗と涙を流し、進路の選択や異性へ思いの焦燥で眠れぬ夜を幾晩も過ごした時代、そのような人生でもっとも多感な時期に,母校でともに3年を過ごした人間関係はやはり特別なものと感じる。AKの尽力で開設されているホームページを覗くと,そこには四三の会の様々なイベント、それに集った懐かしい仲間達に会え,「四三の会」の心の故郷になっている。強い絆で結ばれた本会は、卒業以来様々なイベントを行ってきた。

 昭和61年6月20日、大洋館において恩師、星 篤志先生、鈴木安夫先生、佐々木謙助先生、本間和夫先生のご臨席をいただき、19人の仲間が集って「四三の会」発足記念会が開かれた。
 その後、平成5年6月に新宿で開催された同年会を皮切りに、東京あるいは仙台でも時々開催され、酒を酌み交わしながら懇親を深めるうちに、高校時代には分からなかった人間性を知るようになり、新たな友情が育つのも驚きであり楽しみにもなってきた。

 ある年の3年6組のクラス会で「俺たちも修学旅行に行きたかったな」という何気ない一言が、物の弾みで転がって大きくなり、2001年10月6~8日、卒業33年後に奈良で2泊3日の「修楽旅行」を行った。古都で日本の歴史と伝統文化に親しみ、飛鳥で古代のロマンに夢を馳せ、33年の時空を超えた青春を楽しんだ。

2003年の母校同窓会はわが四三の会が最高幹事学年となり、取り仕切ることになった。「なつかしき、わが師、わが友、わが母校」の標語のもとに気持ちを一つにするため、大同年会を開催することになった。8月2日、那須高原温泉「自在荘」に恩師、鈴木安夫先生、佐藤真夫先生、本間和夫先生をお招きし、総勢43人が集結し、卒業以来の再会を喜ぶ和があちこちにできた。

 わが四三の会には多士済々の人物がいるが、そのなかでHHは出色の存在だ。福島大学教育学部を卒業、教授の推薦で東京芸大声楽科入学、主席で卒業後、ドイツにも留学、そして今、国内で様々な音楽活動を行っている。「いつかは故郷米沢で歌いたい」、「いつかは彼の歌を聴きたい」という思いが一致して、2006年9月18日についに伝国の杜ホールで「HHSuperBassリサイタル」を開催した。同期生や恩師の先生も大勢あつまり、会場が満席となって大盛況であった。

「いいかK、還暦とは生まれ変ることだ。よっぽどバカなことをしないと生まれ変われないんだ。」というFTの言葉で、還暦を迎える2009年の11月22日に還暦祝賀会を行った。上杉神社でお祓いを受けた後、社殿の境内で気温3度の中、赤い締め込み姿で気勢を揚げた。午後は5時から東京第一ホテルで恩師、土澤幸雄先生、梅津満先生をお招きし、約65人の仲間が集まり、歌と語り、涙と笑い、そして祈りと癒しの3時間であった。

 その他、四三の会は大舟、HJ邸での芋煮会(1996年9月28日~)、秋保温泉同年会(2004年11月22,23日)、6連覇した白布駅伝大会(2005年9月18日~)、河口湖畔での同年会、鎌倉旅行(2010年11月20.21日)を行なった。また、そして有志によるタイ(2010年11月26-30日)、韓国(2011年2月18-21日)、インドネシア(2013年11月15-21日)旅行、また2回目の奈良旅行(2015年10月10-12日)と様々なイベントを行ってきた。

同期の仲間の集まりは良い。ちょっと挨拶をし、二言、三言話して酒を酌み交わせば、たちまち気持ちは青春の時代だ。このような会を今後も楽しんで行きたい。
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(2)OB白布駅伝大会優勝

この大会には、2005年から連続12年間参加してきたが、この4年間は最下位に低迷している。今年も、当初の走者は、大黒柱のOSさんとAS君そして、アブラッコの私のみの3名であり、嫌な予感がしていた。

これまでの実績では、舟坂峠という急勾配の坂道を含む17KMのコースでは、やはり選手層が厚い方が圧倒的に有利であり、多勢に無勢である。
ルールは、走者が、好きな距離を何度でも走って良いというものである。

しかし、今回は、OSさんとAS君の快走に加え、なんと下記のハプニングがあり、優勝してしまった。経過を述べよう。

OSさんがスターターとなり、大学前で車を止めて、OSさんがトップで来るのを待った。しかし、1位で他を引き離してきたのは、6年下の思求会(四九の会)であり、その後は団子状態となり、走る予定のないIT監督自らが、まきこきと走ってきた。
スタート直後、OSさんが体調不良(すぐに回復)になり、突如変わったらしい。それを機に、IT監督は、以降何度も走り、驚かされた。

開会式に、平服姿で腰を痛めたので応援のみとして来ていたMN君が、「おれもでっぺ」と突如着替えて参加し、従来の安定した走りを見せてくれた。

突然前も見えない豪雨に見舞われたが、前日出場が決まり東京からやってきたMK君が、雨の中の奥さんの声援を受けて、激走した。前方も足元も見えず、途中道端に落ちていたクルミを見ており、踏んづけて足をくじかないか心配していたそうである。
あまりの豪雨に先行きが心配されたが、高校時代に気象部だったYH君は、スマホの天気図を読み、この雨雲はすぐ去ると予想し、その通り見る間に晴れ上がった。

難所の舟坂峠で、IT監督による短距離での矢継ぎ早の継走指示が出て、2位以下を一気に引き離す。今回のIT監督は自ら走り出し、厳しい指示を出しており、ピリピリとし真剣味が伝わってきた。
私自身は、IT監督から2度ごしゃかれた。
一度目は、MK君とのバトンタッチ寸前で、襷を受け取らず、一緒に走ったときであり、2度目は、コースを逆に走ったときである。馬鹿な真似をしたのではなく、それなりの理由があった。

襷を寸前で受け取らなかったのは、車から「あのコンビニまで走れ」の声が聞こえており、剛健なMK君にもっとまかせようとしていたものと勘違いした。私の謙虚さが、生みだしたものである。
2つ目の逆走は、YH君が、これまでの駅伝で初めて突然走ったので、その意気込みに感激してその記念の写真を撮ろうと逆走したのである。IT監督の「無駄な走りすんな」との怒声に、優勝奪還への意気込みを感じた。

高みの見物をしていたYH君まで、ダントツ1位の姿に飛び入り参加したことは、チームの士気を一気に高めてくれ、全員そろってゴールインし、その写真は母校の同窓会HPにも掲載された。
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レース後に、白布高湯の温泉につかり、楽しく愉快なシーンを思い浮かべ余韻に浸っていると、「なじょしたんだべ、ぶっちぎりだない」と後輩に声を掛けられ、実に心地よく心に響いてきた。

[同窓会、OB白布駅伝]
 

戦争を身近に感じた団塊も社会から退場――戦争を知らない世代へ

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 8月29日(月)19時32分26秒
編集済
  しっとりとした紫陽花の季節から、急激に原色の青空が似合う向日葵に移り、この夏も猛暑となった。いきなり降り注いできた熱波にたまらず、ありあまる時間を使い、伊豆の海、霧ヶ峰湿原などで、避暑を楽しんだ。ついでに、真田丸の上田城も廻った。さすがに実戦のみを考えた設計であり、天守閣もなく、川と断崖による天然の要害である。要所に矢、鉄砲を放つ櫓を持ち、徳川秀忠の38000人の大軍勢を撃退したことをうかがわせる。

伊豆では、海と砂浜がもう似合わない70近くの歳になっていたが、自分なりの鍛錬だけは怠らない心構えであり、今年も己の体の定点観測をした。(下写真)

最近、“ポケモンGO”とかいうゲームが、世界中で流行っている。
政府機関から、異例の注意喚起が出るほどである。社会的影響があるものは、とにかく何でも体験してみようという私は、さっそくスマホにダウンロードした。(下写真)

スマホを持って散策していると、ポケモンが地図上に現れ、モンスターボールを投げて、これを捕えていくという単純なルールだが、パケストップでパワーアップの道具を入手し、ジムでのバトルなどが準備されており、次々と丁寧なメッセージでナビゲーションされるので、誰もが即参加できる。

いつの間にか、公園を横切り、足場の悪い河原を歩き回っていたら、スマホが突然圏外の表示となり、ダウンした。
GPS情報など使用する通信量が多く、2時間使っていたところで、私のスマホは1000円/月の格安SIMを使っており、制限量に達して、今月はこれでWI-FI以外は使用できないことになった。

操作は単純で、あっという間にゲームに引き込まれ、膨大な時間を浪費して、歩きスマホを誘発し、交通事故などの危険さも伴い、これは即刻廃絶して欲しいゲームである。
開発サイドは、社会安全、健全教育など度外視して、単純に金儲けの開発理念しかなかったと思える。
あの酷暑の蝉しぐれの中、2時間、6kmも徘徊しており、熱中症で倒れたら、どうしてくれるんだ。

ところで、お盆を迎えると、1945年の8月を否応なく思い出す。あの戦前、戦中を経験した方々は、もはや70歳以上になり、身近に感じた団塊も社会から退場したが、あの悲惨な戦争だけは、特攻という非人道的なことまで踏み切り被爆した唯一の当事国として、後世に語り継がれなければならない。

“永遠のゼロ”を観て、また本を読んだので、感想を述べる。
更に、あえて“負ける戦争”に突入し、特攻隊などと狂気の沙汰の兵器まで産み出していった歴史の真実を知りたく、いろいろな本を調べ、田原総一郎著“日本の戦争”にたどりついた。筆者自身が、国民学校4年生の時に終戦を迎え、それ以降ずっと55年間にわたり謎と思っていたことであった。あえて“負ける戦争”に突入していった日本近代の歴史を解析した力作である。

日本の学校教育というものは、近代歴史を暗記で覚えさせるが、受験競争という動機が不純の学問ゆえ、身についっていない。暗記では数々の事件が点であり、線としてつながってこない弊害がある。
もう一度、丁寧に戦争に繋がる経過をまとめながら、背景を解析し、私見を交えて自分自身に言い聞かせるようにしてまとめてみたい。

1. 永遠のゼロ

(1)軍部トップの狂気の沙汰“特攻”
今年は、遅ればせながら “永遠のゼロ”を読み、そして映画を観た。
大局観を失い精神論だけになった軍トップの“特攻”という狂気じみた暴走で、将来が嘱望される純粋な若い魂が失われていく姿を、真実味をもって切なく描いている。

死を覚悟して出撃することと、死ぬと定めて出撃することは、全くの別ものである。10中8,9死ぬ可能性と10中10死ぬ戦術は、全然別のものと、描かれていた。

残された妻子、婚約者、家族。恋人をひたすら思いながら、特攻していく姿は悲惨である。
勝敗がすでに決した戦いで、特攻なんてことを考え、命じた者は修羅だ。

主人公の宮部久蔵の心情が痛いほどわかる。辣腕だが卑怯者呼ばわりされながらも、妻子を思い特攻を避けていくが、結局次々と勝てぬ戦さと知りつつ特攻で犠牲になっていく仲間を偲び、死ぬほど苦しみながら、特攻として突撃していく。

こんな狂気の悪あがき戦法は、発案推進した大西瀧治郎中将の自決程度で、ことはすまない。既に軍部トップ全体がカルト集団のようになっていたのだろう。

森岡清美著“若き特攻隊と太平洋戦争”を読むと、副題にうたわれた通り、「その手記と群像」が、細やかに掘り返され、述べられているので、林市造少尉の遺書を紹介する。林少尉は母子家庭であった。

「昭和20年2月23日  私たちの命日は遅くとも三月一杯中になるらしい。死があんなに恐ろしかったのに、私たちは既に与えられてしまった。私は英雄でもなく、偉丈夫でもない。母のことを考えると私は泣くより仕方がない。略 」

また、連日、「私は生きています」と連ね、最後に「行ってきます」で途絶えた遺書もある。
終戦直前には、操縦技術の未熟な学徒出陣者まで、特攻に駆り出した悪あがきのような非情な戦いであった。

(2)映画では、核心が原作と違うーー特攻と自爆テロは違う
久々に素晴らしい感動する映画であった。しかし、残念ながら、原作の“特攻”に対する重要な訴えが、映画では描き切れていなかった。
自爆テロと特攻は、自死を前提に攻撃することは、同じであるが、大きな相違点がある。
特攻は、厳しい軍律のもと“命令”されたものであり、自爆テロは自死する者が“選択”することにある。
映画では、特攻隊員であった祖父の生きざまを訪ね歩く青年が、友人と激しい論争をする。

・友人1――自爆テロと特攻は同じ洗脳だろう
・青年――特攻は殺戮兵器の航空母艦に対するものだ。無差別に民間人を襲う自爆テロとはまるで違う。
・友人1――そのような枝葉の部分でなく、信念のために命を捨てるという思想の根本部分だ、狂信的愛国者にすぎない。
・友人2――国の為に命を捨てる一種のヒロイズムだ。
ここで、青年は憤然として席を立つ。

原作では、特攻隊は、“志願”という“形式をとった命令”であると強く指摘しており、この根幹部分は非常に重要なことである。拒否することなど、家族を思えばできるはずはなく、命令である。映画では、ここが漏れていた。

真珠湾で、「特攻」が約束された特殊潜水艇で出撃した10人のうち一人が潜水艇の故障で座礁し、生き延びた。死んでいった9人は、大本営から9軍神と発表され、生き残った一人には、実家に石を投げられ、「非国民」、「なぜ自決しなかった」との手紙が全国から舞い込んだという。既に、沖で待つ潜水艦で回収不可能なことはわかっており、「特攻」の雛形はできており、家族への対応も政治的広報で培われていた。

歴史上、組織の上で行われたものは、自爆テロと特攻しかないとのことであるが、まるで異なることは、特攻は“命令”であり、自爆テロは“自発的”であることである。

この観点で、残念なことはあの立花隆氏でさえ、2001年の貿易センタービルのテロの後、文芸春秋に、“自爆テロの研究”を発表し、日本の特攻と自爆テロを同一視したのである。

「彼らが実際に、敵の戦艦に突っ込んでいくときは、どんな気持ちだったのだろうか。九月十二日、テレビが繰り返し映し出す貿易センタービルに突っ込んでいく飛行機の姿を見ているうちに、私はふとあのビルが特攻隊機が突っ込んでいった戦艦のブリッジのように見えてきて、そんなことを思った」

立花隆氏は、特攻も自爆テロも、国に対して宗教的情念(熱狂的愛国心)を持って、身を捧げることに喜びを持ったとは、非常に荒っぽい総括をしたものである。
果たして、読書家でもある立花隆氏は、命令で死んでいった特攻隊の検閲を受けていない遺書をきっちりと隅々まで読んだのであろうか。

ここまでの大物の著書に対し、反論が欲しい。昨年亡くなった須崎勝彌氏がいた。彼は東北大学から学徒出陣し、海軍飛行予備学生を経験している。

その著書“カミカゼの真実――特攻隊はテロではない”を読み、溜飲が下がった。シナリオライターらしく、写真をかかげ、エピソードを織り交ぜて綴り、真っ向から立花隆氏の指摘を否定している。

この書で紹介された特攻員の一人が“永遠のゼロ”の主人公と同じ最後を遂げていた。
”永遠のゼロ“は、“カミカゼの真実”の一人の特攻隊員をモデルにしたのであろうか。

クライマックスで、宮部久蔵が不調で不時着しそうな愛機を見抜き、強引に、未来に生き妻子を託すべき後輩に譲り、自分は敢然と特攻していく。後輩の機は、離陸後に発動機から潤滑油が飛び出し、風防全面は真っ黒になり、奇跡のような不時着をして生き延びる。

“カミカゼの真実”では、第四章 悲哭の集いで、大石少尉が、後輩にエンジン不調を起しそうな愛機を、後輩に押し付け、同じような顛末を辿っている。
東大法学部卒の外交官志望の息子を失ったときに、父親は、崩れそうになる体を柱に託して発した言葉は、「東条の首を叩っ斬ってやる」である。
ドキュメントゆえに、おおいに心を揺さぶられたわけである、

須崎氏は、脚本家として戦記物以外に、“青春とは何だ”“これが青春だ”などを手掛け、我々の若い血をたぎらせてくれた。

2. なぜあえて“負ける戦争”に突入していったのかーー田原総一郎著“日本の戦争”

昨年石原慎太郎氏が、講演で特に強調していたことは、「物事には必ず高い蓋然性がある。歴史を学ばなければならない」とのことである。

私は、いろいろ戦争に関する歴史の本を読んだが、なかなかその蓋然性を解き明かしたものがなかった。
しかし、今回、田原総一郎著“日本の戦争”に出会った。
“なぜ、日本は負ける戦争をしたのか”との疑問を、著者が戦後55年間抱き続け、ようやく、この謎に真っ向から立ち向かい、まとめた渾身の作である。
ここでは、500ページに近い本であり、私が関心を持った点に絞り、私見を加え紹介する。

(1) 征韓論は西郷のみの持論でなかったーー日韓併合へ
明治6年に征韓論に敗れ下野した西郷隆盛が、明治10年に西南戦争に負けた後、私は征韓論という暴挙は鎮まったと思っていた。
しかし、どうやらこの戦争は、不平不満士族15000人が、家禄を廃止され、徴兵令で職を失い、新政府転覆を狙ったものが実態と思われる。

それを物語るものとして、新政府そのものが、“征韓論”鎮圧する姿勢を見せる一方で、矛盾だが“征韓論”を実践している。鎖国していた朝鮮に対し、明治8年に軍艦を江華に派遣し、交戦していた。ペリーの黒船を倣ったものである。

日本は、それを機に徐々に朝鮮への内政干渉を強めていったが、明治15年に韓国兵士が起した反乱、“壬午事変”で、清国の介入を招いてしまい、だらしのなさを露呈する。
この“壬午事変こそ、12年後の日清戦争の序幕”という見方もされている。
そしてついには、明治43年には、悪名高い日韓併合を行い、朝鮮を35年間にわたり植民地化してしまう。

(2) 帝国主義の精神の醸成
明治9年に、欧米視察後の大久保利通が、“富国”、つまり民業を勧励し、物産を開殖することを説いた。文明開化であり、しごくもっともな言葉である。
しかし、明治23年に山県有朋首相は、“富国強兵”が国是で、強兵でもって国を拡張する指針に変えて行った。この言葉が日本軍国主義の幕開けとも言える。

“富国強兵”と並んで唱えられたのが“和魂洋才”である。明治の欧化主義を象徴するものとして、“洋才”は明治中期までは使われたが、民族主義の台頭とともに廃れ、“和魂”は、徐々に“大和魂”の色を帯びて、軍国主義に繋がって来る。

明治23年に枢密院議長の伊藤博文が、憲法制定の根本精神に、皇室崇拝を国家の機軸にすることを開陳する。その憲法を支える道徳体系として、“教育勅語”が”和魂“として国民学校の戦前派まで、暗記させられるほどに浸透させられた。

酔っぱらったときに、親父にこれを問いたところ、固い長文なのに見事に暗唱していたことに驚いた。

“永遠のゼロ“では、この和魂として、国学者の本居宣長の「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」が取り上げられていた。そして、特攻隊には、”敷島隊“、”大和隊“、”朝日隊”、“山桜隊”と命名されたと記述されている。

(3) 日清、日露戦争へ暴発
① 日清戦争
“壬午事変”の後、明治27年2月に、陸奥宗光外相を中心とした軍部が、韓国の農民たちが起した“東学党の乱”で、朝鮮に出兵し、清国と衝突した。
興味深い点は、明治天皇は、維新を経験し、国際社会の趨勢が見えており、この日清戦争も、日露戦争も反対したという。天皇は、「閣臣らの戦争にして朕の戦争にあらず」と言い捨てている。

伊藤博文内閣は、天皇の反対を押し切り、明治27年8月1日に清国に宣戦布告を行った。日本は連戦連勝で、黄海海戦で勝ち、旅順を制圧し、開戦5ケ月目に講和条約に至った。

欧米列強と同じ道を歩み始め、世論までもが、この暴発を後押しし始めた。

② 日露戦争
明治32年に中国で、“尊王攘夷”のような思想を持つ義和団が蜂起した。義和拳法という武術を持ち、またたく間に北京を占拠し、清国全体に拡がった。
清国の西太后は、これを列強の清国からの追い出し軍団に用い、列強に対し、宣戦布告を行った。これは、“北清事変”と呼ばれる。

この宣戦布告に対し、列強は、36000人の兵士を送り、日本は22000人とトップを占めた。しかし、ロシアもすぐさま15000人の兵を送り、義和団は制圧された。
列強は、鎮圧後に、兵を撤退させたが、ロシアだけは満州に駐留し、独占した。

朝鮮半島は、清国の影響はなくなり、日本の内政干渉が続いたが、満州に居座ったロシアと日本が衝突し、小村寿太郎外相は交渉を重ねた。
ロシアは、20万の日本の兵力に対し、10倍の200万を有しており、容易に開戦には踏み切れなかった。

ただ、日清戦争勝利に酔った世論はむろん、マスコミまでが、開戦に同調した。唯一反戦派だった“万朝報”も「戦争やるべし」に転じ、内村鑑三、幸徳秋水らが退社している。

桂内閣と小村寿太郎外相は、開戦に向けて準備を行い、天皇は、「四方の海 みな同胞と 思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」と詠み嘆いた。
そして、ついに明治37年2月に日露戦争の火蓋は切られた。

日本軍は苦戦し、この戦争は、戦死者8万4000人と日清戦争の10倍規模となった。
しかし、日本は、翌年の奉天の会戦と日本海海戦で大勝利を挙げる。奉天を指揮した児玉源太郎も参謀総長も、この時点で「一刻も早く、戦争をやめてほしい。兵も弾丸も尽きた」と進言していた。

頃合いをみてアメリカのルーズベルト大統領が講和の斡旋にはいった。ロシアは、敗北感は全くなく戦争継続を考えていたが、皇帝ニコライ2世は、案に反して、講和を受け入れた。

私は、初めて知った。ロシアには、日本との戦争以外に巨大な内部の敵がいたことを。
明治38年1月、“血の日曜日”にはじまるロシア革命の幕が切って落とされ、全国に広がっていたのだ。ロシアは、日本に負けたとは、思っておらず、小村寿太郎が結んだポーツマス講和条約は、戦勝国と思えないもので、国民の大不満を買った。

このころから、ウソで隠ぺいする大本営発表と、戦争を扇動するマスコミの体質が、醸成されてきたのだろう。日露戦争の実態を、正直に国民に告げていたならば、悲惨な太平洋戦争にブレーキがかかったかもしれない。

(4)太平洋戦争
①2.26事件
昭和7年、海軍が犬養首相を暗殺し、政党政治にとどめを刺した。これは、“5.15事件”と呼ばれ、テロリストたちの処罰は、最高でも禁固15年という軽いもので、いよいよ軍靴の音が高く響いてきた。

そして、昭和11年に青年将校が、平400名を率いて、高橋是清大蔵大臣など重臣らを9人射殺し、クーデターを起こした。これが。“2.26事件”である。軍部の真崎大将を首相に祀り上げ、自分たちが天皇親政を目指す“尊王義軍”と称していたが、天皇の御聖断は、「反乱軍鎮圧」との強い指示であった。
さすがに天皇の怒りが強く、青年将校17名に死刑などが処せられた。彼らの国体の拠り所は、北一輝著“日本改造法案大綱”である。

② 日中戦争
一方、軍部は中国でも独走し始めた。昭和3年に“張作霖爆殺事件”、昭和6年に“満州事変”が起きるが、いずれも関東軍が仕掛けたものである。
“満州事変”の発端は、柳条湖で、満鉄線路を関東軍が自ら爆破し、中国軍の仕業として攻撃したものである。そして、関東軍は満州を占領し、満州事変不拡大を図った若槻内閣が、逆に崩壊してしまった。

この“満州事変”の翌年である昭和7年に、一連の策略を仕掛けた関東軍石原莞爾らが、中国東北部日本の傀儡の国家“満州国”を樹立した。首都は長春で清朝最後の皇帝溥儀が執政となった。国際的な名目は、「五族(漢、満州、モンゴル、日本、朝鮮)協和」をうたっていた。

満州国樹立は、国際社会からも日本を孤立させた。昭和8年国際連盟に、好戦派の松岡洋石を派遣し、満州建国は正しいとひたすら主張し、42対1で否決されたら、即脱退したのである。
この交渉で完璧に負けた松岡洋右を、メデイアと世論は凱旋のように迎えており、日本は道を踏み外し始めた。

日中間に緊張が続いている中、昭和12年7月7日午後10時に、北京から18キロ地点に駐兵していた日本軍に、数十発の実弾が打ち込まれた。日本軍は翌日午前5時過ぎに中国軍に向かい攻撃を開始して、これが延々と続く“日中戦争”の発端になった。

この中国から打ち込まれた銃弾は、事実だが、いまをもってもその背景はわからない。

この宣戦布告のない戦争に、さすがに日本の軍中央も反対論者がいたが、関東軍参謀長の東条英機中将が戦線拡大路線を、強引に進めてしまった。

当時の中国は、蒋介石と毛沢東の共産党が内戦を行っていたが、周恩来の斡旋でひとまず中国として結束した、内戦で戦い慣れてきた中国は、日清戦争のときのような力ではなく。ゲリラ戦を展開し手強く、奥地へと日本軍の兵站は伸びきり、戦いは泥沼化していった。

③ 太平洋戦争
“日中戦争”が、このように収拾の目途がない状態で、アメリカと、なぜはじめから勝てる見込みのない戦争を始めたのか。

苦境に陥った優柔不断な近衛内閣は、昭和13年に軍部と組み、憲法違反といえる“国家総動員法”を成立させた。
これは、「戦時に際し国防目的達成のため国の全力を最も有効に発揮せしむるよう、人的および物的資源を運用する」という個人の資産、言論・表現の自由など根こそぎ奪うもので、軍部の完全な傀儡政府になった。岸信介中心で企画・制定したものである。

そして、昭和15年に、日独伊三国同盟が締結した。この同盟は、第2次近衛内閣の外相であった松岡洋石が中核的役割で、「悪の元凶」であった。当時陸相だった国際知識が乏しい東条英機も三国同盟を強く後押しして、悪の枢軸となった。

三国同盟の直前に、日本軍は北部仏印(ベトナム)に進駐した。蒋介石の援助ルートを遮断するためとうたっていたが、大東亜共栄圏構想の足場つくりである。

この三国同盟と北部仏印、南部仏印への進駐が、アメリカの姿勢を大きく変えた。
アメリカは、日本軍の中国からの撤退などを織り込んだハル四原則のもと、交渉を繰り返した。松岡洋右はと日本は、したたかな外交を展開しているつもりだったが、無残に列強に振り回されているだけだった。

昭和16年8月1日に、アメリカは、日本に対する石油の全面輸出禁止を発表し、これで日本の石油貯蔵量は1年半しか持たず、政府も、陸海軍も予測していなかった事態に陥った。
軍備を比較すると、アメリカは、軍艦300万トン、飛行機は15000機であり、日本はそれぞれ84万トン、2300機である。

誰しもが勝てない戦争と思っていたが、軍部は好戦派が力を握り、開戦の世論も高まり、マスコミは扇動し、引き返すことはできなかった。
永野軍令部総長は、天皇にお会いし、「この際、対米戦に打って出るべき」と報告したが、天皇は、「それは、つまり捨て鉢の戦争で、危険極まりない」と危惧した。

しかし、軍の暴走は止まらず、8月30日に陸海軍による“帝国国策遂行要領”を造り上げ、開戦への準備を始めた。
天皇は、この”要領“を見て、「一に戦争準備を記し、二に外交交渉を掲げている。これでは戦争が主で、外交交渉は従であるかのようだ」と詰問し、近衛や軍閣僚に、”外交最重点“を約束させた。

しかし、この“要領”は、9月6日の御前会議で、そのまま提出し、永野、杉山両統帥部長は、黙り込んだり、お詫びしたりしながら、巧妙に通してしまった。
そして、「10月上旬に到るも(日米交渉)の目途がつかないときは開戦決意」と決定された。

やはり、天皇の指示があり、交渉は続けられたが、近衛の5人の閣議が10月14日開かれ、東条英機が力説した。「日本人が膨大な血と生命で建設した東亜新秩序を崩壊させて、小日本に戻すことは断じて許されない」

私には“小日本”とは、現在の日本の領土のことで、とんでもない狂人の発言と思えたが、当時の好戦派軍幹部の定説でもあった。

この本では、軍部以外に 「マスコミの責任も大きい。世論をアジテートして軍部をイケイケドンドンにさせた。その理由は、戦争反対というと売れなくなるから。弾圧があって戦争反対と言えなかったというのはウソ」と断じている。

日本は、昭和16年12月8日に、そのまま情けない悲惨な戦争に、東条英機首相のもとに突入していったのだ。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
以上のように、日本は明治維新後から軍国主義、覇権主義の礎を築いてきたのである。
歴史を紐解けば、過去の過ちを繰り返すことはないだろう。天皇は現人神などと崇めた言葉は、狂気染みた軍部トップが造り上げた幻想で、狡猾にもそれを政治利用していた。天皇は、節目々々で反対し、ブレーキをかけていたのだ。

昨年9月に安倍首相の強引なやり口で、集団的自衛権などの安保関連法で成立した。
さっそく、内乱続くスーダンに派遣される自衛隊は、他国が襲撃された場合に救援の必要があり、武器を用いた戦いの訓練をはじめたという。

誤った戦争に導いた巨悪のA級戦犯松岡洋右、岸信介と安部首相が、血縁関係であることまで気になる。
これまでの先人の多くの犠牲を鑑みるに、再び、軍靴が闊歩する時代だけは、絶対に避けなければならない。

3.四三の会関東支部懇親会

当たり前のように行ってきたが、関東支部懇親会も歴史を刻んできたものである。
22年前の1994年に、故郷のサンルートホテルで恩師6名と同年生85名が参加し、盛大な四三の会が開かれたのが、関東支部懇親会の発端であった。これは、故郷の本部事務局が尽力し、名簿を整備したことで実現したものである。

翌年から1998年までは、NEC大橋会館で関東支部懇親会を開いたが、私の地方関連会社出向で関東を離れ、途絶えてしまった。2006年より私が本社に戻ったのを機に再開し、今年まで例年恒例行事になった。

参加人数はいつも20人前後で、今年は19名であり、初めて女性の参加がゼロになった。
「なじょしたんだべ」とか、ごしゃかれたが、幹事の私がズボラなせいもあるだろう。簡潔なメールを出すだけで、返信無しが3年続けば、宛先から除外する事務的なやりかただからだろうか。
60歳と65歳の定年の節目で、会社から自宅にメールアドレスが変わった方は、連絡がないかぎりは名簿から外れ、このときに宛先が激減した。

毎年20名程度だが、顔ぶれが変わるのが楽しみである。
今年は柔道部で一緒だったAH君と、卒業以来、初めて飲んだ。IHIを退職したのを機に参加してくれたが、柔道部の稽古と仲間を思い出し、懐かしいばかりであった。

そして、タイに3度、19年間赴任したST君も、ようやく退任して駆けつけてくれた。私もタイには、4年間赴任したが、新工場立ち上げの任務もあり、心身ともに疲労困憊して帰任した。
あの地で、20年近く会社トップをはり続けることは、政府とのコネ、人脈、労務管理など異文化で大変な思いをしたのだろう。にこやかに自信に満ちた押し出しのいい経営者然になっていた。

人数は横ばいでも、参加メンバーが変わり、不思議な新鮮な空気が漂い、時折刺激され啓蒙される話を聞かされることは楽しみである。
この出会いは、幹事冥利に尽き、今後も継続していきたいものである。

[入笠山頂、伊豆の海、上田城、ポケモンGo、戦争に関する本、四三の会]
 

家祖を訪ねてⅡーー故郷の新図書館と国会図書館から

 投稿者:管理人  投稿日:2016年 7月27日(水)19時51分45秒
  鬱蒼としてきた椿の木の剪定しようと、蒸し暑い中、脚立に上り、汗をダラダラながしながら取り掛かったが、一瞬で凍てついた。突如、椿の中から数匹のスズメバチが羽音を鳴らせ飛び出し、不気味なホバリング体制で攻撃しようとしてくる。

5年前の8月に屋根から落ちた体験が脳裏をよぎり、体が硬直して、冷や汗が流れた。脚立は1.5mの高さにある。
ハチは黒い部分を攻撃してくる習性を知っていたので、ゆっくりと髪をタオルで覆い、ソロリソロリと脚立を下りて、地上に着いたときは非常に長い時間が経ったと感じられた。
それは、タイの工場で、昼休みにブーゲンビリアの樹の下で、腹筋運動をしようとして、鎌首を持ち上げ頚部を広げたコブラと睨めっこして以来の体験である。

一旦脱出すれば、こちらのもので、蜂退治のスプレーで、徹底的に皆殺しにした。下写真がその巣であるが、故郷でカメバチと呼んだのはなるほどであり、まさに甕のような巣である。(下写真)

ところで、先月は、久々に帰郷した。
早速、29億円をかけて、7月にオープンしたという図書館に出かけた。
驚くことに図書館は2階にあり、5階まで吹き抜け構造となっている。3階以上は、立ち入り禁止で、廻りを蔵書構造にしているだけである。あまりにも贅沢な空間の設計であり、北国の膨大な暖房費が懸念され、採光口も大きく、蔵書の劣化が心配である。

国会図書館は、環境負荷を考慮し地下に蔵書しており、ハコモノとして少々疑問を感じる。(下写真)

しかし、古文書などを扱う郷土史のコーナーは、相談窓口を設け、親切で博学な女性と中年の方の応対には感銘した。国会図書館の端末340台を備えたIT面での格差は、地域的にしようがないが、この人的ソフト面での対応はおおいに評価する。
お陰で先祖も公の書で、解明できたので、下記にまとめる。

また、最近は国会図書館にも足繁く通い、家祖を訪ねているので、併せ紹介する。
今回は、直系から少々離れるが、上杉藩時代の2人と、戦時の昭和史で足跡を残した2人である。

1.上杉藩時代

(1)厚斎、龍八忠政

①厚斎

上杉藩勤書(つとめしょ)は、藩と藩士の関係を日常的に記録したものであり、かなり崩した達者な文字の古文書であり、判読しがたい。
この勤書をもとに、武士の家系を表す御家中藩士畧系譜が、作成され、恐れ入ったことに活字版資料まで準備されていた。上杉藩によって編さんされ、藩士の正当な家系と評価されるものとである。

わが家系図は、上杉藩に仕えはじめた6代石見景忠以降すべて一致して、安堵した。三姫の御傳役として切腹、切支丹不調法などエピソードも合致している。

上杉藩には、3軒の私の姓と同じ家柄があった。そして、私の家系と別の1軒に、かの有名な砲術家厚斎(本名は翁助親賢)がいる。
どういうわけか厚斎の6代前が庄助と称し、次代の武左衛門親政から詳述され、それ以前は不明状態にあり、上杉藩での始祖がわからない。
元禄10年の頃であり、当家では10代の半左エ門昌忠のときにあたり、厚斎側の記録は残されていないが、家系の名から血が似通っていると感じられ、当家の分家と推定した。

厚斎の功績を称えた石碑は、いまも上杉公園内にある。(下写真)上杉謙信以降の火縄銃を江戸末期にいち早く西洋砲術に切り替えた功績を讃えるものである。
石碑の揮毫は、上杉藩最後の藩主斉憲公自らによる。

厚斎は、オランダから高島秋帆により伝えられた砲術を江戸で学び、1851に年に大砲を鋳造し、発砲に成功し、幕府より賞された。
米沢藩は、それまで直江兼続が火縄銃に注力し、上杉の雷筒とその轟音で名を響かせていた。帰郷の時に、丁度火縄銃発射の儀式が行われていたので、写真を掲載する。

保守体質の米沢藩だったが、兵器の近代化を加速しようと、厚斎を鉄砲隊トップの鉄砲総支配に据え、戊辰の役では大活躍した。しかし、1853年には、ペリー艦隊が浦賀に来航し、4艦に73門の大砲を備えており、世界の趨勢では、日本はかなり遅れていた。
伝統的な火縄銃を重んじる米沢の体制で、いちはやく西洋砲術を導入した厚斎は、母校のHPの歴史にも掲載されている。

②龍八忠政

分家の流れと思われる厚斎は、1805年に生まれ、御馬廻組の尻高家から五十騎組の文五親好の養子になる。
その時代の私の先祖は、1807年に家督を継ぎ、斉憲公に仕えた龍八忠政である。同じように、御馬廻組の堀江家から五十騎組の当家に婿養子で入っている。
砲術にも優れ、1841年に五十騎組鉄砲足軽組頭を命じられている。
火縄銃から西洋鉄砲への藩として大転換を図った時期であり、血がつながっていると思われる二人の砲術での連携、活躍ぶりはいかなるものだったのだろうか。

(2)忠房

歴史好きなら、知っておられる方もいるだろう。この音沙汰記の5月に藤沢周平の“漆の実のみのる国”に登場していることを紹介し、7代目修理亮の弟、弘忠のひ孫と書いたが、上杉藩の御家中諸士畧系譜をひもとくと、どうやら違った。

当家に伝わる古門書は、分家が赤線で枝分かれし、数ページにまたがっているので、追って行くのは実に複雑で大変であり、ミスが生じた。

当家五代目彦三郎忠家の弟、長続小四郎が分家し、その長男が内匠長政であり、分家として上杉藩の初代となる。
当家6代目の石見景忠と同様に、内匠長政は、上田衆として上杉景勝公の側近であった泉沢久秀河内守に仕えていたことが、記録されていた。

それにしても、内匠長政の6代目忠房は、上杉鷹山公の懐刀だったことは、藤沢周平の“上杉鷹山と細井平洲”からも伺える。

鷹山公に対し、改革に反対し反乱を起こした重臣7人が、強訴の日、鷹山派として用心深く、登場を停止させていた一人が忠房であった。
この強訴に対し、鷹山公は、藩士全般の意見を聞いたうえ、切腹2人、隠居閉門5人の断罪を課すが、忠房の意見も重んじたらしい。

飢饉の対応、松平定信候への評価など、鷹山公からは大所高所から見つめるところを買われ、御用人まで出世している。
細井平洲が、初めて米沢に招かれ、松桜館で教えたときに、忠房が学力第一等と称された秀才でもある。

2 戦時の昭和史

(1) 龍蔵

18代目龍八の弟であり、私の曽祖父の弟にあたる。明治17年の私と同様の誕生日に生まれている。
私は、「龍蔵おじさんと同じ日に生まれたから凄い男になる」と、幼い頃散々言われプレッシャーになっていたのは覚えている。
片田舎から、東京に志を持って商社を興し、練馬に豪邸を持ち、成功した立志伝の方である。

“日本貿易会三十年史:日本の経済と通商政策の歩み”日本貿易会発行に草分けの業界の重鎮ぶりが語られている。
戦後荒廃し、昭和22年の経済危機に瀕し、占領政策を転換し、国際的な貿易を伸ばすことは焦眉の急であった。

しかし、貿易の振興団体は4つもあり、それがようやく一つに統合され、世界的視野に立つ貿易理念と責務が確立された。
統一された組織の新会長は、商工大臣経験の中村久萬吉で、龍蔵氏はその副会長を務め、鉱工品貿易公団理事長を兼務し、自らの会社・千代田貿易商会も牽引していた。(下写真は、上記本から掲載)

山本正雄著“財界を支配する百人”に、詳しいプロフイール、功績が、掲載されている。百人には、日銀総裁、経団連会長、三井船舶会長など錚々たる人物が選ばれているがその一人に選出されている。山本正雄は、当時の経済界きっての辛口ジャーナリストである。

そして 「貿易庁長官の後釜が問題になったとき、“役人なんか馬鹿々々しくてなれるもんか”」と、龍蔵氏は言ったそうである。貿易庁は、戦後設立され、民間貿易に移った1949年に廃止されたが、あの白洲次郎が長官を務めていたポストである。

龍蔵氏の息子の善次郎氏に、私は可愛がられ内輪話をよく聞かされた。NECに入社し、15年くらい経った頃、銀座に招かれ、そのとき「親爺は大臣を頼まれたが、蹴ったんだ」と話され、私は半信半疑であったが、この本でそのエピソードが立証された。

善次郎氏からは、お会いした時に、1989年3号の“機械設計”巻頭インタビューの記事(下写真)と日経新聞の交遊録をいただいたが、龍蔵氏の理念を継ぎ、世界を南船北馬のご活躍ぶりであった。

そのとき、初めて善次郎氏が早稲田2年の時に、ロサンゼルスオリンピックの自由形で5位に入賞したとも伺った。黄綬褒章の受賞が決まった頃である。

善次郎氏は、男の子に恵まれず、私に養子の話があったが、普段物言わぬ祖父が自分の姉に相談し、その姉が強行に反対し潰えたという。結果として次女に婿を迎えた。
銀座で、過去の話を総ざらいした翌年、突然善次郎さんは他界した。
残念なことに、龍蔵氏が興した事業も、この3代目の婿が相続し10年後の平成12年に倒産する憂き目となった。

(2)結城豊太郎

曽祖父の妻の姉が結城豊太郎氏に嫁いでいる。
ちょっと縁遠いと思われるが、家業が傾き家族が病魔に冒されたとき、金銭的援助を含めて手紙を頻繁にいただき、親身になってお世話になったとのことである。

曽祖母は、病夫、不自由な体の老姑に献身的に仕えながら、機織物業界の不況で家産が傾くなか、家業を女手一つで守っていたことで、県知事から表彰を受けている。最大限まで拡張した工場を、維持していくことは容易でなかった。(下写真)

この表彰で、同時代を生きた血縁の傑物、結城豊太郎氏と龍蔵氏で、曽祖母に中村不折の立派な屏風を贈っている。
そのとき、曽祖母に送られてきた結城豊太郎氏の見事な墨跡の直筆の手紙も残っている。(下写真)

これは、昭和9年のことであり、結城豊太郎氏は、昭和5年に日本興業銀行総裁、昭和11年に商工組合中央金庫初代理事長、そして昭和12年には大蔵大臣となり、多忙を極めた頃である。

我が家に、結城豊太郎氏が寄るときには、道に旗を振るものが列をなし、御付きの車が連なり、大変な騒ぎだったそうである。下写真は、家族で我が家を訪れたときのものである。
東京で女子大生だった母は、結城邸、後述の藤山邸に何度かお邪魔して、歓待を受けたという。

結城豊太郎氏は、昭和12年から終戦直前の19年まで日銀総裁を務め、戦時の財政、金融政策を担っていたが、東条英機内閣との激しい対立で、ついに昭和19年に辞任に追いやられた。

しかし3女が、財界トップの藤山愛一郎氏の妻となっており、藤山愛一郎氏も結城豊太郎氏の高い見識に畏敬しており、敗色濃い戦局を冷静に捉え、東条内閣打倒を画策して、昭和19年7月に総辞職に追い込み、和平工作を推し進めた。
戦後は、結城豊太郎氏は公職を一切退き、小田原に移り住み、三重の津市の結城神社の宮司を務めた。

[ハチの巣、コブラ、図書館、火縄銃、厚斎石碑、龍蔵氏、善次郎氏、結城豊太郎氏手紙と表彰状、結城豊太郎一家、最大規模の工場]
 

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