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年頭に当たりーーー“孤独のすすめ”の時期か

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 1月15日(月)19時26分8秒
  私も、今年は古希翁になるので、いささか心境が変わってきたようである。年末に五木寛之著の“孤独のすすめ”を読み、おおいに共鳴した。
“孤独のすすめ”には、下記のように述べられている。

「人生は、青春、朱夏、白秋、玄冬と、四つの季節が巡っていくのが自然の摂理です。玄冬なのに青春のような生き方をしろといっても、それは無理です。だとすれば、後ろを振り返り、ひとり静かに孤独を楽しみながら、思い出を咀嚼したほうがいい。回想は誰にも迷惑かけないし、お金もかかりません。繰り返し昔の楽しかりし日を回想し、それを習慣にする。そうすると、そのことで錆びついた思い出の抽斗が開くようになり、次から次へ懐かしい記憶がよみがえってくるようになる。はたからは何もしていないように見えても、それは実に非常にアクテイブな時間ではないでしょうか。孤独を楽しみながらの人生は決して捨てたものではありません。それどころか、つきせぬ歓びに満ちた生き生きとした時期でもあるのです」

この本から幾つかのポイントを抽出し、感じ入ることを述べる。

1 死生観の確立――死の哲学

「どのように生きるかは文学や思想で答えを見出せても、どのように逝くかは、やはり宗教の力が必要となる」――”孤独のすすめ“から引用

確かに、私は若いとき、企業小説として高杉良(実在モデル多)、城山三郎、戦略モノとして山岡荘八、司馬遼太郎、そしてモデル実在のフイクションとして山崎豊子などを貪り読み、人生の糧にしていた。

いま、それらに対する関心は薄くなっており、先月この音沙汰記で書いたように、“般若心経”を紐解き始めた。実家の仏壇で、般若心経を読み、静かに先祖を想い、瞑想することは何よりの憩いになる。

ただ五木寛之は、親鸞を敬うがあくまで信徒としてではなく、宗教的な生き方を実践するためだという。
事実、彼の著書“無力”では、自説を展開している。親鸞が、「自然法爾、人間は阿弥陀仏の大きな慈悲の力に身をまかせなさい」と説き、浄土真宗では他力ことが絶対の教えとしているが、五木寛之は、自力でも他力でもない無力(MURIKI)の境地こそが自然法爾と力説していた。

経典は、盲従することなく、これまで蓄積してきた己の知行体系と鑑み、深く思考を深めていくことだと思う。

2 孤独を楽しむ

「歳を重ねるごとに孤独に強くなり、孤独のすばらしさを知る。孤立を恐れず、孤独を楽しむのは、人生後半期のすごく充実した生き方」――”孤独のすすめ“から引用

仏陀の言葉にも、決して群れをなさない“犀の角”のように独り歩めという言葉がある。
人間社会は、あまりにもしがらみが多い。NEC時代の管理職の電話帳の名簿のような定例飲み会は、もはや儀式でありもう御免である。
喪中挨拶には、“来年、私は古希翁となります。以降新年の挨拶を欠礼します”と書き添えた。

年賀状さえ繋がっていれば、10数年間会っていない友でも身近に感じるものである。特に私の年賀状は1年間を総括した写真入りであるので、それがもとで、久しぶりに集まろうじゃないかとの誘いも多々あった。しかし、懐かしく楽しく飲める仲間のうちはいいが、肥大化し定例化していくと負担になってくる。

中学時代の親友と昨年末に忘年会を行ったときに、四三の会のOS君に友人が電話を入れた際、「いつも年賀状をキチンと読んでいるのに、いきなり欠礼とはひどいでないか」と苦言を呈された。

先日、四三の会のYH君にも、新年会の幹事を促され、上記の心境を語ったところ、「まだ、早いんじゃないか。いいよ、幹事は俺がやる」と返答され、ただ参加することだけにしたが、内心若干の怒気があったようにも感じられた。

引き続き、四三の会のOH君がすい臓がんで亡くなり、彼は空手部時代も一緒だったので、空手部先輩から高校・大学の同期からお悔やみの手紙と香典を募ってほしいとの長々とした文章と依頼が来た。これも、組織立てて行うべきでなく、各人が故人との付き合いの深さで判断することとし、空手部OBとしては20日の新年会で香典等を協議すると返事した。
多分、憤懣やるかたなしといったところと思えるが、「了解」と快諾がきた。

つくづくいままでの業であろうか、シュリンクしていくのも角が立ち難しいものである。

3 孤独な生活の友、本

「誰にも邪魔されず、古今東西のあらゆる人と対話できる。本は際限なく存在するから孤独な生活の中で、これほど心強い友はない」――”孤独のすすめ“から引用

相模原では、図書館機能については中央集約型ではなく、分散型の優れた仕組みがある。政令都市全体で本を所蔵しており、インターネットから予約し、図書館に行かなくても最寄りの公民館で、散歩がてら受け取れるものだ。新刊購入の要求もでき、人気のある本は大量に用意され、申し分ない環境である。すっかり、公民館の受付の方にも馴染みになり、流行りの本の談議などもするようになった。

それから現代では、インターネットも大切な友だ。いつでも好きなジャンルの情報を無料で即時に提供してくれ、ひも付きで次から次へと連鎖で調べることができ、これがいわばネットサーフインである。
ネットサーフインでは、百科事典Wikipediaと動画投稿のYouTubeが双璧である。従来のビジネスモデルと全く異なり、ともに読者側が運用しており、膨大な情報の効率よい連鎖を実現してくれる。

都心の国会図書館などもたまには良い。ビジネス街の中に緑に囲まれた巨大な建物で、安価な学食のようなものを提供する食堂もあり、終日、本と共に過ごすのは最高の環境である。発刊された書物は全て貯蔵しており、家系図の調査ではおおいに役立った。


4 回想へ

「下山はどうでしょう。眼下には歩いてきた道ばかりでなく、その周囲の山々も、遠く下界まで見渡せる大パノラマが広がっているはず。場合によっては、中心を川が流れる平野や、その川が注ぎ込む海までの遠景を目にすることができるはずです」――”孤独のすすめ“から引用

これは、“下山の思想”でも語られてきており、頂上ばかりを目指し夢中で登った50歳までと、それから下山に入る50歳以降の景色の違いを描いており、50歳を分水嶺としている。

50歳過ぎた頃に確かに企業人としての終着点が見え始めるが、私は定年あたりから孤独となりつつ、本を友にして思い出の抽斗を開けて咀嚼することが良いと思う。

私は、図らずも波乱のある人生であったので、錆びついた沢山の思い出の抽斗を持っている。回想するとボヤっとした輪郭から徐々に具体的な事象が湧き出て、思わず言葉を紡ぎ、この掲示板に書き連ねる。これは、ひとり静かに思い出を咀嚼する自己満足の至高のひとときである。

この“回想すること”は、医療現場にも取り入れられ、高齢者の鬱、認知機能の改善にも役立つそうだ。

やや執念深い内向性の私は、大学、NECと、凡なる人生に終始するはずだったが、運命の神は、波乱と試練を立て続けに与えてくれた。当時のガラクタ一つを見つめても、思い出は尽きなく湧きだしてくる。

また、読書は、忘れかけていた抽斗をこじ開け、忘却のかなたの思い出を引き出してくれるカンフル剤になる。
そして、読書の役割も異なってきており、企業小説は、追い詰められた自分の立場を冷徹に分析し打開させ、自分の士気を鼓舞させるものだったが、いまは思い出を鮮明に甦らせるものとなった。

5 衰えを認め受け入れる

「人間はある一定の年齢を超えると、生理的にも肉体的にも、当然、衰えていきます。聴力、視力、持続力、記憶力、集中力なども半減してしまいます。それを認めず、気持ちの持ち方次第で青春は続くとか、前向きに頑張ろうなどとスローガンを掲げるのは、戦時中に竹槍でアメリカ軍と戦えと訓練をさせられたのと変わりません」――”孤独のすすめ“から引用

私も、気持ちの持ち方次第で青春は続くとの見方をしがちであり、恥ずかしながらも冷静に自分の老化を若いときと比べて比較してみよう。写真を見比べながら、思い出の抽斗を開けてみる。

(1) 35年隔てたパリ
25歳と60歳のときの凱旋門前のシャンゼリゼ通りの写真がある。(下写真)
① 25歳の頃
NEC入社2年目の1974年の正月に、2週間の欧州旅行を敢行した。石油危機で正月休みが長くなり有給休暇をすべて使い、上司の「もう帰ってこなくていい」との罵声を背に、飛び出した。欧州は、いまIS問題を抱えているが、当時も物騒だったはずだが、若さゆえ浅学非才で危うい体験するまでわからなかった。

旅行の2か月前に、第四次中東戦争を引き金にしたオイルショックが起きていた。イスラエルを支持したオランダのアムステルダム空港に着くと、石油不足で街全体が異様に暗かった。ホテルまで、ロウソクを灯している。

日本政府は、アメリカとの同盟でイスラエル支持であったが、石油確保のために節操なく寝返ったので、欧州諸国に反日感情が膨れ上がっていた。飲み屋では、ヤポネ?と因縁をつけられ険悪なムードになった。言葉もわからず、その場は嫌がらせで収まったが、私は臨戦体制でいた。ロウソクが灯るうす暗い中、平均身長180超す大男の国では、周りの巨体はなかなか凄みがあった。

ふと“青年は荒野をめざす”の主人公ジュンを思い出していた。20歳でトランペットのみを持ちナホトカ号でモスクワに行き、北欧フインランドから南下していく。小説の話だが、なぜか彼もこんな場面に遭遇していたんだなと感じた。

また、旅行の1年半前に赤軍のテルアビブ空港の乱射事件が起き、テロが続発していた。
乱射事件は、テルアビブ着のサベナ機をパレスチナがハイジャックしたが、イスラエル軍に制圧され、その報復として実行された。パレスチナは、厳戒体制で空港に近づけず、日本赤軍にテロを依頼し、日本赤軍3人が空港内で自動小銃を乱射し、停まっていた旅客機に手榴弾を投げつけたのである。26人が殺害され、73人が重軽傷を負う大惨事となった。

私は、厳重警戒のローマ空港では武装警官に駆け寄られて、パスポートと顔をチェックされ質問を受けヒヤリとしたが、事なきを得た。赤軍派の誰かに似ていたらしい。

こんな世知辛く危うい欧州の国々だったが、私の心は不安感よりもなぜか躍動していた。下のエトワール凱旋門の写真では胸を張り溌剌とさえしている。

凱旋門の屋上へらせん階段で登ると、シャンゼリゼ通りをはじめとして12本の通りが放射状に見えた。“星”のようであり、なぜこの凱旋門がエトワール(星)と名付けられたか納得した。しかし、12本の通りを出入りするのに、この凱旋門をぐるりと回るが、車線が整備されているわけではなく、効率の悪い危なっかしい割り込み運転である。
そこからは、エッフェル塔、モンマルトルの丘などパリ市街を一望できた。

巨大な門の上層部は、博物館となっており、ナポレオンの遺品が多く陳列されている。この門は戦勝記念塔であり、ナポレオンは1840年に改葬されており、下には無名兵士の墓で永遠の炎が灯されていた。

一通り見学した後、私はセーヌ川にそってブラブラ歩き、ノートルダム寺院に着いた。朝起きてから訪問する名所旧跡を選び出し、気ままな“地図のない旅”であった。

② 60歳の頃
妻と一緒であり、自分で企画する旅は自信がなくなったので、JTBのツアーに参加した。
バスで片道5時間のモンサンミッシェル見学の翌日にパリ市街を歩き、既に疲れていた。ツアーはオペラ座でフリータイムとなり、フランス語の地図をたよりに凱旋門に向かったが、幾度も道に迷い同じところに戻ったこともある。
若いときは、方向感覚、土地勘が優れており、ぴたりと目指す場所に着いたものだが。

ようやく凱旋門にたどり着いたが、あまりに35年前の記憶が鮮明で感動は薄かった。異国の同じ場所で、ただ過ぎ去ったときの流れを感慨深く噛みしめた。
帰りのシャンゼリゼ通りでは、疲れきっているはずの妻が突如甦った。

クリスマスを控えて、ずらりと露店が並び、精一杯のデコレーションとイルミネーションでおとぎの国のようであった。私には、同じようなものを販売しているように見えたが、妻はひとつ一つ手に取り、丹念に見ている。しびれを切らし、ついに待ち合わせ場所を決めて、別行動にした。

帰りの地下鉄はクリスマスを控えすごいラッシュであり、乗り換え場所が見えず、フランス語の案内で緊張の連続でヘトヘトになりホテルに戻った。

ふと思った。沢木耕太郎著“旅する力”に次のように記されている。
「旅をするということは何かを得ると同時に何かを失うことであるといったことがある。しかし、齢を取ってからの旅は、大事なものを失わないかわりに決定的なものを得ることもないように思えるのだ。二十代を適齢期とする旅は、やはり二十代でしかできないのだ。五十代になって二十代の旅をしようとしてもできない。残念ながらできなくなっている」

(2)44年隔てた拳
① 24歳の頃
当時の拳は、穴あきのコンクリートブロック1枚あるいは煉瓦2枚を破壊する力を持っていた。写真は、ハワイ大学でのパーテイでのブロック2枚割である。海外であり、固さがわからず骨折するわけにいかず、拳を回転せず体重も重心を外して打ち込んだが、多分3枚は割れたと思う。

第16回全日本学生選手権でベストエイトの肩書をひっさげ、ハワイ大学空手部の松濤館タゴモリ師範、ホノルル和道会ウインデイ師範に歓待されていた。つい瓦割りの話をしたら部員がブロックを持ってきて試し割を依頼された。ハワイ産のブロックで、彼らは1枚を突きぬくというので、2枚を割ってみせたのである。

パーテイでの試し割りは、すこぶる評判になり、昼食をとっていたハワイ大学構内のイーストウエストセンターの地下食堂でも声を掛けられるようになった。
前年の全東北選手権準々決勝で、極真チャンピオンの佐藤選手を破った話は、質問が相次ぎ拙い英語で四苦八苦したが、海外での極真の知名度に驚いた。

② 68歳の現在
手も歳をくうものである。血管が浮き出てしわくちゃになってしまった。まだ道場に通い巻き藁を突いているので拳ダコはのこっているが。
人差し指は、第一関節が膨らみ、変形している。

これは、第14回和道会全日本選手権大会の準決勝で日大OBの桜空会・土屋選手の蹴りで骨折したが、そのままあて木をしていたら変形したものである。
あの試合は2対1とリードされ、副将の私は、ナショナルチームにも選抜されていた土屋選手と対戦した。小柄だがさすがに手強く引き分けになることが精一杯であり、チームはそのまま惜敗した。

武道館を出る時に一礼をして、私が大きな試合から引退することを決意した思い出の一戦である。

(2) 体格
① 19歳の頃
1年間の自宅浪人生活で、トレーニングメニューを作り、修行僧のように体力造りに励んでいた。お陰で筋力は数段と強くなり、厳しい空手部の稽古にも率先垂範で取り組めた。腕力にも自信が出て、教室になだれ込み、教授に総括、自己批判とかを迫る全共闘を一人で追い出すほどであった。

自宅浪人で、多くの本を読み、深く思索する習慣がつき、強靭な肉体を手に入れた。経済面でも社会人に1年遅れたが、お釣りがくるほど取り戻していた。丈夫な心身で激務の海外に単身赴任し、2年以上勤務した年数が勤務期間に加算されたのである。
青春時代も、下界と遮断し孤独となり心身ともに鍛える時期があっても良いと思う。

② 60歳の頃
写真は、四三の会で還暦を祝い “あら還“と称して行ったイベントの一つでありハプニングだった。午前9時から上杉神社で還暦にご祈祷が厳かに行われた後、事務局のFT君が、秘密裡に練りに練って素っ裸になり赤褌をつけて参拝するという企画を断行した。

しかし、気温3度であり、ようやく、次々と裸になり初め、赤褌の色にも精神が鼓舞され“やるぞ”という機運が高まり全員が褌一丁になった。それは地元新聞にも掲載された。

37年間の企業人として、知性、精神力、体力を酷使して鍛錬を怠っており、見事に筋力はおちていた。

③ 68歳の現在
写真は今年元旦の寒中水泳の一コマである。目を覆うばかりに筋肉は削げ落ちているが、まだ空手の修業を続けられる程度であり、腹も出ていないので、同年代では勝手ながら上々と考えている。
しかし、若い頃を回想すると、当時はあれだけの無理ができたのは凄いと、もの悲しくさえなる。

【凱旋門前にて、拳の比較、体格の推移】
 
 

年の瀬となり今年を振り返って

 投稿者:管理人  投稿日:2017年12月26日(火)19時39分43秒
  錦秋を彩った樹々も冬枯れのにび色の光景となり、北国では爆弾低気圧により大雪となり、墨絵の世界に移ろいで行く。
もう年の暮であり、今年も都心での忘年会が多い。この間は、打ち続く飲み会で疲労困憊し、うっかり終点の高尾まで乗り過ごした。最終電車に飛び乗り事なきを得て、翌朝早く大学後輩の全日本空手選手権の応援に出掛けた。
今日は、その空手道大会の模様と、年の瀬であり今年を振り返って感じるところを書く。

1、全国国公立大学空手道選手権

12月17日に私立大学抜きの第39回全国国公立大学空手道選手権大会が開かれた。私の母校からは、男女の両チームが参加した。

セミプロ化している中央の私立の帝京、京都産業、近畿大学などは出場しないので、拮抗した試合が続き、見応えがあった。我々の時代の空手名門私立大学は、シゴキと根性だけで充分につけ入る隙はあった。しかし、今は豊かな練習環境と一流の指導者で隙のない空手のマシーンが出来上がっている。部員は“守破離”“文武両道”を自分で会得していくのではなく、盲従してひたすら努力しているのみであり、終生空手で飯を食えるのはごく1部であり、社会の別次元の荒波に出たらどうして生きていくのか懸念する。

この間テレビで、帝京大学の部員百名以上の空手部の修練状況を放映していた。立派な武道場、選手は寮生活、そして一流の指導者と科学的な練習メニューであり、精神面の武道追求はおざなりとなり、大学の広告塔で空手マシーン生成のようであった。

これでは、箱根駅伝の様相を呈している。週刊誌で、東洋大連覇の原動力だった山の神と言われた柏原選手の、社会人としてのその後を追っていた。富士通で5年間芽が出ず、なんと会社指定の強化チームのアメリカンフットボールのマネージャーをやっていた。仕事は、さまざまな雑務で、練習の手伝いやビデオ撮影のほか、選手が会社に提出する書類作り、試合会場での荷物おろしなどを担当し、さらに試合後にはプラカードを持ち、ファンをサイン会へ誘導する係も務めるそうだ。

私の部下にも、NECのラグビーチームの者が数人いたが、大学時代にスポーツ新聞の表紙を飾った者も、引退後の仕事への無能さには処遇に困ったものであり、本人も仕事ではあの勇猛な顔が借りてきた猫状態になっていた。

これが、私立大学のマシーン造りの欠陥であり、空手修業が本末転倒になっている。空手の鍛錬は目的ではなく、人格形成のためであり、社会で大成し貢献していかなければ何のための修業かわからない。

この国公立大学選手権は、そのような意味で技術的には低いレベルだが、チーム全体の雰囲気、それぞれの選手が勝手に個性ある技を出していくことが醍醐味である。

私の母校は、下記の2つが特徴と見どころと感じた。

女子は、3人共にまだ1年生でこの全国大会に臨んだ。試合前の練習を見ると、2人はジュニアでやってきたしたたかな片鱗を見せ、4月入部した部員も気迫充分だった。一回戦を勝ち抜くと、昨年優勝のシード校・長崎大学とあたる。昨年の優勝メンバーが残り、最優秀選手賞を授与した選手もいる。

男子は4年生が選手に3人もはいり、まだ牽引している姿は立派だ。礼儀面も浸透しており清々しいものがある。我々の先輩の時代は、夏の合宿終了時点が幹部交代期であり、4年生が引退するのが通例であり、我々から全日本まで牽引することに変えたが、それを復活してくれた。

① 女子形
MHは、1年生ながら見事な燕飛を演舞した。右拳で相手の手首を打ちつけながら、突き受けし、1回転してのジャンプは、きっちりと着地を決めた。びっくりするほどの高さであり、指の先までコントロールされている。7.1の得点は、ベストエイトの決勝進出を逃したが、トップテンくらいと思われる。形に関しては、小生は昇段のために覚えた程度でありただ脱帽。

② 女子組手
一回戦の大阪教育大学には、2:1だが内容的には圧勝。MHの豪快な左上段後ろ回し蹴りとIMの動体視力良く相手の上段突きをさばいて、突きで決める技は際立ったものだった。
二回戦は、昨年優勝の長崎大学でありシード校で昨年メンバーの2人が残っている。互角以上の戦いをしたが、2:1の惜敗である。

MHの相手は、昨年優勝したときの最優秀選手賞を受けた選手だったが、開始直後の気の緩みをつかれとられた以外は終始攻勢であり、逃げ切られた感がある。
試合後の相手選手は、技が決まらず首をかしげ、MH選手は負けて手をあわせ味方に謝る姿勢に、将来への頼もしい姿を見た。多分、1年生であり相手が何者かわかっていないで勝負していたと思われる。

IMは、相手を追い込み、右足払いで相手の態勢を崩し死に体とし、上段を決めた技が素晴らしかった。2:2の同スコアだが反則があり、内容負けとなった。
悔しい負け方であるが、昨年優勝校であり、メンバーであり、1年生チームには明日につながる良い経験の試合と思う。

③ 男子組手
一回戦で佐賀大と戦い、2:3で敗退した。全般に練習不足であり、スピード、パワーに精彩がなかった。間合いのつくり、さそいなどの駆け引きでも劣っており、頻繁な実戦の練習も必要だ。

4年生は、最後の試合であり、OKが見事な左上段回し蹴りをきめて3本先取したが、この技は後輩に継承してもらいたい。KSは上段蹴りも繰り出し、動きが良くバランスが取れており気迫もあり、まだ2年生なので、おおいなる成長を望みたい

2 今年を振り返って

孫たちが押し寄せた喧騒なクリスマスも過ぎて、書斎にこもって灯りを落とし、9月にこの掲示板に載せた高倉健の“旅の途中で”のCDを聴く。心に浮かんできたものを次々と記述していく。

(1)四三の会SA君の読経――心に沁み入った
やはり、今年を振り返るに母が亡くなったことが鮮烈であり、いろいろな想いがよぎる。特に四三の会の親友SA君が心を込めて、僧侶以上に朗々とした般若心経を読経してくれたことに森羅万象感じ入るものがあった。

読経が心の底までに沁み込み、葬式では耳慣れし、わずかに262文字の見慣れた経文であるが、改めて深い思索を呼び込んだ。
思えば、人間なんてちっぽけなもので、不条理なことも多い。この果てがない宇宙は誰が創造したものだろうか、果たして宇宙の構造はどうなっているのか、いま煌いている星の光は、何億光年まえの景色だろうかーーー。

般若心経では、下記の2つの節に奥深い哲理を感じる。
① 照見五蘊皆空 度一切苦厄
もう23年前になるが、父が亡くなるちょっと前から 「生あるものは召されるのー」と宙をみつめ幾度もつぶやいていたことを思い出す。既に父は、その5年前に臨死体験をしており(後述)、あの世がどのようなものかわかっていたようであり、そのつぶやきは悟りきったようであった。

五蘊とは、人間存在の物質と精神の5つの構成要素である。5つとは、“色”という身体、感受する“受”、想定する“想”、行為の“行”、認識の“識”である。
この五蘊は、寿命が尽きると、ばらばらになり、皆実体としての存在がなくなり、目に見えない“空”となる。
このことがわかると、一切の苦しみと災難は克服できるようになるということである。

② 色即是空 空即是色
東大インド哲学科卒の仏教学者である江島惠教は次のように説く。
物質的なもの“色”はそのまま実体性をもたず“空”であり、また実体性をもたない空は物質的なものとして存在する“色”である。

人間を取り巻く世界と人間、考えられうるすべての存在者は、人間が想定しがちな不変で固定的な固有の性質をもって存在するのではない、換言すると空であり、しかも空でありながらいろいろの原因条件によって現象しつつある、という般若経典の基本である空の思想を表現したものである。

前半は、あらゆるものを空とみることによって人間の煩悩や妄想を取り除くことをねらい、否定的であり、後半は、執着のない目でみたとき、あらゆるものがそれぞれの働きをもって生き生きと現象し存在していることを肯定的に表している。

私は何度も読み返し思索して、消化不十分だがおぼろげながら見えてきた。心のありよう、こだわりで空にも色にもなっていくことで、色=空ということだろうか。

著名な宗教評論家の ひろさちや(東大インド哲学科)は、死=生と、唱えている。命を延ばそうとすることはナンセンス。死も生も本質は同じもの、死は生の延長にあり、人間にとって大切な仕事である。
実際に、彼の体験談として、94歳の義母が不治の病に陥ったときに、次のように言ったそうである。「お母さん今ね、死ぬっちゅう一番大きな仕事をしているのだからしっかり死ぬんだよ」義母はにっこり笑って、「はいわかりました」と答えたとのことである。

(2) 父の不思議な臨死体験
母の遺品を整理していると、父の昭和8年卒の小学校時代の同学年生で編纂した文集が出てきた。喜寿記念で発刊されたもので(下写真)、“昭八会”と称しており、父は臨死体験手記を寄せている。父が亡くなる少し前の手記で、病床でなんとか書き遺したものであった。不思議なことに、大阿闍梨であり高野山真言宗大僧正の大栗道栄の描く“霊界の旅”と似ている部分が多い。

父の臨死体験は、1991年の2月だった。私は、タイの新工場立上げのためバンコクに出張をしていた。NECの上司から緊急の電話がはいり、「お父さんが危篤のため至急帰国しなさい」との指示があり、私はその日のナイトフライトに飛び乗り、翌日午前中に父を見舞った。
ここから父の文章を引用する。

<前半略>
【平成2年5月、私は無熱性急性肺炎になり市立病院に入院、さっそく、鼻からと喉を切開し酸素吸入をしました。点滴だけの治療が8カ月続き、始めは呼吸が苦しくて、夜中も看護についてくれる子供たちに、何度も助けてくれとしがみつきました。家内も明日は危ないと言われ、家の片づけに帰ったそうです。】

このときに、私に危篤との国際電話が入ったのだが、父は昏睡していたはずなのに、幽体離脱のような現象を起こしていた。見えなく聞こえないはずの隣室で、母が子供、親戚に危篤の電話をしていることを「まだ早い」、そして香典返しの準備として靴下を手配したことに、「失敬な、まだ早い」と思ったとのことである。これは臨死状態から甦ったあとの筆談で判明したことであり、母と私は驚いた。死を前にして父の魂は現生をさまよっていたようであり、父の手記を続ける。

【だんだん脳に酸素が不足し意識が朦朧とし、苦しみが遠ざかっていきその後のことは良く覚えていなくて夢を見ていたか、幻覚に襲われていたように思います。
その時の夢の一つは分かれ道に立った自分です。右への道は病院の暗い霊安室で、既に亡くなった人が3から4人横たわっておりました。
左の道は広い河原で、川が流れております。そこに飛行機が止まっていて、若いカップルが楽しそうにしていました。私も海外に行こうかと乗り込もうとした時、青空に観音様が現れて乗ってはいけないと止められたのです。その後その飛行機は火を噴いて墜落しました。

それを見て安堵している自分がいました。
またもう一つは私の葬式の夢でした。お墓の骨堂から眺めているところです。良くしてくれたと嬉しく思いながら、すうーと眠くなってゆきます。でもこのまま眠って石ころになってしまうと、楽しいダンスもできなくなると思い、穴から這い出るところで目が覚めたのです。

声が出せないことで、帳面に自分の意思を書いて家族に伝えていたことが頭の運動になっていて、また現実に引き戻されたのではないかと思っています。
その後、テレビで臨死体験という番組を放映していました。要約すると共通して明るい場面と暗い場面を一緒に観るということでしたが、私の体験も同じだったと思います。
私たちの人生は、生成・発展・凋落・死滅という大原則に従わなければならないのですから、七七歳を迎え残る月日を病弱であっても日々感謝の気持ちで過ごしたいと思っております。】



(3)釈迦と玄奘法師の足跡に触れーー般若心経を産み伝達した偉人

私は大企業のサラリーマンで激務ながらも、思えば旅情に誘われるままに、あちらこちらを赴くままに旅してきたものである。
偉大なる二人の足跡にも、“旅の途中で”触れていたので写真と共に思い出してみる。

① 釈迦
この般若心経の基になる2500年前の大思想家釈迦の言葉が、弟子に伝えられ“大般若経”は取りまとめられたものである。

紀元前566年に、インド領域あたりが16ヶ国に分かれ争っていたが、釈迦はその一つの小国のカピラ国に王子として生まれた。日本では、まだ水稲農耕が始まり、竪穴住居に住み集落を成したころである。釈迦は結婚し、男の子にも恵まれたが、突如29歳で出家し修業に出る。そして苦行を続け、35歳のときにブッタガヤで悟りを得る。

私は、2010年に、インド旅行の際にアーグラから、釈迦が悟りを得たブッタガヤに行こうとした。現地手配のガイドと二人きりの旅でルートは自由に決められた。どうしても、ユネスコの世界遺産にも登録された聖地である大菩提寺に入り、悟りを得た菩提樹の木の根元に座ってみたかった。

それまで、インドの聖人達にいささか期待外れのものがあったので、仏教の最高聖地ブッタガヤに興味を持った。ジャイプルで、ババラムデイオというヨーガで高名な聖人のアシュラム(修業道場)を訪ねた。伝統楽器シタールでの音楽にあわせ、ゆったりした体操のようなヨーガをやり、別室では瞑想を行っている。

失望したのは、いずれの聖人も大邸宅に住み、高級外車を運転手付きで乗り回し、商業主義に陥っていることである。髭モジャでろくなものを食べずに痩せこけ、ボロをまとって自らに苦行を強いるサドウ―とは、全く別次元である。ホテルのテレビを見ていると、サイババのCMが、ガンガン流れて、8000億円以上の資産があるという。私が訪れた翌年に84歳で独身のまま巨万の富を残し亡くなってしまったが。

このような失望感から、どうしても釈迦が悟りを得た最高聖地ブッタガヤに行きたかったのである。それをガイドに告げたが、猛反対された。ブッタガヤはイスラムによるテロが決行される可能性があるという。ガイドは自分もイスラムだが危険なイスラム過激派がやると恐れ、梃でも動こうとしないので、しょうがなく四大聖地のサールナート方面に向かう。釈迦が初めて悟りを得て説法を行った場所であり、下写真は釈迦が説法で辿った道。

ガイドが頑強に主張したことは、的を射ていた。2年後にブッタガヤの大菩提寺と菩提樹でイスラム過激派の爆弾テロが起きた。翌年ムンバイそして私がうろついたデリーでも過激派のテロが起きている。インドは、観光地で手荷物検査、金属探知機を入口に備えているが、日本人の感覚ではその危険度がわからないものだ。

ところで、読経してくれたSA君の次男の店で、忘年会を行ったが、そこでアルバイトをしていたネパールの女性がなんとルンビニ出身である。(下写真)四大聖地の釈迦の生まれた場所であり、当時のインド近辺は16の国に分かれ、釈迦はカピラ王国の王子だったと話すと流暢な日本語を話し「よく知っていますね」と嬉しそうに褒められた。在日4年間とのことだが、不思議なタイミングの縁であった。

② 玄奘三蔵法師
釈迦入滅後、1200年経ち、玄奘三蔵はこの世に現れた。27歳にして“仏典の研究は原典に拠るべき”と西域への旅を決意し、唐の玉門関の関所を破り国禁を犯し出国する。

私は、1995年にタクラマカン砂漠の入口とも言える玉門関にいた。(下写真)果てしない荒涼とした砂地で物音一つせず、昼は灼熱の陽光が照りつける。ひとたび砂嵐に見舞われるとあっというまに陽光が遮られて夜のようになり砂に包まれる恐ろしさも体感した。

装備もなく移動手段の乏しいあの時代に天山山脈を越え、インド大陸をくまなくまわり、タクラマカン砂漠を横切って16年間にわたり過酷な修行をした玄奘三蔵には驚愕する。この壮大な旅の出発は、西暦629年のことだった。

43歳で母国に戻り、長安に持ち帰った経典は657点に及ぶ。そして、没する62歳までひたすらサンスクリット語の経典の翻訳に努めた。私が偉業と称えるのは、サンスクリット語の表音文字を漢字の表意文字に鋭く意を表すように翻訳したことである。漢字に翻訳されても、原点の奥深い教えが損なわれていない。

それらの経典を保存するために玄奘三蔵が造った西安の大雁塔に行き、登ってみた。(下写真)煉瓦造りで、窓は極端に小さく中は牢獄のようで非常に暑かった。

そして、西安碑林博物館を訪れると、三蔵聖教序碑があった。この石碑は、玄奘三蔵の功績を讃えて、皇帝太宗の序、高宗による記、玄奘の訳による般若心経が書かれている。漢字は、民間に散在する王義之の原拓を収集し、その原拓から文章に必要な文字を一字一字選んで刻み込まれたものだ。

有名な玄奘三蔵が膨大な経文を背負った旅姿の石碑もあった。(下写真)これは、多くの拓本がとられ出回っている。その原拓という貴重なものである。

―――――――――――――――――――――――――――――――

この歳で何かを思い浮かべるごとに、“旅の途中で”の思いが甦ってくる。芭蕉の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」の気持ちだ。

【全国国公立大学選手権、父の喜寿記念文集、インド・サールナート近く、砂漠・玉門関、ネパール人と、大雁塔、碑林博物館の玄奘三蔵】
 

芸術の秋――2つのイベントを巡って

 投稿者:管理人  投稿日:2017年11月28日(火)18時29分28秒
  烈しい暑さの夏も去って、深々とした秋となり穏やかな陽光ともなると、錦秋の景色に包まれ、“芸術の秋”に浸りたくなる。
この秋、2つの芸術と歴史に触れあったので記述する。四三の会のMAさんの2年ぶりの作陶展と故郷で行われた支倉常長賛歌である。支倉常長は故郷の生まれであり、その子常頼は、厳しい切支丹禁制のもと、私の先祖と同じ頃、同じ理由で断罪を受けている。支倉常長は長らく歴史に埋もれていたが、残した絵、書状は2013年に世界記憶遺産にも登録され、興味を抱いていた。

1 作陶展

(1) 作陶展への途上――稽古といちょう並木
この日は朝から忙しかった。大学OB空手の月例稽古が10時から行われるため、朝早く家を飛び出した。西早稲田のコズミック武道場が確保できず、新大久保のスポーツセンターに場所を変えたため、遠くなったのである。
町道場での稽古の疲れも重なり疲労困憊であり、この夏に妙義山に登ったときのように、再び左膝が痛み、駅の階段の上り下りも容易でない。

しかし、浅草で開かれている作陶展は、3時半からであり時間はたっぷりあるので、秋の気配に誘われるまま信濃町駅で途中下車した。

新国立競技場が、オリンピックにむけ日曜にも関わらず、突貫工事で重機が行き交い外壁が出来つつある。神宮球場を抜けると、明治神宮外苑の300m続く銀杏並木道に出る。

146本のイチョウが植えられ、黄金色の別世界となった。(下写真)青山通り側から銀杏の木の高い順から植えられ、遠近感を際立たせて、黄金色のトンネルの向こうに聖徳記念絵画館が厳かに位置している。絵画のような造形美である。銀杏並木の下は、歩行者天国で人の波に辟易したが、充分に満喫できた。

(2)作陶展
いきなり入り口右側にデンと飾られた ”みんな遊ぼう 赤鬼さん泣かないで”に目を引かれた。赤鬼の肌合いに顔料と釉薬が巧みに使われ、子供と赤鬼の表情と構図も素晴らしくなかなかの大作である。
母校の先輩である濱田廣介著の”泣いた赤鬼”をモチーフにしたものであり、この”泣いた赤鬼” は、廣介童話集の3部作として評価されている。

MAさんが、童話の内容を下記のように説明してくれた。
「赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていたが、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。友達の青鬼が赤鬼の元を訪れ知恵を授ける。青鬼が人間の村へ出かけて大暴れし、そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめるというものであった。青鬼が村の子供達を襲い、赤鬼が懸命に守って策は成功した。おかげで赤鬼は人間と仲良くなったが、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ない。青鬼から、「ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら」との置手紙があった。赤鬼は黙ってそれを読み上げ、涙を流した。

下写真の左側が、青鬼の策略が成功し、子供達がなつき、嬉々として遊び廻っている様子である。右は青鬼が去って、号泣する赤鬼を子供達が慰めており、作品の裏から見ると梯子をかけて顔に懸命によじ登ろうとしている子供まで見受けられる。(下写真)両方の鬼の表情は、素晴らしい表現力を醸し出している。“表情の面白さを表現できる陶の人形”主張するMAさんの真骨頂である。

これは非売品であり、廣介記念館の要望があれば、寄贈したいとのことであったが、これはそのまま廣介童話の挿絵になりそうである。

しかし、この童話は子供達にどのような道徳を訴えかけているのだろう。
赤鬼の友人のために、あえて策略を打って姿を消した青鬼の潔さか、 友情を犠牲にしてまで子供達と仲良くなれた赤鬼の去っていった友に対する後悔の念か、それとも怖い鬼でも、心優しいものを持っているから外観だけで判断しては駄目だということだろうかーーー
なかなか難しい童話である。

その向かいには ”深まる夜空に木々と魚”とのランプシェードの作品があり、これも素晴らしい出来だが、写真では残念ながらその淡く漏れる灯のグラデユエーションが撮れなかった。

非売品であり青山でスキューバーダイビングを販売している息子の店頭に飾りたいと言う。オブジェとして、ノーベル賞受賞の中村氏発明の青色発光ダイオードを巧みに仕込んだものと思ったら、単に電球に青い塗料を塗っただけと種明かしをしてくれた。しかし、アクリル系塗料では光を透過しないなど苦労もしたそうである。

中学の美術教師を2年間早く辞め、陶芸の道で10年以上も修業し、各展示会に入選し、個展を開き、すっかり一芸とし身に付け、セカンドライフはたいしたものである。

2 支倉常長について

(1)帰郷
うだるような暑さの8月以来の帰郷である。故郷では、はやくも雪むかえが冬の到来を告げていた。水色の空に幾筋もの光る糸が流れていく。多くの小さな蜘蛛が糸を吐きながら風に乗って上昇していく現象を久方ぶりに見た。

蜘蛛が風に乗り届きそうもない空間に蜘蛛の巣を張ることは、身近によくある。雨どいと木立、電柱と木立などで飛翔し、蜘蛛の巣を張っている。
家の近くの3mの川幅を水平に蜘蛛糸が張ったのを撮影したが、蜘蛛の糸は肉眼では、よく見えるがカメラでは鮮明に捉えきれなかった。

ところで、今回の帰郷の目的は、恒例の雪囲いと“支倉常長賛歌”の催しに参加するためである。四三の会のFMさんがプロモートして今年の4月に設立した“支倉常長日西文化協会”による“支倉常長賛歌の催し”の案内を受けていた。

プログラムでは、伊達政宗生誕450周年を記念にした伊達家18代、支倉家14代の両当主による対談に着目している。「 政宗のめざす国づくり、そして常長の決断・志 とは・・・ 」と謳っているが、さて伊達政宗の非情さを支倉家の子孫はどう受け止めているのだろうか。

(2)なぜ私が支倉常長に興味を持っているのか
支倉常長は、あれだけの偉業を遂げながら、伊達政宗から冷遇され歴史に埋もれていた。また支倉家は、切支丹禁制政策により、藩主により私の先祖と同じ時期に同様な目にあっていた。両家の当時の処遇を述べる。

?偉業後に翻弄された支倉家
支倉常長は、7年間にわたり太平洋、大西洋を渡り、スペイン国王、ローマ教皇と謁見して、ローマ貴族の称号まで与えられる偉業を達成している。しかし、伊達政宗が指示したスペインとの通商条約締結は、日本の切支丹弾圧と迫害で成功しなかった。そして命懸けの壮大な旅のあと帰国したが、全く恩賞もなく切支丹禁制政策のもと主君の非情な措置を受け、失意のうちに二年後52歳で没する。

その家督を継いだ嫡男常頼が、1640年に家臣が隠れキリシタンであったことの責任を問われて、処刑され断絶した。伊達政宗没後の4年後であった。
しかし28年後の1668年に、伊達家3代目綱宗のときにようやく常頼の子の常信にて許され家名を再興した。


②武勲挙げた当家も禁教で凋落
7代修理亮は、御館の乱で、北条勢が攻め込んでくる最前線の南魚沼郡の坂戸城の守備を任されていた。上杉景勝の全幅の信頼を受け、修理亮に対する的確な指示と細かい配慮をする景勝花押の書簡もある。数々の武功があったが、1601年に、徳川の天下になり、上杉藩は容赦なく30万石に減封され米沢に移封されて、修理亮も米沢に移り5年後に没した。

そして8代五郎兵エ吉忠のときに、支倉家と同じようなことが起きた。
支倉常頼の家臣に隠れ切支丹がおり1640年にお家断絶となったが、なんとその1年前当家でも切支丹禁制政策に反した。

1639年、吉忠は召し取られており、家系図には「切支丹宗門不調法に付き、御勘気を受け、8年間無禄」と記されている。
吉忠の家臣で、霊名ショアンとその妻が隠れ切支丹と判明し 穴吊りで処刑されたが、先代の武功が評価されており、主人である吉忠は、管理不行き届きとして8年間無禄の処罰程度で収まった。吉忠は、改易となり、失意のうちに4年後亡くなった。

8年後の1646年に9代五郎兵エ信忠は、切支丹御勘気御免となって五十騎組に戻り、上杉綱勝に仕えた。

(3)伊達藩の支倉常長と故郷の関係は
支倉常長が、米沢で生まれ、8歳まで住んでいただけで、米沢の地でこの大イベントが開かれたのだ。伊達政宗は、24歳まで米沢に住んでいたので、そちらの方が縁深いと思うが。下写真は、伊達政宗の生誕の地と言われる国指定の史跡である米沢の館山城である。

支倉常長は、1571年に米沢城主の伊達輝宗(政宗の父)の家臣山口常茂の子として米沢の立石で生まれた。1577年に伯父支倉時正の養子となり、1579年に支倉時正の所替えにより、米沢から陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県川崎町支倉地区)上楯城に移り、青年期を過ごした。

米沢では、生誕と幼年期の8年間だけ過ごしており、このような米沢での企画には正直戸惑いもある。青年期を過ごした、川崎町では、毎年6月に盛大な“支倉常長まつり”を催している。

(4)伊達政宗の遣欧使節の真の狙いは
徳川家康は、メキシコから金銀採鉱と精錬技術を導入することを熱望し、1608年に通商条約について、三浦安針達(ウイリアム・アダムス)達と協議に入った。しかし、一方、切支丹禁制政策を強めていかざるをえず、幕府とメキシコの君主国スペインとの交渉は頓挫した。

その隙を、伊達政宗は巧く突いて、伊達藩から慶長遣欧使節を行った。表向きは、メキシコの鉱山技術の導入、通商条約締結だが、裏にはとんでもない策謀があったのである。

大泉光一著“支倉常長”では、慶長遣欧使節の目的は、伊達政宗が、スペインと同盟締結を行い、討幕を企てたものと推定していた。たしかに“太陽が沈まない国”と称され、無敵艦隊を擁した当時のスペインの国力では考えられる。大泉光一は、遠藤周作が支倉常長をモデルにした“侍”を書くときに、メキシコでの調査方法を指示したほどの、支倉常長に精通した研究者である。

豊臣秀吉が死を前にして徳川家康に秀頼の後ろ盾を頼んだように、伊達政宗は徳川家康の死の間際に、徳川家の後ろ盾を頼んだほどの実力者であった。伊達藩とスペイン本国との同盟締結による天下取りの陰謀は、充分に考えられる。

(5)使節派遣時の日本の国情は
 180人の使節団で40人がスペイン人の構成とし、1613年宮城県の牡鹿半島の月の浦を出る。その年は既に、徳川家康が、金地院崇伝にキリスト教禁令を起草させ、“伴天連追放之文”として交付している。翌年に切支丹大名の高山右近がマニラに追放され、病死している。切支丹弾圧が厳しくなる一方、1615年の大阪冬の陣、夏の陣の前であり、使節団の出発時は、まだ徳川の天下は安定していなかった。

(6)遣欧使節の道筋
3カ月かけて太平洋を横断し、1614年1月末にメキシコのアカプルコに入港した。大西洋を横断し10月にスペイン南部に入港し、12月に首都マドリードに入る。
1915年1月にスペイン国王フェリペ三世に謁見し、2月に洗礼を受ける。支倉常長は、洗礼を受けることに逡巡するが、通商条約締結を遂げるためと自分に言い聞かせ止む無く受けた。
この年、日本では大阪夏の陣が終わり、徳川が天下を名実ともに掌握する。
1915年10月ローマ到着。11月にローマ教皇パオロ五世への謁見が実現する。そしてローマ市民権証書を授与された。

1916年1月再びスペインに戻る。1917年4月にフェリペ三世に、通商の許可を願う書状を書く。しかし、同日付でフェリペ三世は、伊達政宗宛てに、許可できない返事を書いた。通商条約は締結できず、まして伊達政宗が企てた幕府転覆の同盟締結などは遡上にものらなかった。幕府の切支丹拷問、残酷な処刑情報が矢継ぎ早に切支丹国スペインに入り、徳川が夏の陣で豊臣を滅ぼし、盤石の鎖国体制を築きはじめたことが背景にある。

1618年8月メキシコに戻り、それからマニラに帰港する。伊達藩からは、マニラでそのまま待機するように指示があり、1619年には、京都で52人のキリスト教信者が火あぶりされ殉教し、既に洗礼していた支倉常長は苦悩する。

1920年9月日本に戻る許可が出て、仙台に帰着する。洗礼していたため、7年間の旅を終え帰着しても10日環も、伊達政宗は謁見を許さなかった。幕府の切支丹禁制政策を慮ってである。
そして2年後の1622年7月に支倉常長は人知れず死去した。

(7)遠藤周作“侍”での最後

遠藤周作は、“侍”ではあえて洗礼を受け切支丹になったために処刑される最後にしている。“沈黙”と同様に、耐え難きを堪えて艱難をどのように忍んでも、神は沈黙したままでいる。

本来は、国情ゆえに通商契約を締結できなかったので、その労苦に恩賞を与えるべきであるが、逆に冷遇された。
帰国すると、国許の役人は切支丹に帰依したのかと詰問し、支倉常長の「はい。だが商人たちと同様に本心からではございませぬ」との答えを引き出し責め上げる。支倉一族は領地拡大を期待していたが「黒川の土地は、諦めてくれ」と残酷に言い渡される。出発前に、支倉一族は領土争いをしており、常長の父が伊達藩より切腹させられる処罰を受けていた。

そして、「謹慎は谷戸の外に出てはならぬことだけにする。そして年に一度、切支丹を棄てたという誓詞を御評定所に差し出さねばならぬ」と命ぜられる。蟄居生活を送っていたが、「新しい御沙汰がある」とし、それを受けて、黒光りのするつめたい廊下を彼の旅の終わりに向かって進んでいったというエンデングである。

支倉常長が、通商条約を締結するための手段として洗礼を受け帰依し、本人もそのように自分に言い聞かせていたが、処刑という絶対的な死を前にして、信仰がもたげ始めて、自然に率直に大きくうなずき、安らかに真の信仰に目覚めて最後を迎えていく。

遠藤周作は、“沈黙”と同様に“神の存在について”大きな課題を提起していた。

8)この偉業が歴史に埋もれていたのは
そもそも支倉常長の偉業は、幕府と伊達藩が封じて、後世には伝えられなかった。当時の切支丹弾圧がいかにすさまじかったかを物語る。
しかし、明治新政府は、岩倉具視を全権大使として明治6年に欧米視察の使節を送った際、ベネツイアで常長らの遺した書状に出遭い、日本ではほとんど忘れられていた常長達の存在が歴史に浮上した。

実に、このような偉業が260年間も封印され歴史に刻まれることはなかった。発見されまもなく国宝となり、2013年6月にはユネスコの世界記憶遺産登録に登録され、油絵、記録1000点は、仙台博物館に展示されている。

(9)伊達家と支倉家の子孫の対話は
このイベントで、呼び物の伊達家18代泰宗と支倉家14代正隆の対談があった。
このようにお互いに確執があるはずであるが、支倉正隆が、意外なことに開口1番で「伊達政宗は、使節に選ばれ支倉家の危機を救ってくれた大恩人」と切り出した。

このことは、歴史に精通していないとわからない言葉である。支倉常長が父とともに、砂金と領土争いをして、父が切腹を命ぜられ、常長も刑を待つ身であったが、このとき使節に選ばれ刑を免れたので、大恩人という言葉が出たと思う。

私は、7年間の遣欧使節を終えてからの常長に対する非情な扱いへの見解を聞きたかったが、この論点は両家とも避けたと感じられた。しかし、1時間に及ぶその対談の中身は面白く、かいつまんで書く。

①伊達ーー国づくりについては、”伊達は伊達なり”である。家康、秀吉の天下人に20年遅く生まれ、自分しかできない国づくりを目指した。

②支倉
ーー大使に抜擢されたが、通商だけの使命でなく船造り、航海法の習得など公共事業としての狙いもあった。慶長三陸地震で甚大な津波の被害を蒙り、その復興策の一つに正宗が決断と実行力を示したと思う。

③伊達ーー正宗の生き方は、青年期まで過ごした米沢時代に形成され、それを以降のいろいろな難しい局面で発揮していったものである。

④支倉ーー慶長遣欧使節は日本で初めてのことであった。江戸幕府が隠し、明治まで知られていなかった。常長が、スペインに残した使節団の一部は、ハポンの姓で、日本の文化を引き継いでいる。東日本大震災のときも、スペインの支倉常長像の前で祈ってくれた。

⑤伊達ーー正宗は、通商と見せかけて、実は討幕を狙ったなどの説もあるが、人のふんどしで戦うなどの考えは全くない。切支丹禁教、鎖国の流れは読んでいたが、あえて強行したのは、世界情勢の中での日本の危機を捉えていたからである。宣教師ルイス・ソテロなどから直に聞いていたのだ。スペインのメキシコ拠点に渡り、黄金の国である日本を列強と同等にしようとした。伊達藩は、太平洋に突き出た地の利がある。月の浦は最良の港であり環太平洋航路を築くことだった。

⑥支倉ーー正宗の決断には、2つの理由で同感だった。幕府とともに国づくりをしようとしたことと、世界情勢に中での日本の危機感である。常長は、座右の銘として”名誉信頼”を掲げていた。

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私は、”名誉信頼”の座右の銘が空しく聞こえた。常長は、通商交渉締結の目的のために”侍”である”名誉”を殺し、洗礼を受けた。そして筆舌しがたい7年間の苦労の時は難しい仲間達に”信頼”を心の拠り所にして乗り切ったが、帰国後に国情が変わり、恩賞は無論、労いの言葉もなく、失意のうちに没したときには、君主への”信頼”も消え失せただろう。

【神宮銀杏並木、作陶展、赤鬼、神谷バーで慰労会、支倉常長イベント、政宗生誕地、雪囲い】
 

”団塊世代の秋”かーーー堺屋太一著

 投稿者:管理人  投稿日:2017年10月19日(木)17時35分45秒
  朝食をおえ寛いでいると、スマホをのぞきこんでいる妻が、突然勢い込んで言った。「NECの株を売りましょう。3000円を越している。」
私は、そんなわけないとスマホで検索すると、確かに先月の10倍以上に株価が上がっている。急に真剣な面持ちとなり、日経新聞情報を調べたら、9月27日に株価が297円から2981円に、10倍も暴騰している。(下写真)

NECが、空前の飛躍となる新規事業を産み出したのであろうか。その可能性ある情報は全くなかった。しかしこれだけの価格になる前に、値幅制限となり取引がストップされるはずであり、しばし考え込んだ。

株式分割は、優良会社のソフトバンクなどの企業でよくある話だ。株価が、業績好調が続き高止まりすると、一株を半値にして株数を2倍に増やすものだ。株価は半減し、株数は2倍になり株主の影響はないと思われるが、一株当たりの含み益が期待されるため、優良企業が良く使う手である。
低迷を続けている企業ならば、株式分割の逆の手もあるだろう。

NEC株式情報を調べてみると、その推察は当たっていた。NECは、これまでの10株を1株として、株価を10倍にする株式併合といわれる逆手であった。
併合目的は、2007年に全国証券取引所が、100株の取引を推奨したという10年前の根拠である。

真の目的は、10株未満の端株を所有している株主に処分代金を支払い、株主から降りてもらって業績報告などのコストを低減することと、やはり低迷している業績を株式併合で株価を見かけ上高値にして企業イメージを良くするためだろう。富士通は850円であり、これでいっきに抜き去って3000円となり、今後更に低迷しても抜かれることはないだろう。

NECは長らく低迷しており思い切った経営戦略を実行しなければならないときに、4月の大事な株主総会でこんな姑息なことを決議していて大丈夫なのだろうか。

そんな懸念をめぐらしていると、突然テレビの電源が切れそして自動的に入り、断続的に3,4回繰り返した後フリーズ状態になった。
結果的には、10年振りに新しいテレビを購入したが、「これがテレビか!」と、その新機能に驚き、現役を退いていつの間にか“C&C”(NECの情報とコンピュータの融合理念)から疎んじられていた自分を反省した。

また、NECの株価での一喜一憂のあと、“団塊世代の秋”(堺屋太一著)を読んだが、主人公の一人である、SS(三洋)電機の山中幸助(フイクション)の生きざまに興味を持った。同じ電機業界であり、同じ団塊世代として、日本の経済状況、経営の舵取りに翻弄されながらも懸命に誠実に生き抜いた姿は、凡ながらも共鳴するものがおおいにある。

今日は、新しいテレビ購入での驚きの新機能と、“団塊世代の秋”を読んだ感想というより、三洋電機とは仕事上の接触もあり、あの素晴らしい企業を消滅させた経営への個人的な見解を述べる。
更に、43の会のOB白布駅伝大会の奮闘も記する。

1. 新しいテレビの購入

年金暮らしでのテレビ購入出費は痛い。まず、壊れたテレビを復旧させようと取説を読み込み、ネットで情報を調べたが、現象は変わらない。やむなくシャープのコールセンターにメモした症状と診断状況を詳しく話すが、保守マンが訪問しないと何とも言えないという。

私は、「多分電源基板で、2―3万で済むと思う。問題は、部品メーカーが8年間しか在庫を保有していないのでそれが心配」とまで言ったが、保守マンを訪問させないと何もわからず、その派遣費用は4320円と言い張り、やむなく保守マンを呼んだ。

固唾を飲んで、保守マンの診断方法を見ていたら、これは保守マンだけに許された機能と言い、アダプターをつなぎ、エラーコードを表示させて、「このコードはメーン基板の障害で代替部品がなく、修理はできません」と3分間で終わった。
保守マンに対して、エラーコード表示は本体に具備しておくべきと論じても始まらず、黙って4320円を払い、即購入メーカーとしてシャープを外した。

昨年、シャープの経営が行き詰まり、鴻海(ホンハイ)が買収したとき、戴社長が「金持ちの息子みたいな社風」と酷評したが、テレビ事業の生き残りを懸念する。

大画面のテレビで映画を観ることが好きな私は、即座に新規購入を決めてお金はないが暇があるので、ヨドバシ、コジマ、ヤマダ、ノジマと最大限の駆け引きを行った。情報源はスマホの価格ドットコムである。

メーカーは、ソニーと東芝のテレビ事業に一抹の不安があり、値段も安い韓国のLGに着眼した。有機EL市場からは、故郷に工場を持つパイオニアに続きTDKも撤退し日本勢全滅であるが、LGだけテレビ用大型パネル量産化に成功し、他メーカー供給しているほどの技術力を持っている。

有機ELは、評判通り、画像の彩りが格段に良いが、値段は非常に高く、電力節減は自家発電であるがあまり減っていない。私は、有機EL技術は、大型化と長寿命が2つの障壁と考えており、まだ寿命の実績は市場にないので、値段もさながら購入をとどまった。

これだけ液晶も含めてパネル技術で優位な競争力を持ったLGだが、通常のテレビでは、日本勢が画像処理技術により、きれいな画像を映し出し優位に立っている。
現在、画像処理の技術は日本勢が優れているが、ソニー、シャープ、東芝の経営がますますおかしくなり、LGに技術者が流れ込んだら、半導体の二の舞で日本勢は全滅するだろう。

あれこれ考えて、パナソニックの55インチの大画面テレビを15万円で購入した。10年前の同サイズから60%減の価格である。

買って初めてわかった驚くべきポイントを4つほど挙げる。
地上デジタル放送移行により、2010年頃までに皆が買い替えているはずであり、部品在庫は8年でありそろそろ寿命となるテレビも多く、役に立つ情報だろう。あるいは、私がテレビの技術の進歩に疎かったので新鮮に映るのだろうか。

(1)テレビはパソコンを兼ねる
無線LAN内臓と説明書に書いてあるので、パスワードを入力し設定すると、キーボードが現れた。馴染みのパソコンのGoogleの画面になり、パソコンと同様の機能になる。(下写真)

You Tubeに至っては、最新の情報を55インチの大画面で観られる。さいたまアリーナでの格闘技の試合をケーブルTVで楽しみにして見ているが、放送日が遅く結果がわかるので興味を半減させる。しかし、この大画面テレビでは、翌日のYou Tubeに投稿され、即迫力ある映像を楽しめる。

まさにC&Cであり、NECの小林宏治元社長が1977年に提唱したときには、きっとこんなことも考えていたのだろうと、その確かな先見性に驚く。

1964年に小林宏治元社長は、経営の神様である松下幸之助元社長が“金食い虫”とコンピューターから撤退するときに、次の苦言を呈していた。
「松下さんともあろう人が、この有力な未来部門に見切りをつけるとは、いかにも残念。分からない。コンピューターは今でこそソロバンが合わないが、これは将来必ず、家庭電器の分野にも不可欠なものになる」

(2)お部屋ジャンプ
ケーブルTVの番組を2階でも見たかったが、もう一台セットトップボックスを2000円/月でレンタルしなければならないので、断念していた。

しかし、1階の録画したものを、無線LANを通じて、2階のテレビに無料で転送できる。家の中のネットワークとなる無線LANは、8年前に6000円で購入したものである。孫も含めて、スマホ7台とテレビを同時使用するときもあるが、情報の輻輳は全く問題ない。

(3)監視カメラ
カメラを1万円ほどで購入して接続すれば、監視カメラになる。既に、人など接近すれば、点灯するランプを取り付けているので、夜間でも撮影できる。その録画常態は、無線LANにより外出先からもスマホで確認できる簡便性がある。

(4)4倍の画像鮮明さ
盛んに4Kの宣伝文句を並べ立てている。4Kとは、ハイビジョンの4倍の画面精度であり、既に標準になったらしい。

この謳い文句で惑わされてはならない。テレビは精度を上げても、番組はハイビジョンのままである。衛星放送で一部が試行に入るが、4K番組放映の目途は立っていない。また4K番組を見るためには、数万円のアダプターを新たに購入しなければならない。
一方、シャープは8Kテレビを発表し、コンテンツとかけ離れ先走っている。

この点を販売員に質問すると、コーナーに連れて行き、4Kのテレビに放映している画面と、最新の画像処理技術を施した4Kのテレビの画像を比較した。かなり鮮明になっており、4Kの優位性に納得した。私のように4Kはまだ不要との発想をする客は多いとのことである。

(5)そのほかアプリ
286円/24Hでカラオケが楽しめるアプリをダウンロードできる。10万曲以上のあり、孫まで3世代にわたって一家で楽しめる。
カメラをつなぎ、これまでパソコンで使っていたSkypeが使え、無料で海外のグループでも大画面で顔を見ながら話せる。

2 “団塊の秋”を読んで

流石に“団塊”の造語を産み出した堺屋太一の著書である。団塊とは、地質学用語で、堆積岩中に見られる、周囲と成分の異なる非常に密度の濃い塊である。堺屋太一は、戦後ベビーブームの1947年から49年生まれの800万人に対して、このように名付けた。
我々世代は、確かに空前の過当競争に陥り、熱に浮かされたような学園闘争に狂い、高度成長を享受し、オイルショックに遭遇し、企業がグローバル化し過酷な競争を展開し、最後はリストラに晒された特異な人生経験を持つ。

“団塊の秋”の主人公の一人であるSS(三洋)電機の山中幸助の人生を紹介しているが、同業同世代の彼に他人事とは思えず一際興味を覚えた。
彼が勤めていた三洋電機は、10万人規模の一部上場であったが、わずか9000人のみがパナソニックに吸収され、9万1000人が去って、2014年に三洋の商標が消滅したことは、記憶に新しい。

“団塊の秋”の山中幸助の人生を紹介し、その中で重きを占めた三洋電機の消滅について触れよう。

(1) “団塊の秋”の山中幸助
社会の予測問題を捉えることが真骨頂の堺屋太一であるが、今回は団塊の世代が、私の歳になったときに自分の人生を振り返るところに重きを置いた描き方である。一応、2028年、80歳くらいまでの未来予測もはいっているが、これは孫、老後の年金生活、環境エネルギー事業といった身近な想定内の話である。

学生時代に、カナダの旅行ツアーで出くわした7人の学生たちの生きざまとこれからであるが、山中に一際興味を抱いた。
山中は、関西学院大学を卒業し、当時の「繊維は斜陽や、これからは電機だよ。カラーテレビに冷蔵庫、この頃は自動車もみなエアコン付きや、電機は伸びるぞ」との学生達の世論で、SS電機に入社した。

テレビとビデオに比べ進歩の余地が少ない白モノ家電だったが、“省エネ、省スペース、省力”を目指し、生産調整部で情熱的に働いた。30歳で社内結婚をし、千里のマンションを借りて移り住む。二人の男の子が生まれ、1980年代は、たいていの団塊の世代がそうであったように、幸せだった。

1990年、42歳のときに組合の委員か、支店長になることを示されると、単身赴任を嫌い組合の委員になり、これでサラリーマン生活の大変な重責を担うことになる。1991年に、バブル経済がはじけ、御用組合の安閑状態はなくなってしまった。

2005年に組合の委員長を辞め、営業本部に戻り驚く。特約店網は崩れ、街中はさびれてしまった。SS電機トップは、中国のホンハイと提携して技術者をどんどん送り込んだ。中国はあっという間に力をつけ、「日本人はいらん」と言い出し、中国は手のひらを返し大変なコンペチターになってしまった。

「SS電機、パーソナル(パナソニック」が吸収合併か」などと新聞の見出しに出るようになり、山中は退職を覚悟したが、パーソナルの物流会社に受け皿があり、2種の免許を取り小型トラックの運転手になった。生活は苦しく、退職後は2種免許を活かして個人タクシーを始めたが、月に10万円稼ぐのが精いっぱいであった。


(2) 三洋電機はなぜ消滅したのか
三洋電機は、松下幸之助の義弟の井植 歳男が、1950年にパナソニックの暖簾分けのような形で設立した。三洋の社名は、太平洋、大西洋、インド洋につながる世界で商売しようとの趣旨で名付けられている。自転車の発電ランプ、プラスチックカバーのラジオ、噴流式洗濯機など大衆受けする製品でいっきに事業を拡張した。

私が、この会社の凄みを知ったのは、2000年頃である。三洋電機は、売上2兆247億円で10万人の連結人員規模の優良企業であった。NECは5兆842億円で18万人を擁していた。
三洋電機は消滅したが、NECは、昨年度売上が2兆6650億円と半減し、人員は10万8000人と40%も減っているが、存続している。

三洋電機が消滅したのは、非凡な経営者の大胆な経営戦略によるもので、NECの優秀な凡人の社長たちでは、不採算事業からの撤退だけが目立ち、ジリ貧ながら持ち応えているのだ。

地味だが確かな技術を持っていた組織文化の三洋電機がなぜ消えたかは後段にのべ、まず2000年頃になぜ私が三洋電機の凄みを知ったかを記する。

私は、その頃赤字続きのNEC地方工場の生産設備事業の立て直しを命ぜられていた。地方工場の自主事業であり、NECのドメイン(事業領域)から外れており、比較的ノビノビと取り組んでいた。その時に、コア技術を活かして、成長分野となるであろうリチウムイオン電池の生産設備に取り組んだ。

業界のトップシェアは、三洋電機であり、あまり大衆向け家電以外に馴染みのない会社だったが、電池を分解し調査してビックリした。
電極のロール材が固く巻かれ、カチンカチンで金属のようであった。どのような設備であのように巻くことができるのか絶句し、他にも数点断トツの技術を見出した。

私たちは、中国市場にも設備の販売市場を広げたが、客先の中国の国営企業技術者も三洋電機に着眼していた。三洋電機のリチウムイオン電池の凄さを数値で知る。世界の携帯電話機メーカーのシェア45%を占めていたのである。

NECは、当時リチウムイオン電池の製品戦略は明確であり、電極材にマンガンを使い、標準品のコバルトと異なる材料を採用していた。マンガンは、理論的にコバルトより体積は大きくなるが、将来電池が車に搭載されることを想定し、発火することのない安全なマンガンで押し通した。

歯を食いしばって続けた事業だが、2008年にその事業から撤退し雀宮工場を閉鎖した。その確固たる製品戦略、成長戦略を知り尽くしていただけに、既に他のNEC関連会社に移籍していた私は、残念でならなかった思いが込み上げ、あのレベルの高い技術集団の行く末を案じた。

そしてNECは日産から車載用電池の誘い掛けがあると、2010年に一転して電池を再開した。しかし、今年の8月10日の日刊工業で、「NECが車載用リチウムイオン電池事業から撤退する」との報道があった。相変わらず事業基軸がぶれる経営である。

一方、三洋電機の兵庫の加西工場をはじめとした電池事業部隊は吸収先のパナソニックに温存された。三洋電機の電池事業を飲み込んだパナソニックが、2015年度に車載用電池で世界シェア40%のトップに躍り出ている。

本題にはいろう、これだけ確固とした開発技術を持ち、地味だが固有技術を蓄積した三洋電機が消滅したのは、2つの理由があると思う。

?本業外のビジネスで大赤字
創業者の長男の井植敏は20年間辣腕家としてトップに君臨した。カリスマ性を持ち、本業とはシナジーを産まない事業にも手を出し、部下には異を唱えるものはいなかった。

不動産開発に進出し、和歌山の三洋紀泉開発にのめりこみ、太陽光発電などを備えた“理想の街”を造ろうとして150億円の損失を出した。
また金融業にも手を出し、三洋電機クレジットは中古販売店ハナテンに金融支援67億円も行った。

このように本業以外の無謀な投資が続き、巨額の有利子負債となり、その金額は1兆3000億円に達した。過去10年間の最終損益は、1538億円の赤字であった。
そして、本業以外の分野で多くの不良資産を先送りし、外見上は健全さを保っているように見えた。

ついに、2006年に3000億円の支援を行った金融3社と監査法人に、これらが産み出していた不良資産の清算を迫られることになる。そして、この巨大企業が痕跡もなく消え去っていった。

②後継の経営人事失敗
その火だるま状態の中で、2005年6月にジャーナリストの野中ともよが、井植敏に請われ、突如会長の職に就く。野中ともよ自身が、「創業家の弾除け」と言ったそうだが、それほど奇をてらった人事であり、所詮狭量のジャーナリストに経営も現場の辛酸もわからない。

案の定、野中ともよは、凄惨な状況で支援してきた金融3社と対立し、翌々年3月の臨時経営会議で爆弾動議を炸裂させて辞任し、1年10カ月しかもたなかった。

2つ目の人事の失敗は、野中人事に先だって、45歳の長男の井植敏雅に社長の座を譲っていたことである。世襲であり、残念ながら社長の器ではない。本業の本丸の電池事業でも、井植敏雅は失敗していた。

三洋電機は、2006年に携帯電話の世界最大手のノキアと携帯電話開発製造の合弁会社を設立すると発表した。ノキアは携帯電話事業だけで3兆円の売上で、世界断トツ1位である。

井植敏雅は洲本事業所で電池を担当していたときから、ノキア経営陣と親交があり、合弁会社設立を図ったが、携帯電話事業担当の専務から「ノキアと組めば軒を貸して母屋を取られる」と反対されてきた。

社長就任後にその構想を推し進め、「創業来、かってなかった快挙である」と述べ、父の井植敏も手放しの激賛だった。

結果は、専務の指摘通りで、破談であった。ノキアは連日大量の技術者を工場に送り、携帯電話事業を調べ尽くした後に、破談との結論を出した。

通信関連事業の世界では、大手のフインランドのノキアとスウエーデンのエリクソンは、バイキングの血が流れており、警戒しなければならない。彼らは、国内市場だけでは、食べていけず、7つの海を越えて進出する。

私は、タイ赴任時、政府のBOI(投資委員会)と設備、材料の減免税を交渉する仕事を担っていたが、我々の工場の近くで、同規模で操業するエリクソンが次々と減免税の認可を得る交渉に成功していたことに驚かされた。

減免税は、会社の利益を左右するほど大きく、現産化率、外貨獲得、輸出義務の厄介な付帯条件も課されている。したたかであるはずのタイ役人との円滑な交渉術に舌を巻いた。タイは、唯一インドシナ半島で独立を守ったほどタフな交渉術を持った国であるが、エリクソンは、異文化で思うように事を進めていた。歴史ある真のグローバル企業である。

井植敏雅は、この件が示すように、不良資産の処理、野中会長と古瀬副社長の対立などで翻弄され続け、所詮世襲の社長の器でしかなかった。

3 OB白布駅伝大会――四三の会

9月16日に第17回大会が開催されたが、私は大学OB空手稽古と重なり、残念ながら参加できなかった。今年は、IT監督のもと、参加者がAS君、KK君、MK君、MN君の4名と半減した。特にボストンマラソンで、50歳代世界3位の記録を持つOSさんが参加できないことは痛手であった。

しかし、4人が大健闘し、7歳下の還暦チーム51年卒に次いで2番目でゴールすることができた。時間は1時間25分という好記録であった。(下写真)

――――――――――――――――――――――
四三の会の仲間は、何かにかこつけて飲み会を開く。下写真は、ベトナムでまだまだ活躍しているII君の一時帰国で飲んだ時のものである。

彼は、運転無法の危険なハノイの道路で、原付バイクに乗り通勤しているという。私が、タイで渋滞に業を煮やし、“バイクタクシー”に乗ったときがあった。現地の女性総務マネージャーから、「危険だから絶対乗らないように。 日本人で乗っている人を見たことがない」と、きつく注意された。
彼のバイタリテイには敬服するが、無事を祈る。

今週の日曜は、何気なく新宿に集まって飲んだ。気の置けない仲間であり、つい痛飲し、この上なく愉快なひとときを過ごした。
帰任後、初めてタイに戻ったST君の話を、タイ赴任時代の懐かしい思い出に浸りながら聴いた。

それにしても私の泊まる5倍の宿泊費のホテルに陣取り、“将軍”などで贅沢な食事をよくぞ愉しむものだ。私は、バナナハウスレベルで1000円位の生粋のタイ料理とシンハービールを嗜んでいれば大満足である。

多感な時代に時間を共有し、しがらみが全くない仲間達で、実に楽しい宴である。

【55インチ大画面、You Tube、NEC株価10倍に、団塊の秋、白布駅伝大会、四三の会仲間と飲み会】
 

酷暑の日々、高倉健の肉声に感動

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 9月21日(木)19時52分30秒
  蝉の声も途絶えて、あの烈しい夏も去ろうとしている。雨が多く天候不順といえども、どういうわけか猛暑の日に限って予定が入っており、強い陽射しのもと、うだるような暑さの中を動き回っていたことが記憶に強く残り、酷暑の思い出の夏だった。真夏の幾日かを振り返ってみよう。
それから、かつての職場の先輩から思わぬCDのプレゼントを頂戴し、高倉健の肉声に感銘したことも述べたい。

1. 真夏の幾日か

(1)軽井沢の旅

暑さを逃れるつもりの軽井沢の旅であり、途中妙義山に登ることにした。1100mと高尾山の2倍程度であり、手ごろに思えた。また、景観は、日本には稀で、山全体が奇岩となり、(下写真)中国の桂林にも似ており、山頂には石門という1枚岩の大きなトンネルもある。

妙義神社の長い石段からはいり、ここは時代劇のロケ地にも使われる場所で、欝蒼とした木立と苔むした石段、そして重要文化財の社殿と非常に趣がある。
石段を軽快に登っていたが、いきなり左の膝に違和感を覚えた。直前の空手の蹴りの練習で痛めた箇所であり、山道で膝を深く曲げて登るたびに関節音がする。

なんとか歩き方を工夫し、目標の石門である“天狗のひょうてい”にたどり着く。(下写真)途中、カニの横這いや鎖場があったが、6年前の夏に屋根から落ちて以来、高所の危ないところは足がすくみ、迂回してやり過ごした。痛めた左膝は深く曲げないようにして力を入れない妙な姿勢をとったため、腰の方まで痛み始めた。

軽井沢山荘にNECの同期が合流し、痛めた膝を癒す温泉にゆっくりと浸かり、珍しい食材を使った華な料理を嗜んだ。(下写真)

翌日は、困ったことに健脚ぞろいのメンバーであり、新旧軽井沢1周の7kmコースを、容赦なく陽光が刺さるような暑さの中、散策することになった。カラマツ並木も粋な建物も風情があったが、私はひたすら膝の痛みと戦いながらようやく完歩した。帰ってから、膝の痛みは、タナ障害(炎症)と判明した。

(2) 故郷でのバーべキュー

四三の会のYH君の不思議な縁で、中学時代の友達とのバーベキューが実現した。場所は、故郷の芳泉町のYH君実家であり、いまは住む人もなく、別荘にしている。
故郷の駅に降り立ち、Google Mapで調べたところ4.5kmほどであり、荷物は重かったが丁度良い散歩の距離であり、歩くことにした。

故郷でも、この辺りは市内地をはずれ、たまに車が素通りしているだけで、街並木は全く故郷と違うところに感じさせる。Google Mapに従い、女子短大の構内とも思える道を辿っていく。二人の女子学生にスマホを見せて確認すると、「細い道ですけど抜けられますよ」と笑顔で応える。しばらく歩いたが道はくねっており、不審者かと思われると嫌なので引き返し、Google Mapで再探索した。

最上川を渡る橋は2本あるが、奥の橋を示したので、農道のようなところを辿っていく。それにしても暑い。風は死んでいる。ハンカチは、汗でグショグショとなり、川で洗い荷物に結び付け、乾かす。スポーツドリンクは既に3本目である。

農道は獣道のようになり、運よく畑で作業をしている方がおり、道を尋ねると、「いけっけどそのかっこじゃいけね」と言われ、またも来た道を戻り、再探索である。
結果的には7.5kmを1時間40分間にわたり、炎天下を歩いた。Google Mapは、徒歩のモードならば、獣道だろうが、とにかく近い道を示してくる難点がある。

着いたら、すかさずバーベキューでの宴会である。(下写真)贅沢なことにタンからすべて米沢牛で炭火を使い、丸い茄子の漬物など故郷の特産も堪能した。
都市部とは、異なり北国の夕暮れは温度が下がり、涼風も吹く。驚くほど鮮明に、中学時代の思い出が細部まで甦り、実に楽しいひとときであった。

(3) KAさんの書展

故郷で四三の会の5.6組同級会に出席する前に、SA君とともに、案内をいただいたKAの作品が展示してある書展を鑑賞した。(下写真)KAさんは、書を絵画的に表現したいと言っており、私は、書の方はど素人なので、1500年前の中国の謝赫が体系化した“画の六法”に基づいて、拙い感想を述べる。
KAさんは、2年前にも浅草で、陶芸の友人と“二人展”を開いており、精力的な活動である。かつての師の「個展を開かない書家はだめだ」との言葉が、またも後押ししたのだろうか。

? 赫――作品1
すごい”気韻生動”であり、VRのように3次元の空間まで醸し出し絵画的である。YH君は、墨の色が薄いと評していましたが、逆に私はそれが素晴らしいと思った。“随類賦彩”であり精髄極めた書である。思わず野坂昭如の”赫奕たる逆光”を思い浮かべた。三島由紀夫の死に関して論じたものであり、野坂氏昭如にしては非常に難解な描写をしていた。この書は、本の内容はともかく、”赫奕たる逆光”と名付けたいほどであった。

この“赫奕たる逆光“は、私の野坂昭如に対する見方を変えたものである。野坂昭如は、とんねるずの石橋を無礼者と殴ったり、大島渚と殴り合い小山明子の仲裁を受けたりするなど破天荒なところが多く、歌手デビューの際は、“マリリンモンロー・ノータリン“と繰り返し歌っていた。
もっとも、この歌詞の件は、野坂昭如への私の偏見が強く勘違いであり、最近”ノーリターン“という切ない歌詞であることがわかった。  話を戻そう。

②山のあなたの空遠くーー作品2(下写真)
表意文字の威力である。“伝移模写”で、詩のイメージが変わってしまった。棲の喝筆部分が詩全体に関与しているこの詩を横断する横線は、ぬらぬらとスピード感が出ない線を避けるため走って書いたそうである。

この詩は、青春のロマンであり、挫折しても尚、飽くなく幸いを求めていくものと思っていた。なぜか、この書で、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」に想いが馳せてくる。棲むと住むでは天地ほど意味が変わってきて、凄みを感じる。

③琴線に触れーーー作品3
“経営位置”である。改めて感じの持つ表意文字の深さと、日本のひらがなとの組み合わせの縦書きは美しいと思う。
石川九楊の”縦に書け”を彷彿させ、23年前に訪れた西安碑林博物館を思い浮かべた。博物館には、王義之(模写)、欧陽詢、顔真卿など歴代の書家の作品が並び貴重な玄宗皇帝自らの書もあった。冒頭の謝赫が体系化した“画の六法”もこの西安博物館で得た知識であり、そのとき漢字の奥深い文化に出会えた。

(4)四三の会5.6組の同級会

今年は、8年振りにお盆の5.6組同級会に参加した。久方に帰った故郷のお盆では、朝夕は昔と同様に涼しくなり、実に快適であった。
5.6組同級会は、毎年、6組が牽引しており、私の5組からは3人のみ参加と寂しいものがある。
ヨソモノとなった私は、8年ぶりの参加で、懐かしさも一入で、ゆっくりと上杉公園沿いを廻りながら、会場の招湯苑に向かった。途中、見事な蓮の群生に出くわしたが、昔は、鯉釣り場であり、その泥地を利用したものだろう。極楽浄土の風情であり見事なものである。(下写真)

四三の会のHJ君が、別荘の武家屋敷の裏に泥を入れ込み、蓮池にすることに情熱を持っていた。しかし、その泥と蓮のレンコン苗をもらう約束をしていた農家の方が亡くなり頓挫してしまっている。

故郷ならではの懐かしいメンバーも揃い、私は関東支部の事務局として、支部の1年間の催しをマイクロOHP(幻灯機)で紹介した。久しく顔を合わせていないメンバーの写真も多く好評を得た。2次会でもしたたに酔い、級友と思いがけず突っ込んだ話もできた。

(5)空手の稽古と暑気払い

新宿の武道場での大学OB月例稽古も5年目に入った。私と共にこの稽古を牽引していたMH君が、この度東京オリンピックの空手対策本部の特別顧問に就任した。
前師範,師範の強いご推挙があったとはいえ、彼の輝かしいキャリアが物言った。
私の2年下の主将であったが、私の時代に続き、東北総体2回目の優勝を達成し、昭和50年の和道流全国大会決勝で、日大を破り優勝している。全国総体では、個人でベストエイト入りを果たした。

この程度の戦績なら、中央の有名空手私大にごろごろといる。我々の空手部が彼らと一線を画すことは、社会人になって大成していることである。

彼は、野村證券に入社し、すぐにカイロ大学に留学したあと、バーレンに中東ビジネスの金融センターを担い滞在した。帰国後に、長期にニューヨーク滞在となる。その手腕を買われ、48歳で外資系証券会社のヘッドハンテイングを受け、転職する。

空手以外に、異文化交流、語学、交渉術などかなりのレベルであり、至極妥当な就任だと思われる。今月の月例稽古の後は、暑気払いを行った。(下写真)
私は、「無償でいい、会場整理でもなんでもボランテイアでやるから雇ってほしい。荒賀、植草などトップ選手の技を間近でみたい」と申し出たところ、来年くらいになるだろうとの回答である。また一つ遣り甲斐のあるものが出てきた。

2 高倉健の肉声に感動

NECの職場の先輩AHさんから、突然CDが送られてきた。中身は、ニッポン放送の薬師丸ひろ子のMCで、1996年から5年間高倉健が1時間半にわたり肉声で語ったもので“旅の途中で”である。この番組は、高倉健のエッセイ集の“あなたに褒められたくて”に書かれているようなことを「高倉健の言葉で語ってほしい」との意図から始まった。

動画と書物の世界にどっぷりと浸かっていたが、聴覚だけの世界もあったと再認識させられ、灯りをおとし何度も聴いた。
自宅浪人の頃、午前零時の城達也のジェットストリーム夜間飛行を聴いていた感覚が甦る。宇宙空間に響き渡るジェット機の音から始まり「遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時―――」とのナレーションを聴くことは何よりの癒しであった。

AH先輩から送付いただいた時には、意図は読めなかったが、彼は非常に人情の機微に触れてくるところがある。このニッポン放送の“旅の途中で”誕生の基となった“あなたに褒められたくて”を読み、“あなた”が、高倉健の母親を指すことでようやく意図がわかった。

AH先輩は、職場の1年上で九州大学出の経営の読みが深く、雄弁で馬力のある男であった。彼が部長時代に直接の部下になったが、部長クラスで事業部長レベルの見解で思考し、行動していた。しかし、激しい気性ゆえ、マレーシア、ベトナムに10年以上赴任してNECの子会社の社長どまりであった。70歳近いが、まだまだ意気軒高である。

その彼が送ってくれたCD“旅の途上で”の感想をまとめたが、併せ、私の高倉健像も記する。

(1) 高倉健のイマージュ――文武両道志向

昭和8年生まれであり、我々より16歳上である。1m80cmの筋肉質の偉丈夫だが、子供の頃は体が弱かったという。肺湿潤に冒されて小学校2年生の1年間休学していた。
“あなたに褒められたくて”のエピソードに、この時に教員で忙しい母が、懸命に鰻で滋養をつけさせる姿が描かれていた。年をとっても明治生まれの素朴で頑固な優しい母親像が、後世高倉健の生きざまに強く影響していることを感じさせられる。

中学校2年で終戦を迎え、進学校の東筑高校に入学すると、文武両道の校風であり、ボクシング部に入り6勝1敗の成績を残す。一方、将来海外で活躍したく英会話に励みESSの部長となる。

明大商学部に入り、貿易商を目指したが、体育会の相撲部にも入る。入部は、相撲好きであった父の影響だった。父も体が大きく力自慢で、海軍の相撲大会などで優勝し、亀ケ嶋という四股名をもらい角界入りを誘われたというから本格的である。

ただ、明大相撲部は1年間だけで退部する。角界の元関脇栃乃和歌など輩出するなど厳しい稽古であり、1m80cm、70kgの体では太刀打ちできなかったのだろう。しかし、以後も絶えず体を鍛錬することは怠っていなかった。

この文武の蓄積は、映画での激しいアクション、厳しく己を律する役づくりにも発揮され、マイケル・ダグラスと共演した“ブラックレイン”で流暢な英語を話したことからもわかる。
しかし、なにより大事なことは、この文武両道の姿勢が、ストイックな生き方を醸成したことである。

(2)私が観た映画

高倉健の映画は、大学1年のときに、第1作の網走番外地を見たのが最初である。空手部のコンパのあとオールナイト2本立てであった。その4年前に初上映された作品であり、網走番外地シリーズは、既に10作以上上映され、映画も乱造の時代であった。
当時のヒットを狙った映画は金のかかる総天然色であり、網走番外地の第1作は白黒であり、東映はあまり注力していなかったが、予想外の大ヒットとなった。白黒が、かえって荒涼たる北の大地での迫力ある奮闘となり、総天然色より迫力があった。

任侠ものは、網走番外地シリーズ18作のみ全て観ており、大学1年の夏の自転車旅行では、わざわざ旭川から摩周湖に向かう途中に網走刑務所に立ち寄ったほどである。
いまのように網走監獄博物館などなく、ただこれが刑務所かと外から眺めていただけであったが。

高倉健の役者像が大きく変わったのは、網走番外地から10年以上後の1977年の“八甲田山”からである。日本陸軍が日露戦争を前にし、極寒のロシアでの戦闘を想定して、八甲田山で雪中行軍し、210人中199人が亡くなった事件を基にしている。
3年がかりのロケであったが、役づくりのために私生活も含めて、監督、共演者が感嘆するほど自らを律していた。
以降、幸福の黄色いハンカチ、吉永小百合と共演の動乱と海峡、南極物語、居酒屋兆治、ブラックレイン、鉄道員(ぽっぽや)、ホタル、あなたへなどを観た。

1976年に東映の岡田社長に決別し退社して、役者寿命も尽きるかもしれないフリー転向から高倉健の役者魂は独自性を持ち、真骨頂が発揮された。東映の型にはまった任侠ものの金儲けで消耗品にされるところを、大きなリスクを賭けて己の意図する作品を産み出していった度胸と信念は流石である。

(3)求道者として

“あなたに褒められたくて”と“旅の途中で”は、海外を含めて飛び回って気さくに庶民と交わり、日常のさりげない光景、会話を感性豊かに捉え、掘り下げるエッセイに人間・高倉健(役者でなく)を感じた。

そして、CD収録最後に、何事にも動じない高倉健の肉声が、いつになく緊張し謙虚になりながら、対話する方が登場した。
生き仏 酒井大阿闍梨さまであり、大阿闍梨は、千日回峰行という想像できないほどの荒行を2回成し遂げた称号である。2回達成した者は、歴史上3人しかいないとのことである。
千日回峰行とは、高倉健の言葉を借りて説明する。

「一日四十キロ、それもきれいに整地されたトラックや、マラソンで走るような道路を行くわけではありません。午前零時、真夜中に起床して、この飯室谷不動堂にある二つの滝に打たれて身を清め、午前一時半に出発。朝の九時半まで、山の中を字のとおり、峰から峰を、草鞋掛けで四十キロ走破。あいだに二百六十ヶ所の拝所があります。
睡眠時間は一日三時間から四時間。食事はうどん、じゃがいも、豆腐、こういうものを一日に二食。一年目から三年目は毎年百日間、四年目から五年目は二百日間というふうに増えていきます。六年目は百日間。
七年目は京都の市内まで足をのばして八十四キロのコースを百日間、三十キロのコースを百日間歩きます。
七百日の行が終わると、九日間、眠らず、横になることも許されず、水も食べ物も摂らない、堂入りという荒行を行います。この堂入りは、生き葬式とも言われているそうです。」

酒井大阿闍梨は、53歳で1回目の千日回峰行を成し遂げ、引き続き半年を置き2回目を60歳で成就する。九日間の堂入りは人間の限界とも思える荒行であり、歴史上3人しかいないことも頷ける。

この1回目の千日回峰行は、NHKがドキュメンタリーの撮影が許された。いまもいつでも、You Tubeで“千日回峰行”と入力すれば観ることができる。まさに鬼気迫るものがあり、求道者の高倉健も心酔するはずである。暖衣飽食の、尊厳も矜持も乏しいこの時代の人々には、是非一度は、観てもらいたいYou Tube投稿である。

対話の最後に、大阿闍梨に高倉健は、一言のお言葉を頂戴したいと願いでる。
“一日一生”という言葉をいただいており、これは酒井大阿闍梨の著書の題名にもなっている。
「今日の自分はもう今日でおしまいで、明日はまた新しく生まれ変わる。いつもいつも前向きな思想で、今日があるからこそ明日がある。今日を、今を大切にしない人には明日がない。」

この話は1999年の高倉健が68歳のときであり、いまの私と同じ年齢であり、思わず身が引き締まる。
私なりの解釈だが、“一日一生”は、次の山本常朝が著した武士道“葉隠”に記された内容と同じようなことであると思う。
「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也。―――毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度な く家職を仕課すべき也。」
空手の修業をしている頃は、心掛けていたものだが ーーー。

大阿闍梨は、最後に尚も言葉を紡いだ。
「健さんが書いたもの、話してくれたことで、この人がおっ母さんをどんなにか慕っているかがよう解った。普通の人以上に母親を大切にするし、母親の愛を凄く感じるんやね」
「健さんはお侍さんやと思う。どんな仕事でも命を賭けてやっている。すべてに命懸けで、いつも刃の上を歩いているような。そんなお人やと思う」

だいぶ前に、高倉健は酒井大阿闍梨から“行く道は精進にして忍びて終わり悔いなし”という言葉を贈られ、座右の銘にしていたが、その言葉を実践しているとの賛辞だろう。

【妙義山、故郷のバーベキュー、KAさん書展、蓮池、同級会、OB空手暑気払い、あなたに褒められたくてとCD】
 

遠い昔からの母の思い出――⑤ 最終

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月 3日(月)19時40分58秒
  14.下宿屋の女将さん

機屋から転業した後には、一日中現場に入ることもなくなった母は、仕事の傍ら大学生の下宿屋を始めた。昭和38年、母が38歳のときであり、それから昭和47年まで9年ほど継続する。
大きな母屋を間仕切り、家族7名と合わせ12人分の朝、夜の食事を準備し、また学生との交流を楽しんでいた。なかなか人格のできた、ユニークな学生が多く、我々兄弟にも先人として人格形成上の大きな影響を与えていただいた。

その学生さん達から、定期的に“おばちゃんを囲む会”を開いていただいていた。写真は母が85歳であり、学生さんのご夫婦で参加いただいたときのものである。このときは、兄が急遽仕事で遅れ運転できなくなったので、母の運転で福島県の飯坂温泉に行ったものである。
母は、その前年の2010年5月に胃癌の手術が決まり、要望のあった“おばちゃんを囲む会”の開催を了承しお願いしていた。気丈にも胃癌の手術が決まった経緯を詳しく話し、「必ず元気になって戻ります」と宣言していた。
胃癌手術は、全摘出か2/3かで医師の判断が分かれ、2/3摘出にようやく決まったものであり、84歳の高齢での手術にもめげない、車まで運転してくる回復ぶりに、学生さんたちはいちように驚いていた。

14.晩年はダンスを楽しむ

60歳近くなると経済的な生活は問題がなくなり、ダンスに没頭していた。父も後追いで始めたが、全くレベルが違う。
子供の頃、家族で瀬波に海水浴に行ったとき、いきなり父が水上スキーに乗り片手を振っていたときには、その運動神経にびっくりした。父の会社でのバレーボールでも非凡なところを見せていた。母の運動した記憶は全くないが、父よりも運動神経もセンスも秀でていた。

2002年12月23日の山形市のパレスグランデールでの発表会に、妻と共に招待された。俳優前田吟の息子でありプロダンサーの前田亨と江澤美鈴がゲストとして踊るレベルの高い発表会であり、山形県内の有数のダンス教室から選抜されていた。母はNダンス教室主宰のN先生と踊ったが、当時76歳であり、併せて152歳のペアと紹介されていた。踊りは、軽やかでノビノビと優雅な演技を目の当たりにした。
その発表会の10年前に、第8回山形アマチュアミックスドダンス競技大会で、3位に入賞しているので、もはや至極当然なレベルの演技なのだろう。
87歳まで、元気に好きなダンスの練習は行っていた。

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父が他界する前年に、二人で父の喜寿の記念写真を撮っていたが、それが遺影になった。70歳で、ダンスは円熟しつつ溌剌と全盛期と思わせるほどだったらしい。

                                                    -おわりー

【下宿学生夫婦と飯坂温泉、64歳頃ともにダンスに励む、76歳・パレスグランデール、喜寿の記念・母70歳】
 

遠い昔からの母の思い出――④

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月 2日(日)19時34分16秒
  9.家業を支える母

仕事に入ると秀雄は、文武両道に励んでいた頃の片鱗もなく、苦境にぼやき、ひたすらたばこを吸って考え込む姿が、私の脳裏に焼きついている。
母は、工場の事務から、現場作業まで、身を粉にして働いており、我々3人の兄弟の世話には、女中が付いた。アネサマと呼ばれながら現場の女工と接する母に、伯母のまつは、「愛子もマチことばになってしまった」と嘆いたらしい。
母は働きづくめで、朝早くから機織りのガシャガシャいう機械音が鳴り響き、昼休みにはピタッと鳴りやみのどかなひとときとなり、また午後は鳴りはじめ、母が残業する2階のノべマキだけが深夜まで軽い騒音を立てており、薄暗い母屋で怖い思いをしながら私は母を待っていた。
家業は、更に傾き、蔵の目ぼしいものは売り飛ばされていき、兄と薄暗い2階のタンスで妖しい光を放つ刀に見入ったものだが、いつのまにかそれらも消えていった。
母が、ある日大きな琴を蔵からだし、丁寧に掃除したうえ音を奏でていた。母は、琴が弾けるんだと思ったが、すぐに蔵からなくなってしまった。

10.放任主義ながら褒めて育てる方針

母親の目が行き届かないことをいいことに、粗暴な兄は、理由もなく私を殴りつけた。涙の跡が絶えなく、おおばばちゃまの、をさとは、「ケンは、こんなに頭を殴られておかしくなってるから、むかえの米つきにでもださせろ!」と真顔で言ったそうである。
案の定、小学3年生の成績は、情緒安定のみAで、他はすべてBと目立たないぼんやりした子供になってしまった。
しかし、母は、「情緒は一番大事なもの、秀蔵をみなさい」と褒めてくれた。すべての面で兄に“ボンケ”と虐げられ、コンプレックスを持っていた私には、最大限の励ましだった。

そのような母の励ましと家業に頑張る後ろ姿で、私は小学校5年から120軒の夕刊配達を行い、警察の柔道場にも通い始めた。小学校卒業時には、学業はトップクラスで、体も強くなっていた。5町内の相撲大会では、対抗戦も勝ち、5人抜きを達成すると、母は満面の笑みで拍手してくれた。夕刊配達は、不配ゼロを続け630円の給与がカットされず、雨の日も雪の日も休むことなく続け褒められた。
自ら精一杯努力する後ろ姿をみせ、叱るよりも褒めて育てることが母の方針であった。

後年、高校1年のときに工場が火災にあい、更に私は受験に失敗し立往生した時に、母は「予備校にやれるお金はないけど、家で勉強してみたら」と優しい言葉をかけてくれた。
私は発奮して、自宅の蔵の二階に籠り、前例がないような自宅浪人により翌春合格でき、大きな人生の節目になった。

11.父は転業へ

着物を着る習慣が減り、米織業界は、熾烈な生き残り合戦となり、構造不況とも言える。名門の機屋が、次々と倒産していった。
父は、「明日の資金繰りどうすっぺ」と暗い顔で、しじゅう呟いていた。母も、私には「月給取りになりなさい」と告げていた。おまけに、この頃、父も大酒のみとわかってきた。母が破天荒な酒飲みが2代続き身上をつぶしつつあったので、酒飲みだけは嫌だと言っていたので、“隠れ酒飲み”であった。ただ、酒癖は悪くなく、多弁になるだけであったが。

汗をかいて現場にはいることがなかった父は、柔軟な発想だけは長けており、ついに、昭和37年頃、“松葉工業所”として機屋の工場の片隅に、グラインダーなどを導入し、鉄工場を立ち上げた。
事業は定着し、拡大路線にはいり、機屋工場の大半が電気部品の組立工場となり、従業員も職工からそのまま従事した。

12.工場の火災

まさに好事魔多しであり、昭和40年8月24日、母が40歳のときに工場が全焼した。
新聞にも松葉工業所は5千万円の損害と大々的に報じられ、火元は、当初工場2階に居住する従業員宅と思われたが、結局は漏電らしいということになった。
問題は、火災保険の継続洩れで、保険が一切下りなかったことである。また、米沢製作所から無償支給されている電気部品、材料も焼失し、損害と共に納期遅延により大口取引先の信用を失墜した。

私は、出火10分後の1時50分に、校舎の窓から黒い煙が見え、咄嗟に民家ではなく、工場と直感して方角からも嫌な予感がした。すぐに呼び出しがあり、帰路を急いだところ、まさに映画の1シーンのように燃え上がってる工場を見た。
夕暮れの火事跡で父が肩を落として佇み、楽天家の父がはじめて涙するところを見た。母は、「起こったことはしょうがない」と気丈に振る舞い、親戚縁者の火事見舞いの対応に追われていた。

13.工場再建へ

工場敷地は売却し、親戚の一時的資金援助で新たな土地を確保し、工場の再建に乗り出した。幸い細々と仕事は持続し、従業員は戻り始めた。再建のための土地は、母屋とはかなり離れた場所に確保し、父の義兄に一時期所有してもらい、最終的には妹夫婦の土地としていただき、しのぎを削った。再建は容易ではなく、父母と兄も身を粉にして働いた。私も、休みの都度にアルバイトをした。
父は、米沢製作所の仕事が先細りなので、興譲館時代の同級生の日立多賀工場の工場長に販売促進を試みた。果たして川井鉄工所を経由し販路は開け、日立の扇風機の仕事が機軸になっていった。旋盤、グラインダーなどの設備も一通り揃ってきた。
私の、当初の仕事は、10cmの星状のプラスチックをクラッシャーという粉砕機に入れ、上から棒で押し込み、砕くというアホでもできる仕事だったが、鋳物のフランジの黒皮を旋盤で削る職人の仕事に移行し、工場として体を為してきたと実感したものである。

母は、そのときに運転手まで行っていた。山形川井製作所の納品時間に間に合わないと、日立の多賀工場に直接納品する。残業で仕上げたものをトラックに積み込み、母が夜通し栗子峠を越えて片道220kmを走り、多賀工場が開門するのを待ち納入するものである。家電特有の在庫なしで生産するので、遅れることはラインを止めることになり厳禁である。地元で学生だった私は、何度も運転手に狩りだされたが、夜通しの長距離運転は非常に辛いものであった。

多賀工場への納入時の母の面白いエピソードがある。納品しているときに、叔父の国税庁次長のE・健司さんに会ったのである。ちょうど多賀工場に国税庁の監査にはいり、日立本社のお偉方が居並んで迎えに出ているところであった。母は、「あら、ケンちゃん」と話しかけ、米沢弁で話し込んだらしい。田舎の町工場の奥さんが、なぜと居並ぶ経営陣がびっくりしたらしいが、母は意に介していなかった。

                                                   -続くー

【昭和24年・兄3歳、昭和38年・転業の頃、昭和40年・工場全焼、工場再建・44歳頃】
 

遠い昔からの母の思い出――③

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 7月 1日(土)17時29分48秒
  7.ものごころ付いた頃は軍靴響き戦争へ

母の青春では、やはり戦争という時代背景に触れなければならない。
昭和7年、母が7歳の時に、海軍が犬養首相を暗殺し、5.15事件で政党政治にとどめを刺した。そして、昭和11年には、青年将校が、高橋是清大蔵大臣など9人を射殺し、クーデターを起こし、これが、“2.26事件”である。
一方、軍部は中国でも独走し始め、昭和7年に関東軍が“満州国”を樹立し、国際社会からも日本を孤立させた。
日中間に緊張が続いている中、昭和12年“日中戦争”が勃発し、関東軍参謀長の東条英機中将が戦線拡大路線を、強引に進めてしまった。
そして、近衛内閣は、昭和13年に軍部と組み、憲法違反といえる“国家総動員法”を成立させている。これは、13歳の母たちの世代まで絞めつけるもので、個人の資産、言論・表現の自由など根こそぎ奪うものであった。
ついに、日本は昭和16年12月8日に、そのまま悲惨な戦争に、東条英機首相のもとに突入していった。

母は、最も多感な女学校時代である。戦時下で国民全体が窮乏し、精神的にも疲弊してきていたが、母は上京し、目まぐるしい大東京で文化服装学院に通った。
そのとき、結城豊太郎家にも何度もお邪魔し大変お世話になったとのことであるが、日本の権力機構で身近の生臭い策謀を知る由もなかったろう。
結城豊太郎は、日銀総裁を務め、戦時の財政、金融政策を担っていたが、東条英機内閣との激しい対立で、昭和19年に辞任に追いやられてしまっている。しかし三女が、財界トップの藤山愛一郎の妻であり、藤山愛一郎は結城豊太郎の高い見識に畏敬しており、敗色濃い戦局を冷静に捉え、東条内閣打倒を画策して、昭和19年7月に総辞職に追い込み、和平工作の一翼を担った。
また、東京では、母が親身になりお世話になったのは、伯母のO・まつである。主人は、検事正のO實であり、2.26事件などで活躍し、軍部とは対峙関係にあり、家風も謹厳実直だったらしい。

母には、縁がない政局の話であるが、委縮し窮乏する一方の戦時下での国民生活のもとで、名門との交流を持った都会の生活が知らず知らずに、大らかで芯の強い母の性格を醸成していったのだろう。

8.秀雄と結婚

終戦翌年の昭和21年に、秀雄と結婚する。
秀雄は、北部小学校で写真の最後列で頭一つ飛びぬけるほど大きく、(下写真)市の同学年で一人しかいない学業優秀な上杉賞を授与されていた。腕力も強く、当時の花形の競技であった相撲では、向かえの家のKOさんとライバル対決をしていた。(下写真)二人は、ともに興譲館に進み、柔道部で県大会優勝をしていたので、並ならぬ力量があったのだろう。
                                                     -続くー

【結城豊太郎一家訪問、戦時中・父は前列中央、東部小学校後列右7番目、相撲大会2列右2番目】                                     
 

遠い昔からの母の思い出――②

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月30日(金)20時00分1秒
  3.当家に女傑登場

家業が衰退していく中を、をさとが、気丈にも懸命に頑張り、女手一つで事業を維持していた。4年間も手足が不自由な姑の世話もして家業を営む姿に、55歳のとき県知事より表彰を受け、義弟の大蔵大臣の結城豊太郎より、手紙とお祝いの品々が送られた。また龍蔵との連名で中村不折の立派な屏風も届けられた。
その表彰は、母が9歳のときであり鮮明に記憶しており、後年に母はをさとの生き方の影響を受け、自ら実践することになる。

4.更に衰退していく家業

龍八が病に伏したときに、母の父の一郎は、家督継承準備で興譲館から足利工業に転校した。そして、大正9年に龍八が亡くなり、20歳で家督を継ぐが、やはり機屋の旦那衆の気質で、無類の酒好きであった。いよいよ家業は傾いていった。そんな父を母は非難するわけでもなく、ただ配偶者は酒飲みだけは駄目だと念じていたらしい。
酒豪ぶりは、幼い私も見ていた。迎えの商店でポケットウイスキーを買い、家に着く2、3分でラッパ飲みしきるほどだった。門のそばの紫陽花に空き瓶を捨てるので、母はいつも雪解けになるとその処理に追われていた。

5.弟の早世、母は跡取りへ

母が7歳のときに、当時は幼児の致死率の高かった疫痢にかかり、4歳の弟の昭三が亡くなった。
母は、自分も悲しかったが、昭三の母親千代が、あまりにも悲嘆にくれ、身を案じたほどだったという。昭三は、非常に分別が良く聡明な子であっただけに、周囲の悲しみは一入だったとのことである。そして、母は跡取りとなる一人娘となった。

6.高等女学校から文化服装学院へ

母が、女学校に進んだときの従姉妹と一緒の写真がある。
一郎姉まつの長女の美枝子、一郎妹みつの長女貞子、次女節子である。いずれもO家S家と名門で裕福な家庭に育ち、母は形ばかりは名門でも家屋敷が抵当に入り、火の車の経済状態では辛かっただろう。しかし、母には生まれながらの上品さと優雅さが漂よっていた。
そのような苦境でも、一人娘で跡取りになるために、上京して文化服装学院に入る。そこでは、臆せずにO家はむろん、結城豊太郎家、藤山愛一郎宅(結城家3女の嫁ぎ先)、練馬の龍蔵宅などに遊びに行き、歓待される。
一郎が、龍蔵との約束に5分遅れ、「俺の1分はいくらか分かっているのか!」と怒鳴りつけられ、結城豊太郎三女結婚式での歓待で酔い上野の列車で置き引きに逢ったりしたことなどから、親戚づきあいを疎んじていたので、本家の一人娘としてよけい可愛がられたのだろう。
                                                                                -続くー

【県知事よりをさと表彰、結城豊太郎の祝いの手紙、母と昭三、文化服装学院、女学校時代に従姉妹と】

 

遠い昔からの母の思い出――①

 投稿者:管理人  投稿日:2017年 6月29日(木)20時08分30秒
  2017年5月7日16時6分に、敬愛する母は静かに息を引き取った。91回目の誕生日から約2か月弱である。
1月にインフルエンザを患って急速に体力が衰えたが、4月19日に私が見舞った際には、「ケンちゃん、こんな有様でがっかりしたろう」といきなり声を掛けられ、昔の写真を見せると鮮明に当時の記憶が蘇っていた。病室が空っぽなことを幸いに妹にLINEをつなぎ、動画で話したが、会話は6分48秒に及んだ。帰り際には、「あとなんべん会えるのかねえ」と強く手を握り締めてきた。
それから、わずか2週間あまりで、旅立ってしまった。

覚悟はしていたが、母の死は現実感をもって受け止めることができなかった。しかし、あの握りしめてくれた手はヒヤリと冷たく否応ない事実を突きつけた。
17年間にわたり月に1度以上は投稿していたこの音沙汰記も途絶えてしまった。物憂く、文章を書く気持ちが削がれ、トキだけが静謐に刻み続けていた。
四十九日が終わりようやく心情も落ち着いてきたので、2カ月振りにペンを執り、数回にわたり大正15年生まれの母の思い出を、昔に遡ってまとめ書き残しておく。

1.母が幼少の頃の生家(下写真)

母が生まれたときの当家は、1500坪の広大な土地に2棟の織物工場と立派な庭園と茅葺の母屋を擁していた。茅葺の家と蔵は、江戸時代の1859年に16代の九郎佐エ門が建てたもので、築68年の重厚な武家屋敷であった。
次の17代の保四郎のときに、代々上杉藩五十騎組の藩士であったが、明治維新を迎え織物業を始め、屋敷を1500坪に拡張し、大きな二棟の染色と織物の工場を建てた。

創業者の保四郎は、57歳で没するが、妻よしは、90歳と長寿であり、母が生まれたときは、66歳とすこぶる元気であり、“おおばばちゃま”として母を可愛がってくれたらしい。母は、由緒も財もある旧家の令嬢として生まれた。

2.隆盛を誇った家業が傾く

母の曽祖父の保四郎は、明治天皇に米織の拝謁を賜わったり、佐藤伴次とともに、粗製乱造を業界から締め出すための米織組合を設立し、機業で隆盛を誇っていた。
しかし、機屋業界で辣腕を振るったが、明治33年に57歳で亡くなってしまった。後継者は、母の祖父龍八であり、急遽27歳にして家督を継ぐことになった。

龍八は若くして、創業者が成功した機屋の跡取りとして、旦那衆の贅沢極まりない遊びをした。吾妻山へ人足に白布温泉の湯を担がせ、中腹で狩りの獲物を料理させ、温泉に浸かり野営をしたとのことである。
龍八の6歳下の弟である、龍蔵が42歳のときの狩りの写真がある。(下写真)猟銃を持ち、狩猟犬と運転手を従え、野鴨や野ウサギなど獲物を自家用車に満載していることから煌びやかな生活が伺える。
ただ、龍蔵は、戦後の“財界を支配する百人”に掲載され、貿易庁長官の後釜に推され断っていたほどの権勢を持ち、仕事に埋没し、“日本貿易会”の副会長として豪腕を振るっていた。

一方、龍八は、仕事はせず大酒飲みに明け暮れ、早々と結婚をして23歳のときに母の父である一郎の姉まつが生まれた。
そして龍八が25歳のときに、妻のはつが亡くなり、更に酒浸りの日々に拍車がかかった。
その翌年、7歳年下の19歳のをさとを後妻に迎え、長男一郎を授かるが、家業を相変わらず怠り家は斜陽化していき、龍八は病に伏し47歳で没した。

                                                                                              -続くー

【2017年3月91歳誕生日、生家の母屋と蔵、庭で母・兄・私、龍蔵の狩猟姿】
 

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