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海外でゲテモノ喰らう

 投稿者:管理人  投稿日:2020年 1月15日(水)19時53分13秒
  新年会は、大学OB空手部を皮切りに行なった。関東中部支部は、創立20周年を迎え、昨年6月の役員会で記念行事の一つとしてホームページを開設が決まったが、この半年余りでかなり充実したコンテンツとなり、活動の足跡がきっちりと残せ、情報共有も促進した。

新制作展で13回連続入選しているIK先輩が、銀座の画廊で個展を開くニュースを発信すると、富山の県会議員YT君からすぐ出席の申し込みがくる。新年会の活動報告にもホームページの写真が使われており、完全に軌道に乗せた。

また新年会に先立つ午前のOB月例稽古も、新宿の武道場を借り参加平均年齢が65歳程度ながらも8年間も継続している。今回は、滋賀県からはるばる参加してくれたSS君に感謝であり、士気がおおいに盛り上がった。彼は、学生時代以来36年ぶりに道着に腕を通したとのことである。初稽古であり、平安初段から五段まで行ったが、大学時代の猛練習で体に技が浸み込んでおり、ついてきたことは驚きである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ところで、年末は、ちょっと重いテーマについて書いたので、今月は気楽に読める内容にする。

今年の初夢は、鮮明で目が覚めてもまだ夢の中にいるようだった。バンコクの沸騰したような暑さの喧騒な街で安い惣菜の屋台で舌鼓を打ち、その後、このように体内に水分があるのかと思わせる嘔吐と下痢、そして熱の出る食中毒の夢であった。

初夢の占いとしては不吉だが、明るい年明けにしたいものである。もう好奇心であのようなリスクを冒す元気もない。タイの食中毒に対し、自分は人並み以上の耐性があると根拠のない自信を持っていたが、赴任半年間で2回も食に当たった。

正露丸など効く筈がなく、食中毒がざらにある国ゆえ、“イモディウム”という特効薬があることを知ったのは2回目からだ。
コンドミニアムのベッドに転がって、夢か現のなかで、芭蕉の旅先で下痢をして詠んだ辞世の句 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が絶え間なくグルグルと脳裏を駆け巡った。

小径の傍らにズラっと並ぶ惣菜のパクチー(香菜)などの臭い漂う食べ物屋と南国特有のマンゴスチン、ドリアンなどの果物露天のにぎわいを思い出す。

タイ人は、よく昆虫も食べ、惣菜とともに昆虫料理が並んでいることもある。(下写真)
私は、食中毒の特効薬があることがわかり、食中毒以降も食文化探訪として日本では口に出来ないものに好奇心いっぱいで挑戦した。タイのみならず他国でもゲテモノ喰いをしたので、当時の風物も併せてその体験を綴る。

1 タイ

(1) コブラ
私が勤務した工場のナワナコン近くに、スネークレストランがあった。大きな看板があったが、動物愛護団体(爬虫類だが)から蛇を食べない運動を起こされ、看板だけは降ろしてしまった。

ナワナコンはコブラの群生地であり、枯草に火をつけ追い出して、コブラを採ることを生業とする者達がいた。ある日枯草の火が勢いを増し、コブラ採りは逃げ出し、火が工場に迫ってきたので、消防署に電話すると幾ら出すと尋ねられた。長閑なお国柄であった。

雨季の大洪水のときは、凄かった。私は、Factory Manager の立場上、腰まで水に浸かり、工場に行くと、高床の工場玄関に多くの蛇が避難しており肝を冷やした。
その地域では、蛇を食べることは、ポピュラーであった。まず精力がつくことと、恐怖と畏怖を持つコブラを食べることによって体内にその力が宿ったと感じることだという。

私は、赴任時に新工場の立ち上げで疲労困憊し、元気をつけようと、帰途スネークレストランに立ち寄った。
まず入り口で、蛇がはいった籠を選び、料理法のメニューがあり、唐揚げみたいなものを指定した。厨房は丸見えであり、料理の様子が伺える。

最初に、毒の入った頭を落とす。頭のみで生きており噛みつくので、近づくのは危険だ。次にハサミで胴を裂き赤黒い心臓を取り出すが、これもピクンピクン脈打っている。そして赤い生き血をコップ一杯に絞り出す。この生き血も精力剤というが、熱を通していないので寄生虫がいるかもしれぬと、私は飲まない。

そして内臓を抉り出す。包丁で少し胴に切れ目を入れて両側に引っ張ると、驚くほどきれいに皮がツルンと剥けていき、骨も同様に引っ張って剥がしていく。骨だけで、まだくねくねと動いており恐るべき生命力だ。

蛇の味は、ちょっと固めで反発してくる鶏肉風であり小骨は多いが、蛇を連想させる味ではなく、まあまあ美味しかった。クロスタビールと良くあっており、気のせいか、翌朝に仕事をやるゾーという気分が漲ったので、疲労困憊してくると蛇喰いに行ったものである。

流石に南国タイでは蛇と密接であり、歓楽街タニヤのそばに国立毒蛇研究所(スネークファーム)がありいろいろなショーも催してくれる。観光名所でも、ニシキヘビを首に巻く体験ができ、私も2mほどの奴を巻いた。(下写真)

(2)カブトガニ
日本では、国の天然記念物に指定され、2億年前から変わらぬ姿で、“生きている化石”とまで言われているカブトガニを、タイでは食べられる。

タイのチョンブリには広大な干潟があり、カブトガニがウジャウジャいるらしい。有明海のムツゴロウみたいなものだろう。そういえばムツゴロウの缶詰を持ち帰って食べたが、骨ばっておりしょっぱいだけのまずいものだった。結論から言えば、カブトガニもまずくて絶滅の危機には陥らないだろう。

バンコク郊外の高級シーフードレストランに出向き、まず料理の前に記念写真を撮った。(下写真)
高級レストランを選んだのには、訳がある。エラの部分にフグと同様のテトロドトキシンという猛毒があるというので、それを事前に取り除いてもらう必要がある。

甲羅には、躊躇するほどびっしりと小さな卵が入っており、味はしない。プチュっと卵の感覚だが、味はボソボソとしており、ただもったいないの感覚でなんとかすべて平らげた。以降二度と食べることなく、東京からのお客さんに勧めることもなかった。

(3) 鶏の足
会社の部下達とアユタヤに日帰りで観光に行った。昼食は、売り物に蠅が群がっている食堂にはいる。賞味期限という考えはなく、ぶら下げてある鶏は売れるまで置いておくので、臭いを嗅ぐなど自己責任で買うことが大事だ。

非常に安く美味しい惣菜を、パサパサした飯にぶっかけて食べた。タイのグチャグチャに煮た辛い惣菜に、このパサパサしたタイ米が合う。私が滞在時に、日本が米の不作でタイ米を輸入していたが、評判が悪く、頻繁に不味いと捨てたという。タイ人は、日本の米こそsticky(粘りっこい)で不味いと酷評している。
要は食べ方であり、グリーンカレーなどもパサパサゆえ、味が回り込み非常に美味しい。

ところで、ゲテモノだが、部下である大学出の上流階級育ちのお嬢さんたちが、なにやら不気味なものを美味しそうに食べていた。4本足の鶏の足のみの唐揚げである。私に勧めてきたので、ひるまず食べた。コラーゲンたっぷりのプルプリ感であり、実に美味しい逸品である。足の皮とヒラの部分の少しの肉だがしゃぶりついて食べた。日本では、なぜ鶏の足は捨てるのだろう。

(4) 昆虫
① 赤蟻の卵
まず屋台で、にっくき赤蟻の卵を食べた。私の部屋は、コンドミニアムの26階にあり蚊の飛翔能力を超えており、蚊はエレベーターに乗ってくる以外にいないが、赤蟻はどこにでもくる。

刺されたら瞬間的に火傷のような激痛がして、パンパンに腫れ上がる。尋常ではない痛みであり、“戦闘蟻”とも称されるように腹部の毒針でところかまわず刺してくる。バスタオルに潜んでいたり、枕元にいたりする。見つけたら夜中に酔っ払っていても大騒動である。

肝心の赤蟻の卵は、野菜とともにスープにするが、チェンマイ北部とイーサンの郷土料理でもあり、白子のようなグニューとした歯ごたえで美味しいものである。

② タガメ
見た目は悪く、羽から食べようとしたら、屋台の親父が「メダイ」、食べられないという。周りをみたらお腹をチュウチュウ吸いながら食べていくが、ジューシーな肉汁が出てきて、変にフルーテイで不味い。

タガメは、タイでは高級昆虫食材であるが、私は、日本の貧困な昆虫食文化による先入観でダメなのだろう。昔は、イナゴの脚を喉に引っ掛けながら食べたものであるが、もうイナゴの佃煮はみかけない。

他にもゲンゴロー、カナブン、コオロギ、芋虫などを食べたが、リピータになろうとは思わなかった。

2 ベトナム

(1) アヒルの卵
タイ滞在2年目の1992年に、ホーチミンに足を伸ばした。最大のベンタイン市場の中の食堂街で、写真付きのメニューをチェックし、ホビロンを確認して中に入った。
ホビロンとは、孵化直前のアヒルの卵である。

恐る恐る卵の殻をむき、まずチキンスープを飲む。そして上半身は白身も黄身もなくアヒルの生まれる前の姿でてくるので、じっと見てはいけない。恨めしそうな目まで付いていた。下半身は黄身の状態である。ライムと塩コショーをかけて、かぶりつく。足やくちばしがコリコリし、なかなか美味しいものである。

ホーチミンでは、滋養強壮として一般の食堂で食べられたが、タイに戻り食べたくなり探し回ったが、一切なかった。スクインビット通りのベトナム料理店で聞いてみたら、タイ人はヒナの形になっているので食べないからメニューから外したとのことである。鶏の足まで食べるのに。

3 カンボジア

(1) カンガルーとカエル
タイ滞在3年目、1993年にアンコールワットを訪れた。まだポルポトとの内戦中で観光客は少なかった。
プノンペンで唯一の五つ星であるホテル・カンボジア―ナに泊まり。豪華な食事を楽しんだ。カンガルーの肉との説明を受け食べたが、ぱさぱさしたヒレ肉の味で、地ビールのアンコールビアとよく合っている。

そしてシチューを食べると、鶏よりも美味しい肉が入っていた。クリーミイな味に調和した絶品である。ボーイに聞いたら、「Flog Leg」と答えた。そうだ、ここはフランスの植民地であり、食用カエルの食文化を継いでいたのだが、緑色の大きなカエルとの説明は蛇足であった。

(2) サル
アンコール遺跡のあるシュムレアップの唯一のマーケットに行った。トタン屋根の粗末な建屋が立ち並んでおり、薬屋があった。中国の漢方風のものが、雑然と棚に並んでいた。

ふと床をみると、なんと棒で串刺しして丸焼きにしたサルが売られていた。(下写真)内臓が取り出され、毛の付いたままであり、生きているように目を剥いている。滋養強壮、体力増強に効くというが、値段を聞くことなしに退散した。

4 中国

(1)狗
2001年に生産設備の納入で、天津に長期出張をしていた。設備の立ち上げで真夜中まで仕事をしており、まともな料理店は閉店している時刻だった。

暗がりの中、ようやく“羊豚専門店”の看板を見付け出し、腹を空かして中に入った。
初めて海外に出た部下が、コップに着いたゴミを指摘し、取り換えさせたがまた同じ。性懲りもなく交換し3度目で諦めた。私は、タイで、食べる前にペーパーで拭う習性が身についていた。

空腹であり、とにかく天津ビールと火鍋を注文した。既に加熱した使い回しと思われる黒い油と香辛料の入った鍋に2種の肉が入っていた。野菜を放り込み、皆でまたたく間に食べた。羊と豚肉にしては、随分淡泊な味の肉だった。

一同、翌朝その店の前を通り、“羊狗専門店”とわかり、特に愛犬家の部下が落ち込んでいた。

(2) コブラの肝
その出張先の天津で、大きな中華料理店で客先と食事をした。
彼らは、なにかにかこつけて乾杯を何度も繰り返す。空いたグラスに、店員がヤカンの先が80cmくらいのもので、すかさず器用に酒を継ぎ足す。

立て続けの乾杯にそうとう酒に強くないと酒席がもたない。中国人すべてが酒に強いわけではない。なんと乾杯の度に真後ろに座っていた男が前に出て、飲み干すのである。主人に代わりうやうやしく酒を飲むだけの気楽な仕事があったものだ。

宴もたけなわの頃に、白酒に入ったコブラの肝を私にご馳走するという。(下写真) 私は、熱が通っていないので、固辞しようとしたが、伊藤忠の商社マンが、私に飲んでと促す。

彼がトイレで吐きながら、席に戻ると乾杯をにこやかに続ける姿を見ていたので、私は、やむなく50度の白酒で一気飲みをした。むろん何の味かわからず、幸い体はその後も変調をきたさなかった。

(3) さそり
定年退職後、2011年に万里の長城を歩いた後、玉府井・小吃市場をそぞろ歩く。ここは連日お祭りのような騒ぎで、古き良き中国の街並みを残している。私の宿泊した侶松園賓館も明朝時代の四合院建築の由緒あるもので、まるで千と千尋の世界で、夜はキョンシーが出てくる雰囲気だった。

この古き楽しい街にはなんでもある。サソリ、蝉、繭の串焼きまである。サソリを買って食べてみる。エビの唐揚げの尻尾の味であった。(下写真)

5 インド

(1) ラクダ
2010年に、インドを訪れた。カレーは、実に多彩であり、地方・各家ごトに独自スパイスの味付けを行う。何十種もののスパイスを混ぜ合わせ、ニンニクなどの香味野菜を加えて、石臼でペースト状にする。インド人は、3食カレーを食べると言う。

私も、毎食カレーにしたが、味は格別でコクがあり、食い飽きることもなく、不思議に胃にもたれることもなかった。肉系カレー、魚系カレー、野菜系カレーなどに大別できるが、肉系はヒンズー教により、聖なる牛を食べない。そしてイスラム教徒は、不浄な豚を食べない。

必然的に羊、鶏の肉となるが、通りででは、当たり前のようにラクダが牛馬と同様に荷を引いて走っている。
店員に、馬かラクダの肉でもないのかと冗談で聞いたら、ラクダの肉があると出してくれた。脂肪が少ない低級の牛肉という味わいである。

6 インドネシア

(1) ジャコウネコのコーヒー
2013年に四三の会3名とともに、ボロブドゥール遺跡を見ようとインドネシアに趣いた。
途中、ガイドが、「インドネシアには、世界一高く、最も美味しいコーヒーがあり、それはジャコウネコのお腹で発酵したものです」と言う。一同で大いに興味を持ち、その喫茶店もどきのところに立ち寄ってもらった。

ジャコウネコは、コーヒーの赤い実が好物であり、その果肉を食べるが、豆はお腹の中で4日間発酵し、排出されると素晴らしいコーヒー豆となるそうである。

車を降りた頃から、猛烈なスコールとなり、文字通りバケツをひっくりかえしたような降りである。50mほど密林めいたところを抜け、店にはいり、ジャコウネコの場所を聞くと、庭の裏手にあるという。はじめて見るジャコウネコにびっくりしたが、相手もびっくりした表情である。(下写真)
ジャコウネコのコーヒーは、話の暗示にかかったようで、マイルドで美味しいが、ちょっと粉っぽかった。

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タイに赴任してから、ゲテモノ喰いが始まった。しかし、食中毒は、赴任半年間の2回のみで済んだ。タイは水が危なく、風呂の水も薄茶色になっていることもあった。好物のソーメンは購入した水で冷やすので、高くついた。

ただ1年後には、タイの不衛生な食事に鍛えられたのか、水道の水でソーメンを冷やしたが、何ともなかった。ある時は、コンドミニアムが日中停電であり、真夜中酔っ払って帰った私は、牛乳を飲んだ。停電で、ヨーグルト状に酸っぱく苦く腐っており、オエと吐いたが、少し飲んでしまった。その後、何の異変もなく、胃袋も鍛えられるものだと感心したものである。
 
 

節目の1年も暮れて想いを馳せるーーヨルゲンセンの詩と日本国紀

 投稿者:管理人  投稿日:2019年12月27日(金)19時52分38秒
  年の暮れの恒例の新宿御苑散策に行った。その日は、12月上旬までの小春日和を感じさせるほどの暖かさであった。御苑で最も気に入っているプラタナスの樹々(鈴掛)の小径で落葉を踏み、2冊の本を携えてベンチで読書にいそしんだ。音もなく舞い降りるプラタナスの大きな葉と都心なのに限りない静寂さがよい。

一冊はヨルゲンセンの詩集であり、もう一冊は日本国紀である。
間もなく、私の古希の1年間は終わり、平成という最後の年も終わる。齢を重ね心象風景も少々変わってきた。私にとって、四三の会の活力の源になったのは、一編の詩であった。その詩を吟味していると、どうやら今更ながら全体像が理解できるようになった。

その詩はJ・Jヨルゲンセンの詩集“深淵から”の一編だが、文字通り奥深い詩であり、23年前に私は、ボストン出張時にその詩の第2節まで読み、いたく感動していたのだ。
その詩との出会い、第2節まででの四三の会の活性源、そして詩の全体像を理解できた今、無常観が漂う心象風景に変わってきたことを描いてみたい。

そして、この無常観に立つと、とてつもない長い歴史で昭和、平成、そして令和とたった70年間生きて、やがて消滅していく自分だが、これまでの悠久な日本国の通史を読みたくなった。
百田尚樹著の格好の本があった。“日本国紀”――私たちは何者なのか”である。2000年以上にわたる歴史を一本の線でつないだ壮大な叙事詩であり、その感想も述べる。

1. J・Jヨルゲンセンの詩

(1)四三の会活性化の根源
ボストン出張の途上、機中で読んだ下記のJ・Jヨルゲンセンの詩に感動し、なぜか孤高気味だった純粋な高校時代が思い出され、下記の詩を書きつけ、同年会を開こうと四三の会の有志に絵葉書を現地から送った。四三の会のKA支部長は、下記の詩にえらく感激してくれたものである。

        降る雨のように  軽やかにひっそりとそのように時は歩みゆく
   一日は一日としずかに洩れこぼれてわれらの気づかぬ間に一年がすぎる
  われらのきづかぬまに一年がすぎて またきづかぬまに一年がすぎる
  私は思った、昨日、私は若いと 今日、私の青春は過ぎ去っている

                        J・J ヨルゲンセン 

そして、1997年7月15日に渋谷のNEC大橋会館に30名が集い、以降四三の会が活発に開かれていく。
2001年6月にこの音沙汰記の母体となっている四三の会のホームページを開設し、冒頭に上記の詩を掲載している。

(2)いまこの詩で感じ入るところ
実は、この詩は、第3節、第4節と続くが、当時はまだ若かったせいか、この部分には触れなかったが、さすがに古希を迎えたいま、無常観をもって感じ入る。3,4節は下記の通りである。

   降りつむ雪のように、あつくつもって一年はまた一年としずかに埋もれる
   言え、鏡よ、私の髪の中で光っているのは雪の跡ではないのか?
          流れゆく長い時間 消え去る多くの年月 まもなくもはや何物も残らず
   私の前にあるのは私の死だけなのだ


死との対峙であり、この詩が語り掛けてくる言葉に素直に共鳴できる。
平家物語の「諸行無常の響きあり」、鴨長明の方丈記「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」、そして般若心経の「色即是空」、と次々と無常観を語り掛けてくるものが浮かんでくる。

多分、私の体力も知力も60歳で社会から退場したせいか、そんなに衰えていないと自覚しているが、時の流れだけは絶対的なもので、必然的に心境の変化は生じてくる。

(3)そしてこの詩には5節、6節まである
この詩は更に続いており、いまの私では、まだ理解できないでいる。恐らく宗教心を持たないと駄目なのだろう。次に紹介する。

   ああ 祝福されてあれ この世の奔走と埃の歳月を無視して
           自らと自らの家族の生活に信頼しうる人の魂は
           彼はこの上もなく美しい春のただ中に立っているのだ!
           しっかりと祝福されてあれ、その信仰をもちこたえて
        万年雪と死の冬
        墓場の恐怖の背後にも
        生の太陽を見うると信じうる人は!


ちなみに、この詩のタイトルは、“死の影”である。
私のいまの博識、心境ではまだ5.6節を理解できないが、作者の人生を紐解くと推定はできる。

J・Jヨルゲンセンは、童話作家のアンデルセンと同じデンマークのフュン島でプロテスタントの信心深い家に育った。コペンハーゲン大学に進み、急進思想に触れ異端の詩人として出発した。しかし、28歳の頃にニーチェやベルレーヌ,ボードレールらの影響下に詩誌“塔”を出して、魂の不安を歌う象徴派的な詩風に移った。

そして、30歳のときにカトリックに改宗しており、聖フランシスコを慕ってイタリアに長く滞在し、41歳のときに評伝“アッシジの聖フランシスコ” によって全ヨーロッパに知られ,カトリック復興の機運を促した。
この詩は、その評伝発刊の2年後、43歳の時に詩集“深淵から”で発表されている。

晩節は、反戦を強く訴える詩人になった。第一次世界大戦で、1939年、73歳のときにドイツにデンマークが占領され、激しい反戦の抗議を込めて、“デンマーク詩集”を出版した。戦争の悲惨さを目の当たりで感じていた。
詩人としての魂が漂泊し、宗教でも悩んだ末に邂逅した遍歴が伺える。

2 日本国紀――私たちは何者なのか

一万年前以上の縄文時代から現代まで、通史として描かれている。これまで、歴史上のピンポイントでの先達の戰いや偉業を読んできたが、この通史で深入りすることのない淡々とした時間軸の運びで、点と点が繋がり一本の線となり、見事な日本の通史となっていた。

ただし、せっかくの蓋然性をもちながらも、第二次大戦以降は著者の心情がはいり込みすぎ、通史としての壮大な叙事詩が、抒情詩になってきたのは残念である。

“万世一系”である天皇とそれを敬いながらの戦いと策謀、そして文化が、2680年にわたり巧みに説かれていた。私は、昭和、平成、そして令和と三つの時代の元号を生き、それぞれの持つ時代の特徴を感じている。

この“万世一系”の説明をこの本から簡略しながら引用しよう。
「日本の天皇は、125代の天皇まですべて、初代神武天皇の男系子孫である。男系とは、父、祖父、曾祖父と、男親を辿っていけば、祖先に神武天皇がいるという血筋を持っていることをいう。日本では開闢以来、一度たりとも男系でない天皇は即位していない。日本はこの万世一系の皇統により、世界最古の王朝である、世界の国々から畏敬と驚異をもって見られている。」

上皇美智子さま、皇后雅子さまが民間から嫁がれても、娘、息子のお顔は父親似と感じていたが、これは遺伝子学のうえで説明できるらしい。

人間の性染色体にはX染色体とY体染色体と呼ばれる二種類があり、女性は二つのX染色体を持っているが、男性はX染色体とY染色体を一つずつ持っている。つまり、Y染色体は父親から息子にしか受け渡すことができない。
何というべきか、神武天皇のY染色体が、現在の天皇まで引き継がれているのだ。

現在の皇位継承権は、第一位が天皇の弟である秋篠宮文仁親王、第2位が秋篠宮文仁親王のご長男の悠仁親王、そして第3位は天皇の叔父の常陸宮正仁親王である。
実子の愛子さま、愛子内親王ではないのである。

歴史上、8人の女性天皇のうち4人は既婚者(未亡人)であり、男の子が継承し、また他の4人は生涯独身で弟など男系に継承を戻している。

このように継承された伝統と文化を考えると、令和の年号の重みを改めて感じ入る。
 

"Fukushima 50"の原作を読んでーー死の淵を見た男

 投稿者:管理人  投稿日:2019年11月14日(木)11時48分34秒
  先月は、身近で大水害が迫りつつある中、城山ダムが、家屋・人命を一気に脅かす緊急放流を行うときの曖昧な決行判断と不手際について書いた。
自然の猛威が、変化しながら急速に迫り襲ってくる危機への対処は実に難しいものである。まだ台風15号と19号が日本列島にもたらした堤防決壊や土砂崩れなどの深い爪痕が生々しく残っている。

来年3月に、自然災害が招いた最悪レベル7の福島原発事故の映画 ”Fukushima 50” が放映されるが、死と隣り合わせながら、奮闘した最前線の方々を描かれている。

映画では、福島第一原発所長の吉田昌郎所長は渡辺謙、原子炉から最も近い中央制御室を指揮する当直長の伊崎利夫は佐藤浩市が演じ、現場を引っ掻き回した菅直人総理は佐野史郎と重厚な俳優の布陣である。

その放映に先立ち、映画の原作である門田隆将著 “死の淵を見た男” を読み、非常に感じいったところを二つ挙げる。あらすじのようになってしまうが。

更に、“死の淵を見た男”では悪役となった菅直人元総理と細野豪志元補佐官については、ここで我を忘れた官邸として、海水注入中止命令、元総理自らの現地入り、そして東電全面撤退のはやとちりの3つの問題を挙げてみた。

しかし、一家言を為す立場であり、彼らの言い分もあると思うので、公平に、原発に関する二人の自叙伝を読み、取り組みへの考え方・心情を調べてみた。

1 “死の淵を見た男”を読んで

(1) 想定3倍の津波が襲った大惨事に沈着・勇敢な取り組み
津波の想定最大高さを5.7mと想定していたが、14~15mの津波に襲われた。これで外部電源がダウンしたときに働く非常用デイ―ゼル発電機もやられ、電源系が全滅した。

筒井哲郎著“原発フェイドアウト”では、東電の経営者側の津波対策の意思決定に問題あると指摘している。だが、2018年10月に勝俣会長、武黒本部長、武藤副本部長の旧経営陣に証人喚問が行われているが、想定外として無罪の判決が下った。

しかし一方、日本原子力発電が経営する東海第二原発は津波対策を行っていた。
2008年に旧総理府地震本部が発した津波地震の予測を採り入れ、茨城の東海第二原発は、津波対策強化策を実行した。東電の福島原発は情報を共有しながらなにもしなかったのだ。

東海第二原発は、非常用デイ―ゼル発電機の冷却に必要な海水ポンプを設置しているエリアに防護壁などを施し、その結果この大津波では外部電源はダウンしたが、非常用電源は無事だったとのことである。

これら津波対策問題は、現場で原発を運用管理している東電の者には関係なく、経営トップの責任で、現場の運用管理者はただの被害者の立場にある。
原発の電源系統が全滅し真っ暗闇で、600人ほどが非常事態で立ち往生している。吉田所長の次の表現が当時の取り組み状況を端的に言い表している。

「もう駄目かと何度も思いました。私たちの置かれた状況は、飛行機のコックピットで、計器もすべて見えなくなり、油圧もなにもかも失った中で機体を着陸させようとしているようなものでした。現場で命を賭けて頑張った部下たちに、ただ頭が下がります」

全電源喪失、冷却不能という状況で刻々と放射線量が高まり、爆発が起きる中、暗闇で注水しながらベントを開く(ガス抜き)などは文字通り命がけの作業であった。吉田所長は、激しく変わっていく惨状の中、残った69人(映画は50人だが)とともに、全電源が喪失しても知恵を絞り決断し、一丸となって対処していく。

東工大卒で東電の執行役員ながら、現場たたき上げの吉田所長は、事故後最悪のケースを次のように想定していた。

「格納容器が爆発すると放射能が飛散し、放射線レベルが近づけないものになってしまうんです。人間がアプローチできなくなる。第一と第二で計十基の原子炉がやられますから(第二原発の距離はわずか11km、無傷で切り抜けたが)単純に考えても“チェルノブイリ×10”という数字が出ます。私は、その事態を考えながら、あの中で対応していました。」

一方、官邸に助言していた班目春樹原子力安全委員会委員長は下記のように述べた。

「最悪の場合は吉田さんの言う想定よりも、もっと大きくなった可能性があると思います。福島第二だけでなく、茨城の東海第二発電所もアウトになったでしょう。そうなれば日本は三分割されていたかもしれません。汚染によって住めなくなってきた地域と、それ以外の北海道や西日本の三つです。日本はあの時、三つに分かれるギリギリの状態だったかもしれない。入れ続けた水が最後の最後でついに原子炉の暴走を止めた」

改めて原子力史上で最大規模の大惨事を、現場の知恵と勇気、そして気力、情熱、執念で最小限に封じ込めたと感じ、当時現場で、命がけで奮闘した方々に敬意を表する。

私は、大震災の後に、被災した大学空手部の同期の友人宅に、同期からの見舞金48万円を携えて訪れた。地震、津波、原発事故に襲われ、凄まじい光景であった。(下写真)

彼の蔵を含めた全家屋が流出し、海がこんなに近いとは思わなかったと言う。60軒の街で30名がお亡くなりになり、跡形もなかった。彼の家は海辺から500mも離れていたが。

彼の土地は、原発の立入禁止圏の20kmからは、たった5kmほどの距離である。知人が撮影したというVTRを見たが、津波が凄まじく仰天した。(下写真)

一瞬のうちになにもかも破壊して呑みこんでいき、震撼してくる。これが、福島原発を襲ったのだ。日本地震列島で、世界で唯一原爆を経験した日本人が、原発を推進し、またも被爆しても、まだ脱原発の舵取りを出来ないでいることが悲しい。ドイツ、台湾、スイス、韓国は、既に脱原発に舵を切っている。

以前は、設計目標をきちんと立て先端技術を駆使すれば、原発の利用は可能と考えたが、大震災以降は、福島原発の実態が解明され、他の原発基地への緩慢な水平展開、関西電力の時代離れした金品受領などをみるにつけ、もう日本は脱原発すべきと思うようになった。

(2)我を忘れた官邸
①「海水注入を中止しろ」
東電本店幹部は、「御殿女中」のような体質を持っており、素人だがその謙虚さもない傲慢な官邸に振り回されていた。

やっと海水注入が始まったときに、吉田所長に東電本店の武黒一郎フェローが電話をかけてきて、次の問答があった。
武黒:「とにかく止めろ」
吉田:「なんでですか。入れ始めたら止められませんよ」
武黒:「おまえ、うるせえ。官邸がグジグジ言ってんだよ!」

すさまじいやりとりとなった。吉田所長は、素人の理不尽な要求が、現場の最前線で闘っている自分のところに飛んでくるのか腹立たしくてならなかった。

この命令は、海水注入によって“再臨界”になるのではないか、という早とちりした官邸の懸念を東電本店が、現場に対し総理の了解がなく中止と伝えたものだった。
テレビ朝日のニュースとして、次のYoutubeに官邸の理不尽な対応が残っている。
https://www.youtube.com/watch?v=OiTfZFwzkvI

首相補佐官として東電本店に常駐し、後に原発事故担当相となった細野豪志氏が官邸として次のように発信している。

細野補佐官が、「(海水注入は)班目委員長から再臨界の可能性があるという意見が出た」と述べた。
これに対し班目委員長は、「再臨界の可能性はゼロではありませんと申し上げた。かなりムッとした。細野補佐官も“再臨界の可能性”と“再臨界の危険性”はどれだけ違うかおわかりになっていない。全然違うものだ。海水注入中断はけしからん話です」と細野補佐官に訂正を求めた。

細野補佐官は、即刻訂正に応じ、海水注入に許可が出た。大惨事最中に、とてつもないミスを犯したが、細野補佐官は悪びれず堂々と鉄面皮で訂正する無神経さに腹が立つ。

しかし、現場の吉田所長は官邸、東電本店より一枚上手で二枚舌を使った。大惨事を前に理不尽さに屈することなく、最小限の被害に留める為にあえて業務命令に反した。東電本店のとのテレビ会議で、海水注入の中止命令を俺が出すが、裏では部下にそのまま海水注入を続けろと指示しており、実際は海水注入が中断されることはなかった。

②総理自ら現地入り
原発事故翌日に、菅元総理は、ヘリコプターで現地に来た。地震と津波で大勢の犠牲者が出て、この大震災に大局観で采配を振るうべきなのに、ピンポイントで“総理ご一行様”が到着したのだ。

時間との闘いで難航していたベントの準備をはじめ、さまざまな手段を講じている吉田社長は迷惑千万だったろう。

管元総理は、班目委員長にも東電武藤栄副社長にも、一方的に怒鳴り続け委縮させていた。しかし吉田所長との面談では、吉田所長が日ごろから上司にずけずけとものいうタイプであり、“イラ管”の異名を持つ一国の総理にも物怖じしなかった。理路整然とした原因と対応、そしてベントを行う決死隊編成を話し、満足させて帰らせた。

③東電全面撤退か
事故から4日目となり、文字通り不眠不休の状態でここまで来た。だが、ついに事態は最後を迎えようとしていた。この日の午前11時過ぎに起きた三号機の爆発で、消防車が破壊され冷却活動がストップした。

枝野、海江田の両大臣は東電の清水社長から電話連絡を受けていた。二人は、清水社長の言うことを”全員撤退“と受け止めた。

両大臣は、班目委員長の意見を求めたところ、「全員撤退は、原子炉の制御を放棄しすべてのプラントを暴走に任せるという意味である。それは日本を見捨てるという意味でもある。」と述べた。
管元総理は、この全員撤退の驚愕の報告に怒り心頭に達した。

清水社長が官邸に呼び出された。開口一番、東電は撤退するつもりなのかと問いただされた。「撤退など考えておりません」と清水社長は答える。

清水社長の説明不足と、報告を受けた政治家の誤解であった。
この後の菅総理の怒りに任せた暴言は言語道断である。凄まじい口調である。「撤退したら、東電は百パーセントつぶれる。逃げてみたって、逃げきれないぞ!」

2、“福島原発事故総理大臣として考えたこと”、“証言 原発危機500日“
――菅元総理、細野元補佐官の自叙伝

(1) 海水注入中止のいきさつ
① 管元総理
海水注入をとめさせる指示を出したことはない。海水注入まで2時間あるので、塩分で炉が腐食するとか、再臨界の可能性について検討するように言ったのである。これが歪められて伝えられた。後に判明したことだが、海水注入は既に始まっていた。その報告は私のところに来ていない。

武黒フェローは「総理の了解が取れていないので待ってくれ」と言い、東電本店は吉田所長に中断するよう指示が行った。だが、吉田所長はこの指示に従ったふりして注水を続けた。
② 細野元補佐官
管元総理が腐食の議論を行い、再臨界の危険がないか質問した。
(班目委員長は再臨界の)可能性はゼロではないと回答したんです。その発言を聞いてもう一度検討しなければという雰囲気になったんです。

そのとき、吉田所長はすでに海水注入を始めていたんですね。官邸にいた武黒フェローがいったん海水注入を停止するよう吉田所長に指示を出したものの、現場は止めていなかった。

後から見れば、非常に滑稽なやり取りになってしまいました。吉田さんの判断は正しかったと思います。
いちいち政府が判断するのではなく東京電力に任せる、東電本店は現場の判断に任せる、そういうふうに権限が現場に一任されていれば、こういう状況は回避できたと思います。

(2) 元総理の現地入り
① 管元総理
とにかく、現場の様子がわからなかった。さらには官邸の意向が現場に届いているのかどうかも、分からない。現場から東電本店、本店から保安院、保安院から官邸、あるいは本店から官邸にいた東電の社員といった形で、“伝言ゲーム”が行われていたのである。
そこで、とにかく短時間でも現地に行って現地責任者に話を聞こうと決めたのである。

(3)全面撤退か
①管元総理
海江田大臣から「東電が原発現場から撤退を申し入れてきていますが、どうしましょう」と告げられた。私はこのように答えた。
「撤退したらどうなるのか分かって言っているのか。福島、東北だけじゃない東日本全体がやられるぞ」
清水社長が来たので、「撤退なんてありませんよ」と告げたら、「はい、分かりました」とあっさり答えた。拍子抜けした記憶がある。
東電に行き、このように述べた。

「皆さんは当事者です。命を懸けてください。逃げても逃げきれない。東電がやるしかない。撤退はありえない。撤退したら、東電は必ずつぶれる。」
そして、国会事故調の報告では、この時、東電は“全面撤退”は考えておらず、それは官邸の誤解だったと記録されている。

② 細野元補佐官
原発を担当することになったいきさつを次のように述べている。
鳥越:「誰の指示で担当になったのですか」細野「そこはきわめて曖昧模糊としていまして、 官邸にいた補佐官は、寺田補佐官と私だったので二人で話をして決めたんです。総理の指示ではないですね」(これが無責任とも思われる傍観者的発言の根源だったと思う)

そして、15日の事態悪化で、海江田大臣が総理に「東京電力が事故現場から撤退したいと言っていますと報告し、即座に「そんなことはありえない。撤退したらどうなるのかわかっているのか」という言葉でした。

私にとっては、本当に目が覚める瞬間でした。自分のなかで逡巡していたものが、完全になくなった。

清水社長が官邸に来て、撤退するような話が伝わってきているけれども、と総理は尋ねた。清水社長は「いやいや」と微妙なニュアンスだった。私には清水社長の真意がわかりませんでした。私は管総理の英断だったと考えています。

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どうにも傍観者的な取り組みと暴走が入り交じり、やはり管元総理自ら前線に飛び出し,ガバナンスをおろそかにしたことの問題が大きい。そして現場情報が素早く、正確にあげる仕組みが欠けていた。

細野元補佐官の次の述懐が反省の本質である。
「いちいち政府が判断するのではなく東京電力に任せる、東電本店は現場の判断に任せる、そういうふうに権限が現場に一任されていれば、こういう状況は回避できたと思います。


吉田所長は、原発事故の翌年2012年2月に極度のストレスにさらされ続けた肉体を食道癌が蝕み、手術を行った。7月に脳内出血を起こし、58歳の若さで痛ましくも亡くなった。門田隆将氏の取材は、がん手術以降の短い期間だったが、大規模自然災害への取り組みとして非常に感銘して読んだ本である。
 

未曽有の台風襲来

 投稿者:管理人  投稿日:2019年10月19日(土)16時02分20秒
  今月は、絵画展を鑑賞し芸術の秋で始まったが、空前の台風襲来で、とんでもない体験をした。身辺で起きたことを3点ほど書き綴る。

(1)台風襲来
台風19号は、空前の凄まじいものだった。これについては身をもって経験したことに基づき2つほど提言したい。

① ライブカメラの設置をーー自分の命は自分で守る
私の住んでいるところは、相模川のハザードマップで2~5mの浸水水位になると警告されている。これは2日間の雨量が459mm以上の場合であり、150年間に1回と推定されている。危険な場所であるが、1986年に選定された「相模川八景」に選ばれている。72万人の政令都市とは思えない風光明媚なところだが、豊かな美しい自然が残っているゆえ、自然災害はつきものである。

12日は、早朝から叩きつけるようなもの凄い雨であった。台風19号は、最大風速60m/秒、半径300kmが暴風圏という途方もない予報だった。
無残にも瓦を剥がした千葉の台風15号は57.5m/秒であるから、それを上回る猛烈な暴風となる予報であり、逐次進路をチェックしたが、直撃を免れないこととなった。
しかし、暴風の予想は全く外れて、雨台風となった。私の家は低地にあるので、風に対しては安堵していたが、雨台風に変わり大慌てした。

気象庁もマスコミ報道も結果論だけで、なぜ過去最悪の暴風予報が外れたかの報道は一切ない。相模川沿いの隣の緑区で総雨量770ミリ、時間当たりの最多雨量は87ミリと発表され、水害に対する事態は深刻になった。
ハザードマップの私の家が水没するはずの雨量459ミリをはるかに超えており、避難指示(警戒レベル4)が出て、消防車が喧騒なほどに避難を促す。

昨年の西日本豪雨以来、たいした雨量でもないのに頻繁に避難勧告が出るので、「またオオカミ少年だな」と思いつつも、降り続ける猛烈な雨と雨量データに遭遇しながら、今度は本当にオオカミが来るかもしれないと思い始めた。

ネットのライブカメラ画像と相模川水位情報測定は、我が家から3.5km下流の厚木市上依知のみである。上依知は危険氾濫水位7.3mを超えて7.93mに達しているという。
とんでもない情報が飛び回っているが、肝心の我が家の近くの堤防情報は皆無である。

ついに、私は自分の足で猛烈な風雨の中、堤防のパトロールに出かけた。綿密に歩き回り、スマホで写真を撮ったが、これまでと全く違う光景に息を呑んだ。(下写真)濁流のうねりが大きく、ゴーゴーと不気味な音を鳴らし、橋の下流側では河川敷すべてが浸水していた。私が持ち帰ったデータは、蛮勇にも関わらず近所の人におおいに感謝された。

そして、家に戻り結論を出した。即刻、妻に指定の小学校に避難するように伝え、私だけが家に留まることにした。私の推定では、相模川は左にカーブして下流が広がっているのでボトルネックになることはなく、川の左側の我が家は、堤防決壊ではなく越水(堤防を水が越える)だろうと考えた。

その越水のタイミングは、昭和40年の城山ダム開設以来、初めて行う“緊急放流”の17時すぎと読んだ。

15時に妻の懸命な説得に応じず、私のみが家に留まった。越水が始まって水が来れば、ブレーカーを落とし、100mほどの道を走り抜け、避難所に通じる坂道にたどり着けるはずである。堤防決壊ではむりだが、越水ならば充分な余裕がある。

ハザードマップでは、浸水のスピードは遅くともジワジワと5mまで達する可能性があり、2階に逃げても無駄だ。

ほどなくして、息子は、堤防のパトロールも“自己責任”と割り切っていたが、娘からは矢継ぎ早の電話である。緊急放流の前に避難せよとのことである。言うことをきかなければ、娘が車で私を迎えに来て、連れて帰ると強硬である。

さすがに娘までは、危険にさらすことはできなく、猛烈な雨の中、風もあり、傘もさせずにずぶ濡れとなり、悄然としてやむなく1km先の避難所に歩いて向かった。

② 緊急放流――曖昧な決行判断と不手際
小学校の避難所は(下写真)、250人ほどでほどなく満員になった。他の避難所も満員になったそうである。ここで、17時から始まるという“緊急放流”に対しスマホ情報を固唾をのんで見守った。

しかし、緊急放流は、直前に上流の降雨量が少なくなったといったん中止された。もし、この後、緊急放流“を行う場合は、1時間前に通知するという。

“緊急放流”は、昨年愛媛県で実施され、2900棟が浸水し9名の方が亡くなる大惨事を起こし、避難指示の不徹底で告訴されており、躊躇したのだろう。

そしてその裏には、もっと恐るべき人災の起因になるものが2日後に判明した。共同通信の10月14日の記事で、「昨年の西日本豪雨の教訓として有識者から提言されていた事前の水位調節は、実施していなかった。国土交通省は対応が適切だったかどうか調べる方針だ。」事もあろうに、この大水害を予期しながらダムの水を抜いていなかったのだ。

たしかに、空前の台風接近は「7日夕方にはマリアナ諸島で大型で猛烈な台風となりました。その後、台風は進路を北西に変え、11日には八丈島の南西海上に達した。」と逐次伝えられたが、大雨が降る前に水位を下げていくサイレンが3度程度しかならなかったと記憶している。

茨城県の那珂川では、堤防が3か所で決壊し大規模な浸水が発生したが、川の氾濫を知らせる「氾濫発生情報」が発表されず、赤羽国土交通大臣が陳謝している。

ここでも、二転三転と不手際が続く。中止決定も束の間で、この危険な緊急放流は、ダムが決壊する恐れがあるので22時に行うと通知されがっくりした。

更に急遽何が原因か判らないが、30分ほど繰り上げ21時30分に実施するとの通知が21時33分に届いた。順序が逆であり、初めての緊急放流のダム側のバタバタしている様子がうかがえる。
18日の報道ステーションで城山ダムが緊急放流の実施時間を通知していないことと事前水位調節をしていなかった問題が大きくとらえられた。

その緊急放流の21時30分頃に皮肉にも、突然風雨が収まってくる。24時頃に、避難所の公務員の責任あるものに、私は次のように問いただす。
「台風の目に入ったので、これからまた荒れるというが、台風の目の大きさは通常40~50kmだ、時速35kmで進んでいるので、いくら目が大きいと言っても、もう通過しているはずだ、この雨雲レーダーを見てくれ」
彼は、あっと驚き、見入って、「そうですねえ、どうしたんですかね」と呟く。

私は、しびれを切らし、もう帰ると告げる。彼は、「緊急放流が始まったんです。急には水位が上がらないからまだ危険です。避難を続けてください」

私は怒気を含めて、「一体何トン緊急放流したのか、ダムに電話で聞いてみろ。“緊急放流”とは、ダム上流で降った分だけ下流に流すしくみだ。もう上流も2時間半近く晴れている。もう緊急放流を通知してしまったので、放流したいと思うだろうが水がないだろう」と話した。

私のやり取りを聞いていた人達も帰り支度を始めた。12時半頃に家に戻ったが、街はいつもの表情に戻っていた。

(2)新制作展の見学ーーIK先輩が13年連続入選
大学空手部OBのIK先輩が、六本木の国立新美術館で行われている新制作展に13年連続で入選している。新大久保スポーツセンターでの月例稽古の後に、新制作展で鑑賞した。

新制作展は、日展、二科展などに比し、“自由と純粋さ”を標榜とし厳しい審査が特徴であり、83年の歴史がある。
審査側となる会員資格は、他の展示会では5回入選程度だが、新制作展は15回と厳しいが、IK先輩には、もうその栄誉ある資格は眼前にある。

絵は200号の大きさで、題名は「巣領域 蜂を育てるところ」である。“巣”というコンセプトに4年連続取り組み、モチーフは毎年ガラリと変わる。今年は、絵の左から右に育っていく時間軸が表現されている。(下写真)昨年は、冷蔵庫の中の“巣”であった。

IK先輩曰く。「絵はまず驚きを感じさせること、そして共鳴、共感を得ること」と秀でた画伯の言葉の重みがあった。
益々意気軒昂であり、来年は、20万から30万円かけて銀座で個展を開く予定であるとのことである。

(3)蚤の市もIT革命に中に
フランスの蚤の市に由来するフリーマーケットが、ITを駆使したビジネスモデルになり、この度実際に活用し、その簡便さと課題のセキュリテイのしくみに感心した。

事の発端は、私の愛用してきたポータブル・オーデイオ・プレイヤーの充電ケーブルの破損である。10年間、ウオーキングで活用し欠かせないもであった。
アップルのIpod Shaffleであり、350曲が入り2㎝角の12グラムと軽量で、服に挟むクリップまでついており、ウオーキングには最適である。

しかし、イヤホンのケーブルがからみつくのは厄介だったので、Bluetoothでのワイヤレス・イヤホンを検討した。スマホのBluetooth機能活用が一般的であるが、ウオーキングでは、スマホ大きく重く邪魔だ。しかし、Ipod Shaffleのような小型軽量のもので、Bluetooth機能はなくこの機種はアップルが生産中止にしている。

他社で、近いものはあったが、Itunesに蓄えた懐メロから世界中の音楽を、また金をかけてダウンロードしなければならない。環境もアップルに囲まれているのだ。
それに、先日混雑した駅のプラットホームでワイヤレス・イヤホンを落とし狼狽している若者の姿を思い出した。落とすのも怖くワイヤレス機種を諦めた。

現機種で、破損した充電ケーブルのみを購入しようとアマゾンで検索したが、アップル純正でないものは670円だが、品質が非常に悪い。純正ケーブルは、生産中止で市場にない。

実は、Ipod Shaffleの本体も、先般誤ってポケットに入れたまま洗濯して、あわててドライヤーで乾かし再生させたが、半殺し状態で調子が悪い時もある。

選択肢は、Ipod Shaffleしかないので、価格ドットコムで調べたところ、最安値11800円であり、高値止まりしている。

考えた末に、フリーマーケットの“メルカリ”を活用してみようと思った。中古品の売買だが、次の特徴がある。
 ・実名でも匿名でも活用できるが、プロファイルを明かした実名取引が信用できる。
 ・取引履歴が、満足、普通、不満の3段階で評価されて信用度が計れる。
 ・価格に不満ならば、オファーと言い、指値での取引ができる。
 ・質問など取引相手と気軽にチャタリングできる。

数日間、Ipod Shaffleの動きを見ていると、呼吸をしているように、出品、落札が続いている。まず出品者の素性と取引履歴を見て、なんと1300円で写真のようなIpod Shaffleを落札できた。新品同様であり、早速活用している。
 

イテテテテエー ――突如生涯一番の激痛が

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 9月16日(月)19時47分26秒
  蝉時雨も途絶え、トンボが飛び交い、夜半折角の中秋の名月だが雲に隠れており、心地よい涼風とともに虫の音が響き渡っている。
それにしても今年の夏は梅雨が長引いた分を取り戻すかのように厳しい酷暑であり、残暑でもあった。

私の体調は、暑さにもめげずすこぶる良かった。いつもの習慣だが、昼飯まえに公園で空手の体操と基本技を行い、ウオーキングをする。
その日は、うだるような暑さだが、ジョッギングに切り替え8km近く走った。(下写真)前日、道場でサンドバッグを100本ほど蹴り、親指の付け根に違和感を覚えていたので、逆療法として走りこんだ。汗をたっぷりかいた後は、渇いたのどでスポーツドリンクを飲み、水シャワーでさっぱりとする。

翌朝、足の痛みで目が覚めた。階段も容易に降りられないほどだ。私は、てっきり年甲斐もなく逆療法をとり疲労骨折したものと考え、患部を冷やし固定した。
妻は、体操サークルの練習とお食事があるとかで、痛がる私を尻目にイソイソと車で出掛けてしまった。

痛みは脳天に達するほどになり、昼飯は痛む足を引きずり、ようやくカップラーメンを作って食べた。患部の腫れは、いよいよひどくなり(下写真)、心なしか親指が少々紫の色味を帯びてきたように見える。親指は、曲げる感覚が失せて、このまま壊死するのではないかとさえ思われた。

ついに、妻を呼び戻し、車で医者に連れて行ってもらった。親指が麻痺して運転できる状態にはなかった。

医者は、血液採取とX線を撮り、私の運動した状況を丁寧に聞き、おもむろに言った。「骨折はしていない、骨に異常はない。多分痛風でしょう」
痛風は足が痛むものとはわかっていたが、親指の付け根に出る症状とは知らなかった。そして、私は、健康診断で尿酸値は異常が無かったと医者に反論した。

娘からは、「酒の飲みすぎ、酒飲みの慢性疾患」と厳しいメールが届いた。しかし、案の定、2日後の血液検査の結果では、尿酸値は正常と判明した。(下写真)酒の飲みすぎという批判は払拭できた。そして、鎮痛剤で痛みを抑えて、2日後にはウソのように痛みも引いた。

医者曰く。「尿酸というものは、尿で排出する。水は一日2リットル飲まないと、排出しきれない。それを炎天下で走って、事後に水分供給ではだめだ。走る前、走っている間でも水を補給しないと尿酸値は一時的に上がる。尿酸値は正常だから、尿酸降下剤は投与しないが、運動前に水補給をしないと再発するよ」

調べてみたが、過剰な尿酸は結晶化して関節に溜まり、運動などをきっかけに尿酸塩結晶が関節液中に?れ落ちると,それを敵と見なして白血球が集まってきて炎症を起こし、激痛が始まるのだそうだ。

思い当たることばかりだ。痛風とは、文字通り風が吹いても痛いということを実感した。

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9月7日、8日は、大学空手OBの支部発足20周年の行事に明け暮れた。9月8日に、日本武道館にオリンピック規模で各国のオリンピック候補の選手が集い、プレミアリーグ東京大会として競う。支部のMHさんは、オリンピック対策本部の特別顧問の重責を担っており、最前面の観覧席が16名分とれたので、大学の現役も招き、一緒に観ることにした。

大学現役には、昨年の第40回全国国公立大学空手道選手権で優勝したお祝いである。それに先立ち、現役との懇親会も行った。2日間にわたっての記念行事について述べる。

(1) 懇親会 9月7日 新宿栄寿司
優勝したメンバーのMHさんとOSさんが参加し、IMさんは都合悪く欠席である。ほかに陰となり日向となり指導してきたCTコーチと男子1年の将来のエース、OT君が参加してくれ、OBは10人で迎えた。
昨年の優勝に関しては、当人たちから直接聞くことができ、臨場感にあふれた内容であった。

MH選手は、前年度負けた長崎大に3回戦で勝てたこと、しかも同じ選手と戦い勝ったことが最も嬉しかったという。
前年度の長崎大は確かに強豪であり、それまでの3年間で優勝2度、4位1度であり、MH選手の相手のY選手は優秀選手賞を受けていた。さすがに相手は手強く、MH選手は開始早々左上段突きをとられ、そのままずるずると1:0の判定負けを喫していた。

奇しくも、今回の試合で同じ選手と再戦することになり、見事にリベンジを果たし、このトップ選手を倒したことが、決勝までの快進撃の原動力になったのだろう。

OM選手は、4月に入部して、7か月間の短い稽古期間だったが、全日本で他校の先輩達と堂々と渡り合っていた。

2回戦の東京海洋大(旧東京商船大)との試合をyoutube で見たが、フットワークが良く、抜群に体幹が強い。蹴りも出ており、飛び込んでの左上段突きも間合いを詰め切れておらず惜しかったが、取られたのはほぼ相打ちであり、今後の練習の積み上げでぐんぐん強くなる空手である。あまりに体幹が強く本人に運動歴を聞いたら、陸上をやっており100mを12秒ちょっとで走ると聞き納得した。

IM選手は出席していなかったが、決勝の北海道大学戦は、緊迫したとのことである。IM選手は大将を務め、1:1の同点で文字通り決戦であった。相手校はこの2年間に、三位、ベストエイトの戦績を残してきた試合巧者である。ポイントではIMさんが6ポイント取ったが、相手の顔面を強打した反則と場外に出た禁止行為で、流れとして反則負けも考えられる展開だったが、そのまま押し勝ち優勝に導いている。

東京海洋大との試合をyoutubeで見たが、6:0と危なげなく圧勝しており、伸びのある中段突きと接近戦での極め技、素早い連打が素晴らしい。蹴りは中段右回しと左上段回しが出ていたが、いずれも単発で浅かったが、鋭い突きとのコンビネーションで出せれば威力を発揮する。

(2) 空手プレミアリーグ東京 9月8日 日本武道館
OBが12人、現役たち4人で観戦した。
日本選手は、オリンピック種目で金メダル6個と大健闘した。決勝戦の冒頭から清水希容選手とライバルのスペイン・サンドラ選手の形の決勝で、なんと判定は引き分けとなった。点数は1/100までであり、非常にまれなケースとなり、再試合で清水選手は全力を出し切り息が上がっていたようだが、きりりとした演武で、涙の優勝を勝ち得た。

男子形は、新馬場選手と喜友名選手の日本人対決になったが、喜友名選手の王座は世界レベルでも揺るぎがないだろう。四大流派ではない劉衛流の“アーナンダイ”で勝負しているところが凄い。師匠の佐久本嗣男さんが、はじめて沖縄から本土で“アーナン”を国体で披露したとき間近で見たが、衝撃は凄かった。それがきっちりと進化して喜友名選手に伝承されている。

組手は、西村選手とアガイエフ選手との対決が見ものであった。ただ、ルール変更で一瞬でも組んではいけないルールになり、接触した瞬間に相手を投げ飛ばし極め技を入れるアガイエフ選手らしさが消えて、精彩を欠いた試合になった。西村選手の牙城は当分揺るがないと思う。

植草歩選手は、決勝を5:0で圧勝し、久しぶりの笑顔が戻った。今年は、ドバイ大会は3回戦で敗れ、7月のアジア選手権では2回戦敗退だった。
今大会の準決勝が事実上の決勝戦だった。相手は昨年世界選手権の決勝で敗れたエレニ選手であり、残り12秒のところにカウンターの上段突きを決めた。まだまだ予断を許せない階級である。

それにしても、寿命が長い選手である。植草選手は、2013年9月の東京国体で大学後輩の2年生だったNS選手と戦っている。当時すでに世界大会を制し、トップ選手だったがいまも維持している姿は素晴らしい。試合ではNS選手は一歩も引かず、激しい攻防だったが、圧倒された。大きな体全体を使い、伸びのあるスピードとパワーのあるワンツーの中段逆突きは当時でも世界トップの技だった。

今回の全国大会優勝の偉業の他にも、そのような大学空手道部の歴史があり、誇らしい。
 

“超老人のすすめ”からーー肉体改造論、広瀬立成著

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月26日(月)19時58分13秒
  湿潤な梅雨が長引いた後に、強烈な酷暑が襲ってきた。今月も空手の行事が目白押しである。もう古希を迎えたが、仕事のストレスが皆無なせいか無茶苦茶な生活を送っても不思議に疲労は残らない。

私は、この2015年1月の掲示板で、老年期の生き方を述べた27冊の蔵書を次の3つの分類に分けて紹介した。

・アンチエージング型  ・人生回顧型  ・限られた余生を美しく型

そして、「私はだまだ真摯に絶えず先達の生き方を学び、考え抜いていく。上の3つの型のどれも中途半端な私は、それらを織り交ぜ、余生に取り組む」と結んでいた。

自分なりの“断捨離”を行いながら、私の老年期の基軸の一つになった空手には、当時アンチエージング型に分けていた広瀬立成著“超老人のすすめ”――物理学者が見つけた「元気の秘密」の指摘に合致するところが多い。特に第3章の“超老人の肉体改造論”は、歳を重ねて実績ができてきたからこそ理解が深まった部分もある。

最近、その著書の全くその通りというポイントを挙げてみる。

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① 超老人は「若者の野性と大人の気品」を備える
超老人は肉体と精神を不離不分なものとして把握する。“心身一如”というわけだ。高齢とはいえ、強い肉体をもつ超老人は、怠けている若者より優れた行動力の持ち主だ。一見無謀と思われる生き方が、けっこううまくいっているのも、知識だけを詰め込んだいわば「頭脳知」より超老人の長い間の経験と行動によって「身体知」を身につけていることにほかならない。

② 身体美を求めてーー肉体改造論
「身体知」を育むうえで、もっとも健全な方法は、野性のからだを作ることだ。野性の動物に肥満はいなく、家畜は太る。からだのかたちや表情は、肉体的・精神的な健康状態を映し出す鏡だ。風呂に入ったときなどに勇気をもって全身を観察する。そもそも日本には身体美を評価する視点が伝統的に欠けていたように思われる。

③ 超老人のからだはしなやか
からだの軟らかさとは、骨と骨を連絡している関節が軟らかいことを意味する。関節が固くなるのは、靭帯や筋の収縮力と伸長力が落ちるからだ。それは自然の老化より、むしろ動かさないことに原因がある。日常生活で決まった方向に、決まった強さだけで動かしているかぎり、全体の柔軟性が落ちていても、そのことにほとんど気つかない。
ストレッチの効用はからだが軽くなり、動きが滑らかになるのだ。腰痛に悩む人は多いが、腰痛らしきものにはかかったことがない。

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超老人の身体知を育み私の人生の基軸でもある空手について今月の活動を二つ列挙してみよう。ストレッチの効用の実体験も述べる。

(1) 大学OB月例稽古と暑気払い
大学のOB月例稽古は、新宿の武道場を借りて、2012年3月に始まった。今月で76回目となり、7年半継続している。

始めた頃に、長い企業生活で蝕まれた肉体を再点検したところ、特にからだがワリバシのように固く脆さを感じさせられ、上段を蹴る技で上半身の軸が崩れ、形はぎくしゃくとした動きであった。考え抜いて、ストレッチ運動を開始した。

そして、それから7年半で私のからだは、下写真の通り、2つに折れるという、当時からすれば夢のようなことが実現したのである。廻し蹴りも中段が精一杯であったが、これも上半身が倒れず軸を保ち上段を蹴れるようになっていた。

採り入れた真向法に基づくストレッチの効用である。真向法は、浄土真宗のお寺の息子だった長井津氏が編み出し普及したものであるが、宗教とは無縁である。
長井氏自身が、42歳の時に脳溢血で倒れ、左半身不随となり、医師からは不治と診断されたが、独自に編み出したこのストレッチで、元の体に戻り、自然治癒力を確信して普及させたものである。

骨盤のベースである股関節と、その動作を伝え取り巻く靱帯の軟らかさを促す運動が大事なことは理に叶っている。日常生活で強いストレスを受ける関節やその靱帯が硬くなり、歪んでしまうと、骨盤さらにからだも歪み、老化は着実に進行していく。

好奇心の旺盛な私は、真向法の第4体操の効果を更に挙げようとして、正座から割座に移行した状態で後ろに上半身を倒す動作に、足首を外に向けることを加え、これは数段の痛みがあり効くと思った。

痛みをこらえてようやくできるようになったが、ある日、いまの町道場の師範から、「やめた方がいいですよ。関節には禁物な負担です。」と止められた。彼は、ジムトレーニング、ストレッチを研究するプロであった。

この動作を月例稽古で皆に教えていた私は冷や汗ものだった。まだ関節を痛めたものが皆無だったことは幸いであったが。人体構造をよく研究しないで、新しいストレッチの動作を採り入れるのは禁物である。

月例稽古の後は、暑気払いであった。12時に2時間にわたる稽古を終えて、宴会場“ミライザカ”に向かう。

ただ、飲むだけでなく支部20周年記念事業の具体的な詰めを行った。昨年全国国公立大学選手権で優勝した女子チームたちをお祝いとして、9月8日の日本武道館でのプレミアリーグ世界大会に招待し、懇親を深めることを20周年行事にしている。

月例稽古を牽引してきた全空連特別顧問のMH君が奔走し、20席のチケットを確保してくれたので、そのスケジュールとともに、前日に女子チームとOBの懇親会を開くことが決定した。

すべて決まり、稽古も終わり、肩の荷がおりたように、うだるような暑さの中を有志で2次会に向かった。

(2) 町道場で孫二人と鍛錬
7年半前に月例稽古を始めてしばらくして、月に1回での稽古では物足りなく、近くの町道場に通うことにした。和道流が身にしみついた私には、剛柔流の受け、立ち方、形は大きく異なり、始めて空手を学ぶよりもきつかった。

どうやら、剛柔流の基礎が出来てきたところに、小学1年生の孫息子が入門してきた。2016年11月のことであり、もうかれこれ2年9か月になる。早生まれで体が小さかったせいか、強いものにあこがれ、思いのほか体幹が強く先般の昇級試験も無事合格した。

そして、小学生の孫娘も、この3月から空手をやりたいと言い出し、孫二人と稽古をするという願ってもない構図になった。
強制しても子供はついてこないものであり、この自発性が嬉しいかぎりだ。私はまだまだ指導するに足る肉体は保有しているが、一回一回と残された限りあのある指導機会であり、大切にしたいものである。

(3) 中国の掛け軸の “老いた孤高な虎”
空手自体とは関係ないが、掛け軸の虎(下写真)を見るたびに老年期はこのように生きたいと思い巡らしている。老いた虎でも厳しい寒気の中、威風堂々と身体美を漲らせている。

20年ほど前に、天津に滞在したときに、古文化街という骨董市で購入したものである。緊迫した仕事の束の間の骨董巡りは、中国での唯一の安息なひとときであった。そこは赤い提灯に朱色の伝統的中国様式の骨董屋が200mほど連なっている。

掛け軸は書と絵がおびただしくあり、高度な表意文字を誇る中国では、食堂にも多くの墨書の掛け軸が吊るされている。掛け軸のニーズは高く非常にハイレベルなものである。

ふと入った骨董屋で、老いた孤高な虎の掛け軸に一瞬で目を奪われた。煌々とした冷たい月の明かりの中、厳しい冬の雪の上を置いた虎が目を見据え、しなやかな巨体で歩んでいく。眼光と毛並みの描き方が素晴らしく、いまでも気に入っている逸品である。

五木寛之氏は玄冬の門で、「犀の角のごとく独り歩め」というブッダの言葉を引用していた。この犀が、掛け軸の虎とイメージが重なる。

インドのサイは群れをなさず、単独で行動する。犀の一本の角は、孤独という比喩表現であり、諸縁を放下して、孤高に生きることだろう。

更にブッダの同じ経典“スッタニパータ”では、高邁で明敏な友と交われ、そして、いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩めと説いている。
それぞれ一人一人が、雄々しく優れた独立した人格を持つように促したのであろう。

どうにも、私には掛け軸の虎の生きざまが、仏陀の説く犀に思えてならず、老年期の生きざまを示唆しているように観える。
 

なつかしき 我が師 我が友 我が母校――四三の会懇親会が22年目

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 7月31日(水)19時01分24秒
  厳しく長い酷暑の昨夏と異なり、今年は陽光が乏しく肌寒い湿潤な梅雨が長引き、ようやく待望していた太陽が燦燦と降り注ぐ夏に突入した。待ちかねたように蝉時雨が降りそそいできた。

関東直撃と予想された台風6号は熱帯低気圧に変わり、一転して夏のぎらつく陽射しに変わり、晴天のもと高校時代の四三の会関東支部の懇親会が開催された。古希を迎え70代のゴールデンエイジに入り、28名が笑顔いっぱいで参加した。(下写真)

流石に我が高校のレベルでは一家言を為すものが多く、近況報告と質問が延々と朗々と続いた。
私の番では、昨年9月の故郷での卒業50周年祝いの会で、13年間参加してきた母校OBの駅伝大会への参加辞退報告が為されたが、そのとき選手に配られたユニフォームを着用して(下写真)、それにまつわる思い出を話した。

2005年、56歳のときに、関東支部長のKA君が牽引して初参加を企画したものだが、殆どの者がもはや走る鍛錬は行っていなく、峠の急な坂道を含む17KMのコースに尻ごみした。
しかし、駅伝が始まってみると熱が入り、四三の会はトップを争う展開になった。

しかし、肝心のKA君は長い距離のジョッギング鍛錬で、短い距離でのスピードが欠けていた。1人が何メートル走っても、何回出ても良い特殊ルールである。すっかり熱の入ったチームは、頑張るKA君のたすきを強引に奪い、2位に13メートル差で優勝した。

KA君は、雪辱に燃え、翌年1人で走り切る単独走に切替えて、見事1時間35分の好タイムで完走し、面目を躍如した。

宴はたけなわだったが、3時間で打ち切り、新宿のヤマトでの二次会に出向いた。
懇親会は22年間続き、古希を迎え老いてきても活況を呈している。ほぼ男子校で女性は1割程度だったが6名も参加し、故郷からはわざわざ5名が駆けつけている。

今日は、四三の会関東支部のこれまでの歴史を振り返り、母校の特徴と私の高校時代の追憶を述べる。

(1)四三の会関東支部懇親会の歴史
1997年に第一回懇親会を渋谷のNEC大橋会館で開いており、30名が集まった。もう恒例となり22年間も続いている。
第一回は、私が発起人となり開催したのだが、タイのバンコクの4年近い滞在から帰任し、全社の生産技術部の部会長の立場で多忙を極めていた頃である。よくぞ皆に呼びかけるような時間があったと思う。ポイントはIT化にあった。

バンコク帰任後に、浦島太郎化している自分に気付いた。社員1人が1台のパソコンを備え、紙での伝達が消え急激なIT革命が起きていたのだ。帰任当初はおびただしい電子メールに戸惑ったが、すぐにシステムに慣れて、電子メールは私の人口の忠実な素早い下僕になった。

四三の会のメーリングリストをつくり、同報配信で参加可否を待てば良い。会場予約も人数変更もメールでOKであり手間暇がかからない。
最も、1994年に本部事務局のFT君が東奔西走して各人の消息を調べ上げ、四三の会の名簿を完成させ、この名簿がメール配布の礎になったのだが。

ただ、私の天動説的な考えで1999年から2005年まで関東支部の懇親会は中断した。私が岩手県の一関に赴任していたためであり、場所を仙台近辺に移し四三の会の参加メンバーも変わり、その間1999,2002.2003年と仙台定禅寺、秋保温泉など仙台中心に開催していた。

(2)我が母校とは
三年前に創立130周年を迎えた伝統を誇る藩校である。文武両道に励み、質素倹約に努め「自他の生命を尊重し、己を磨き、誠をもって世のために尽くす」興譲の精神が校風として掲げられてきた。

進路状況は、195名が卒業し、国公立に116名が進学し、私立の難関大学でも高い進学実績であり、名のある医学部に現役6名合格は県内トップとのことである。
フェンシング、卓球、ホッケーがインターハイやホッケーに出場し、ことさら“文武両道”を発揮していると強調している。

平成30年度は、探求科2クラスが設置して、2年次に進級する際、文系の“国際探求科”0と理系の“理数探求科”に分かれるという。

“国際探求科”は、国際的視野を持ち交渉力、マネジメント能力を備えた人材の育成、“理数探求科”では国際的視野を持ち想像力・表現力を備えた人材の育成を行う。
時代のニーズに応じたエリート養成クラスである。

(3) 私の高校時代からーー何か欠如感が
校風の実態はどうであろうか。私の高校時代も上述されたような進路実績であったが、文武両道者は皆無というのが実態であった。

名門大学に行くものはスポーツなど眼中になく、逆に県代表レベルを争うような運動部の者は名門大学に縁がなかった。

そして、大きな校風の問題は、そのような単純な見かけ上の“文武両道”であり、偏差値競争に重きを置いた“文”であると位置づけていたことである。今でも、進学実績を基に校長が“文”を強調するようでは変わっておらず情けない。

周囲はあまりに無味乾燥であり、勉強と縁のない本を読み、青春を、人生をどう生きるべきかの教えもなく、生徒自身の模索も欠けていた。

私は、中学時代に夢中で柔道に打ち込み然るべき成績をあげ、学業ではクラストップもとった。しかし、高校では、柔道は一流コーチがついた勉強とは無縁の巨漢達に立往生し、格闘技の限界を感じ熱が冷めた状態で取り組み、学業もあまりに大学入学の偏差値重視の姿勢に嫌気をさしていた、

“文”が想像、観念的であり、“武”は破壊・行動的であり、相極対した文武の中で、思索を深めていくことが肝要であり、文と武は同一人物が思索を深めるために肝要と思っていたが、狭い“偏差値という狭い領域での文”であり、しかも“文”と“武”は、別々の個人に専業化された校風であった。

明治時代に,一高1年の藤村操が、日光の華厳の滝に投身自殺したが、滝壺傍らの楢の大樹をけずり,墨書した“巌頭之感”と題した次の詩に大きく影響された。

「悠々たるかな天壌,遼々たるかな古今,五尺の小躯をもってこの大をはからむとす。ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを価するものぞ,万有の真相は唯一言にして悉す。曰く『不可解』。我この恨みを懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで,胸中何等の不安あるなし。はじめて知る,大なる悲観は大なる楽観に一致するを

16歳10か月にして、自分と向き合い、人生の意味、人間の生き方、自分の生の意味やあるべき姿を自らに問い、探求していったための自死と指摘されている。

東工大に合格した1年先輩のAYの講話では、成功体験を誇らしげに話した後、「いまこの時期にクラブ活動をしていることはとんでもない」と言い切った。噴飯ものであった。

私には、同じ青春期の何かが欠如していた校風にやり場のないレジスタンスが芽生えていた。
そして、高校3年の1学期の期末試験中に1週間の停学を喰らってしまった。試験を受けられず点数は前期のテストの60%となったが、それでも追試は免れた。当時、内申書は大学入試に反映されず、これも致命的にはならなかった。

停学理由の一つに、成績優秀者を張り出した紙を引き剥がし破棄したことがある。数学の上位50名をKY先生が自ら筆をとり、墨跡鮮やかに書き出し掲示していた。私は休日に柔道の稽古の後、校舎にはいり、それを何メートルにも渡り全て引き剥がした。

KY先生は、学年主任で生活指導を担っており、試験中の停学という異例の厳しい断を下したのだろう。親友のSA君に、引き剥がした証拠物件を見せたところ 「そんなことしてなんになる」と渋い顔をされたが。

そして、停学を言い渡してきたNJ校長の消極性、校風の抱えた課題、高校教育の在り方などを停学に課せられた日誌で糾弾したが黙殺された。しかし、KY先生と担任のSK先生は、個人的に理解を示す声を掛けてくれた。

NJ校長は、昭和25年から続いてきた全校の17キロ白布マラソンを廃止にした蛮行をやった人物である。廃止の理由は、当時飛行機の墜落事故が相次いだが、それよりも比較に出来ないほど交通事故が多いという信じられない理由であった。この校長の時に、翌年の卒業式からおおいに荒れた。

そして私は、ずるずると高校生活を送り、自宅浪人に追いやられてしまった。

(4)やっと青春期らしくーー恩師のアドバイス
高一のときに、父の工場が全焼し、生活は苦しかったので4月からは、父の再建中の工場でアルバイトを始めた。当時の私は、信念をもって生きていたわけでなく、旋盤工でバイトを研ぐ職人技を教えられながら鉄の焼ける臭いが嫌気をさしながら、一方では進学校の高卒どまりでは社会で使いものにならないという不安などに漠然と苛まされていた。

6月頃に、担任SK先生から、一度学校に話に来ないかとの電話が入った。SK先生は、カマのように髪を立て文学青年崩れのような飄々とした風貌で名前をもじり“カマスケ”と呼ばれていた。

驚くことに、私の停学時の日記を克明に覚えておられ、深い洞察力で私の話に聞き入ってくれた。私は、久しぶりに軽い興奮と緊張感で高揚していた。

カマスケ先生が青春時代に愛読した本として紹介されたものは、阿部次郎著“三太郎の日記”である。阿部次郎は、現山形東高校のときに校長の方針に反発し、排斥運動とストライキを行い、退学したという。その後、一高に入学して、哲学の美学者の地位を極めたという人物であった。

その本は、図星で当時の心の琴線に触れた。「自己喪失と生への疑惑、この悲痛な苦悶の只中で、なお高潔なる人格を求めて彷徨する青春の魂の遍歴」と紹介されているが、なにより筆者の体験に基づき記述しており、私は主人公の青田三太郎になりきっていた。

荒ぶる心は不思議に鎮静化し、アルバイトを止め、私は自宅の蔵の2階に籠りようやく自宅浪人の体をなした。
丁度、附かれたように読んでいた“三太郎の日記”から目を離し、蔵の二階の鉄格子の付いた窓から、降りしきりしとどに濡れた庭を見下ろし、梅雨の湿潤な光景が焼き付いている。

そして、愛読書は、西田幾多郎著“善の研究”、和辻哲郎著“風土”に広がっていった。深閑とした蔵の暗がりで、精神的な豊穣の世界に浸った。

“善の研究”は、“善”とは、各々個人の自己実現であり、純粋経験の実在の統一力み合致した“真の自己”を実現するということであると述べられている。

“風土”は、単なる自然環境ではなくして,人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない.こうした観点から著者はモンスーン・沙漠・牧場という風土の三類型を設定し,日本をはじめ世界各地域の民族・文化・社会の特質を見事に浮彫りにしていると紹介されている。(下写真)

いずれも、遅まきながら青春期の精神史を彩ったものである。そして、それらは、大学、社会人時代に知行体系の礎になっていった。自宅浪人生活は、私にとって失われた一年ではなく、人生の大きな糧になった一年であった。


”なつかしき我が師 我が友 我が母校 ”は、四三の会のために、同級生だったST君が考えてくれた標語である。
多分、この多感な時期に、各人がそれぞれ、私のような青春期を展開しており、それを懐かしんで、この懇親会も長く盛んに参加しているのだろう。
 

70代というのは人生の黄金時代であるーーー坂東眞理子

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 6月23日(日)16時35分17秒
  本日、私は70歳の誕生日を迎えた。

これまで静謐な時空を求めて、次の吉田兼好の言葉に共鳴し、“諸縁を放下”しないまでも、ヨガの思想の“断捨離”を物心面ではなく精神上で実践してきた。
社会的、家族的に全くしがらみのない年代に入っており、自分の精神生活の内側と外部との自らのコミュニケーションの取捨選択が非常に重要である。

【徒然草】
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人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、道遠し。吾が生既に蹉駝なり。諸縁を放下すべき時なり。
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しかし、本屋でふと手に取った掲題の“70歳のたしなみ”の本を読み、70代に突入し心が鼓舞されてポジテイブに生きる姿勢を学んだ。コミュニケーションの取捨選択も大事だが、自由闊達に生きられる70代に自らがひきこもっていくとボケるので、自ら行動せよとの下記の指摘が心に残った。

何より、人生で最も幸福なのは、70代と言い切る著者のこれまでの生き方を反映していた。
坂東真理子氏は、私の3歳上で、東大卒業後、総理府の官僚の道を歩み、途中ハーバード大学に留学し、埼玉県副知事、女性初の豪州総領事など行政の最前線も経験している。
退官した後、2006年にそれまでの生き方に基づき書いた“女性の品格”は300万部のベストセラーになった。

【70歳のたしなみ】
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歳をとったら「義理欠く、恥かく、人情欠く」でいいのだとうそぶいていては、あっという間にボケてしまう。どこへも出なくても日は過ぎる。用件も行くところも与えられるものではなく、自分でつくるのだ。ノックしないドアは開かない。

30代、40代のように仕事や子育てに追われることもなく、50代、60代のように人生の新しいステージに対するあせりや不安も少なくなっている。何はともあれ今まで生きのびてきたのは健康や幸運に恵まれたからである。支えてくれた人に感謝し、一日一日の新しいチャレンジに心を躍らせる。

自分の人生を少し高い視点から俯瞰し、総括する境地に立って、続く80代や90代に備える心の用意ができる時代である。かつては60歳が還暦として人生の節目とされたが、今は70歳が人生の節目であり、次のステージの出発点になるのではないか。
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“俯瞰”という難しい言葉が用いられているが、これは「広い視野で客観的に見る」という意味であり、この年代ならではの表現である。

この本の影響だけではないが、最近コミュニケーションの場を意図的に積極的に絞ったり、維持したりしているので、この1,2か月のそれら事例をまとめてみたい。
なんら心身の不具合もなく、ポジテイブな気持ちで、父の日のプレゼントのトレーニングウエアを身に着け、走り回り70代を迎え、黄金時代に突入である。(下写真)

(1) 職縁社会からフェードアウト
会社のOBの集まりは、当然企業時代の思い出話になる。企業人にとって、それは光と影があることは否めないことである。しかし、影ではなく闇を経験した場合にはどうだろうか。
飲み会でその闇が話題にならなくても、酔って帰る都心からの電車に揺られ、強迫性障害のように決まって繰り返し思い出され、暗鬱な気分に陥ってしまう。それらは、走馬灯のごとく巡り、生々しい記憶が執拗に甦る。

37年間の企業生活で、わずか1年足らずの事だったが、地方子会社でのリストラを牽引したことである。大本営からの指示とはいえ、5人の部長を配下にして社員の経済基盤を奪っていった遂行責任は私にあった。

あれだけ能力が高く誠心誠意仕事に打ち込んでいた者たち、あの難しい仕事を執念で乗り切ってきた者たちーーー、彼等はいずこで何をしているのだろう。そして彼らの妻子はどうなったのだろう。構内外注を含めて2600人以上いた巨大な工場はもぬけの殻となり、総合体育館も駐車場も残しながら閉鎖し、人の気配もない。

人間の記憶というものは払拭したり封印したりできないものである。忌まわしい思い出から逃れるために、いっそ職縁社会からフェードアウトしようと思い立った。

私が幹事の同じ事業部の経営幹部6人の定期飲み会幹事を辞任した。来月初めの同じ事業グループの課長以上100人が集まる懇親会も欠席する。秋に開かれる部のOB会も前回から欠席にした。かつての部下の定年祝い、早期退職の歓送会もすべて断った。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」である。

職縁だけの年賀状挨拶を欠くのも難しく、思い切って全員の方に今年から欠礼の挨拶を行った。
ただし、職縁でも同期で入社した者の8人の集いだけは維持していく。入社後の研修までの短い期間だったが、配属先はバラバラで学生時代の様相でつきあえる。

(2) 空手は70歳だがまだまだ継続
① 町道場稽古と大学OB稽古
先週は途方もない疲労困憊な日々が続いた。
毎週土曜日の6時から8時まで、孫たちと町道場で空手の稽古である。特に先週は、孫が昇級審査を控えているので、力が入った。
その空手前日に、突如孫娘が修学旅行の後に熱を出したとのことで呼び出され、洗濯、買物、炊事、犬の散歩などをこなし、夜遅く帰宅し疲れも溜まっていた上での稽古であった。

そして、翌日の日曜朝10時から12時までは、都心の大久保スポーツセンターで大学OB空手である。
目覚めたときに、体が鉛のように重かったが、四つん這いでようやく床から這い出した。月例稽古は、もう7年半になり、この日は稽古指導者が都合悪く欠席して終始私一人が、指導の任を担った。基本の稽古に剛柔流の上段、中段、下段の約束組手を加えて、形の平安は初段から、五段まで一通り行った。

1時からは総会であり、飲みながら4時まで近況報告と議論が白熱していた。そして、その後はカラオケである。(下写真)
時空を超えて、学生時代の空手部のような雰囲気である。それでも、至福のひとときであり、したたかに疲れていたが、充足感に満たされながら帰途についた。

毎月1回、土日に、町道場の稽古と大学OB稽古と飲み会は行われ、肉体を酷使するがまだ故障も起きず無事なので続けていく。

大学OB本部の総会と女子国公立全国大会優勝の祝賀式は、30日に行われるが、これは町道場稽古と翌日の孫の昇給審査で欠席せざるを得ない。

② 空手部同期の集い
「ノックしないドアは開かない」の言葉に従い、私が企画し大学空手部同期に電話で招集を呼び掛けた。仙台近郊で久しく会っていないメンバー達である。

仙台の深い緑に包まれた定禅寺通りの居酒屋に参集した。昨秋の合宿講習会で、AK君が、仙台は集まりやすく、近辺の者と久しく顔を合わせていないので、同期の集いをやりたいという提案を受けて実現したものである。わざわざ私は仙台まで出向き、参加者は下写真の通りである。

話題は最も多感で体力が絶頂期に味わった空手部の厳しい練習である。各人が生きてきた長い企業生活を超えて、臨場感をもって甦ってくる。
大学の裏山への砂利道や雪の中の市街を裸足で走り回ることはともかく、石段をうさぎ跳びで登ったり雪の上に数十分正座など、理不尽な鍛錬もあった。

空手部史上初めて達成した東北総体優勝、全日本ベストエイトの試合の一コマ一コマにも話題が及ぶ。ひとり一人が自分の持ち味を活かし、独自の組手の形を持っていたため、東北学院大などから、チームとして捉えどころのない粒よりのチームという妙な賛辞までもらった。

強靭な体を作り上げていた我々だが、社会人になってから、二人は大病を患った。
しかし、手術後1人は経営幹部として企業前線に戻り、もう一人も空手界に戻り厳しい練習を積んでいる。病魔に屈しない心身の強さだ。

空手修行だけでなく、私は大学1年の時に北海道自転車旅行を企て、山形から酒田に向かいWJ君の家に泊まり、翌日は秋田の大舘近いAK君の家にお世話になっている。

”アイツ、ドウシタンダロウ”の話題では、IM君が名簿では行方不明になっており、1年留年し山谷にも出入りしていたので心配していたが、ニュージーランドに渡り日本料理店を経営していることがわかり安堵した。

全くしがらみのない時代の気の置けない良き仲間たちである。次は、ゆったりと秋保温泉に泊まり、意気軒昂にやろうということになった。

(3) 四三の会も継続に
4月にこの音沙汰記に書いたが、四三の会メンバー4人で目黒川の花見に行き、帰りにSA君の息子の立ち飲み屋に寄って歓談した。その際、店主が6月に中野30人規模の居酒屋をオープンするという。

早速、例のメンバーで関東支部の懇親会の会場にするために下見に行った。(下写真)店の雰囲気も良く、料理は店主自ら厨房に入りっきりでの逸品で、手造りのビールのインディア・ペールエールが1杯目は無料のサービスもある。

7月28日に四三の会関東支部の懇親会が決定したが、直後にGT君から一通のお願いの儀のメールが舞い込んだ。
ニューオータニで、7月13日(土)に行われる母校全体の同窓会東京支部への参加促進依頼であった。たしかに、過去2回、我々の当番学年幹事のときは、四三の会のメンバーの講演もあり、それぞれ20名以上が参加した実績はある。

ただ周到な準備をしており、今年は関東支部の懇親会と同月となり、時間もなく断った。せめて私だけでも参加しようと思ったが、土曜日はあいにく道場の稽古と重なって、無理である。どうやら毎年3~5人の参加を要望しており、今年の懇親会で参加メンバーの意見を聞いてみることにした。

この四三の会関東支部の懇親会は、職縁社会で唯一残した入社同期の箱根一泊旅行地も重なり、同期の旅行の方をキャンセルした。整理してきたつもりが、どうも多忙さを増している。
 

旅の終わりにーー欧州の旅エピローグ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 5月17日(金)19時42分46秒
  私は、中野孝次氏の“清貧”にまつわる著書が好きだ。「自由でゆたかな内面生活をするためにあえて選んだシンプルライフ」である。中村達也氏の文章を引用して、「この消費社会の有り余る財・サービスの一切を拒否することによって、むしろ、自分自身の豊かな時間を取り戻しているといった風なのである」と述べている。

有り余る財・サービスを甘受し、慌ただしく追い立てられるように生きている現代人のライフスタイルを忌み嫌らっている。私も、中野孝次氏のように、喧騒を離れ、清貧にゆったりと時間軸と空間軸を合わせ暮らしたい。ただ、書物も読むがインターネットを駆使し、趣味の映画をTVのNETFLEXに変えている。

しかし、4月26日にこのゆったりとした静謐を破り、技術革新の波に取り残された私を感じさせる事件ともいうべきことが起きた。

15年間お世話になったJCOMケーブルを、これまでと同様にインターネット、TV,電話のセットで半額にして、NTTぷららに切り替えたのだ。

安い分だけ、ユーザー側の負担が大きく、サービスが荒く、何度も立ち往生し戸惑った。JCOMでの立ち上げは電源を入れるだけだったが、光ファイバーからルーターに引き込むまでのサービスにとどまり、それから先は自分でやらねばならず連続して見舞われたトラブルの具体的事例を挙げる。

① 一ヵ所、一本のケーブルだけ
JCOMでは、インターネットは2階に、TVと電話回線は1階に引いてもらった。しかし、ぷららは契約した後に、一ヵ所、一本の線しか引かないと言われ困った。HPには配線方法までは書いていなかったのだ。

ぷららは、最新の無線LANを無料レンタルしてくれるとわかり、デイスクトップにソフトをインストールし無線LAN子機で繋ぐことを考えた。

押入れの10年以上前の無線LANの子機を探し出し、ぷららにレンタル申し込み時、繋がるかどうか聞いたら、問題なく受信できるという。こうして一本のケーブルのみで繋ぐことが出来て解決した。

② 工事屋はインターネットと電話だけーーTVどうなった
4/26に工事会社コムシスが来た。インターネットと電話の配線工事のみが担当で、TVは関知しないという。

私は、工事屋がTVチュナーを持ってきて、同時に工事すると決め込んでいた。ぷららに電話すると400人足らずの小さな会社であるが、インターネット、電話部門とTVは別のグループなので、そちらに電話をしてくれと言われ、30分もかけてようやく繋がった。

どうやら、会員登録証を送り忘れていたようであり、チューナーが着いたら、初期設定に使うエントリーコードを電話口で教えてくれた。会員登録証の日付はインターネット、TVは3月2日で、TVの登録証は4月22日と1ケ月半も遅れており、小さな会社だが、大企業並みであきれ果てた。

③ チューナーが着いたが大問題 
JCOMでは、ブルーレイレコーダーをレンタルしていたが、割高であり今回は購入した。ようやく着いたチューナーのインターフェース部分を見て仰天した。

USBのみで、ブルーレイレコーダーが繋がらない。コールセンターに電話したが、「購入されてお気の毒ですが、弊社の今回のチューナーはUSBしか繋げません」とつれない返事である。「ルーターはLAN端子が5つもある。LANケーブルでは?」、「それもダメです」

そして、「どうしてもとおっしゃるなら、赤緑青の端子のチューナーがありますが」と提案され、私は、「RGB、アナログじゃないの」と絶句し繋ぐのを諦めた。
そして「録画するなら外付けハードデイスクですが、弊社推奨の機種でお願いします」と念を押された。

④ 外付けデイスクも購入できず
ノジマ電気に行き、ぷらら推奨の外付けデイスクを店員に頼んだ。店員はぷららのHPを注意深く読み込んで、告げた。「指定の外付けハードデイスクはバージョンがすでに上がっており新バージョンでは動作は保証しかねます。旧バージョンは取り寄せ出来ません」
しょうがなく、540/月でぷららからのレンタルとした。

チューナーのインターフェースの設計思想が悪いとか、マージンのない設計は技術不足とコールセンターに指摘しても所詮通じないので泣き寝入りだ。

⑤ インターネット繋がらず
待望の5月1日に、初めて無線LANで繋いだが、無線LAN接続表示の扇形が2つしか表示されない。Googleに繋がるが、そこから他のサイトはタイムアウトで落ちてしまう。
スマホからは、問題なく繋がってしまい、TVも電話も無事だ。

無線LANの力が足りないと思い、延長コードで階段半ばまで移動したが、事態は変わらず。
既知のネットワーク設定のリセットをしたり、あらゆる手を尽くしたが駄目である。古い無線LANに取り換えてみたが、それでもダメである。

スマホは問題なく、デイスクトップパソコンだけの問題であり、一階にパソコンを降ろしLANケーブルで直接つないだ。LANケーブルなら100Mは飛ばせるので、いざとなったら、2階と有線で繋げばいい。

果たして、階下に降ろし電源を入れたら、「インターネットなし」の最悪表示となり、おまけにスマホの扇形表示も停止し、LINEもダウン。孫のゲーム用スマホも、無線LANには繋がらず。
午前2時になっており、ついに放り出して、自棄酒を飲んで寝た。

翌朝起きたら、LINE通信障害の可能性が閃き調べたら、やはり午前零時に539件の障害情報が発信されていた。もう、ぷららのルーターまでの問題しかないとコールセンターに電話するつもりで、パソコン電源を入れた。

摩訶不思議なことに、きっちりと無線LANで繋がり、今日まで全く問題ない。私の診断力をもっては、不可解なり。現在のビジネスモデルについていけず、今後は安いものには、事前の調査を十分に行うように反省した。

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ところで、今日は、先月書いた欧州の旅のエピローグを記する。

1 欧州の旅エピローグ

(1) カジノからイタリア観光へ
旅も後半になり、緊迫した欧州情勢のわりには、順調で気楽な気分となり、フランスでカジノのデイボンヌに行った。堂々とした高級ホテルのような白亜の殿堂である。

パスポートを提示し、豪華絢爛な内装には映画の一コマにはいった気分である。(下写真、入場証)ルーレットを選んだが、台ごとにレートが異なり、博才のない私は慎重に一番安い台から入る。どうしたわけか旅の原資程度の儲けになり、その後ズルズルと負けて、3万円程度の儲けで打ち切った。

掛けている最中に、儲けた金を、二つの事に散財することを思いついた。
カジノのバーは高級すぎるのでラスベガスには及びもつかないがカジノの街で一杯飲むことと、ローマ、ミラノ、ポンペイのガイドを雇う費用にすることである。
カジノを出て、旅行会社に電話すると、夕刻にも関わらず、スムースに事は運び、料金も折り合った。

(2)緊迫したローマ空港
思わぬお金がはいり飲みすぎて、翌朝モーニングコールを切り、また寝てしまった。リヨン空港にタクシーで乗り付け、文字通り飛行機に飛び乗って、無事ローマ空港に着いた。
そのとき、私は安全で順調な旅に気が緩み、大きなミスを犯していた。二日酔いであわてて着替えて、スーツではなく普段のジーンズ姿であった。

まず、入国審査であるが、サングラスを眼鏡に変えろと怒られ、目的と滞在期間は当然としても、現地滞在ホテル、観光先そして知り合いまで聞かれた。前夜頼んだ旅行社のガイドが私を迎えに来ていると答え、ようやく尋問口調が穏やかになった。入国審査官個人の判断で、入国可否が決まるので、肝を冷やしほうほうのていで切り抜けた。

そして税関を申告なしで抜けるときに、急に職員が呼び止めなにやら叫ぶと、一定距離でライフル銃を肩に警備していた警官が走り寄ってきて、緊迫した光景となった。

私のバッグの中身は、予め設けられたテーブル上に手荒にすべて撒き散らかされ、バッグそのものも丹念に調べ上げられていた。肩に下げたバッグも取り上げられ、厳しいボデイチェックも行われた。

パスポートを見ながら、どの国でどこを廻ってきたか尋ねてくる。パスポートは取り上げられ、別室で照合している様子であったが、20分ほどで返され無事通り抜けた。

1時間ほど遅れて、到着ロビーに着いたら、心配そうにガイドが待っていた。名前はNARDONIさんであり、日系人で日本語は流暢であった。

事の次第を話すと、彼女は、「それは赤軍派の疑いをかけられたのじゃないですか。その格好でそのお顔なら私まで疑いますよ」という。

ローマ空港は、テルアビブのテロ事件以来、国際世論で叩かれ、厳戒態勢を続けているとのことである。ガイドの役目の切れ目で、彼女はポツリポツリとテルアビブの惨劇を話してくれた。

紀元前753年からのイタリアの史跡、遺産には感動したが、旅のエピローグとしてローマ空港の体験で、欧州人の日本人の若者に対する理不尽で残虐との厳しい評価がわかり、鮮烈に記憶に刻まれた。
赤軍派は、決して例外的なカルト集団ではなく、団塊世代の誰もが「体制打破、革命」と熱病のように浮かれた学生運動が追い詰められて、先鋭化していったものだ。

(3)ローマ空港の特別厳戒理由
前回触れたように1972年5月30日に、赤軍派3人がイスラエルのテルアビブ空港で、バッゲージクレームのターンテーブルで荷物を受け取ると、自動小銃を取り出し無差別に乱射し、手榴弾を投げ、26人が死亡させ73人が重軽傷を負わした。

地獄絵図となり、直後に犯人二人は顎の下で手榴弾を爆発させ、顔、指紋を吹き飛ばして自爆した。この行為は、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)で軍事訓練を受けたものだ。生き残った岡本公三は、この年の3月にベイルート郊外でPFLPの軍事訓練を受けていたことを自供した。

女性、子供の認識もない無差別テロであり、犠牲者は、標的のイスラエル人は8人であり、巡礼に来ていたプエルトリコ人17人、カナダ人1人は標的以外であり、しかも全員が一般市民であった。

欧州の誰もが、中東とイスラエルの長い確執の歴史を知らない日本人がなぜこんな蛮行をといぶかい、日本伝統のカミカゼ精神とマスコミは憎悪と嫌悪感をにじませ報道した。

この事件3か月前の赤軍派のあさま山荘事件にも言及し、彼らが仲間を拷問で12人も殺し、妊婦を含む女性4人も犠牲者となり、理解しがたい残虐な日本人の若者の像を加速した。

一方、国際的な非難の目は、ローマ空港にも及んできた。自動小銃3丁と手榴弾が手荷物検査をすり抜けたのは3人が日本人だったからである。当時はすでにX線検査装置があったが、抜き打ちでの検査らしく、日本人という素性はその時まではノーマークであった。ポーター2人を使い、一番重いバッゲージのみ3人で運ぶ異常行動であったが。

PFLPは、もうイスラエルには警護が厳しく入れなかった。
このテルアビブ空港乱射事件の前に、PFLPは5月8日にベルギーのブリュッセル発の航空機を乗っ取り、イスラエルのテルアビブ空港に着陸させた。

乗客ら100人を人質にし、イスラエル政府に対し服役中のゲリラ317人を釈放するよう要求した。しかし、イスラエル特殊部隊が機内に突入し、犯人4人のうち2人が射殺され、女性ゲリラ2人が負傷し制圧されて失敗に終わり、PFLPは行き詰まった。

そこで、PFLPは、日本赤軍が、“国際根拠地論”として世界同時革命を唱えて、ベイルートに渡ってきたので、イスラエルの警護が日本人に甘いことを利用したのだ。

PFLPが期待した通り、テルアビブ乱射事件の後、赤軍派はカミカゼ精神を発揮した。1973年赤軍派の丸岡修らが、ドバイ日航ハイジャック事件を起こし岡本公三たちの釈放要求を行ったが失敗し、リビアに着陸して逃亡している。
欧州の旅の直後の1月31日に、赤軍派の和光晴生と山田義昭ら4人が、シンガポールシージャック事件を起こしている。石油タンクを爆破し、職員5人を人質にとったものである。

欧州人には、日本人の若者は、到底理解しがたい残虐なカミカゼ精神を持ったクレージーな人種と捉えられたのだろう。

Narudoniさんの話は事実のみ淡々と話し、どちらかに偏ったものではなかったが、テルアビブ乱射事件の実態、国際情勢での他国からの評価など、ローマ空港での体験も加え、欧州の旅のエピローグとして残り、帰国後もこの事件について私なりに突っ込んで勉強したものである。

お土産に添えられたカードに書かれた彼女の「To see Again、Nardoni」(写真)に、当時の記憶がまざまざと甦ってくる。
 

旅の残照―――“十五の夏”を読んで

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 4月27日(土)19時05分34秒
  桜の季節は、日々桜前線が北上して心が騒ぐ。在原業平が詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の短歌につくづくそのように感じ入る。

4月2日に四三の会の4人が連れだって、目黒川の桜を観に行った。幸い花冷えが続き、見頃であった。川沿いに歩き、橋の上から眺めて散策を楽しむ。800本ほどの桜はソメイヨシノであるが、ふと花筏(みずもの花びら)が逆流していることに気付いた。調べてみると、2日は15時45分に満潮であり、目黒川の海抜はたったの9mでありその影響であった。

目黒川のソメイヨシノに統一された桜の樹々は川沿いにアーチを描き、上流の川幅が狭くなりトンネルのようになっていく景観の移り変わりは上品で静謐である。花筏は ひっそりと流れる川に漂い、また所々に花筏が淀んでいた。

私が東京近郊の三大桜名所を挙げるなら、この目黒川と上野の夜桜、そして千鳥ヶ淵であり、それぞれの趣は異なる。

上野の夜桜が発する妖気は息苦しいほどに妖艶であり、梶井基次郎著“桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる”との形容がぴったりである。多分、無念に散った彰義隊の百以上の御霊がこもっているのだろう。千鳥ヶ淵は、桜吹雪が濠に注ぎ、花筏が風に流され桜花爛漫に優雅さをもって咲き誇っており、これは春の息吹を感じさせ心躍らせるものである。

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ところで、外務省のラスプーチン、知の巨人との異名を持った佐藤優著の“十五の夏”を読み、克明な描写に若い時のみずみずしい感性が思い出され、バックパッカーの先駆けと言われる沢木耕太郎著”深夜特急“以来に感動した。

上巻は、手造りの旅で行く先々での人との触れ合い、風土、食事など楽しく読めたが、下巻からは、ソ連に対する深い見識と、領土問題、それを取り巻く深刻な人間模様が描き出されていく。

1975年の“十五の夏”に対し、私は1年前の1974年に欧州旅行をしており、私の体験に基づき感じ入るところ、それぞれの旅の残照を2点ほど比較し述べていく。
無論、旅を開始してからのその国の文化、風土、食、人々とのコミュニケーションなど数知れない感動はあったが、なぜか次の2点が読後に、旅の残照として浮かび上がってきた。

一つは緊迫する国際情勢の最中の現在のような企画された旅ではないことと、もう一つは、遠い国々への出発地点に到着するまでの長いフライトでの経過である。

1 緊迫した時代背景での旅の立案

(1)佐藤優氏の旅の東欧、ソ連情勢
1975年、浦和高校1年生の15歳の夏に一人旅を敢行している。ソ連、東欧の旅であり旅費40万円で40日間放浪している。当時のガチガチの社会主義体制の国々を旅することは度胸のみならず冷静沈着で明晰な頭脳と強い意志が必要だ。データ収集力とコミュニケーション能力も秀でたものでなければならない。

人並外れた高い能力を持った著者でも、共産圏2日目にもう西側に出たかったと吐露している。
社会主義体制は、1990年頃にソ連、東ドイツと相次ぎ崩壊していったが、1975年前後は権力で反体制を押し込み、戦乱の危機が絶えず漂っていた。

チェコスロバキアの民主化“プラハの春”を、ソ連率いる5か国の20万人の軍が弾圧したのは佐藤優氏の旅の7年前であった。
また、ソ連は、1979年にはアフガニスタンの共産政権維持のため、9年間にわたる侵攻をした。ソ連兵の駐留は9万人であり、ソ連軍の死者1万4千人、アフガニスタン人死者は60万人という凄惨な戦いである。

米ソの冷戦とともに、社会主義国家体制内部に、強力な統制と弾圧で絶えず火種がくすぶっていた。

(2)私の旅の欧州国情
1974年、NEC入社した翌正月に20万円の原資で欧州を2週間旅行した。
こちらも戦禍直後の緊張状態であった。前年10月にイスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国の“中東戦争が始まった。イスラエル33万人とアラブ軍50万人という大規模な戦争である。

これを引き金に、アラブは原油を減産し大幅値上げして、またオランダなどイスラエル支援国に石油禁輸の経済制裁を行ない、これはオイルショックとして世界の経済を震撼させた。
日本も総需要抑制で企業活動を抑制し、大企業が長期の正月休みとなり、私はそれを利用して2週間の旅に出たわけである。当時の欧州の激しい反日感情は3つの理由があった。

① 日本の寝返り
イスラエルを強固に支持していた米国との日米同盟により、日本も反アラブと見られ、禁輸政策をとられそうになったが、三木副総理を派遣しイスラエル支持でないことを中東諸国で説明した。オランダなどイスラエル支持の国々に、経済のみを優先する日本の姿勢はひんしゅくを買った。

② テルアビブ空港乱射事件
私が欧州に行く1年8か月前に、日本赤軍3名が、イスラエルの空港で無差別テロを実行した。当時は、テロリストが無関係な一般市民を襲撃することは前代未聞であり、極東の日本人3名が、なぜこのような残虐なことをやったのか欧州、そして世界中の批判の渦が巻いた。

自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客に無差別に乱射し、乗客を乗せて駐機していた旅客機に向けて手榴弾を2発投げつけていた。26人が殺害され、73人が重軽傷を負った。

③ クアラルンプール大使館襲撃
これは私の旅の1年後に起きたものである。日本赤軍5名が、マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠して職員50名を人質とした。人質の解放と引き換えに日本国内で拘置中の活動家7人の解放を要求した。当時の三木内閣はテロリストと交渉し要求に屈したため、世界中の批判を浴びた。案の定解放されたテロリストは世界中で更に凶悪な事件を引き起こし多大な犠牲者が出た。

2 不安と期待が交錯する旅立ちーー格安航路での長い出発地点到着まで

(1) 佐藤優氏のスイスまでの移動
南回りで欧州に入り、東欧の国々を廻り、ソ連に渡りハバロスクに飛行機で行き、そこから急行寝台列車に乗り、ナホトカから客船バイカル号で横浜に戻る旅路である。

前年五木寛之著“青年は荒野をめざす”が発刊されたが、主人公ジュンは、横浜からハバロスクまで全く逆の同じコースを辿り、ソ連を皮切りに欧州放浪の旅に出ている。
当時のバックパッカーには馴染みの経路だが、彼らは東欧には行かず、西欧に入っていき、佐藤優氏の旅は稀有なものだった。

とにかく、出発点のスイスで1泊するまでの道のりが凄い。エジプト航空機で羽田を出発する予定だが、午後1時発が3時間遅れた。香港で着陸し給油する。

隣り合わせの貿易会社の社長さんにこれから訪れる国々への旅の知識を学んだ。次に、バンコクに降りて、30人程度の人が乗降し既に夜になっていた。ボンベイでは飛行機から一旦降りてトランジットルームに行けるので、十数時間ぶりに飛行機の狭い空間から解放されている。

そしてインド洋を越えて、カイロに着いた。身の危険を感じるような旧式の空港バスでトランジットルームに向かう。親切な社長さんはパリ便に乗り換えるのでそこで別れを告げた。飛行機の機種が変わり、ローマで乗客がまた乗降する。そしてようやくチューリッヒのユースホステルに泊まることが出来た。

安価だが、長く狭い空間での旅である。日本からスイスへの移動が2日がかりであり、そこを出発点としてチェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアそして ソ連の旅に発つ。

(2) 私のアムステルダム到着まで
格安航空の南廻りでバンコク、ドバイと乗り継いで、オランダに入り、そこから鉄道でスイス、フランス、イタリアと南下する旅路であった。

出発便を待つ羽田空港のカウンターで延々と待たされ、5時間後に欠航するので明日の便に変更と告げられた。一度寮に戻るのも面倒なので、旅行会社と交渉し空港近くのホテルを無料で手配させた。

その晩、近くの居酒屋に飲み行くと旅慣れたバックパッカー風の男が、オイルショックで航空便が大幅欠航し、切符が非常に高騰しているという。私の切符も高値で流され、明日キャッシュバックされて、旅は中止になるのではないかと脅かされた。早速、ホテルに戻り、羽田空港に電話すると、私の予定の便はやはり整備不良で欠航とのことだった。

安堵して寝ると、早朝ガルーダ・インドネシアの便になったとのことで、出発の目処がついた。

無事離陸し、8時間後にトランジットのためにバンコクのドンムアン空港に降りる。4時間も待ち合わせ時間があり、空港内をぶらつく。暇なので、装飾品と蘭の花売り場の女性に話しかけると、微笑みの国と呼ばれるように感じの良い応対だった。天候、食事の話など長々と会話を楽しんだ。(下写真)

こんなに話して仕事(タムガーン)は大丈夫かと言うと、微笑んで“マイペンライ”と答え、私が最初に覚えたタイ語である。

その時は、18年後にまさか4年間もバンコクに赴任するとは思わなかった。タイのドンムアン空港に着くと、店はなくなっていたがその場所を通り思い出す。

乗り換え便は、オランダKLM機だった。搭乗前にモデルでもないかと思われる美しいスチュワーデスと話した。(下写真)
私より背が高く気さくな応対で、ドバイまでは暑いが、アムステルダムは非常に寒く夜明けも遅い、疲れもたまっており、体調管理を大事にとのアドバイスを受ける。機内にはいって見回したが、残念ながらエコノミー担当ではなかった。

そして機はインド洋を横切り、砂漠の真ん中のアラブ首長国連邦のドバイに降り立つ。またトランジットであり、西田佐知子の“コーヒールンバ”を思い浮かべ、アラビアコーヒーを飲みに行く。隣には髭を蓄えた厳めしい顔をしたアラブ人が、クゥトラと呼ばれる帽子を被り近寄りがたい雰囲気であった。

ところが、私が砂糖を入れようとすると 「入れないほうがよい、コップ底の粉末は飲まないように」とのアドバイスをくれた。人はみかけによらないものである。(下写真)

石油危機には触れず、ドバイについて語ってくれた。3年前の1971年にアラブ首長国連邦はイギリスの統治から離れ、建国した新しい国であった。空港からの眺めは見渡す限り砂漠だったドバイは、いま高層ビルが立ち並び300万人を擁する大都市になっている。

ようやく乗り換え便に搭乗し、夜半オイルショックで街中の灯が乏しい暗がりのアムステルダムに到着した。二昼夜にわたる移動であった。

2009年に北回りで、フランスに直行したが、12時間の飛行時間であり、目の前のデイスプレイで好きな映画も選べ、逆に旅の醍醐味は失われたと感じた。

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4月15日にノートルダム大聖堂が火災になり、その尖塔が真っ赤に燃え上がり崩れていくシーンは衝撃的で悲惨なものだった。
その失われていく姿に、1974年の旅の残照が浮かび出た。

ノートルダム大聖堂の400段ほどの螺旋階段を登ったが、まるで中世ヨーロッパに迷い込んだかのような異質のかつ神秘的空間だった。ゴシック建築のステンドグラス、蝋燭に灯された内部の彫刻、絵画は息を呑むほどであった。
旅の残照として鮮やかに蘇ってきたものであり、喪失感が大きく実に残念なことである。
 

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