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イテテテテエー ――突如生涯一番の激痛が

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 9月16日(月)19時47分26秒
  蝉時雨も途絶え、トンボが飛び交い、夜半折角の中秋の名月だが雲に隠れており、心地よい涼風とともに虫の音が響き渡っている。
それにしても今年の夏は梅雨が長引いた分を取り戻すかのように厳しい酷暑であり、残暑でもあった。

私の体調は、暑さにもめげずすこぶる良かった。いつもの習慣だが、昼飯まえに公園で空手の体操と基本技を行い、ウオーキングをする。
その日は、うだるような暑さだが、ジョッギングに切り替え8km近く走った。(下写真)前日、道場でサンドバッグを100本ほど蹴り、親指の付け根に違和感を覚えていたので、逆療法として走りこんだ。汗をたっぷりかいた後は、渇いたのどでスポーツドリンクを飲み、水シャワーでさっぱりとする。

翌朝、足の痛みで目が覚めた。階段も容易に降りられないほどだ。私は、てっきり年甲斐もなく逆療法をとり疲労骨折したものと考え、患部を冷やし固定した。
妻は、体操サークルの練習とお食事があるとかで、痛がる私を尻目にイソイソと車で出掛けてしまった。

痛みは脳天に達するほどになり、昼飯は痛む足を引きずり、ようやくカップラーメンを作って食べた。患部の腫れは、いよいよひどくなり(下写真)、心なしか親指が少々紫の色味を帯びてきたように見える。親指は、曲げる感覚が失せて、このまま壊死するのではないかとさえ思われた。

ついに、妻を呼び戻し、車で医者に連れて行ってもらった。親指が麻痺して運転できる状態にはなかった。

医者は、血液採取とX線を撮り、私の運動した状況を丁寧に聞き、おもむろに言った。「骨折はしていない、骨に異常はない。多分痛風でしょう」
痛風は足が痛むものとはわかっていたが、親指の付け根に出る症状とは知らなかった。そして、私は、健康診断で尿酸値は異常が無かったと医者に反論した。

娘からは、「酒の飲みすぎ、酒飲みの慢性疾患」と厳しいメールが届いた。しかし、案の定、2日後の血液検査の結果では、尿酸値は正常と判明した。(下写真)酒の飲みすぎという批判は払拭できた。そして、鎮痛剤で痛みを抑えて、2日後にはウソのように痛みも引いた。

医者曰く。「尿酸というものは、尿で排出する。水は一日2リットル飲まないと、排出しきれない。それを炎天下で走って、事後に水分供給ではだめだ。走る前、走っている間でも水を補給しないと尿酸値は一時的に上がる。尿酸値は正常だから、尿酸降下剤は投与しないが、運動前に水補給をしないと再発するよ」

調べてみたが、過剰な尿酸は結晶化して関節に溜まり、運動などをきっかけに尿酸塩結晶が関節液中に?れ落ちると,それを敵と見なして白血球が集まってきて炎症を起こし、激痛が始まるのだそうだ。

思い当たることばかりだ。痛風とは、文字通り風が吹いても痛いということを実感した。

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9月7日、8日は、大学空手OBの支部発足20周年の行事に明け暮れた。9月8日に、日本武道館にオリンピック規模で各国のオリンピック候補の選手が集い、プレミアリーグ東京大会として競う。支部のMHさんは、オリンピック対策本部の特別顧問の重責を担っており、最前面の観覧席が16名分とれたので、大学の現役も招き、一緒に観ることにした。

大学現役には、昨年の第40回全国国公立大学空手道選手権で優勝したお祝いである。それに先立ち、現役との懇親会も行った。2日間にわたっての記念行事について述べる。

(1) 懇親会 9月7日 新宿栄寿司
優勝したメンバーのMHさんとOSさんが参加し、IMさんは都合悪く欠席である。ほかに陰となり日向となり指導してきたCTコーチと男子1年の将来のエース、OT君が参加してくれ、OBは10人で迎えた。
昨年の優勝に関しては、当人たちから直接聞くことができ、臨場感にあふれた内容であった。

MH選手は、前年度負けた長崎大に3回戦で勝てたこと、しかも同じ選手と戦い勝ったことが最も嬉しかったという。
前年度の長崎大は確かに強豪であり、それまでの3年間で優勝2度、4位1度であり、MH選手の相手のY選手は優秀選手賞を受けていた。さすがに相手は手強く、MH選手は開始早々左上段突きをとられ、そのままずるずると1:0の判定負けを喫していた。

奇しくも、今回の試合で同じ選手と再戦することになり、見事にリベンジを果たし、このトップ選手を倒したことが、決勝までの快進撃の原動力になったのだろう。

OM選手は、4月に入部して、7か月間の短い稽古期間だったが、全日本で他校の先輩達と堂々と渡り合っていた。

2回戦の東京海洋大(旧東京商船大)との試合をyoutube で見たが、フットワークが良く、抜群に体幹が強い。蹴りも出ており、飛び込んでの左上段突きも間合いを詰め切れておらず惜しかったが、取られたのはほぼ相打ちであり、今後の練習の積み上げでぐんぐん強くなる空手である。あまりに体幹が強く本人に運動歴を聞いたら、陸上をやっており100mを12秒ちょっとで走ると聞き納得した。

IM選手は出席していなかったが、決勝の北海道大学戦は、緊迫したとのことである。IM選手は大将を務め、1:1の同点で文字通り決戦であった。相手校はこの2年間に、三位、ベストエイトの戦績を残してきた試合巧者である。ポイントではIMさんが6ポイント取ったが、相手の顔面を強打した反則と場外に出た禁止行為で、流れとして反則負けも考えられる展開だったが、そのまま押し勝ち優勝に導いている。

東京海洋大との試合をyoutubeで見たが、6:0と危なげなく圧勝しており、伸びのある中段突きと接近戦での極め技、素早い連打が素晴らしい。蹴りは中段右回しと左上段回しが出ていたが、いずれも単発で浅かったが、鋭い突きとのコンビネーションで出せれば威力を発揮する。

(2) 空手プレミアリーグ東京 9月8日 日本武道館
OBが12人、現役たち4人で観戦した。
日本選手は、オリンピック種目で金メダル6個と大健闘した。決勝戦の冒頭から清水希容選手とライバルのスペイン・サンドラ選手の形の決勝で、なんと判定は引き分けとなった。点数は1/100までであり、非常にまれなケースとなり、再試合で清水選手は全力を出し切り息が上がっていたようだが、きりりとした演武で、涙の優勝を勝ち得た。

男子形は、新馬場選手と喜友名選手の日本人対決になったが、喜友名選手の王座は世界レベルでも揺るぎがないだろう。四大流派ではない劉衛流の“アーナンダイ”で勝負しているところが凄い。師匠の佐久本嗣男さんが、はじめて沖縄から本土で“アーナン”を国体で披露したとき間近で見たが、衝撃は凄かった。それがきっちりと進化して喜友名選手に伝承されている。

組手は、西村選手とアガイエフ選手との対決が見ものであった。ただ、ルール変更で一瞬でも組んではいけないルールになり、接触した瞬間に相手を投げ飛ばし極め技を入れるアガイエフ選手らしさが消えて、精彩を欠いた試合になった。西村選手の牙城は当分揺るがないと思う。

植草歩選手は、決勝を5:0で圧勝し、久しぶりの笑顔が戻った。今年は、ドバイ大会は3回戦で敗れ、7月のアジア選手権では2回戦敗退だった。
今大会の準決勝が事実上の決勝戦だった。相手は昨年世界選手権の決勝で敗れたエレニ選手であり、残り12秒のところにカウンターの上段突きを決めた。まだまだ予断を許せない階級である。

それにしても、寿命が長い選手である。植草選手は、2013年9月の東京国体で大学後輩の2年生だったNS選手と戦っている。当時すでに世界大会を制し、トップ選手だったがいまも維持している姿は素晴らしい。試合ではNS選手は一歩も引かず、激しい攻防だったが、圧倒された。大きな体全体を使い、伸びのあるスピードとパワーのあるワンツーの中段逆突きは当時でも世界トップの技だった。

今回の全国大会優勝の偉業の他にも、そのような大学空手道部の歴史があり、誇らしい。
 
 

“超老人のすすめ”からーー肉体改造論、広瀬立成著

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 8月26日(月)19時58分13秒
  湿潤な梅雨が長引いた後に、強烈な酷暑が襲ってきた。今月も空手の行事が目白押しである。もう古希を迎えたが、仕事のストレスが皆無なせいか無茶苦茶な生活を送っても不思議に疲労は残らない。

私は、この2015年1月の掲示板で、老年期の生き方を述べた27冊の蔵書を次の3つの分類に分けて紹介した。

・アンチエージング型  ・人生回顧型  ・限られた余生を美しく型

そして、「私はだまだ真摯に絶えず先達の生き方を学び、考え抜いていく。上の3つの型のどれも中途半端な私は、それらを織り交ぜ、余生に取り組む」と結んでいた。

自分なりの“断捨離”を行いながら、私の老年期の基軸の一つになった空手には、当時アンチエージング型に分けていた広瀬立成著“超老人のすすめ”――物理学者が見つけた「元気の秘密」の指摘に合致するところが多い。特に第3章の“超老人の肉体改造論”は、歳を重ねて実績ができてきたからこそ理解が深まった部分もある。

最近、その著書の全くその通りというポイントを挙げてみる。

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① 超老人は「若者の野性と大人の気品」を備える
超老人は肉体と精神を不離不分なものとして把握する。“心身一如”というわけだ。高齢とはいえ、強い肉体をもつ超老人は、怠けている若者より優れた行動力の持ち主だ。一見無謀と思われる生き方が、けっこううまくいっているのも、知識だけを詰め込んだいわば「頭脳知」より超老人の長い間の経験と行動によって「身体知」を身につけていることにほかならない。

② 身体美を求めてーー肉体改造論
「身体知」を育むうえで、もっとも健全な方法は、野性のからだを作ることだ。野性の動物に肥満はいなく、家畜は太る。からだのかたちや表情は、肉体的・精神的な健康状態を映し出す鏡だ。風呂に入ったときなどに勇気をもって全身を観察する。そもそも日本には身体美を評価する視点が伝統的に欠けていたように思われる。

③ 超老人のからだはしなやか
からだの軟らかさとは、骨と骨を連絡している関節が軟らかいことを意味する。関節が固くなるのは、靭帯や筋の収縮力と伸長力が落ちるからだ。それは自然の老化より、むしろ動かさないことに原因がある。日常生活で決まった方向に、決まった強さだけで動かしているかぎり、全体の柔軟性が落ちていても、そのことにほとんど気つかない。
ストレッチの効用はからだが軽くなり、動きが滑らかになるのだ。腰痛に悩む人は多いが、腰痛らしきものにはかかったことがない。

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超老人の身体知を育み私の人生の基軸でもある空手について今月の活動を二つ列挙してみよう。ストレッチの効用の実体験も述べる。

(1) 大学OB月例稽古と暑気払い
大学のOB月例稽古は、新宿の武道場を借りて、2012年3月に始まった。今月で76回目となり、7年半継続している。

始めた頃に、長い企業生活で蝕まれた肉体を再点検したところ、特にからだがワリバシのように固く脆さを感じさせられ、上段を蹴る技で上半身の軸が崩れ、形はぎくしゃくとした動きであった。考え抜いて、ストレッチ運動を開始した。

そして、それから7年半で私のからだは、下写真の通り、2つに折れるという、当時からすれば夢のようなことが実現したのである。廻し蹴りも中段が精一杯であったが、これも上半身が倒れず軸を保ち上段を蹴れるようになっていた。

採り入れた真向法に基づくストレッチの効用である。真向法は、浄土真宗のお寺の息子だった長井津氏が編み出し普及したものであるが、宗教とは無縁である。
長井氏自身が、42歳の時に脳溢血で倒れ、左半身不随となり、医師からは不治と診断されたが、独自に編み出したこのストレッチで、元の体に戻り、自然治癒力を確信して普及させたものである。

骨盤のベースである股関節と、その動作を伝え取り巻く靱帯の軟らかさを促す運動が大事なことは理に叶っている。日常生活で強いストレスを受ける関節やその靱帯が硬くなり、歪んでしまうと、骨盤さらにからだも歪み、老化は着実に進行していく。

好奇心の旺盛な私は、真向法の第4体操の効果を更に挙げようとして、正座から割座に移行した状態で後ろに上半身を倒す動作に、足首を外に向けることを加え、これは数段の痛みがあり効くと思った。

痛みをこらえてようやくできるようになったが、ある日、いまの町道場の師範から、「やめた方がいいですよ。関節には禁物な負担です。」と止められた。彼は、ジムトレーニング、ストレッチを研究するプロであった。

この動作を月例稽古で皆に教えていた私は冷や汗ものだった。まだ関節を痛めたものが皆無だったことは幸いであったが。人体構造をよく研究しないで、新しいストレッチの動作を採り入れるのは禁物である。

月例稽古の後は、暑気払いであった。12時に2時間にわたる稽古を終えて、宴会場“ミライザカ”に向かう。

ただ、飲むだけでなく支部20周年記念事業の具体的な詰めを行った。昨年全国国公立大学選手権で優勝した女子チームたちをお祝いとして、9月8日の日本武道館でのプレミアリーグ世界大会に招待し、懇親を深めることを20周年行事にしている。

月例稽古を牽引してきた全空連特別顧問のMH君が奔走し、20席のチケットを確保してくれたので、そのスケジュールとともに、前日に女子チームとOBの懇親会を開くことが決定した。

すべて決まり、稽古も終わり、肩の荷がおりたように、うだるような暑さの中を有志で2次会に向かった。

(2) 町道場で孫二人と鍛錬
7年半前に月例稽古を始めてしばらくして、月に1回での稽古では物足りなく、近くの町道場に通うことにした。和道流が身にしみついた私には、剛柔流の受け、立ち方、形は大きく異なり、始めて空手を学ぶよりもきつかった。

どうやら、剛柔流の基礎が出来てきたところに、小学1年生の孫息子が入門してきた。2016年11月のことであり、もうかれこれ2年9か月になる。早生まれで体が小さかったせいか、強いものにあこがれ、思いのほか体幹が強く先般の昇級試験も無事合格した。

そして、小学生の孫娘も、この3月から空手をやりたいと言い出し、孫二人と稽古をするという願ってもない構図になった。
強制しても子供はついてこないものであり、この自発性が嬉しいかぎりだ。私はまだまだ指導するに足る肉体は保有しているが、一回一回と残された限りあのある指導機会であり、大切にしたいものである。

(3) 中国の掛け軸の “老いた孤高な虎”
空手自体とは関係ないが、掛け軸の虎(下写真)を見るたびに老年期はこのように生きたいと思い巡らしている。老いた虎でも厳しい寒気の中、威風堂々と身体美を漲らせている。

20年ほど前に、天津に滞在したときに、古文化街という骨董市で購入したものである。緊迫した仕事の束の間の骨董巡りは、中国での唯一の安息なひとときであった。そこは赤い提灯に朱色の伝統的中国様式の骨董屋が200mほど連なっている。

掛け軸は書と絵がおびただしくあり、高度な表意文字を誇る中国では、食堂にも多くの墨書の掛け軸が吊るされている。掛け軸のニーズは高く非常にハイレベルなものである。

ふと入った骨董屋で、老いた孤高な虎の掛け軸に一瞬で目を奪われた。煌々とした冷たい月の明かりの中、厳しい冬の雪の上を置いた虎が目を見据え、しなやかな巨体で歩んでいく。眼光と毛並みの描き方が素晴らしく、いまでも気に入っている逸品である。

五木寛之氏は玄冬の門で、「犀の角のごとく独り歩め」というブッダの言葉を引用していた。この犀が、掛け軸の虎とイメージが重なる。

インドのサイは群れをなさず、単独で行動する。犀の一本の角は、孤独という比喩表現であり、諸縁を放下して、孤高に生きることだろう。

更にブッダの同じ経典“スッタニパータ”では、高邁で明敏な友と交われ、そして、いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩めと説いている。
それぞれ一人一人が、雄々しく優れた独立した人格を持つように促したのであろう。

どうにも、私には掛け軸の虎の生きざまが、仏陀の説く犀に思えてならず、老年期の生きざまを示唆しているように観える。
 

なつかしき 我が師 我が友 我が母校――四三の会懇親会が22年目

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 7月31日(水)19時01分24秒
  厳しく長い酷暑の昨夏と異なり、今年は陽光が乏しく肌寒い湿潤な梅雨が長引き、ようやく待望していた太陽が燦燦と降り注ぐ夏に突入した。待ちかねたように蝉時雨が降りそそいできた。

関東直撃と予想された台風6号は熱帯低気圧に変わり、一転して夏のぎらつく陽射しに変わり、晴天のもと高校時代の四三の会関東支部の懇親会が開催された。古希を迎え70代のゴールデンエイジに入り、28名が笑顔いっぱいで参加した。(下写真)

流石に我が高校のレベルでは一家言を為すものが多く、近況報告と質問が延々と朗々と続いた。
私の番では、昨年9月の故郷での卒業50周年祝いの会で、13年間参加してきた母校OBの駅伝大会への参加辞退報告が為されたが、そのとき選手に配られたユニフォームを着用して(下写真)、それにまつわる思い出を話した。

2005年、56歳のときに、関東支部長のKA君が牽引して初参加を企画したものだが、殆どの者がもはや走る鍛錬は行っていなく、峠の急な坂道を含む17KMのコースに尻ごみした。
しかし、駅伝が始まってみると熱が入り、四三の会はトップを争う展開になった。

しかし、肝心のKA君は長い距離のジョッギング鍛錬で、短い距離でのスピードが欠けていた。1人が何メートル走っても、何回出ても良い特殊ルールである。すっかり熱の入ったチームは、頑張るKA君のたすきを強引に奪い、2位に13メートル差で優勝した。

KA君は、雪辱に燃え、翌年1人で走り切る単独走に切替えて、見事1時間35分の好タイムで完走し、面目を躍如した。

宴はたけなわだったが、3時間で打ち切り、新宿のヤマトでの二次会に出向いた。
懇親会は22年間続き、古希を迎え老いてきても活況を呈している。ほぼ男子校で女性は1割程度だったが6名も参加し、故郷からはわざわざ5名が駆けつけている。

今日は、四三の会関東支部のこれまでの歴史を振り返り、母校の特徴と私の高校時代の追憶を述べる。

(1)四三の会関東支部懇親会の歴史
1997年に第一回懇親会を渋谷のNEC大橋会館で開いており、30名が集まった。もう恒例となり22年間も続いている。
第一回は、私が発起人となり開催したのだが、タイのバンコクの4年近い滞在から帰任し、全社の生産技術部の部会長の立場で多忙を極めていた頃である。よくぞ皆に呼びかけるような時間があったと思う。ポイントはIT化にあった。

バンコク帰任後に、浦島太郎化している自分に気付いた。社員1人が1台のパソコンを備え、紙での伝達が消え急激なIT革命が起きていたのだ。帰任当初はおびただしい電子メールに戸惑ったが、すぐにシステムに慣れて、電子メールは私の人口の忠実な素早い下僕になった。

四三の会のメーリングリストをつくり、同報配信で参加可否を待てば良い。会場予約も人数変更もメールでOKであり手間暇がかからない。
最も、1994年に本部事務局のFT君が東奔西走して各人の消息を調べ上げ、四三の会の名簿を完成させ、この名簿がメール配布の礎になったのだが。

ただ、私の天動説的な考えで1999年から2005年まで関東支部の懇親会は中断した。私が岩手県の一関に赴任していたためであり、場所を仙台近辺に移し四三の会の参加メンバーも変わり、その間1999,2002.2003年と仙台定禅寺、秋保温泉など仙台中心に開催していた。

(2)我が母校とは
三年前に創立130周年を迎えた伝統を誇る藩校である。文武両道に励み、質素倹約に努め「自他の生命を尊重し、己を磨き、誠をもって世のために尽くす」興譲の精神が校風として掲げられてきた。

進路状況は、195名が卒業し、国公立に116名が進学し、私立の難関大学でも高い進学実績であり、名のある医学部に現役6名合格は県内トップとのことである。
フェンシング、卓球、ホッケーがインターハイやホッケーに出場し、ことさら“文武両道”を発揮していると強調している。

平成30年度は、探求科2クラスが設置して、2年次に進級する際、文系の“国際探求科”0と理系の“理数探求科”に分かれるという。

“国際探求科”は、国際的視野を持ち交渉力、マネジメント能力を備えた人材の育成、“理数探求科”では国際的視野を持ち想像力・表現力を備えた人材の育成を行う。
時代のニーズに応じたエリート養成クラスである。

(3) 私の高校時代からーー何か欠如感が
校風の実態はどうであろうか。私の高校時代も上述されたような進路実績であったが、文武両道者は皆無というのが実態であった。

名門大学に行くものはスポーツなど眼中になく、逆に県代表レベルを争うような運動部の者は名門大学に縁がなかった。

そして、大きな校風の問題は、そのような単純な見かけ上の“文武両道”であり、偏差値競争に重きを置いた“文”であると位置づけていたことである。今でも、進学実績を基に校長が“文”を強調するようでは変わっておらず情けない。

周囲はあまりに無味乾燥であり、勉強と縁のない本を読み、青春を、人生をどう生きるべきかの教えもなく、生徒自身の模索も欠けていた。

私は、中学時代に夢中で柔道に打ち込み然るべき成績をあげ、学業ではクラストップもとった。しかし、高校では、柔道は一流コーチがついた勉強とは無縁の巨漢達に立往生し、格闘技の限界を感じ熱が冷めた状態で取り組み、学業もあまりに大学入学の偏差値重視の姿勢に嫌気をさしていた、

“文”が想像、観念的であり、“武”は破壊・行動的であり、相極対した文武の中で、思索を深めていくことが肝要であり、文と武は同一人物が思索を深めるために肝要と思っていたが、狭い“偏差値という狭い領域での文”であり、しかも“文”と“武”は、別々の個人に専業化された校風であった。

明治時代に,一高1年の藤村操が、日光の華厳の滝に投身自殺したが、滝壺傍らの楢の大樹をけずり,墨書した“巌頭之感”と題した次の詩に大きく影響された。

「悠々たるかな天壌,遼々たるかな古今,五尺の小躯をもってこの大をはからむとす。ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチーを価するものぞ,万有の真相は唯一言にして悉す。曰く『不可解』。我この恨みを懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで,胸中何等の不安あるなし。はじめて知る,大なる悲観は大なる楽観に一致するを

16歳10か月にして、自分と向き合い、人生の意味、人間の生き方、自分の生の意味やあるべき姿を自らに問い、探求していったための自死と指摘されている。

東工大に合格した1年先輩のAYの講話では、成功体験を誇らしげに話した後、「いまこの時期にクラブ活動をしていることはとんでもない」と言い切った。噴飯ものであった。

私には、同じ青春期の何かが欠如していた校風にやり場のないレジスタンスが芽生えていた。
そして、高校3年の1学期の期末試験中に1週間の停学を喰らってしまった。試験を受けられず点数は前期のテストの60%となったが、それでも追試は免れた。当時、内申書は大学入試に反映されず、これも致命的にはならなかった。

停学理由の一つに、成績優秀者を張り出した紙を引き剥がし破棄したことがある。数学の上位50名をKY先生が自ら筆をとり、墨跡鮮やかに書き出し掲示していた。私は休日に柔道の稽古の後、校舎にはいり、それを何メートルにも渡り全て引き剥がした。

KY先生は、学年主任で生活指導を担っており、試験中の停学という異例の厳しい断を下したのだろう。親友のSA君に、引き剥がした証拠物件を見せたところ 「そんなことしてなんになる」と渋い顔をされたが。

そして、停学を言い渡してきたNJ校長の消極性、校風の抱えた課題、高校教育の在り方などを停学に課せられた日誌で糾弾したが黙殺された。しかし、KY先生と担任のSK先生は、個人的に理解を示す声を掛けてくれた。

NJ校長は、昭和25年から続いてきた全校の17キロ白布マラソンを廃止にした蛮行をやった人物である。廃止の理由は、当時飛行機の墜落事故が相次いだが、それよりも比較に出来ないほど交通事故が多いという信じられない理由であった。この校長の時に、翌年の卒業式からおおいに荒れた。

そして私は、ずるずると高校生活を送り、自宅浪人に追いやられてしまった。

(4)やっと青春期らしくーー恩師のアドバイス
高一のときに、父の工場が全焼し、生活は苦しかったので4月からは、父の再建中の工場でアルバイトを始めた。当時の私は、信念をもって生きていたわけでなく、旋盤工でバイトを研ぐ職人技を教えられながら鉄の焼ける臭いが嫌気をさしながら、一方では進学校の高卒どまりでは社会で使いものにならないという不安などに漠然と苛まされていた。

6月頃に、担任SK先生から、一度学校に話に来ないかとの電話が入った。SK先生は、カマのように髪を立て文学青年崩れのような飄々とした風貌で名前をもじり“カマスケ”と呼ばれていた。

驚くことに、私の停学時の日記を克明に覚えておられ、深い洞察力で私の話に聞き入ってくれた。私は、久しぶりに軽い興奮と緊張感で高揚していた。

カマスケ先生が青春時代に愛読した本として紹介されたものは、阿部次郎著“三太郎の日記”である。阿部次郎は、現山形東高校のときに校長の方針に反発し、排斥運動とストライキを行い、退学したという。その後、一高に入学して、哲学の美学者の地位を極めたという人物であった。

その本は、図星で当時の心の琴線に触れた。「自己喪失と生への疑惑、この悲痛な苦悶の只中で、なお高潔なる人格を求めて彷徨する青春の魂の遍歴」と紹介されているが、なにより筆者の体験に基づき記述しており、私は主人公の青田三太郎になりきっていた。

荒ぶる心は不思議に鎮静化し、アルバイトを止め、私は自宅の蔵の2階に籠りようやく自宅浪人の体をなした。
丁度、附かれたように読んでいた“三太郎の日記”から目を離し、蔵の二階の鉄格子の付いた窓から、降りしきりしとどに濡れた庭を見下ろし、梅雨の湿潤な光景が焼き付いている。

そして、愛読書は、西田幾多郎著“善の研究”、和辻哲郎著“風土”に広がっていった。深閑とした蔵の暗がりで、精神的な豊穣の世界に浸った。

“善の研究”は、“善”とは、各々個人の自己実現であり、純粋経験の実在の統一力み合致した“真の自己”を実現するということであると述べられている。

“風土”は、単なる自然環境ではなくして,人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない.こうした観点から著者はモンスーン・沙漠・牧場という風土の三類型を設定し,日本をはじめ世界各地域の民族・文化・社会の特質を見事に浮彫りにしていると紹介されている。(下写真)

いずれも、遅まきながら青春期の精神史を彩ったものである。そして、それらは、大学、社会人時代に知行体系の礎になっていった。自宅浪人生活は、私にとって失われた一年ではなく、人生の大きな糧になった一年であった。


”なつかしき我が師 我が友 我が母校 ”は、四三の会のために、同級生だったST君が考えてくれた標語である。
多分、この多感な時期に、各人がそれぞれ、私のような青春期を展開しており、それを懐かしんで、この懇親会も長く盛んに参加しているのだろう。
 

70代というのは人生の黄金時代であるーーー坂東眞理子

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 6月23日(日)16時35分17秒
  本日、私は70歳の誕生日を迎えた。

これまで静謐な時空を求めて、次の吉田兼好の言葉に共鳴し、“諸縁を放下”しないまでも、ヨガの思想の“断捨離”を物心面ではなく精神上で実践してきた。
社会的、家族的に全くしがらみのない年代に入っており、自分の精神生活の内側と外部との自らのコミュニケーションの取捨選択が非常に重要である。

【徒然草】
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人間の儀式、いづれの事か去り難からぬ。世俗の黙し難きに随ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇もなく、一生は、雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん。日暮れ、道遠し。吾が生既に蹉駝なり。諸縁を放下すべき時なり。
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しかし、本屋でふと手に取った掲題の“70歳のたしなみ”の本を読み、70代に突入し心が鼓舞されてポジテイブに生きる姿勢を学んだ。コミュニケーションの取捨選択も大事だが、自由闊達に生きられる70代に自らがひきこもっていくとボケるので、自ら行動せよとの下記の指摘が心に残った。

何より、人生で最も幸福なのは、70代と言い切る著者のこれまでの生き方を反映していた。
坂東真理子氏は、私の3歳上で、東大卒業後、総理府の官僚の道を歩み、途中ハーバード大学に留学し、埼玉県副知事、女性初の豪州総領事など行政の最前線も経験している。
退官した後、2006年にそれまでの生き方に基づき書いた“女性の品格”は300万部のベストセラーになった。

【70歳のたしなみ】
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歳をとったら「義理欠く、恥かく、人情欠く」でいいのだとうそぶいていては、あっという間にボケてしまう。どこへも出なくても日は過ぎる。用件も行くところも与えられるものではなく、自分でつくるのだ。ノックしないドアは開かない。

30代、40代のように仕事や子育てに追われることもなく、50代、60代のように人生の新しいステージに対するあせりや不安も少なくなっている。何はともあれ今まで生きのびてきたのは健康や幸運に恵まれたからである。支えてくれた人に感謝し、一日一日の新しいチャレンジに心を躍らせる。

自分の人生を少し高い視点から俯瞰し、総括する境地に立って、続く80代や90代に備える心の用意ができる時代である。かつては60歳が還暦として人生の節目とされたが、今は70歳が人生の節目であり、次のステージの出発点になるのではないか。
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“俯瞰”という難しい言葉が用いられているが、これは「広い視野で客観的に見る」という意味であり、この年代ならではの表現である。

この本の影響だけではないが、最近コミュニケーションの場を意図的に積極的に絞ったり、維持したりしているので、この1,2か月のそれら事例をまとめてみたい。
なんら心身の不具合もなく、ポジテイブな気持ちで、父の日のプレゼントのトレーニングウエアを身に着け、走り回り70代を迎え、黄金時代に突入である。(下写真)

(1) 職縁社会からフェードアウト
会社のOBの集まりは、当然企業時代の思い出話になる。企業人にとって、それは光と影があることは否めないことである。しかし、影ではなく闇を経験した場合にはどうだろうか。
飲み会でその闇が話題にならなくても、酔って帰る都心からの電車に揺られ、強迫性障害のように決まって繰り返し思い出され、暗鬱な気分に陥ってしまう。それらは、走馬灯のごとく巡り、生々しい記憶が執拗に甦る。

37年間の企業生活で、わずか1年足らずの事だったが、地方子会社でのリストラを牽引したことである。大本営からの指示とはいえ、5人の部長を配下にして社員の経済基盤を奪っていった遂行責任は私にあった。

あれだけ能力が高く誠心誠意仕事に打ち込んでいた者たち、あの難しい仕事を執念で乗り切ってきた者たちーーー、彼等はいずこで何をしているのだろう。そして彼らの妻子はどうなったのだろう。構内外注を含めて2600人以上いた巨大な工場はもぬけの殻となり、総合体育館も駐車場も残しながら閉鎖し、人の気配もない。

人間の記憶というものは払拭したり封印したりできないものである。忌まわしい思い出から逃れるために、いっそ職縁社会からフェードアウトしようと思い立った。

私が幹事の同じ事業部の経営幹部6人の定期飲み会幹事を辞任した。来月初めの同じ事業グループの課長以上100人が集まる懇親会も欠席する。秋に開かれる部のOB会も前回から欠席にした。かつての部下の定年祝い、早期退職の歓送会もすべて断った。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」である。

職縁だけの年賀状挨拶を欠くのも難しく、思い切って全員の方に今年から欠礼の挨拶を行った。
ただし、職縁でも同期で入社した者の8人の集いだけは維持していく。入社後の研修までの短い期間だったが、配属先はバラバラで学生時代の様相でつきあえる。

(2) 空手は70歳だがまだまだ継続
① 町道場稽古と大学OB稽古
先週は途方もない疲労困憊な日々が続いた。
毎週土曜日の6時から8時まで、孫たちと町道場で空手の稽古である。特に先週は、孫が昇級審査を控えているので、力が入った。
その空手前日に、突如孫娘が修学旅行の後に熱を出したとのことで呼び出され、洗濯、買物、炊事、犬の散歩などをこなし、夜遅く帰宅し疲れも溜まっていた上での稽古であった。

そして、翌日の日曜朝10時から12時までは、都心の大久保スポーツセンターで大学OB空手である。
目覚めたときに、体が鉛のように重かったが、四つん這いでようやく床から這い出した。月例稽古は、もう7年半になり、この日は稽古指導者が都合悪く欠席して終始私一人が、指導の任を担った。基本の稽古に剛柔流の上段、中段、下段の約束組手を加えて、形の平安は初段から、五段まで一通り行った。

1時からは総会であり、飲みながら4時まで近況報告と議論が白熱していた。そして、その後はカラオケである。(下写真)
時空を超えて、学生時代の空手部のような雰囲気である。それでも、至福のひとときであり、したたかに疲れていたが、充足感に満たされながら帰途についた。

毎月1回、土日に、町道場の稽古と大学OB稽古と飲み会は行われ、肉体を酷使するがまだ故障も起きず無事なので続けていく。

大学OB本部の総会と女子国公立全国大会優勝の祝賀式は、30日に行われるが、これは町道場稽古と翌日の孫の昇給審査で欠席せざるを得ない。

② 空手部同期の集い
「ノックしないドアは開かない」の言葉に従い、私が企画し大学空手部同期に電話で招集を呼び掛けた。仙台近郊で久しく会っていないメンバー達である。

仙台の深い緑に包まれた定禅寺通りの居酒屋に参集した。昨秋の合宿講習会で、AK君が、仙台は集まりやすく、近辺の者と久しく顔を合わせていないので、同期の集いをやりたいという提案を受けて実現したものである。わざわざ私は仙台まで出向き、参加者は下写真の通りである。

話題は最も多感で体力が絶頂期に味わった空手部の厳しい練習である。各人が生きてきた長い企業生活を超えて、臨場感をもって甦ってくる。
大学の裏山への砂利道や雪の中の市街を裸足で走り回ることはともかく、石段をうさぎ跳びで登ったり雪の上に数十分正座など、理不尽な鍛錬もあった。

空手部史上初めて達成した東北総体優勝、全日本ベストエイトの試合の一コマ一コマにも話題が及ぶ。ひとり一人が自分の持ち味を活かし、独自の組手の形を持っていたため、東北学院大などから、チームとして捉えどころのない粒よりのチームという妙な賛辞までもらった。

強靭な体を作り上げていた我々だが、社会人になってから、二人は大病を患った。
しかし、手術後1人は経営幹部として企業前線に戻り、もう一人も空手界に戻り厳しい練習を積んでいる。病魔に屈しない心身の強さだ。

空手修行だけでなく、私は大学1年の時に北海道自転車旅行を企て、山形から酒田に向かいWJ君の家に泊まり、翌日は秋田の大舘近いAK君の家にお世話になっている。

”アイツ、ドウシタンダロウ”の話題では、IM君が名簿では行方不明になっており、1年留年し山谷にも出入りしていたので心配していたが、ニュージーランドに渡り日本料理店を経営していることがわかり安堵した。

全くしがらみのない時代の気の置けない良き仲間たちである。次は、ゆったりと秋保温泉に泊まり、意気軒昂にやろうということになった。

(3) 四三の会も継続に
4月にこの音沙汰記に書いたが、四三の会メンバー4人で目黒川の花見に行き、帰りにSA君の息子の立ち飲み屋に寄って歓談した。その際、店主が6月に中野30人規模の居酒屋をオープンするという。

早速、例のメンバーで関東支部の懇親会の会場にするために下見に行った。(下写真)店の雰囲気も良く、料理は店主自ら厨房に入りっきりでの逸品で、手造りのビールのインディア・ペールエールが1杯目は無料のサービスもある。

7月28日に四三の会関東支部の懇親会が決定したが、直後にGT君から一通のお願いの儀のメールが舞い込んだ。
ニューオータニで、7月13日(土)に行われる母校全体の同窓会東京支部への参加促進依頼であった。たしかに、過去2回、我々の当番学年幹事のときは、四三の会のメンバーの講演もあり、それぞれ20名以上が参加した実績はある。

ただ周到な準備をしており、今年は関東支部の懇親会と同月となり、時間もなく断った。せめて私だけでも参加しようと思ったが、土曜日はあいにく道場の稽古と重なって、無理である。どうやら毎年3~5人の参加を要望しており、今年の懇親会で参加メンバーの意見を聞いてみることにした。

この四三の会関東支部の懇親会は、職縁社会で唯一残した入社同期の箱根一泊旅行地も重なり、同期の旅行の方をキャンセルした。整理してきたつもりが、どうも多忙さを増している。
 

旅の終わりにーー欧州の旅エピローグ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 5月17日(金)19時42分46秒
  私は、中野孝次氏の“清貧”にまつわる著書が好きだ。「自由でゆたかな内面生活をするためにあえて選んだシンプルライフ」である。中村達也氏の文章を引用して、「この消費社会の有り余る財・サービスの一切を拒否することによって、むしろ、自分自身の豊かな時間を取り戻しているといった風なのである」と述べている。

有り余る財・サービスを甘受し、慌ただしく追い立てられるように生きている現代人のライフスタイルを忌み嫌らっている。私も、中野孝次氏のように、喧騒を離れ、清貧にゆったりと時間軸と空間軸を合わせ暮らしたい。ただ、書物も読むがインターネットを駆使し、趣味の映画をTVのNETFLEXに変えている。

しかし、4月26日にこのゆったりとした静謐を破り、技術革新の波に取り残された私を感じさせる事件ともいうべきことが起きた。

15年間お世話になったJCOMケーブルを、これまでと同様にインターネット、TV,電話のセットで半額にして、NTTぷららに切り替えたのだ。

安い分だけ、ユーザー側の負担が大きく、サービスが荒く、何度も立ち往生し戸惑った。JCOMでの立ち上げは電源を入れるだけだったが、光ファイバーからルーターに引き込むまでのサービスにとどまり、それから先は自分でやらねばならず連続して見舞われたトラブルの具体的事例を挙げる。

① 一ヵ所、一本のケーブルだけ
JCOMでは、インターネットは2階に、TVと電話回線は1階に引いてもらった。しかし、ぷららは契約した後に、一ヵ所、一本の線しか引かないと言われ困った。HPには配線方法までは書いていなかったのだ。

ぷららは、最新の無線LANを無料レンタルしてくれるとわかり、デイスクトップにソフトをインストールし無線LAN子機で繋ぐことを考えた。

押入れの10年以上前の無線LANの子機を探し出し、ぷららにレンタル申し込み時、繋がるかどうか聞いたら、問題なく受信できるという。こうして一本のケーブルのみで繋ぐことが出来て解決した。

② 工事屋はインターネットと電話だけーーTVどうなった
4/26に工事会社コムシスが来た。インターネットと電話の配線工事のみが担当で、TVは関知しないという。

私は、工事屋がTVチュナーを持ってきて、同時に工事すると決め込んでいた。ぷららに電話すると400人足らずの小さな会社であるが、インターネット、電話部門とTVは別のグループなので、そちらに電話をしてくれと言われ、30分もかけてようやく繋がった。

どうやら、会員登録証を送り忘れていたようであり、チューナーが着いたら、初期設定に使うエントリーコードを電話口で教えてくれた。会員登録証の日付はインターネット、TVは3月2日で、TVの登録証は4月22日と1ケ月半も遅れており、小さな会社だが、大企業並みであきれ果てた。

③ チューナーが着いたが大問題 
JCOMでは、ブルーレイレコーダーをレンタルしていたが、割高であり今回は購入した。ようやく着いたチューナーのインターフェース部分を見て仰天した。

USBのみで、ブルーレイレコーダーが繋がらない。コールセンターに電話したが、「購入されてお気の毒ですが、弊社の今回のチューナーはUSBしか繋げません」とつれない返事である。「ルーターはLAN端子が5つもある。LANケーブルでは?」、「それもダメです」

そして、「どうしてもとおっしゃるなら、赤緑青の端子のチューナーがありますが」と提案され、私は、「RGB、アナログじゃないの」と絶句し繋ぐのを諦めた。
そして「録画するなら外付けハードデイスクですが、弊社推奨の機種でお願いします」と念を押された。

④ 外付けデイスクも購入できず
ノジマ電気に行き、ぷらら推奨の外付けデイスクを店員に頼んだ。店員はぷららのHPを注意深く読み込んで、告げた。「指定の外付けハードデイスクはバージョンがすでに上がっており新バージョンでは動作は保証しかねます。旧バージョンは取り寄せ出来ません」
しょうがなく、540/月でぷららからのレンタルとした。

チューナーのインターフェースの設計思想が悪いとか、マージンのない設計は技術不足とコールセンターに指摘しても所詮通じないので泣き寝入りだ。

⑤ インターネット繋がらず
待望の5月1日に、初めて無線LANで繋いだが、無線LAN接続表示の扇形が2つしか表示されない。Googleに繋がるが、そこから他のサイトはタイムアウトで落ちてしまう。
スマホからは、問題なく繋がってしまい、TVも電話も無事だ。

無線LANの力が足りないと思い、延長コードで階段半ばまで移動したが、事態は変わらず。
既知のネットワーク設定のリセットをしたり、あらゆる手を尽くしたが駄目である。古い無線LANに取り換えてみたが、それでもダメである。

スマホは問題なく、デイスクトップパソコンだけの問題であり、一階にパソコンを降ろしLANケーブルで直接つないだ。LANケーブルなら100Mは飛ばせるので、いざとなったら、2階と有線で繋げばいい。

果たして、階下に降ろし電源を入れたら、「インターネットなし」の最悪表示となり、おまけにスマホの扇形表示も停止し、LINEもダウン。孫のゲーム用スマホも、無線LANには繋がらず。
午前2時になっており、ついに放り出して、自棄酒を飲んで寝た。

翌朝起きたら、LINE通信障害の可能性が閃き調べたら、やはり午前零時に539件の障害情報が発信されていた。もう、ぷららのルーターまでの問題しかないとコールセンターに電話するつもりで、パソコン電源を入れた。

摩訶不思議なことに、きっちりと無線LANで繋がり、今日まで全く問題ない。私の診断力をもっては、不可解なり。現在のビジネスモデルについていけず、今後は安いものには、事前の調査を十分に行うように反省した。

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ところで、今日は、先月書いた欧州の旅のエピローグを記する。

1 欧州の旅エピローグ

(1) カジノからイタリア観光へ
旅も後半になり、緊迫した欧州情勢のわりには、順調で気楽な気分となり、フランスでカジノのデイボンヌに行った。堂々とした高級ホテルのような白亜の殿堂である。

パスポートを提示し、豪華絢爛な内装には映画の一コマにはいった気分である。(下写真、入場証)ルーレットを選んだが、台ごとにレートが異なり、博才のない私は慎重に一番安い台から入る。どうしたわけか旅の原資程度の儲けになり、その後ズルズルと負けて、3万円程度の儲けで打ち切った。

掛けている最中に、儲けた金を、二つの事に散財することを思いついた。
カジノのバーは高級すぎるのでラスベガスには及びもつかないがカジノの街で一杯飲むことと、ローマ、ミラノ、ポンペイのガイドを雇う費用にすることである。
カジノを出て、旅行会社に電話すると、夕刻にも関わらず、スムースに事は運び、料金も折り合った。

(2)緊迫したローマ空港
思わぬお金がはいり飲みすぎて、翌朝モーニングコールを切り、また寝てしまった。リヨン空港にタクシーで乗り付け、文字通り飛行機に飛び乗って、無事ローマ空港に着いた。
そのとき、私は安全で順調な旅に気が緩み、大きなミスを犯していた。二日酔いであわてて着替えて、スーツではなく普段のジーンズ姿であった。

まず、入国審査であるが、サングラスを眼鏡に変えろと怒られ、目的と滞在期間は当然としても、現地滞在ホテル、観光先そして知り合いまで聞かれた。前夜頼んだ旅行社のガイドが私を迎えに来ていると答え、ようやく尋問口調が穏やかになった。入国審査官個人の判断で、入国可否が決まるので、肝を冷やしほうほうのていで切り抜けた。

そして税関を申告なしで抜けるときに、急に職員が呼び止めなにやら叫ぶと、一定距離でライフル銃を肩に警備していた警官が走り寄ってきて、緊迫した光景となった。

私のバッグの中身は、予め設けられたテーブル上に手荒にすべて撒き散らかされ、バッグそのものも丹念に調べ上げられていた。肩に下げたバッグも取り上げられ、厳しいボデイチェックも行われた。

パスポートを見ながら、どの国でどこを廻ってきたか尋ねてくる。パスポートは取り上げられ、別室で照合している様子であったが、20分ほどで返され無事通り抜けた。

1時間ほど遅れて、到着ロビーに着いたら、心配そうにガイドが待っていた。名前はNARDONIさんであり、日系人で日本語は流暢であった。

事の次第を話すと、彼女は、「それは赤軍派の疑いをかけられたのじゃないですか。その格好でそのお顔なら私まで疑いますよ」という。

ローマ空港は、テルアビブのテロ事件以来、国際世論で叩かれ、厳戒態勢を続けているとのことである。ガイドの役目の切れ目で、彼女はポツリポツリとテルアビブの惨劇を話してくれた。

紀元前753年からのイタリアの史跡、遺産には感動したが、旅のエピローグとしてローマ空港の体験で、欧州人の日本人の若者に対する理不尽で残虐との厳しい評価がわかり、鮮烈に記憶に刻まれた。
赤軍派は、決して例外的なカルト集団ではなく、団塊世代の誰もが「体制打破、革命」と熱病のように浮かれた学生運動が追い詰められて、先鋭化していったものだ。

(3)ローマ空港の特別厳戒理由
前回触れたように1972年5月30日に、赤軍派3人がイスラエルのテルアビブ空港で、バッゲージクレームのターンテーブルで荷物を受け取ると、自動小銃を取り出し無差別に乱射し、手榴弾を投げ、26人が死亡させ73人が重軽傷を負わした。

地獄絵図となり、直後に犯人二人は顎の下で手榴弾を爆発させ、顔、指紋を吹き飛ばして自爆した。この行為は、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)で軍事訓練を受けたものだ。生き残った岡本公三は、この年の3月にベイルート郊外でPFLPの軍事訓練を受けていたことを自供した。

女性、子供の認識もない無差別テロであり、犠牲者は、標的のイスラエル人は8人であり、巡礼に来ていたプエルトリコ人17人、カナダ人1人は標的以外であり、しかも全員が一般市民であった。

欧州の誰もが、中東とイスラエルの長い確執の歴史を知らない日本人がなぜこんな蛮行をといぶかい、日本伝統のカミカゼ精神とマスコミは憎悪と嫌悪感をにじませ報道した。

この事件3か月前の赤軍派のあさま山荘事件にも言及し、彼らが仲間を拷問で12人も殺し、妊婦を含む女性4人も犠牲者となり、理解しがたい残虐な日本人の若者の像を加速した。

一方、国際的な非難の目は、ローマ空港にも及んできた。自動小銃3丁と手榴弾が手荷物検査をすり抜けたのは3人が日本人だったからである。当時はすでにX線検査装置があったが、抜き打ちでの検査らしく、日本人という素性はその時まではノーマークであった。ポーター2人を使い、一番重いバッゲージのみ3人で運ぶ異常行動であったが。

PFLPは、もうイスラエルには警護が厳しく入れなかった。
このテルアビブ空港乱射事件の前に、PFLPは5月8日にベルギーのブリュッセル発の航空機を乗っ取り、イスラエルのテルアビブ空港に着陸させた。

乗客ら100人を人質にし、イスラエル政府に対し服役中のゲリラ317人を釈放するよう要求した。しかし、イスラエル特殊部隊が機内に突入し、犯人4人のうち2人が射殺され、女性ゲリラ2人が負傷し制圧されて失敗に終わり、PFLPは行き詰まった。

そこで、PFLPは、日本赤軍が、“国際根拠地論”として世界同時革命を唱えて、ベイルートに渡ってきたので、イスラエルの警護が日本人に甘いことを利用したのだ。

PFLPが期待した通り、テルアビブ乱射事件の後、赤軍派はカミカゼ精神を発揮した。1973年赤軍派の丸岡修らが、ドバイ日航ハイジャック事件を起こし岡本公三たちの釈放要求を行ったが失敗し、リビアに着陸して逃亡している。
欧州の旅の直後の1月31日に、赤軍派の和光晴生と山田義昭ら4人が、シンガポールシージャック事件を起こしている。石油タンクを爆破し、職員5人を人質にとったものである。

欧州人には、日本人の若者は、到底理解しがたい残虐なカミカゼ精神を持ったクレージーな人種と捉えられたのだろう。

Narudoniさんの話は事実のみ淡々と話し、どちらかに偏ったものではなかったが、テルアビブ乱射事件の実態、国際情勢での他国からの評価など、ローマ空港での体験も加え、欧州の旅のエピローグとして残り、帰国後もこの事件について私なりに突っ込んで勉強したものである。

お土産に添えられたカードに書かれた彼女の「To see Again、Nardoni」(写真)に、当時の記憶がまざまざと甦ってくる。
 

旅の残照―――“十五の夏”を読んで

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 4月27日(土)19時05分34秒
  桜の季節は、日々桜前線が北上して心が騒ぐ。在原業平が詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の短歌につくづくそのように感じ入る。

4月2日に四三の会の4人が連れだって、目黒川の桜を観に行った。幸い花冷えが続き、見頃であった。川沿いに歩き、橋の上から眺めて散策を楽しむ。800本ほどの桜はソメイヨシノであるが、ふと花筏(みずもの花びら)が逆流していることに気付いた。調べてみると、2日は15時45分に満潮であり、目黒川の海抜はたったの9mでありその影響であった。

目黒川のソメイヨシノに統一された桜の樹々は川沿いにアーチを描き、上流の川幅が狭くなりトンネルのようになっていく景観の移り変わりは上品で静謐である。花筏は ひっそりと流れる川に漂い、また所々に花筏が淀んでいた。

私が東京近郊の三大桜名所を挙げるなら、この目黒川と上野の夜桜、そして千鳥ヶ淵であり、それぞれの趣は異なる。

上野の夜桜が発する妖気は息苦しいほどに妖艶であり、梶井基次郎著“桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる”との形容がぴったりである。多分、無念に散った彰義隊の百以上の御霊がこもっているのだろう。千鳥ヶ淵は、桜吹雪が濠に注ぎ、花筏が風に流され桜花爛漫に優雅さをもって咲き誇っており、これは春の息吹を感じさせ心躍らせるものである。

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ところで、外務省のラスプーチン、知の巨人との異名を持った佐藤優著の“十五の夏”を読み、克明な描写に若い時のみずみずしい感性が思い出され、バックパッカーの先駆けと言われる沢木耕太郎著”深夜特急“以来に感動した。

上巻は、手造りの旅で行く先々での人との触れ合い、風土、食事など楽しく読めたが、下巻からは、ソ連に対する深い見識と、領土問題、それを取り巻く深刻な人間模様が描き出されていく。

1975年の“十五の夏”に対し、私は1年前の1974年に欧州旅行をしており、私の体験に基づき感じ入るところ、それぞれの旅の残照を2点ほど比較し述べていく。
無論、旅を開始してからのその国の文化、風土、食、人々とのコミュニケーションなど数知れない感動はあったが、なぜか次の2点が読後に、旅の残照として浮かび上がってきた。

一つは緊迫する国際情勢の最中の現在のような企画された旅ではないことと、もう一つは、遠い国々への出発地点に到着するまでの長いフライトでの経過である。

1 緊迫した時代背景での旅の立案

(1)佐藤優氏の旅の東欧、ソ連情勢
1975年、浦和高校1年生の15歳の夏に一人旅を敢行している。ソ連、東欧の旅であり旅費40万円で40日間放浪している。当時のガチガチの社会主義体制の国々を旅することは度胸のみならず冷静沈着で明晰な頭脳と強い意志が必要だ。データ収集力とコミュニケーション能力も秀でたものでなければならない。

人並外れた高い能力を持った著者でも、共産圏2日目にもう西側に出たかったと吐露している。
社会主義体制は、1990年頃にソ連、東ドイツと相次ぎ崩壊していったが、1975年前後は権力で反体制を押し込み、戦乱の危機が絶えず漂っていた。

チェコスロバキアの民主化“プラハの春”を、ソ連率いる5か国の20万人の軍が弾圧したのは佐藤優氏の旅の7年前であった。
また、ソ連は、1979年にはアフガニスタンの共産政権維持のため、9年間にわたる侵攻をした。ソ連兵の駐留は9万人であり、ソ連軍の死者1万4千人、アフガニスタン人死者は60万人という凄惨な戦いである。

米ソの冷戦とともに、社会主義国家体制内部に、強力な統制と弾圧で絶えず火種がくすぶっていた。

(2)私の旅の欧州国情
1974年、NEC入社した翌正月に20万円の原資で欧州を2週間旅行した。
こちらも戦禍直後の緊張状態であった。前年10月にイスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国の“中東戦争が始まった。イスラエル33万人とアラブ軍50万人という大規模な戦争である。

これを引き金に、アラブは原油を減産し大幅値上げして、またオランダなどイスラエル支援国に石油禁輸の経済制裁を行ない、これはオイルショックとして世界の経済を震撼させた。
日本も総需要抑制で企業活動を抑制し、大企業が長期の正月休みとなり、私はそれを利用して2週間の旅に出たわけである。当時の欧州の激しい反日感情は3つの理由があった。

① 日本の寝返り
イスラエルを強固に支持していた米国との日米同盟により、日本も反アラブと見られ、禁輸政策をとられそうになったが、三木副総理を派遣しイスラエル支持でないことを中東諸国で説明した。オランダなどイスラエル支持の国々に、経済のみを優先する日本の姿勢はひんしゅくを買った。

② テルアビブ空港乱射事件
私が欧州に行く1年8か月前に、日本赤軍3名が、イスラエルの空港で無差別テロを実行した。当時は、テロリストが無関係な一般市民を襲撃することは前代未聞であり、極東の日本人3名が、なぜこのような残虐なことをやったのか欧州、そして世界中の批判の渦が巻いた。

自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客に無差別に乱射し、乗客を乗せて駐機していた旅客機に向けて手榴弾を2発投げつけていた。26人が殺害され、73人が重軽傷を負った。

③ クアラルンプール大使館襲撃
これは私の旅の1年後に起きたものである。日本赤軍5名が、マレーシアのアメリカとスウェーデンの大使館を占拠して職員50名を人質とした。人質の解放と引き換えに日本国内で拘置中の活動家7人の解放を要求した。当時の三木内閣はテロリストと交渉し要求に屈したため、世界中の批判を浴びた。案の定解放されたテロリストは世界中で更に凶悪な事件を引き起こし多大な犠牲者が出た。

2 不安と期待が交錯する旅立ちーー格安航路での長い出発地点到着まで

(1) 佐藤優氏のスイスまでの移動
南回りで欧州に入り、東欧の国々を廻り、ソ連に渡りハバロスクに飛行機で行き、そこから急行寝台列車に乗り、ナホトカから客船バイカル号で横浜に戻る旅路である。

前年五木寛之著“青年は荒野をめざす”が発刊されたが、主人公ジュンは、横浜からハバロスクまで全く逆の同じコースを辿り、ソ連を皮切りに欧州放浪の旅に出ている。
当時のバックパッカーには馴染みの経路だが、彼らは東欧には行かず、西欧に入っていき、佐藤優氏の旅は稀有なものだった。

とにかく、出発点のスイスで1泊するまでの道のりが凄い。エジプト航空機で羽田を出発する予定だが、午後1時発が3時間遅れた。香港で着陸し給油する。

隣り合わせの貿易会社の社長さんにこれから訪れる国々への旅の知識を学んだ。次に、バンコクに降りて、30人程度の人が乗降し既に夜になっていた。ボンベイでは飛行機から一旦降りてトランジットルームに行けるので、十数時間ぶりに飛行機の狭い空間から解放されている。

そしてインド洋を越えて、カイロに着いた。身の危険を感じるような旧式の空港バスでトランジットルームに向かう。親切な社長さんはパリ便に乗り換えるのでそこで別れを告げた。飛行機の機種が変わり、ローマで乗客がまた乗降する。そしてようやくチューリッヒのユースホステルに泊まることが出来た。

安価だが、長く狭い空間での旅である。日本からスイスへの移動が2日がかりであり、そこを出発点としてチェコスロバキア、ポーランド、ハンガリー、ルーマニアそして ソ連の旅に発つ。

(2) 私のアムステルダム到着まで
格安航空の南廻りでバンコク、ドバイと乗り継いで、オランダに入り、そこから鉄道でスイス、フランス、イタリアと南下する旅路であった。

出発便を待つ羽田空港のカウンターで延々と待たされ、5時間後に欠航するので明日の便に変更と告げられた。一度寮に戻るのも面倒なので、旅行会社と交渉し空港近くのホテルを無料で手配させた。

その晩、近くの居酒屋に飲み行くと旅慣れたバックパッカー風の男が、オイルショックで航空便が大幅欠航し、切符が非常に高騰しているという。私の切符も高値で流され、明日キャッシュバックされて、旅は中止になるのではないかと脅かされた。早速、ホテルに戻り、羽田空港に電話すると、私の予定の便はやはり整備不良で欠航とのことだった。

安堵して寝ると、早朝ガルーダ・インドネシアの便になったとのことで、出発の目処がついた。

無事離陸し、8時間後にトランジットのためにバンコクのドンムアン空港に降りる。4時間も待ち合わせ時間があり、空港内をぶらつく。暇なので、装飾品と蘭の花売り場の女性に話しかけると、微笑みの国と呼ばれるように感じの良い応対だった。天候、食事の話など長々と会話を楽しんだ。(下写真)

こんなに話して仕事(タムガーン)は大丈夫かと言うと、微笑んで“マイペンライ”と答え、私が最初に覚えたタイ語である。

その時は、18年後にまさか4年間もバンコクに赴任するとは思わなかった。タイのドンムアン空港に着くと、店はなくなっていたがその場所を通り思い出す。

乗り換え便は、オランダKLM機だった。搭乗前にモデルでもないかと思われる美しいスチュワーデスと話した。(下写真)
私より背が高く気さくな応対で、ドバイまでは暑いが、アムステルダムは非常に寒く夜明けも遅い、疲れもたまっており、体調管理を大事にとのアドバイスを受ける。機内にはいって見回したが、残念ながらエコノミー担当ではなかった。

そして機はインド洋を横切り、砂漠の真ん中のアラブ首長国連邦のドバイに降り立つ。またトランジットであり、西田佐知子の“コーヒールンバ”を思い浮かべ、アラビアコーヒーを飲みに行く。隣には髭を蓄えた厳めしい顔をしたアラブ人が、クゥトラと呼ばれる帽子を被り近寄りがたい雰囲気であった。

ところが、私が砂糖を入れようとすると 「入れないほうがよい、コップ底の粉末は飲まないように」とのアドバイスをくれた。人はみかけによらないものである。(下写真)

石油危機には触れず、ドバイについて語ってくれた。3年前の1971年にアラブ首長国連邦はイギリスの統治から離れ、建国した新しい国であった。空港からの眺めは見渡す限り砂漠だったドバイは、いま高層ビルが立ち並び300万人を擁する大都市になっている。

ようやく乗り換え便に搭乗し、夜半オイルショックで街中の灯が乏しい暗がりのアムステルダムに到着した。二昼夜にわたる移動であった。

2009年に北回りで、フランスに直行したが、12時間の飛行時間であり、目の前のデイスプレイで好きな映画も選べ、逆に旅の醍醐味は失われたと感じた。

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4月15日にノートルダム大聖堂が火災になり、その尖塔が真っ赤に燃え上がり崩れていくシーンは衝撃的で悲惨なものだった。
その失われていく姿に、1974年の旅の残照が浮かび出た。

ノートルダム大聖堂の400段ほどの螺旋階段を登ったが、まるで中世ヨーロッパに迷い込んだかのような異質のかつ神秘的空間だった。ゴシック建築のステンドグラス、蝋燭に灯された内部の彫刻、絵画は息を呑むほどであった。
旅の残照として鮮やかに蘇ってきたものであり、喪失感が大きく実に残念なことである。
 

えん罪、この許されざるもの

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月25日(月)19時58分41秒
  恒例の大学OB月例稽古は、ついに8年目に突入した。稽古後は、いつもの中華店で一杯付きのランチである。
大学後輩の女子チームが、昨年11月に第40回全国国公立大学空手道大会で優勝したことに、またも話が転じる。学長表彰を受けたり、地元テレビで特集を組まれたり、大変な騒ぎであった。我々の時代の空手部では、女子の入部など想定もしていなかったとしみじみ言い合う。

私は、そのチームの戦いぶりをみたが、女だてらに上段後ろ回し蹴り(サソリ蹴り)を繰り出したり、パワーとスピードがあった。

そして、今月から何を考えていたのか、女だてらに孫娘が道場に入門して一緒に稽古を始めた。下の男の子はもう入門して2年半たつが、新たに加わった好奇心豊かな2つの瞳に見つめられ、つい熱の入った稽古になった。道着が空気を切り裂く音、裂ぱくの気合、技の極めに渾身の力を振り絞った。

その甲斐があって、意識して高く蹴った上段回し蹴りを誉められた。しかし、古希を迎え、あまりに肉体を酷使したので、ひさびさの筋肉痛となり、早速温泉に癒しに行った。

ところで、ITが日進月歩であり、ビジネスモデルも激変している。つい団塊世代は、その変化に尻込みしがちだが、踏み込んでみると簡便性が増し、非常に安価になっていることがわかる。

いまが買い時と、家族の携帯とインターネット・電話・TVを一気に変えた。

① 携帯買換え
昨年政府が携帯料金4割下げようとしても遅々として進まなかったが、国際的に立ち遅れガラパゴス化した業界が重い腰を上げて、どうやら4月以降に販売方法を変えていくと推定される。

振り返ると、過去に携帯機器の日本のメーカーがガラパゴス状態に甘んじ、壊滅に近い状態になってしまった。高い値段での機能アップ指向が、海外勢に追いやられたのだ。
2003年度はNEC23%、続いてパナソニックなど国内市場の90%以上を、日本メーカーが占めていた。ところが、NECが撤退し、現状の日本メーカーのシェアは、ソニーとシャープで20%程度と様変わりしてしまった。

携帯サービスも、高値どまりであり、たしかに4割程度は下がるべきである。
私はすでに格安SIMに移行し、料金を半減しているが、今回はSIMフリー携帯を無料で入手した。SIMフリーならば、今後通信会社を変えても、携帯機器は一生使える。

日本のSIM括りつけは、IT後進国の考えだ。これまで通信会社を変えるたびに1円とかで携帯機器が付属されており、手元に高価なスマホが3台も余っている。孫の無線LANでのゲーム用に化しており、ひたすら海外の携帯メーカーに貢献している。

まもなく、SIMフリーとともに、2年間固定契約、携帯大手の奨励金を原資とした端末・通話料金のセット販売も消え失せるだろう。

携帯機器を変えるたびに厄介な思いをしたのは、旧携帯からのデータの引っ越しである。幸いMNPで番号は維持でき、面倒なのは連絡帳などの引っ越しであるが、なんとapple同士ではクラウドを使い、アンドロイドからappleは、テザリングのような機能を用い10分で終わった。簡便になったものである。

② インターネット、電話、TV乗換え
これからの時代は、高速のインターネットケーブルを引き込み、TVと電話など家電を無線LANでつなぐ家庭内ネットワークが当たり前である。

今回乗り換えた光は、ケーブルTVのチャンネルを絞ったせいもあるが、キャッシュバックがあり、料金は半減となった。こちらは、想定以上に価格競争が激化していた。

無線LANも無料レンタルしており、我が家の10年以上使っている無線LANは時々リセットを要し、早速入れ替えた。設定は、スマホが3次元バーコードの読み取りで済み、すべての家電がものの20分程度で終わり、簡単になったものだ。


ところで、今回は “えん罪”について何気なく読んだ本にちょっと衝撃を受け、それを皮切りに述べる。

映画“7つの会議”見に行ったが、迂闊にも上映時間をチェックしておらず、映画館まで行き朝と夜の2回しかやっていないことがわかった。
手持ちぶさたになり、市立図書館に向かった。案の定平日の昼下がりは高齢者で占められ、居眠りしている人も多く、かなり窮屈な姿勢で寝入っている方もいた。

私は、ふと昨年発刊された早瀬圭一著 “老いぼれ記者魂: 青山学院春木教授事件四十五年目の結末” を手に取った。
事件の外堀からはいるプロローグに惹かれ、その日の午後に読み上げてしまった。
そして、同じ棚にあったえん罪事件の河野義行著 “松本サリン事件”も読んだのでそれぞれについて述べる。

1 青山学院の春木教授事件

私が大学4年の時に、この事件が同年の女子大生の身に起き、世論は一方的に春木教授の暴行を痛烈に批判したことを覚えている。
昭和48年3月に、朝日新聞が社会面トップに5段抜きで「大学教授 教え子に乱暴」との記事を教授の顔写真付きで掲載した。

私が、わだかまりを持っていたのは、社会派の芥川賞作家、石川達三氏がこの判決の2年後に、陰謀説を唱え、“七人の敵が居た”を書きおろし、教授の無罪を主張していたからである。これは三國連太郎が教授に扮し映画“女子大生と老教授、謎の四日間 /ザ・スキャンダル”にもなった。

そしていまようやく、元毎日新聞社の早瀬圭一著の執念の老いぼれ記者魂の書を読み、えん罪と確信した。
佐野眞一著“東電OL殺人事件”でネパール人がえん罪であることを訴えたが、その本の発刊後の9年目に再審によりDNA鑑定が行われ無罪が確定した。この早瀬圭一氏の著書も同様の説得力がある。

事件の概要は、2月21日に、4年生のTA子に採点を手伝ってほしいと研究室に連れ込み、2度乱暴し、1日おいた13日に、卒業後は研究を手伝ってほしいと3度目の乱暴をしたとのことである。
TA子は私の1歳上で(2年浪人)、知性と美貌の持ち主で、生娘だったと医者の診断書を提出し、裁判では教授をケダモノと罵った。

180cmの知的な紳士の63歳の春木毅教授は、東北大学の博士課程を出た後、留学し南カリフォルニア大学の博士課程を修了し、国際法で名声があり、教授会でも大きな影響力を持っていた。

この事件で春木教授は、3年の実刑判決を受け、実母がショックで急死し、妻とも別れ子供たちも遠ざかり、家屋敷も裁判のために手放し、出所後は2Kのアパートに一人住まいであった。地位も名誉もすべて失い、死ぬ寸前まで再審要求し失意のうちに84歳でこの世を去った。

最高裁で上告が棄却され、判決が決まったのは昭和53年であり、その判決内容に石川達三氏が驚き、次の通り指摘したそうである。
「三度目は合意で、最初と二度目は暴行という判断が許せない。二度も凌辱された女子学生が1日おいて教授を訪ね今度は合意などあり得るだろうか。翌日14日にTA子は“親愛なる”なんて言葉を書き添えチョコレートを贈ってたんだ」

確かに奇々怪々な判決である。早瀬圭一氏の膨大な時間をかけたえん罪との状況証拠と推論を追ってみよう。

(1) 青山学院の内紛
当時、大木理事長が絶対権力を持っていたが、内紛が起きていた。昭和42年に法学部長選挙があり、春木教授が立候補し、がぜん有利だったが、小林孝輔教授達が反発し、策謀に策謀を重ねて、白票6票とし選挙を無効にした。結果は、大木理事長兼任という結末に至った。その後、小林教授は、目論見通り、昭和46年に法学部長に就任した。

今週も青山学院は裏口入学の告発で揺れ動いているが、昭和57年に毎日新聞トップに「年間百人以上の情実入学」と報じられたり、伝統的にきな臭い内部の紛争、利権争いが多かった。

(2) ハニートラップ
2月2日に春木教授は校庭でTA子に呼び止められ、高島屋の外人との折衝部門に就職が決まったので、英語教授法の権威として高名な春木教授に話を聞きたいと申し出られる。
2月9日に“レバンテ”でランチをともにする。

そして、11日に表参道のユニオン教会前で会い、ランチをとる。その後にTA子は2度研究室で乱暴されたと主張するが、逆に春木教授はTA子に迫られ、道徳観念を失ったと反省する。ただ糖尿病であり、TA子が言う処女喪失などありえないという。

この後、二人は渋谷駅近くのレストランで食事をとり、TA子は次回 「FEB13 5.00PM」と書いたメモを渡し、これは物証の一つになっている。
そして、13日に同じようなことが行われた。
翌日14日のバレンタインに、“親愛なる”との言葉と自筆のイラストを添え、チョコレートを贈っている。

(3) 怖い人の登場
15日に、大学に40年配の“与太者ふう”の男が押し掛けてきた。最上恒産の“地上げの帝王”早坂太吉である。春木教授に、大学辞任と1000万円の慰謝料を迫られた。

春木教授は道徳観念を失ったことを悔い、退職し慰謝料を払おうとするが、突如TA子側は告訴した。筆者は、早坂太吉の怒りに近い嫉妬と指摘する。自分の「私有物」のTA子が春木教授に急接近したことで逆上したのではないかと見ている。

(4) 謀略
TA子は2浪しており、青山学院に入学する前は、早坂太吉が経営する赤坂のクラブのホステスとして働いた。そして大学3年のときには愛人になった。そのクラブは、小林孝輔教授を中心とする法学部教授らの溜まり場の一つになっていた。小林教授達は教授会などのあと、必ず夜の街に繰り出しており、早坂太吉の店にたむろしていた。

その赤坂のクラブで、春木教授の助手の手記によると、ライバルの小林教授と支持教授3人、早坂太吉、早坂の原顧問弁護士、TA子が揃い、七人で謀議していた。ハニートラップが仕掛けられたのである。石川達三著書の題名“七人の敵が居た”である。

(5) 一方的な取り調べ
TA子の供述調書と引き裂かれた下着などで、警察は初めから黒と予断し、勢い込んで待ち構えていた。それから後は執拗に自白を要求し、三人の刑事が代わる代わる詰問し、疲労の極に達し、しまいには腹を立てる気力も失っていた。いわゆる精神的拷問である。この民主主義の人民主権の時代に、一歩警察の門をくぐれば、あとはもう昔ながらの、拷問によって自供を強制される地獄のような世界だった。

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小説のような事件のストリー展開である。

ただ、TA子は卒業後に小学校の臨時教員となり、その後杉並区の教育委員会に嘱託で勤務し、いまは郊外のマンションで一人住まいしているらしいとのことが意外であった。

最後に筆者が奇跡的にTA子と電話がつながり、17分間の対話に成功するが、罪悪感がとがめたのか電話を突然切るわけでもなく、慎重に事件には触れず中身がなかったが、なにか知性ある女性が運命のいたずらで階段を踏み外し、それに気づいて息を潜めて生きている感があった。

多分、金と女性のスキャンダルにまみれた早坂太吉に、人生を引っ掻き回された女性の一人だったのだろう。

2 松本サリン事件  ―虚報,えん罪はいかに作られるかー

引き続き図書館で同じコーナーの河野義行著 “松本サリン事件”を読む。先日、中井貴一主演の映画“日本の黒い夏─冤罪”をみたばかりである。

1994年6月27日に松本サリン事件が起き、1995年3月20日地下鉄サリン事件でオーム真理教の犯行と判明するまで、河野さんは、実に9か月間も警察と報道機関によりえん罪を負わされた。
7名が死亡し、600名が負傷した大事件である。河野氏のように意志が堅固で論理的な方でなければ耐えられなかったと思う。

(1)被害者が加害者扱いの事情聴取
第1発見者の河野氏をマスコミと警察が、物証もなく犯人扱いした。事件の翌日、28日に39度の熱で酸素ボンベ、尿管をつけていたが、事情聴取がはじまり、7月30,31日に、「お前が犯人だ」と怒鳴りつけた。妻は意識不明であり(14年後に亡くなった)、家族4人が入院にまで及んだ状況であったのに。

(2)家宅捜索と薬品
被疑者不詳という異例の令状で家宅捜索が行われ、24種の薬品を押収した。河野さんが以前の薬品会社にいたときに、趣味の写真現像に使用するためにもらい受けた青酸カリもあり免許も持っていた。
毎日新聞はじめ、各社は「第一通報者宅を捜索、殺人容疑で薬品類を押収」などと報じた。

(3)無責任な学者の見識
サリンに近い神経ガスのタブンは、結城リンと青酸カリがあれば合成が可能と指摘があり、神奈川大学の毒ガス兵器に詳しい常石敬一教授も「純粋でなくてもタブンに近い不純物ができた可能性がある」と述べ、さらに「不純物の混じったサリンなら特別の実験装置は必要なく常温で可能だ。強力な殺虫剤を作ろうとして調合をまちがえたのかもしれない」と世論の火に油を注いだ。映画では、学者がバケツ一つあればサリンができると話す様子が描かれていた。

(4)はったりで脅す警察の手口
河野さんは、弁護士とともに本物の毒ガス研究者である国際基督大学の教田坂興亜教授を招き、「素人にはサリンはできない、河野さんにはサリンはできない」との言質をとった。

しかし警察は、黒の線を外さず執拗であり、ポリグラフをかけ反応が出たと言い、「息子さんに(容器を捨てろと)指示したところですよ」と説明し、測定結果も見せずに、長男への事情聴取まで行った。長男は「親父はもう吐いたんだ、ポリグラフの反応も出た」とウソをつき「おまえは、容器をどこに隠したんだ」とたたみかけた。

(5) オーム真理教の犯行
自白強要が続くが、河野さんは屈せず真実のみを語り続け、警察は逮捕にこぎつけられない。
そして、翌年1月1日に、上九一色村でサリン残留物発見というスクープが乗った。2月になるとオームという名前が出始め、河野さんは、マスコミから「息子さん、オームの信者ですって」との質問を受けるようになった。

3月20日の地下鉄サリン事件という大惨事が起き、河野さんの疑いがようやく晴れた。このえん罪に陥れる精力を、警察もマスコミも真犯人に向けていたら、地下鉄での大惨事は防げたかもしれない。

3 私自身がえん罪につながる経験

私自身がこのようにムキになってえん罪をとりあげるのはわけがある。
私が、友人の先輩を、警察の尋問によりえん罪に追いやる寸前までの経験をしたからである。
この音沙汰記の2014年4月20日に“袴田事件に想うーー私の取り調べ体験から”とえん罪につながる体験を述べていたので、下記にそのまま再掲載する。

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⑤ 私が巻き込まれた殺人事件
1971年の私が大学2年のときであった。
いきつけの美人姉妹が経営していた和也という居酒屋を出て、ほろ酔い加減であけぼの小路の前を通りかかったところ、激しい叫びと物音に小路にはいると、出くわした中学同級生が”なんかしてくれ”と訴えてきた。

後ろには先輩が異様に紅潮した表情で突立っていた。傍には人が倒れすごい高さまで血が吹付けている。まもなくパトカーが到着し止めるために分け入った私も、警察に連行された。

取り調べ室では、袖に血が付いており、当初私も犯人扱いだったが、ようやく目撃者の話で止めにはいったとわかってくれた。
まもなく、ある警察官が「危ないぞ。たんなる喧嘩じゃない」と私の田舎くさい取調官に告げると黙って立ち去り、しばらく待たされた後、凄みのある刑事が入ってきた。

口調は穏やかである。
私とK兄弟の関係を聞かれた。正直に、中学の柔道部で同級生であり、彼の兄はやはり、中学の柔道部の2年先輩と答えた。
静かな淀みない口調で質問を投げかけてくる。私が、現場で遭遇したときの場面のやりとりで1時間以上、角度が違った見地から同じような質問を繰り返した。

「出あったときの状況を細かに教えて?」→「3人でもみ合っていたが、K君の兄と相手側の一人がすごい形相でにらみあっていた」  「どんなことを言ってた?」→「先輩は無言で、相手の一人が、やれるものならやってみろと怒鳴りちらしていた」 「Kはそのとき手に何を持っていた?」→「手は見ておらず、わからない」 「Kは君になんといった」→「オー○○か、おれが先にやられたんだ」 「Kが刺したとわかっているんだ。彼は相手に何と言っていた」→「無言でにらんでいた」 「友人だから不利になることはないからKが言ったことをそのまま教えて、ビール瓶はどんな状態?」→「だから無言、ビール瓶って何?」

机を叩くような恫喝は全くなかったが、私は刑事が、刺した場面の凶器と言葉を私から引きずりだし、自分のシナリオに合せようとしている魂胆が見えてきた。

私は、頑なに、見て聞いたことしか繰り返さなかった。夜明けにようやく調書の作成が終り、右人差し指で押印した。刑事は、憮然として「相手は亡くなった」と告げた。

事の顛末を、後から当事者の同級生に聞いたところ(加害者側だが)、K兄弟でともに婚約者を連れて、飲み屋にはいったところ、兄の婚約者が入り口で、3人組の男の一人とぶつかったという。そこで、兄が注意したところ、胸ぐらをつかまれ、もみ合になり、殴られたという。こちらは女性もいたので、ついビール瓶を割って刺したとのことである。

更に、後日公判の途中で、関係者から状況を聞いたら、事の発端が最も大事だが、1度刺したならまだ傷害致死罪にとどまるが、2度刺しているらしいので殺意があり殺人罪の適用の可能性がなきにしもあらずとのことであった。

私が、出くわしたのは2度目に刺したらしいとの直後と思われ、刑事が「Kがやったとわかっているんだ、瓶はどんな状態」と執拗に聞いてきたことが、わかった。彼は、私の取調前に情報をかき集め、既にシナリオを描き、私の話を引き出そうとしたのだ。
 

極真の巨星墜つーー今も甦るあの激闘

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 2月22日(金)18時50分28秒
  9日の日曜は、極寒で小雪が舞っていたが、心を奮い立たせ、早朝に新宿の大久保スポーツプラザーでの大学OB月例稽古に向かった。
今回で第70回を数え7年間やり続けたのだ。定年退職後に新宿の武道場を借りて、学生時代の空手修行を、身をもって思い出そうと2011年3月に集い開始したものである。

この稽古のお陰で、平安をはじめ9つの形を思い出し、古希を迎えても上段回し蹴りをいまだにできる。午前中の練習がおわると、ランチと称して紹興酒で一杯の至福の語らいの時である。各々の企業戦士時代の逸話が面白く、特に海外体験は興をそそり話は尽きない。

ところで、別の空手仲間の飲み会で、非常に悲しく、驚くべき話を聞いた。
空手の試合で私が忘れえぬ激闘を繰り広げた鋼鉄人間と謳われた極真の佐藤俊和選手が、昨年亡くなっていたのだ。まだ享年70歳である。

私なりの拙いレベルだが、自分の武道人生を振り返り、なぜ佐藤選手との試合が人生で最も感慨深かったかを記述する。

私は、柔道の修行で高校時代に絶対的な体重差の限界を感じて意気消沈し、打撃系の空手道ならば巨躯の相手でも倒せると転向し、佐藤選手との試合でかなりのダメージを負いながらもこの格技を選んだことは、正解だったと体感したものだった。

1 柔道への没頭と諦め

(1) 小学時代
私の小学校時代は、相撲が盛んで、クラス対抗、5町内5人抜き戦など活況を呈していた。クラス対抗は無敗で、神社の前で行われた5町内対抗は荒々しく5人抜きを達成し、見に来ていた両親は、地味でおとなしい性格の私がいつのまにかと驚いていた。

小学校5年の時に、漫画“姿三四郎”を読んで、相撲が強かった私は、警察署の道場に通いだした。近所の親友SA君も、週2回ともに柔道を始めた。特に金曜8時からは、練習後に警察の大きなテレビでプロレス中継を見るのが楽しみだった。

柔道が強くなるにつれ自分に自信がつき、学級委員なども務め怒ることも覚え、性格がアグレッシブに変わってきた。柔道は、確実に人格に影響をもたらした。

(2) 中学時代
そして中学に進むと試合で自分の実力が試された。中学2年までは団体戦だけで個人戦はない。中学1年、2年の置賜大会新人戦は優勝した。初陣はよく覚えており、新山中の足首の太い選手だった。相手の左足払いを大内刈りで返し、技ありをとり押さえ込んだ。

中学2年のときには、私たちの学年の層が厚く、顧問の粋な計らいで、市内大会にBチームとして特別出場させてくれた。さすがに1学年上には強い選手もいたが、3位に入賞した。

そして中学柔道生活総括の3年生での試合である。市内大会初戦は、1中の巨体のT君である。内股で崩して押さえ込みで秒殺した。この頃は体重差などなんとも思っていなかった。団体戦は、圧倒的な強さでなんなく優勝した。

個人戦は、私の中学の同学年生がベスト4に3人残った。私が、NT君を準決勝で破り、奇しくも小学5年から一緒に道場に通ったSA君と決勝で戦った。
結果は、延長2回の末に判定で敗れたが、まったく通じる技が出せなかった。

県大会は、さすがに壁が厚く団体は優勝候補と言われながらも準々決勝で惜敗した。
個人戦は、市の優勝と、準優勝者が選ばれ、気合が入っており、準々決勝に進み延長戦に入った。内股を連発したが、動じない相手に対し市内大会決勝の消極的な試合がよぎった。

漫画の姿三四郎の必殺技である山嵐が瞬時に閃いたと思う。山嵐は、姿三四郎のモデルである西郷四郎が編み出した技である。片側の袖と襟をつかみ、背負い投げと払い腰をミックスしたように掛ける。

私も県大会前に、内股を警戒する相手に対し、研究を重ねて背負い落しなるものを編み出していた。背負い投げと体落としのミックスであり、右ひざを付いて右に巻き込むと面白いように掛かった。

しかし、この各地区から選ばれてきた県大会の準々決勝レベルで繰り出す技ではなかった。簡単に返されて、技ありをとられ負けてしまった。
最後は芳しくない結果だったが、練磨に励んで、道の険しさも体得し、有意義な柔道生活だった。

(3) 高校時代――挫折
高校に入ると1年上の層が薄く、1年上の国体予選団体戦に選抜されたが、2回戦で敗退した。秋季置賜高連、県新人戦と1回戦敗退である。1年上のクラスとの団体戦であったが、私自身は引き分けが非常に多くなっていた。

高校2年になると、同学年の対戦となったが県南での優勝にとどまってきた。
まず朝日杯争奪戦(置賜)、春季と秋季置賜高連は優勝。県大会は予選リーグを勝ち抜いたが、決勝トーナメント1回戦敗退。国体予選2回戦敗退、県新人戦は準々決勝敗退である。

高校3年では、朝日杯争奪戦、春季置賜高連は優勝、個人は準々決勝で抽選負けした。県大会は、予選リーグで敗退してしまっている。

私なりに、落ち込んで分析した。私立高校が、粒よりの重量級の選手を県内からかき集め、一流の指導者が、学業そっちのけで猛稽古により鍛え上げていた。
柔道のルールでは、間合いの概念がなく、せいぜい組手争いくらいでは体重差というものは、絶対的と思うような次の2つの出来事があった。

① 大相撲転向選手との試合
高校2年の朝日杯争奪戦で小国高校のKH選手と戦った。188cm、90キロくらいであった。グローブのような手でグイと抑えられると全く何もできず、引き分けに持ち込むのが精一杯で情けない試合展開だった。

KH選手は、その後高校を中退し、大相撲の世界に飛び込み、神幸のしこ名で前頭8枚目まで関取を務めたのだが、武道なのに自分の屈辱ともいえる消極的試合が嫌な思い出として残った。

② 講道館の稽古見学
そして、高校2年に講道館の稽古で衝撃的な光景を目の当たりにして、東京オリンピックもフラッシュバックした。

高校2年の春に講道館の300畳ともいわれている道場での稽古を見学した。(下写真、嘉納治五郎像の前で)田舎の高校レベルでは、想定できない高度な迫力ある稽古であった。ひときわ大きい選手が他を圧倒していた。

坂口征二選手を全日本の決勝で下した184cmの松永選手が、際立っていた。前年度全日本で優勝した坂口選手は196cmあり、柔道のルールでは無茶苦茶に強かったらしい。プロレスは、また別の格闘技ルールであまり向いていなかったのだろう。

中学3年のときに見た東京オリンピックの無差別級を思い出した。神永選手が体落としの技をかけたところ、ヘーシンク選手に潰されてそのままけさ固めで押さえ込まれた。神永選手は179cm102キロに対し、ヘーシンク選手は196cm120キロである。勝負は、技ではなく巨体での押し潰しであった。

新幹線の名古屋駅で、偶然山下泰裕選手を見たときには、その体躯に驚いた。外人選手が、「冷蔵庫に目鼻がついた男をどうやって投げる」と評したことがずばりである。足が短く180cm、130キロの体はまさに冷蔵庫である。

柔よく剛を制する、159cm、55kgの三船久蔵の空気投げ映像も吹き飛んでしまった。これまで階級制度のない真の日本一を決める全日本柔道選手権で、無差別級の選手のみ優勝していることが、このことを立証している。

(4) 空手道転向へのきっかけ
そのとき、柔道の創始者の嘉納治五郎の面白い本を読んだ。嘉納治五郎は、東京大学時代に柔術の天神真楊流柔術を学び、卒業後は起倒流を習得し免許皆伝である。

卒業1年後に、柔道を確立し、講道館を設立して全国普及を企画した。その際“危険のない健全なスポーツ”として柔道を普及するために、柔術の当て身と蹴り技を禁止にしたのである。

そして、嘉納治五郎は、柔道の創始者として講道館とともにその名を全国に轟かせていた。1922年(大正11年)に、文部省主催で運動体育展覧会があり、そこで、沖縄の富名腰義珍が沖縄空手の演舞をした。それが、嘉納治五郎の目にとまり講道館で披露することになった。

嘉納治五郎は、柔術を工夫し安全なスポーツとして柔道を普及する際、危険な当て身と蹴り技を禁止してしまった負い目があったと思われ、沖縄の空手の稽古場を提供し推してくれた。飛ぶ鳥をも落とす天下の講道館で、富名腰義珍は空手を教え、後日日本本土に空手をもたらすことになった。つまり柔道として危険だと禁止された柔術の技が、空手として復活したのである。

その頃、京都で富名腰義珍の友人の沖縄空手実戦派である本部朝基が、空手体対ボクシングの試合をした。180cm以上の巨漢ヘビー級ボクサーをKOしており、その様子は大正14年9月1日発行の月刊誌「キング」に掲載されている。

高校3年に空手転向を決めたとき、兄が空手道部に入り、庭に巻き藁を立てていた。毎日突いているうちに、この技なら巨躯でも倒せる、精進次第で限りなく強くなれることへの感触を得て、大学では、空手道に転向することを決意した。174cm、68キロの体では、柔道は限界だった。

2 巨躯相手でも負けない空手を体得

巨躯に対する限界を感じて見切りをつけた柔道から、巨躯を倒せる限りない可能性を持つ空手道に転向し、その確信をもてた試合を紹介する。

大学4年の時、昭和47年7月17日に仙台で全流派から500名が参加して第一回全東北選手権が開催された。その時の極真流の選手との準々決勝の試合である。

全流派参加といっても、フルコンタクトを売り物に、“空手バカ一代”などで喧伝していた新興勢力の極真流は、一切他流派の試合には出ていなかった。

ところが、短い髪で精悍な顔をした1m80cm、90キロくらいの極真流の巨躯が参加していた。佐藤俊和選手である。その4か月後の11月22日に極真第4回全日本選手権大会で3位入賞しているほどの実力者である。そのとき佐藤勝昭、添野義二という極真の伝説上の猛者を破っているのである。

ある師範は、極真が東北制覇に乗り出し、全国に広げていくのではないかと色めき立ち、会場は初めての出来事に異様な空気に包まれた。

後日知ったことだが、佐藤俊和選手の所属する秋田の道場は2年前まで真武館と名乗る剛柔流であった。極真会館の秋田支部になっても選手を送り出していたので、この年の大会まで出場していたことがわかった。

まず、佐藤俊和選手の新聞に掲載された訃報を紹介し、我々の激闘を述べ、佐藤俊和の自叙伝内容を書き連ねる。

(1) 佐藤俊和選手の訃報
中日スポーツ新聞 2018年2月9日 紙面に掲載された。

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“佐藤俊和さんの死を惜しむ”
  格闘技評論家 山崎照朝 極真第1回全日本選手権の初代王者

 極真空手創成期の秋田支部で頭角を現し、第8回全日本選手権大会を制覇した佐藤俊和さんの訃報が飛び込んだ。葬儀は8日に行われたが、私と同じ70歳。驚きだった。

 直接打撃の極真はパワーと根性が必要で俊和さんも180センチ、90キロの体格でぐいぐい押すタイプ。私も第5回大会で対戦したが、私の骨太を知らなかったのだろう。ローキックでぐいぐい攻めて自爆してくれたのを思い出す。

 私は道場に残らず、引退後は会う機会もなかったが、真面目で辛抱強く稽古に励み、第2回世界大会では異種格闘技戦でプロレスラーのアントニオ猪木と戦ったウィリー・ウィリアムス(米国)と激闘を繰り広げるなど、極真の猛者として知られた。同期や後輩から人望も厚い。引退後は市議会議員を勤め、極真会館が分裂後は新極真会の支部長を務めていた。

 死因は糖尿病からの膵臓(すいぞう)がん。1月に親交の深い佐藤勝昭(佐藤塾塾長)や東孝(空道創始者)が秋田の温泉場で元気づけたそうだが「100キロあった体重が70キロになっていた」と死を残念がった。私には武士道を知る記憶に残る秋田の武人だった。   合掌。

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(2) 全東北選手権での私との闘い
この試合の状況は、大学空手道部の“50年のあゆみ”に記載され、また空手道部OBの機関紙にも載せられた。
下記の内容は、2015年11月25日(水)にこの音沙汰記に書いたものであり、再度掲げる。

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【試合内容の詳述】
これまで幾多の試合を重ねてきたが、佐藤俊和選手との闘いは、2度とやりたくないと思った唯一の試合であった。

そもそも第一回全東北選手権大会が、下の新聞記事の通り、一般と学生合同の全流派、全会派が500名も乗り込んできて、文字通り過去最大規模の最強を決める初めてのオープントーナメントであった。

さすがに大会のレベルは高く手強い選手もいたが、4試合すべて1本勝ちして準々決勝に挑んだ。
相手の極真の佐藤俊和選手が、ゆっくりと立ち上がるが、威風堂々の巨躯である。一流の格闘家を紹介した映画”四角いジャングル”に鋼鉄人間と称されて登場したほどだ。1m80cm以上はゆうにあり、体重は90kgくらいに見えた。

試合開始とともに、私も前に出る攻撃型の空手であり、何度か正面衝突したが、ものすごい体圧を感じた。その後、左足にローキックを受けたが、これが強烈で脚を壊しにかかっているようなものだ。我々の日頃使っているローキックは、あくまで足払いであり、体を崩して突きで決めるものである。

極真流のローキックは脚を破壊する狙いであり、やむをえず次にローキックが来たときに左手でキックを抱え、8年間の柔道で培った右大内刈りをかけたが、足腰が頑丈であり、体をあずけようやく尻餅をつかせた。醜態と感じたのか、この返し技でローキック攻撃はやんだ。

しばし、相打ちの応酬で、技が全く決まらない。蹴りを出したが、恐るべきことに、裁かずにそのまま間合いを詰めてきて、殺されてしまう。

今度は、私の上体を押さえつけ、膝蹴りを繰り出し体が一瞬浮くほどの威力だが、当時の私の腹筋では、なんらダメージはない。しかし、次の膝蹴りは、タイ式ボクシングのように膝を廻しながら横腹に打ち込んできた。

これは、効いて息が全くできず、気力だけで試合を続け、ひたすら呼吸が戻るのを待ったが、それを見透かしたかのように、佐藤選手が強引に前に出てきた。

万事休すと感じたが、私は右の拳に大変な衝撃を受け、佐藤選手は仰向けに倒れていた。

私は、無意識に右の上段突きを打ち込んでいた。我々の空手は、顔面以外はすべて打ち込みOKで、顔面だけは、寸止めにする。一方、極真は、顔面に蹴りを入れても良いが、突きは禁止である。
つまり、極真は、顔面への蹴りはOKだが、寸止めでも突きは禁じられている。顔面への突きに対し全く無防備であり、もろに入ったものである。

私は、反則負けを覚悟したが、佐藤選手は、むくりと立ち上がり、目がらんらんとし、肩をいからせ審判に継続を願い、”反則注意”だけの異例の判定となった。この大会は、全流派、全会派が集まっており、体面からか極端に“反則勝ち”が少なく、それに救われた感じである。

試合は継続されたが、今度はクリンチの至近状態で、顔面に逆襲され、意識が遠のくほどの拳を何度か受けた。
その後は、師範からのメールの通りである。「顔面の突きが当たり疲れきっており、意識朦朧でなかったでしょうか。最後は二段蹴り二つ目の上段蹴り決まり気力の勝利でした。」

2回の延長の末に二段蹴りという大技で仕留めた。燃え尽きたかのような雑な試合運びで、次の準決勝で破れ、3位に終わったが、私の空手史では、忘れがたい一戦となった。(下写真)

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(3) 佐藤俊和著“勝つ心”から(下写真)
筆者は信念として 「自分との勝負だ。俺の好きな言葉に“克己心“というのがある。この字の通り、己れに勝つ(勝つ)心を持つ」と述べているが、その人生は闘い、精進し、闘うことに明け暮れていた。

秋田の本庄市のガキ大将まかり通るという小学校時代だった。ただ弱い者の味方で、大義名分がなければ喧嘩をしない術を身につけた。
中学時代は、野球部に没頭し、恩師のスパルタ教育を受けて、秋田県大会で準決勝まで進んでいる。

工業高校に入り、野球部で鍛錬していたが、喧嘩も多く県外まで名前が響き渡り武勇伝が数知れない。甲子園を目指したが、準決勝で敗れてしまった。

その頃、父が倒れ47歳の若さで亡くなり、卒業後は土木工事会社を友人と始めた。そして相変わらず喧嘩三昧だったが、喧嘩が縁で極真会館秋田支部に入門する。

そしてメキメキ頭角を現し、第3回極真全日本に出場する。だが、2回戦で前述の弔辞をかいた山崎照朝選手の実弟に敗れ、初めての敗北である。

翌年の第4回全日本では、憧れの人である世界チャンピオンの佐藤勝昭選手と大激闘を延長まで繰り広げ、柔道出身の佐藤勝昭選手が組み合った直後に下になっていることが多く、判定勝ちを納めた。

この動画をYOUTUBEで見たが、どちらも攻撃タイプで、当時のルールは組み合っての一瞬の投げはOKであり、佐藤俊和選手は組み打ちでも天性の足腰の強さを持っていた。喧嘩も強いはずである。この大会で、3位入賞を果たしている。

第5回全日本では、上記弔辞を書いた山崎輝朝選手に準決勝で敗れた。出す技がすべてブロックされ、右下段蹴りの当たりどころが悪かったのか痛めてしまい、立っていられないものだった。

しかし、精進を重ね、第8回全日本で優勝し、極真の頂点になった。
そして3年後の1979年第2回世界選手権の5回戦で、アントニオ猪木とも戦った熊殺しのウイリーウイリアムスと闘った。

ウイリーのパワーは凄まじいものがあったが、左前蹴りで出鼻をくじき、正拳で胸板を捉えていった。もみ合っているときに相手の膝蹴りが脇腹にはいり、呼吸が止まる強烈な一発も受けた。

延長に突入するとウイリーのパワフルな突きが速射砲のように、胸といわず、脇腹といわず、腰、腹とありとあらゆる角度で降り注いできた。ウイリーの勢いに負けて前に出ることができない。

敗れてしまった。試合後、ウイリーは、「センセイサトー、オス オス」と穏やかな表情で挨拶に来てくれた。これが、最後の試合になった。

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もの凄い闘魂の空手人生でした。謹んで哀悼の意を表します。
 

終われない人――この鬱屈感に満ちたセカンドライフ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 1月25日(金)19時49分30秒
  正月早々、かつての部下が次々とNECを12月末に退社し、退職祝いとは言えないシンミリしたまずい激励の酒を個別に連続して飲んだ。NECの今年度の3000人リストラでの一環で、退職に追い込まれたものである。

ときどき発する自嘲気味に乾いた笑いが、自分のこれまでの立脚地の先を追い求め、予感しているようだった。言葉には力なく、次の仕事へのビジョンも意欲も感じられず、虚ろな心境を露呈していた。

部課長クラスと言えども、経済的基盤が充分ではなく悲壮感さえ漂う。
我々の世代は、概してまだ良かった。海外で単身赴任をやれば、給料が2倍になった。今は成果主義が浸透し、同じ職位でも経営幹部職に昇ることができず、部長職に滞留すると大きな金額の差が出る。厚生年金も60歳から7割出たが、いまは65歳まで皆無である。

再就職にはNECの部課長クラスでは難航するだろう。大企業の中間管理職よりは、技能、技術を磨き資格を得た係長か平社員の方が優位である。マネジメント歴が長くても、ドメイン、組織風土が代わる次の会社でマネジメントを担うほどの力量は不足している。前途多難で思わずこちらもため息が出て、意図して良き時代の思い出話に話題を転じる。

まあまあ優秀な部下たちであり、リストラの対象になることなど想定外だったが、四方八方を塞がれて放り出された感がある。

私は図らずも2004年に、NEC東北のリストラを牽引させられた。構内外注を含めて2600人の規模を800人に減らし、それでも閉鎖より残存をと、歯を食いしばって敢行した。それが、ついに260人と縮小し、今回のリストラで3月には完全閉鎖となる。

あの駅前の広大な敷地、総合体育館が消え去っていくのだ。かつての部下から、「地元に残るためにNECの地方工場にはいったのにーー」とのメールが送られてきた。地方工場の将来を担う幹部候補生であった。NEC東北は、私が入社した昭和48年に操業を開始し、いま半世紀にわたる歴史に幕を下ろそうとしている。

このNECのリストラの凋落ぶりを、下記のようにBusiness Journalは酷評している。ちょっとセンセーショナルな論評が目立つメデイアだが、核心をついている。


【Business Journal 2018.5.15より抜粋】

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・ NECが末期状態…1万6千人削減→また3千人削減、事業売却の連続で稼ぐ事業消滅。

・ 16年4月に策定した中期経営計画を見直し、国内で従業員3000人の削減や、通信機器を製造するNECの子会社NECプラットフォームズが運営する国内9工場の統廃合を盛り込んだ。成長戦略より、人員削減に比重が置かれた計画である。

・ NECはこれまでにも半導体や携帯電話などの事業売却を繰り返してきた。だが、今回のリストラは、対象に祖業の通信事業があるところが決定的に違う。通信自由化とともに海外メーカーとの競争が激化し、安定した収益を稼げなくなった。

・ 人員削減に踏み切るのは、01年から4度目となる。01年に4000人、02年に2000人、12年には1万人削減を実施した。このときは「社内のモチベーションが低下した」と新野社長が吐露している。

・ 1万人の削減時点では「これ以上のリストラはしない」(新野社長)と否定的だったが、今回3000人の追加リストラを打ち出すのは、人を減らしても収益が改善しないためだ。リストラ頼みの経営の限界を露呈した。

・ 2000年代初頭にITバブルが崩壊した。01年3月期の売上高は5兆4097億円、営業利益は1851億円あった。その後、リストラを繰り返して規模を縮小した結果、18年3月期の売上高は2兆8444億円とほぼ半減、営業利益は638億円と、ピーク時の3分の1にとどまる。

・ かつて世界一を誇った半導体は10年に旧ルネサス テクノロジと経営統合してルネサスエレクトロニクスとなった。17年には保有株のほとんどを売却して撤退した。PC98シリーズで国内首位を走ったパソコンも、11年に中国のレノボに持ち分の大半を譲渡した。14年まで国内首位だった携帯電話は、カシオ計算機と日立製作所の共同出資会社、NECカシオモバイルコミュニケーションズに移行。16年に会社を解散した。インターネット黎明期からプロバイダー事業を展開してきたビッグローブは14年、投資ファンド・日本産業パートナーズに売り渡した。

・ 事業の切り売りはさらに続く。日産自動車との共同出資会社、オートモーティブエナジーサプライと、リチウムイオン電池の電極を製造する子会社を中国系ファンド・GSRキャピタルに売却した。家庭用小型蓄電池事業の終了も決めた。儲かる事業は見当たらない。

・新中期経営計画では売上高を20年度(21年3月期)に3兆円に戻し、海外比率を3割近くに引き上げる目標を掲げる。顔や指紋などの認証技術を生かした防犯・安全(セーフティー)事業に注力する。だが、どこに向かうのかが見えてこない。

・ リストラの果てに、NECは立ち枯れの危機に立たされている。

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先月この音沙汰記で書いた通り、農業革命、工業(産業)革命、そして“The Third Wave”
である情報革命が押し寄せており、AGFA(Apple, Google, Facebook, Amazon)などは、一躍世界の巨大企業にのし上がっている。情報通信分野は、急激な伸長をしているはずでビジネスチャンスは多く、新技術・新サービスも目白押しである。

NECは不採算事業の撤退ばかりが経営戦略として目立ち、“第3の波”に乗った“新しい弾出し”が出来ていない。組織文化が攻撃的な企画、開発力を失い、縮んで疲弊しきっている。

いみじくも、2000年に西垣元社長が高らかに1万人配置転換のリストラ開始する3年前に、関本元社長は警告していた。NECの“中興の祖”である関本元社長は、著書“このままでは生きられない”でリストラについて強く戒めていたのである。

私は、1987年に(入社14年目、主任)関本元社長とモノづくりをテーマに対談するチャンスに恵まれた。1m80cmを越す巨躯で、ほとばしるように紡ぐ言葉は語り部であり、大企業を率いる社長、CEOはこのようなオーラを放つものと感じ入り心酔したものである。その対談内容は、翌正月のNECライフに掲載され、NECグループ全員に配布された。

その後も歴代社長の出席する会議に出たが、各社長は優秀な凡人の域であり、関本元社長のような大物は出なかった。

関本元社長は55歳で社長の座に就いたが、1980年から会長退任の1998年までの18年間で1兆円未満だったNECの売上高を5兆円にまで成長させた。鋭い感性と頭脳明晰で剛腕を振るうカリスマ性に包まれていた。

その関本元社長は、2000年のNECの大リストラを予期し、3年前に著書“このままでは生きられない”でリストラについて次のように述べている。

【“このままでは生きられない”関本忠弘著から抜粋】

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“起業家精神を発揮して前向きのリストラを”――情報通信の分野にはニュービジネスの種が豊富にある。再び経済を活性化するには、これを実行するしかない。

・単に身を縮めて嵐が通り過ぎるのを待つのではなく。シュンペーターのいう「イノベーション」を起こしながらリストラを図っていくということです。

・とくに技術の進歩を活かして真に顧客が欲している製品やサービスを開発し、提供していくということです。つまり、新しい事業機会を見出し、ニュービジネスを創造していくことが重要です。

・企業がまさに「起業家精神」を奮い立たせ、新しい市場を創造していかない限り、新しい世界は見えてこないでしょう。

・ニュービジネスとは、ベンチャースピリットとセルプヘルプの精神に基づき、新しいアイデアによって事業を起こすことです。まさに知恵と器量・能力が問われる時代です。

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NECのトップには、金輪際不採算事業の撤退、人件費削減という負のリストラはやめて、
関本元社長の指摘するリストラに転じることを切望する。

最近の社長の事業基軸のブレをひとつ挙げてみる。
パソリンクという30年以上前からの製品がある。マイクロ波通信システムで、インフラが整備されていないところで携帯電話基地局を結ぶ通信システムとして利用されている。

ニッチな市場(大企業が通常入らない小さな市場)であるが、遠藤前社長は「事業部長時代にインドの案件に対し、リスクが高いが熟慮の末受注を決断した。その後は世界トップシェアを獲得し、いかに製品開発/販売におけるボリュームの大切かを学んだ」と述した(マイナビニュース 2012.2.26)

次の現在の新野社長はパソリンクに対し真逆の見解である。
「パソリンクは80億円程度の赤字。数量ではなく、利益にこだわって販売する。」(日経新聞 2018.4.27)
30年以上前の製品であり参入障壁が低く、中国の華為技術が参入し、低価格競争に陥ることはわかっていたはずだが。

くれぐれも縮むだけの負のリストラではなく、時代の先を読んだ生体認証、AI活用などの“新らしい弾出し”に注力していただきたい。
 

古希、余命を楽しもうーーこぞ今年

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月31日(月)19時28分7秒
  もう数時間で、“こぞ今年”になるが、数え年では年が変わり古希を迎えるという特別な心境である。
70歳代の男性では、日常生活に支障を来す健康寿命が72歳であり、平均寿命は81歳である。平均的に支障を来してから、9年間に症状が悪化していき寿命となる。
どうやら、70歳代は、余命と思って生きた方が良いだろう。五木寛之氏の次の言葉が胸に響く

「余命とは自分に残された命の時間であり、自分はもう十分に生きたと納得したあとで、さらにつけ加えられたボーナスのように受けとめたらどうか」

余命は決してペシミステイックな切迫したものではなく、余裕をもって残された期間であるということである。
ゆっくりとこれまでの人生を振り返り、想い出の幾多の抽斗を開けながら、回想し綴っていくのも至福のときである。

今日は、自分の人生を団塊世代として振り返ってみよう。“団塊”という言葉のおさらいだが、堺屋太一氏が通商産業省鉱山石炭局在籍時に、命名したものである。
鉱物の堆積岩中に周囲と成分の異なる密な物質が団塊と呼ばれており特異な性質を持ち、それを昭和22年から24年の3年間のベビーブームで生まれた800万人を指すものとした。

第二次大戦で、日本人の230万人の兵と80万の一般市民の命が失われ、平均寿命は戦後男性が50歳まで落ち込んでおり、この3年間のベビーブームの出生者数の急増はよくわかる。

しかし、それゆえ戦後直後に生まれた密な団塊世代は、周囲とは全く異なる生き方をしてきた。団塊が遭遇した社会環境の特異体験について述べ、また私の身近で起きた社会的大変動も綴る。

① 貧しいがノビノビ育った幼少時代(S31・小1~S36年・小6)
 テレビ、冷蔵庫、洗濯機など、いまではどこの家庭にもある必需品がなかった。テレビがないので、よく外遊びをしており、ガキ大将のもと、いろいろな遊びを教えてもらった。少年漫画が楽しみであり、毎週発売が楽しみであり、遠くの友人まで貸し借りに行ったものである。

いまのように塾に通うことはなく、習い事は習字、そろばんが一般的であり、私は警察署の柔道教室に通った。習い事も長閑なものだった。

日本経済は、戦後どん底に落ち込み非常に貧しかったが、全く閉塞感を味わうこともなくノビノビと育った。

② 高度成長と熾烈な競争 (S37・中1~S43高3)
東京オリンピックを梃子に、日本経済は高度成長を維持して、生活は豊かになっていった。
しかし、団塊世代は、豊かさとは逆に次第にゆとりを喪失していった。

それは、団塊世代の800万人という膨大な人口に端を発した。私の中学校は8クラスで400人を超えていた。団塊世代の3年間の為に教育施設、教員を増やすわけにもいかず、熾烈な受験競争になる。

大学進学率は10%程度であり、現在と異なり国公立大学は月謝が1000円と異常に安く、寮が格段の低料金で完備され、有能な人材が集まって一流企業への就職も有利となる好サイクルであった。
一部の裕福な家庭の者が限られた有名私大に進学し、国公立大学の入試は熾烈なものになっていった。団塊しんがりの我々は2年前の団塊世代からの影響も受け、受験戦争という言葉さえ生まれた。

私は、そのような風潮を受けた高校の偏差値至上教育に情熱を持つこともできず、むしろレジスタンスから、柔道の部活に打ち込み、本だけはよく読み青春時代特有の思考を深めていた。高校3年の1学期に停学をくらったのはやや脱線気味だったが。

③ 燃え盛る学生運動とその終焉(S43・浪人~S48卒業)
東大全共闘が安田講堂攻防戦を展開する半月前となるS43年の年末に、東大入試中止が発表された。自宅浪人で東北大学を目指していた私は、自分より偏差値が髙い受験者が、押せ押せで流れ込んでくる事象を考え、なぜこのように学生運動が荒れ狂うのか、それらに関する本を読みまくり、大きな関心を持った。

自宅浪人で籠城1年後に、合格した大学に行ってみるとまさに政治の季節で、誰もが、“反体制民主化、プロレタリアート独裁”などと唱え、革命前夜さえも彷彿させるものだった。

学生運動は燃え盛り、大学側は6月から長期夏休みとしてキャンパスを封鎖する異常な展開になった。私は、熱に浮かされたように浅はかに反体制を唱える連中を論破し、ときには手を出し、空手部の孤高の人になっていったが、裏腹に世相は激しいアジ演説とデモが続き更に激化していった。

しかし、8月に警察力の大学構内への立ち入り等を認めさせる大学立法が制定され、翌々年の昭和46年に、極左赤軍派の大量内ゲバによるリンチ殺人事件で終焉を迎えた。2か月間で女性4人を含む12名が惨殺され、それは8カ月の妊婦を含んだ想像を絶する凄惨なものだった。

④ 石油危機(S49・入社2年目)
NEC入社2年目の11月に、第四次中東戦争を引き金にしたオイルショックが起きた。かつて経験がないほどの狂乱物価となり、政府は総需要抑制を敷く。昭和49年の経済成長率はー1.2%と戦後初めてのマイナス成長となり、日本経済の高度経済成長は止まった。

NECは、総需要抑制の一環で三連休、正月休みの延長などを行ったが、入社間もない我々は会社の危機とは異次元におり、何を心配するではなく、脳天気に寮で酒盛りを繰り返していた。

ただ、長い正月休みを活用し2週間の欧州旅行に出たときに、世界経済を襲った石油危機の深刻さを感じさせられた。強硬にイスラエルを支持していたオランダは極端な石油不足に陥り、アムステルダム空港上の窓から街全体に光は乏しいのが見え、ホテルではロウソクを灯していた。

日本は、アメリカと同盟を組んでおりイスラエル支持であったが、石油確保のために急遽寝返ったので、旅行中にアムステルダムをはじめ欧州諸国で反日感情に何度か出くわした。
戦後初めてマイナス経済成長となったが、この寝返り政策で、再び経済成長は短期間で取り戻した。

⑤ 電電公社の民営化(S60)
昭和60年4月に電電公社が民営化され、これはNECに大激震をもたらした。電電ファミリーの長男坊として、受注競争、技術競争に晒されることなく、電電公社に依存していたからである。

ときのNECトップは“時代の風を肩で感じる”関本社長であり、民営化と同時に高らかに進軍ラッパを吹いた。トップのキャステイングボードが強力でかつ的確であり、この危機をバネにNECは飛躍した。
他の電電ファミリーの企業には、長らく培われた組織文化を打ち破れず、凋落していく企業も多かった、

NECの組織の学歴偏重、年功序列が音をたてて崩れ、成果主義がそのまま出世に繋がった。
私は電電公社向け製品のものづくり一筋だったが、新設された海外企業部に異動し、即タイの新工場立ち上げに携わった。国立の二流大学でも上層部に登れる手ごたえを感じていた。

⑥  第3の波、急速に立ち上がったIT(H5)
タイの赴任を3年間で終わり、職場に戻ると仕事のやり方は一変していた。担当者まで一人1台のパソコンを持ち、言葉を交わすこともなく黙々と画面に向かっている。紙のメールの集配送をしていたメールのおじさんの姿もなかった。

私は部長職で帰任しており、その職位が求める情報リテラシーに面食らい、その習得に深夜まで躍起になって取り組んだものである。

タイ出向前にアメリカ出張の際、IBMのポキプシー研究所を訪れた時の彼らの言葉が甦った。アルビン・トフラー著の“The Third Wave”を論じていた。農業革命・工業革命の後に、情報革命が起きるという推論であり、アメリカは情報化社会到来をいち早く察知していたと感じ入った。

⑦ ITバブル崩壊が引き金で凋落(H12)
日本のIT関連事業が急伸し、新規IT企業が続出した。その勢いは身の丈以上にバブルに膨れ上がり、中身が伴わずあえなく弾けてしまった。

NECはいちはやく、西垣社長がインターネット部門に1万人の配置転換を掲げ、リストラをNHKスペシャルで放映するなど敢然とITバブル崩壊へのリストラ策を掲げた。

あれから延々と歴代トップの経営戦略は目立って功を奏したものはなく、不採算部門からの撤退というリストラを幾度も断行してきた。今年も3000人減のリストラを敢行している。

リストラを開始した2000年に売上5兆4千億円、営業利益1850億円であったが、坂道を転がるように経営悪化し、今では売上は半減で、従業員も18万人から10万人未満と小さな会社になってしまった。

若い頃は、終身雇用が当たり前で、60歳を迎えた課長以上の方々には花束をお渡しして祝辞を述べてハイヤーで見送ったものである。

終身雇用は完全に崩壊し、私自身も子会社でリストラを牽引するとは夢にも思わなかった。厳しい仕事はたくさんあったが、リストラは人の生活基盤を奪う残酷なものである。本社指示とは言えこれには心身ともに苛まされ蝕まれ、終生辛い思い出となってしまった。

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人生を振り返ると、激しく団塊世代の波と時代の波に揉まれ、「余命は、自分はもう十分に生きたと納得したあとで、さらにつけ加えられたボーナスのように受けとめたらどうか」との五木寛之氏の言葉が琴線に触れる。
 

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