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えん罪、この許されざるもの

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 3月25日(月)19時58分41秒
  恒例の大学OB月例稽古は、ついに8年目に突入した。稽古後は、いつもの中華店で一杯付きのランチである。
大学後輩の女子チームが、昨年11月に第40回全国国公立大学空手道大会で優勝したことに、またも話が転じる。学長表彰を受けたり、地元テレビで特集を組まれたり、大変な騒ぎであった。我々の時代の空手部では、女子の入部など想定もしていなかったとしみじみ言い合う。

私は、そのチームの戦いぶりをみたが、女だてらに上段後ろ回し蹴り(サソリ蹴り)を繰り出したり、パワーとスピードがあった。

そして、今月から何を考えていたのか、女だてらに孫娘が道場に入門して一緒に稽古を始めた。下の男の子はもう入門して2年半たつが、新たに加わった好奇心豊かな2つの瞳に見つめられ、つい熱の入った稽古になった。道着が空気を切り裂く音、裂ぱくの気合、技の極めに渾身の力を振り絞った。

その甲斐があって、意識して高く蹴った上段回し蹴りを誉められた。しかし、古希を迎え、あまりに肉体を酷使したので、ひさびさの筋肉痛となり、早速温泉に癒しに行った。

ところで、ITが日進月歩であり、ビジネスモデルも激変している。つい団塊世代は、その変化に尻込みしがちだが、踏み込んでみると簡便性が増し、非常に安価になっていることがわかる。

いまが買い時と、家族の携帯とインターネット・電話・TVを一気に変えた。

① 携帯買換え
昨年政府が携帯料金4割下げようとしても遅々として進まなかったが、国際的に立ち遅れガラパゴス化した業界が重い腰を上げて、どうやら4月以降に販売方法を変えていくと推定される。

振り返ると、過去に携帯機器の日本のメーカーがガラパゴス状態に甘んじ、壊滅に近い状態になってしまった。高い値段での機能アップ指向が、海外勢に追いやられたのだ。
2003年度はNEC23%、続いてパナソニックなど国内市場の90%以上を、日本メーカーが占めていた。ところが、NECが撤退し、現状の日本メーカーのシェアは、ソニーとシャープで20%程度と様変わりしてしまった。

携帯サービスも、高値どまりであり、たしかに4割程度は下がるべきである。
私はすでに格安SIMに移行し、料金を半減しているが、今回はSIMフリー携帯を無料で入手した。SIMフリーならば、今後通信会社を変えても、携帯機器は一生使える。

日本のSIM括りつけは、IT後進国の考えだ。これまで通信会社を変えるたびに1円とかで携帯機器が付属されており、手元に高価なスマホが3台も余っている。孫の無線LANでのゲーム用に化しており、ひたすら海外の携帯メーカーに貢献している。

まもなく、SIMフリーとともに、2年間固定契約、携帯大手の奨励金を原資とした端末・通話料金のセット販売も消え失せるだろう。

携帯機器を変えるたびに厄介な思いをしたのは、旧携帯からのデータの引っ越しである。幸いMNPで番号は維持でき、面倒なのは連絡帳などの引っ越しであるが、なんとapple同士ではクラウドを使い、アンドロイドからappleは、テザリングのような機能を用い10分で終わった。簡便になったものである。

② インターネット、電話、TV乗換え
これからの時代は、高速のインターネットケーブルを引き込み、TVと電話など家電を無線LANでつなぐ家庭内ネットワークが当たり前である。

今回乗り換えた光は、ケーブルTVのチャンネルを絞ったせいもあるが、キャッシュバックがあり、料金は半減となった。こちらは、想定以上に価格競争が激化していた。

無線LANも無料レンタルしており、我が家の10年以上使っている無線LANは時々リセットを要し、早速入れ替えた。設定は、スマホが3次元バーコードの読み取りで済み、すべての家電がものの20分程度で終わり、簡単になったものだ。


ところで、今回は “えん罪”について何気なく読んだ本にちょっと衝撃を受け、それを皮切りに述べる。

映画“7つの会議”見に行ったが、迂闊にも上映時間をチェックしておらず、映画館まで行き朝と夜の2回しかやっていないことがわかった。
手持ちぶさたになり、市立図書館に向かった。案の定平日の昼下がりは高齢者で占められ、居眠りしている人も多く、かなり窮屈な姿勢で寝入っている方もいた。

私は、ふと昨年発刊された早瀬圭一著 “老いぼれ記者魂: 青山学院春木教授事件四十五年目の結末” を手に取った。
事件の外堀からはいるプロローグに惹かれ、その日の午後に読み上げてしまった。
そして、同じ棚にあったえん罪事件の河野義行著 “松本サリン事件”も読んだのでそれぞれについて述べる。

1 青山学院の春木教授事件

私が大学4年の時に、この事件が同年の女子大生の身に起き、世論は一方的に春木教授の暴行を痛烈に批判したことを覚えている。
昭和48年3月に、朝日新聞が社会面トップに5段抜きで「大学教授 教え子に乱暴」との記事を教授の顔写真付きで掲載した。

私が、わだかまりを持っていたのは、社会派の芥川賞作家、石川達三氏がこの判決の2年後に、陰謀説を唱え、“七人の敵が居た”を書きおろし、教授の無罪を主張していたからである。これは三國連太郎が教授に扮し映画“女子大生と老教授、謎の四日間 /ザ・スキャンダル”にもなった。

そしていまようやく、元毎日新聞社の早瀬圭一著の執念の老いぼれ記者魂の書を読み、えん罪と確信した。
佐野眞一著“東電OL殺人事件”でネパール人がえん罪であることを訴えたが、その本の発刊後の9年目に再審によりDNA鑑定が行われ無罪が確定した。この早瀬圭一氏の著書も同様の説得力がある。

事件の概要は、2月21日に、4年生のTA子に採点を手伝ってほしいと研究室に連れ込み、2度乱暴し、1日おいた13日に、卒業後は研究を手伝ってほしいと3度目の乱暴をしたとのことである。
TA子は私の1歳上で(2年浪人)、知性と美貌の持ち主で、生娘だったと医者の診断書を提出し、裁判では教授をケダモノと罵った。

180cmの知的な紳士の63歳の春木毅教授は、東北大学の博士課程を出た後、留学し南カリフォルニア大学の博士課程を修了し、国際法で名声があり、教授会でも大きな影響力を持っていた。

この事件で春木教授は、3年の実刑判決を受け、実母がショックで急死し、妻とも別れ子供たちも遠ざかり、家屋敷も裁判のために手放し、出所後は2Kのアパートに一人住まいであった。地位も名誉もすべて失い、死ぬ寸前まで再審要求し失意のうちに84歳でこの世を去った。

最高裁で上告が棄却され、判決が決まったのは昭和53年であり、その判決内容に石川達三氏が驚き、次の通り指摘したそうである。
「三度目は合意で、最初と二度目は暴行という判断が許せない。二度も凌辱された女子学生が1日おいて教授を訪ね今度は合意などあり得るだろうか。翌日14日にTA子は“親愛なる”なんて言葉を書き添えチョコレートを贈ってたんだ」

確かに奇々怪々な判決である。早瀬圭一氏の膨大な時間をかけたえん罪との状況証拠と推論を追ってみよう。

(1) 青山学院の内紛
当時、大木理事長が絶対権力を持っていたが、内紛が起きていた。昭和42年に法学部長選挙があり、春木教授が立候補し、がぜん有利だったが、小林孝輔教授達が反発し、策謀に策謀を重ねて、白票6票とし選挙を無効にした。結果は、大木理事長兼任という結末に至った。その後、小林教授は、目論見通り、昭和46年に法学部長に就任した。

今週も青山学院は裏口入学の告発で揺れ動いているが、昭和57年に毎日新聞トップに「年間百人以上の情実入学」と報じられたり、伝統的にきな臭い内部の紛争、利権争いが多かった。

(2) ハニートラップ
2月2日に春木教授は校庭でTA子に呼び止められ、高島屋の外人との折衝部門に就職が決まったので、英語教授法の権威として高名な春木教授に話を聞きたいと申し出られる。
2月9日に“レバンテ”でランチをともにする。

そして、11日に表参道のユニオン教会前で会い、ランチをとる。その後にTA子は2度研究室で乱暴されたと主張するが、逆に春木教授はTA子に迫られ、道徳観念を失ったと反省する。ただ糖尿病であり、TA子が言う処女喪失などありえないという。

この後、二人は渋谷駅近くのレストランで食事をとり、TA子は次回 「FEB13 5.00PM」と書いたメモを渡し、これは物証の一つになっている。
そして、13日に同じようなことが行われた。
翌日14日のバレンタインに、“親愛なる”との言葉と自筆のイラストを添え、チョコレートを贈っている。

(3) 怖い人の登場
15日に、大学に40年配の“与太者ふう”の男が押し掛けてきた。最上恒産の“地上げの帝王”早坂太吉である。春木教授に、大学辞任と1000万円の慰謝料を迫られた。

春木教授は道徳観念を失ったことを悔い、退職し慰謝料を払おうとするが、突如TA子側は告訴した。筆者は、早坂太吉の怒りに近い嫉妬と指摘する。自分の「私有物」のTA子が春木教授に急接近したことで逆上したのではないかと見ている。

(4) 謀略
TA子は2浪しており、青山学院に入学する前は、早坂太吉が経営する赤坂のクラブのホステスとして働いた。そして大学3年のときには愛人になった。そのクラブは、小林孝輔教授を中心とする法学部教授らの溜まり場の一つになっていた。小林教授達は教授会などのあと、必ず夜の街に繰り出しており、早坂太吉の店にたむろしていた。

その赤坂のクラブで、春木教授の助手の手記によると、ライバルの小林教授と支持教授3人、早坂太吉、早坂の原顧問弁護士、TA子が揃い、七人で謀議していた。ハニートラップが仕掛けられたのである。石川達三著書の題名“七人の敵が居た”である。

(5) 一方的な取り調べ
TA子の供述調書と引き裂かれた下着などで、警察は初めから黒と予断し、勢い込んで待ち構えていた。それから後は執拗に自白を要求し、三人の刑事が代わる代わる詰問し、疲労の極に達し、しまいには腹を立てる気力も失っていた。いわゆる精神的拷問である。この民主主義の人民主権の時代に、一歩警察の門をくぐれば、あとはもう昔ながらの、拷問によって自供を強制される地獄のような世界だった。

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小説のような事件のストリー展開である。

ただ、TA子は卒業後に小学校の臨時教員となり、その後杉並区の教育委員会に嘱託で勤務し、いまは郊外のマンションで一人住まいしているらしいとのことが意外であった。

最後に筆者が奇跡的にTA子と電話がつながり、17分間の対話に成功するが、罪悪感がとがめたのか電話を突然切るわけでもなく、慎重に事件には触れず中身がなかったが、なにか知性ある女性が運命のいたずらで階段を踏み外し、それに気づいて息を潜めて生きている感があった。

多分、金と女性のスキャンダルにまみれた早坂太吉に、人生を引っ掻き回された女性の一人だったのだろう。

2 松本サリン事件  ―虚報,えん罪はいかに作られるかー

引き続き図書館で同じコーナーの河野義行著 “松本サリン事件”を読む。先日、中井貴一主演の映画“日本の黒い夏─冤罪”をみたばかりである。

1994年6月27日に松本サリン事件が起き、1995年3月20日地下鉄サリン事件でオーム真理教の犯行と判明するまで、河野さんは、実に9か月間も警察と報道機関によりえん罪を負わされた。
7名が死亡し、600名が負傷した大事件である。河野氏のように意志が堅固で論理的な方でなければ耐えられなかったと思う。

(1)被害者が加害者扱いの事情聴取
第1発見者の河野氏をマスコミと警察が、物証もなく犯人扱いした。事件の翌日、28日に39度の熱で酸素ボンベ、尿管をつけていたが、事情聴取がはじまり、7月30,31日に、「お前が犯人だ」と怒鳴りつけた。妻は意識不明であり(14年後に亡くなった)、家族4人が入院にまで及んだ状況であったのに。

(2)家宅捜索と薬品
被疑者不詳という異例の令状で家宅捜索が行われ、24種の薬品を押収した。河野さんが以前の薬品会社にいたときに、趣味の写真現像に使用するためにもらい受けた青酸カリもあり免許も持っていた。
毎日新聞はじめ、各社は「第一通報者宅を捜索、殺人容疑で薬品類を押収」などと報じた。

(3)無責任な学者の見識
サリンに近い神経ガスのタブンは、結城リンと青酸カリがあれば合成が可能と指摘があり、神奈川大学の毒ガス兵器に詳しい常石敬一教授も「純粋でなくてもタブンに近い不純物ができた可能性がある」と述べ、さらに「不純物の混じったサリンなら特別の実験装置は必要なく常温で可能だ。強力な殺虫剤を作ろうとして調合をまちがえたのかもしれない」と世論の火に油を注いだ。映画では、学者がバケツ一つあればサリンができると話す様子が描かれていた。

(4)はったりで脅す警察の手口
河野さんは、弁護士とともに本物の毒ガス研究者である国際基督大学の教田坂興亜教授を招き、「素人にはサリンはできない、河野さんにはサリンはできない」との言質をとった。

しかし警察は、黒の線を外さず執拗であり、ポリグラフをかけ反応が出たと言い、「息子さんに(容器を捨てろと)指示したところですよ」と説明し、測定結果も見せずに、長男への事情聴取まで行った。長男は「親父はもう吐いたんだ、ポリグラフの反応も出た」とウソをつき「おまえは、容器をどこに隠したんだ」とたたみかけた。

(5) オーム真理教の犯行
自白強要が続くが、河野さんは屈せず真実のみを語り続け、警察は逮捕にこぎつけられない。
そして、翌年1月1日に、上九一色村でサリン残留物発見というスクープが乗った。2月になるとオームという名前が出始め、河野さんは、マスコミから「息子さん、オームの信者ですって」との質問を受けるようになった。

3月20日の地下鉄サリン事件という大惨事が起き、河野さんの疑いがようやく晴れた。このえん罪に陥れる精力を、警察もマスコミも真犯人に向けていたら、地下鉄での大惨事は防げたかもしれない。

3 私自身がえん罪につながる経験

私自身がこのようにムキになってえん罪をとりあげるのはわけがある。
私が、友人の先輩を、警察の尋問によりえん罪に追いやる寸前までの経験をしたからである。
この音沙汰記の2014年4月20日に“袴田事件に想うーー私の取り調べ体験から”とえん罪につながる体験を述べていたので、下記にそのまま再掲載する。

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⑤ 私が巻き込まれた殺人事件
1971年の私が大学2年のときであった。
いきつけの美人姉妹が経営していた和也という居酒屋を出て、ほろ酔い加減であけぼの小路の前を通りかかったところ、激しい叫びと物音に小路にはいると、出くわした中学同級生が”なんかしてくれ”と訴えてきた。

後ろには先輩が異様に紅潮した表情で突立っていた。傍には人が倒れすごい高さまで血が吹付けている。まもなくパトカーが到着し止めるために分け入った私も、警察に連行された。

取り調べ室では、袖に血が付いており、当初私も犯人扱いだったが、ようやく目撃者の話で止めにはいったとわかってくれた。
まもなく、ある警察官が「危ないぞ。たんなる喧嘩じゃない」と私の田舎くさい取調官に告げると黙って立ち去り、しばらく待たされた後、凄みのある刑事が入ってきた。

口調は穏やかである。
私とK兄弟の関係を聞かれた。正直に、中学の柔道部で同級生であり、彼の兄はやはり、中学の柔道部の2年先輩と答えた。
静かな淀みない口調で質問を投げかけてくる。私が、現場で遭遇したときの場面のやりとりで1時間以上、角度が違った見地から同じような質問を繰り返した。

「出あったときの状況を細かに教えて?」→「3人でもみ合っていたが、K君の兄と相手側の一人がすごい形相でにらみあっていた」  「どんなことを言ってた?」→「先輩は無言で、相手の一人が、やれるものならやってみろと怒鳴りちらしていた」 「Kはそのとき手に何を持っていた?」→「手は見ておらず、わからない」 「Kは君になんといった」→「オー○○か、おれが先にやられたんだ」 「Kが刺したとわかっているんだ。彼は相手に何と言っていた」→「無言でにらんでいた」 「友人だから不利になることはないからKが言ったことをそのまま教えて、ビール瓶はどんな状態?」→「だから無言、ビール瓶って何?」

机を叩くような恫喝は全くなかったが、私は刑事が、刺した場面の凶器と言葉を私から引きずりだし、自分のシナリオに合せようとしている魂胆が見えてきた。

私は、頑なに、見て聞いたことしか繰り返さなかった。夜明けにようやく調書の作成が終り、右人差し指で押印した。刑事は、憮然として「相手は亡くなった」と告げた。

事の顛末を、後から当事者の同級生に聞いたところ(加害者側だが)、K兄弟でともに婚約者を連れて、飲み屋にはいったところ、兄の婚約者が入り口で、3人組の男の一人とぶつかったという。そこで、兄が注意したところ、胸ぐらをつかまれ、もみ合になり、殴られたという。こちらは女性もいたので、ついビール瓶を割って刺したとのことである。

更に、後日公判の途中で、関係者から状況を聞いたら、事の発端が最も大事だが、1度刺したならまだ傷害致死罪にとどまるが、2度刺しているらしいので殺意があり殺人罪の適用の可能性がなきにしもあらずとのことであった。

私が、出くわしたのは2度目に刺したらしいとの直後と思われ、刑事が「Kがやったとわかっているんだ、瓶はどんな状態」と執拗に聞いてきたことが、わかった。彼は、私の取調前に情報をかき集め、既にシナリオを描き、私の話を引き出そうとしたのだ。
 
 

極真の巨星墜つーー今も甦るあの激闘

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 2月22日(金)18時50分28秒
  9日の日曜は、極寒で小雪が舞っていたが、心を奮い立たせ、早朝に新宿の大久保スポーツプラザーでの大学OB月例稽古に向かった。
今回で第70回を数え7年間やり続けたのだ。定年退職後に新宿の武道場を借りて、学生時代の空手修行を、身をもって思い出そうと2011年3月に集い開始したものである。

この稽古のお陰で、平安をはじめ9つの形を思い出し、古希を迎えても上段回し蹴りをいまだにできる。午前中の練習がおわると、ランチと称して紹興酒で一杯の至福の語らいの時である。各々の企業戦士時代の逸話が面白く、特に海外体験は興をそそり話は尽きない。

ところで、別の空手仲間の飲み会で、非常に悲しく、驚くべき話を聞いた。
空手の試合で私が忘れえぬ激闘を繰り広げた鋼鉄人間と謳われた極真の佐藤俊和選手が、昨年亡くなっていたのだ。まだ享年70歳である。

私なりの拙いレベルだが、自分の武道人生を振り返り、なぜ佐藤選手との試合が人生で最も感慨深かったかを記述する。

私は、柔道の修行で高校時代に絶対的な体重差の限界を感じて意気消沈し、打撃系の空手道ならば巨躯の相手でも倒せると転向し、佐藤選手との試合でかなりのダメージを負いながらもこの格技を選んだことは、正解だったと体感したものだった。

1 柔道への没頭と諦め

(1) 小学時代
私の小学校時代は、相撲が盛んで、クラス対抗、5町内5人抜き戦など活況を呈していた。クラス対抗は無敗で、神社の前で行われた5町内対抗は荒々しく5人抜きを達成し、見に来ていた両親は、地味でおとなしい性格の私がいつのまにかと驚いていた。

小学校5年の時に、漫画“姿三四郎”を読んで、相撲が強かった私は、警察署の道場に通いだした。近所の親友SA君も、週2回ともに柔道を始めた。特に金曜8時からは、練習後に警察の大きなテレビでプロレス中継を見るのが楽しみだった。

柔道が強くなるにつれ自分に自信がつき、学級委員なども務め怒ることも覚え、性格がアグレッシブに変わってきた。柔道は、確実に人格に影響をもたらした。

(2) 中学時代
そして中学に進むと試合で自分の実力が試された。中学2年までは団体戦だけで個人戦はない。中学1年、2年の置賜大会新人戦は優勝した。初陣はよく覚えており、新山中の足首の太い選手だった。相手の左足払いを大内刈りで返し、技ありをとり押さえ込んだ。

中学2年のときには、私たちの学年の層が厚く、顧問の粋な計らいで、市内大会にBチームとして特別出場させてくれた。さすがに1学年上には強い選手もいたが、3位に入賞した。

そして中学柔道生活総括の3年生での試合である。市内大会初戦は、1中の巨体のT君である。内股で崩して押さえ込みで秒殺した。この頃は体重差などなんとも思っていなかった。団体戦は、圧倒的な強さでなんなく優勝した。

個人戦は、私の中学の同学年生がベスト4に3人残った。私が、NT君を準決勝で破り、奇しくも小学5年から一緒に道場に通ったSA君と決勝で戦った。
結果は、延長2回の末に判定で敗れたが、まったく通じる技が出せなかった。

県大会は、さすがに壁が厚く団体は優勝候補と言われながらも準々決勝で惜敗した。
個人戦は、市の優勝と、準優勝者が選ばれ、気合が入っており、準々決勝に進み延長戦に入った。内股を連発したが、動じない相手に対し市内大会決勝の消極的な試合がよぎった。

漫画の姿三四郎の必殺技である山嵐が瞬時に閃いたと思う。山嵐は、姿三四郎のモデルである西郷四郎が編み出した技である。片側の袖と襟をつかみ、背負い投げと払い腰をミックスしたように掛ける。

私も県大会前に、内股を警戒する相手に対し、研究を重ねて背負い落しなるものを編み出していた。背負い投げと体落としのミックスであり、右ひざを付いて右に巻き込むと面白いように掛かった。

しかし、この各地区から選ばれてきた県大会の準々決勝レベルで繰り出す技ではなかった。簡単に返されて、技ありをとられ負けてしまった。
最後は芳しくない結果だったが、練磨に励んで、道の険しさも体得し、有意義な柔道生活だった。

(3) 高校時代――挫折
高校に入ると1年上の層が薄く、1年上の国体予選団体戦に選抜されたが、2回戦で敗退した。秋季置賜高連、県新人戦と1回戦敗退である。1年上のクラスとの団体戦であったが、私自身は引き分けが非常に多くなっていた。

高校2年になると、同学年の対戦となったが県南での優勝にとどまってきた。
まず朝日杯争奪戦(置賜)、春季と秋季置賜高連は優勝。県大会は予選リーグを勝ち抜いたが、決勝トーナメント1回戦敗退。国体予選2回戦敗退、県新人戦は準々決勝敗退である。

高校3年では、朝日杯争奪戦、春季置賜高連は優勝、個人は準々決勝で抽選負けした。県大会は、予選リーグで敗退してしまっている。

私なりに、落ち込んで分析した。私立高校が、粒よりの重量級の選手を県内からかき集め、一流の指導者が、学業そっちのけで猛稽古により鍛え上げていた。
柔道のルールでは、間合いの概念がなく、せいぜい組手争いくらいでは体重差というものは、絶対的と思うような次の2つの出来事があった。

① 大相撲転向選手との試合
高校2年の朝日杯争奪戦で小国高校のKH選手と戦った。188cm、90キロくらいであった。グローブのような手でグイと抑えられると全く何もできず、引き分けに持ち込むのが精一杯で情けない試合展開だった。

KH選手は、その後高校を中退し、大相撲の世界に飛び込み、神幸のしこ名で前頭8枚目まで関取を務めたのだが、武道なのに自分の屈辱ともいえる消極的試合が嫌な思い出として残った。

② 講道館の稽古見学
そして、高校2年に講道館の稽古で衝撃的な光景を目の当たりにして、東京オリンピックもフラッシュバックした。

高校2年の春に講道館の300畳ともいわれている道場での稽古を見学した。(下写真、嘉納治五郎像の前で)田舎の高校レベルでは、想定できない高度な迫力ある稽古であった。ひときわ大きい選手が他を圧倒していた。

坂口征二選手を全日本の決勝で下した184cmの松永選手が、際立っていた。前年度全日本で優勝した坂口選手は196cmあり、柔道のルールでは無茶苦茶に強かったらしい。プロレスは、また別の格闘技ルールであまり向いていなかったのだろう。

中学3年のときに見た東京オリンピックの無差別級を思い出した。神永選手が体落としの技をかけたところ、ヘーシンク選手に潰されてそのままけさ固めで押さえ込まれた。神永選手は179cm102キロに対し、ヘーシンク選手は196cm120キロである。勝負は、技ではなく巨体での押し潰しであった。

新幹線の名古屋駅で、偶然山下泰裕選手を見たときには、その体躯に驚いた。外人選手が、「冷蔵庫に目鼻がついた男をどうやって投げる」と評したことがずばりである。足が短く180cm、130キロの体はまさに冷蔵庫である。

柔よく剛を制する、159cm、55kgの三船久蔵の空気投げ映像も吹き飛んでしまった。これまで階級制度のない真の日本一を決める全日本柔道選手権で、無差別級の選手のみ優勝していることが、このことを立証している。

(4) 空手道転向へのきっかけ
そのとき、柔道の創始者の嘉納治五郎の面白い本を読んだ。嘉納治五郎は、東京大学時代に柔術の天神真楊流柔術を学び、卒業後は起倒流を習得し免許皆伝である。

卒業1年後に、柔道を確立し、講道館を設立して全国普及を企画した。その際“危険のない健全なスポーツ”として柔道を普及するために、柔術の当て身と蹴り技を禁止にしたのである。

そして、嘉納治五郎は、柔道の創始者として講道館とともにその名を全国に轟かせていた。1922年(大正11年)に、文部省主催で運動体育展覧会があり、そこで、沖縄の富名腰義珍が沖縄空手の演舞をした。それが、嘉納治五郎の目にとまり講道館で披露することになった。

嘉納治五郎は、柔術を工夫し安全なスポーツとして柔道を普及する際、危険な当て身と蹴り技を禁止してしまった負い目があったと思われ、沖縄の空手の稽古場を提供し推してくれた。飛ぶ鳥をも落とす天下の講道館で、富名腰義珍は空手を教え、後日日本本土に空手をもたらすことになった。つまり柔道として危険だと禁止された柔術の技が、空手として復活したのである。

その頃、京都で富名腰義珍の友人の沖縄空手実戦派である本部朝基が、空手体対ボクシングの試合をした。180cm以上の巨漢ヘビー級ボクサーをKOしており、その様子は大正14年9月1日発行の月刊誌「キング」に掲載されている。

高校3年に空手転向を決めたとき、兄が空手道部に入り、庭に巻き藁を立てていた。毎日突いているうちに、この技なら巨躯でも倒せる、精進次第で限りなく強くなれることへの感触を得て、大学では、空手道に転向することを決意した。174cm、68キロの体では、柔道は限界だった。

2 巨躯相手でも負けない空手を体得

巨躯に対する限界を感じて見切りをつけた柔道から、巨躯を倒せる限りない可能性を持つ空手道に転向し、その確信をもてた試合を紹介する。

大学4年の時、昭和47年7月17日に仙台で全流派から500名が参加して第一回全東北選手権が開催された。その時の極真流の選手との準々決勝の試合である。

全流派参加といっても、フルコンタクトを売り物に、“空手バカ一代”などで喧伝していた新興勢力の極真流は、一切他流派の試合には出ていなかった。

ところが、短い髪で精悍な顔をした1m80cm、90キロくらいの極真流の巨躯が参加していた。佐藤俊和選手である。その4か月後の11月22日に極真第4回全日本選手権大会で3位入賞しているほどの実力者である。そのとき佐藤勝昭、添野義二という極真の伝説上の猛者を破っているのである。

ある師範は、極真が東北制覇に乗り出し、全国に広げていくのではないかと色めき立ち、会場は初めての出来事に異様な空気に包まれた。

後日知ったことだが、佐藤俊和選手の所属する秋田の道場は2年前まで真武館と名乗る剛柔流であった。極真会館の秋田支部になっても選手を送り出していたので、この年の大会まで出場していたことがわかった。

まず、佐藤俊和選手の新聞に掲載された訃報を紹介し、我々の激闘を述べ、佐藤俊和の自叙伝内容を書き連ねる。

(1) 佐藤俊和選手の訃報
中日スポーツ新聞 2018年2月9日 紙面に掲載された。

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“佐藤俊和さんの死を惜しむ”
  格闘技評論家 山崎照朝 極真第1回全日本選手権の初代王者

 極真空手創成期の秋田支部で頭角を現し、第8回全日本選手権大会を制覇した佐藤俊和さんの訃報が飛び込んだ。葬儀は8日に行われたが、私と同じ70歳。驚きだった。

 直接打撃の極真はパワーと根性が必要で俊和さんも180センチ、90キロの体格でぐいぐい押すタイプ。私も第5回大会で対戦したが、私の骨太を知らなかったのだろう。ローキックでぐいぐい攻めて自爆してくれたのを思い出す。

 私は道場に残らず、引退後は会う機会もなかったが、真面目で辛抱強く稽古に励み、第2回世界大会では異種格闘技戦でプロレスラーのアントニオ猪木と戦ったウィリー・ウィリアムス(米国)と激闘を繰り広げるなど、極真の猛者として知られた。同期や後輩から人望も厚い。引退後は市議会議員を勤め、極真会館が分裂後は新極真会の支部長を務めていた。

 死因は糖尿病からの膵臓(すいぞう)がん。1月に親交の深い佐藤勝昭(佐藤塾塾長)や東孝(空道創始者)が秋田の温泉場で元気づけたそうだが「100キロあった体重が70キロになっていた」と死を残念がった。私には武士道を知る記憶に残る秋田の武人だった。   合掌。

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(2) 全東北選手権での私との闘い
この試合の状況は、大学空手道部の“50年のあゆみ”に記載され、また空手道部OBの機関紙にも載せられた。
下記の内容は、2015年11月25日(水)にこの音沙汰記に書いたものであり、再度掲げる。

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【試合内容の詳述】
これまで幾多の試合を重ねてきたが、佐藤俊和選手との闘いは、2度とやりたくないと思った唯一の試合であった。

そもそも第一回全東北選手権大会が、下の新聞記事の通り、一般と学生合同の全流派、全会派が500名も乗り込んできて、文字通り過去最大規模の最強を決める初めてのオープントーナメントであった。

さすがに大会のレベルは高く手強い選手もいたが、4試合すべて1本勝ちして準々決勝に挑んだ。
相手の極真の佐藤俊和選手が、ゆっくりと立ち上がるが、威風堂々の巨躯である。一流の格闘家を紹介した映画”四角いジャングル”に鋼鉄人間と称されて登場したほどだ。1m80cm以上はゆうにあり、体重は90kgくらいに見えた。

試合開始とともに、私も前に出る攻撃型の空手であり、何度か正面衝突したが、ものすごい体圧を感じた。その後、左足にローキックを受けたが、これが強烈で脚を壊しにかかっているようなものだ。我々の日頃使っているローキックは、あくまで足払いであり、体を崩して突きで決めるものである。

極真流のローキックは脚を破壊する狙いであり、やむをえず次にローキックが来たときに左手でキックを抱え、8年間の柔道で培った右大内刈りをかけたが、足腰が頑丈であり、体をあずけようやく尻餅をつかせた。醜態と感じたのか、この返し技でローキック攻撃はやんだ。

しばし、相打ちの応酬で、技が全く決まらない。蹴りを出したが、恐るべきことに、裁かずにそのまま間合いを詰めてきて、殺されてしまう。

今度は、私の上体を押さえつけ、膝蹴りを繰り出し体が一瞬浮くほどの威力だが、当時の私の腹筋では、なんらダメージはない。しかし、次の膝蹴りは、タイ式ボクシングのように膝を廻しながら横腹に打ち込んできた。

これは、効いて息が全くできず、気力だけで試合を続け、ひたすら呼吸が戻るのを待ったが、それを見透かしたかのように、佐藤選手が強引に前に出てきた。

万事休すと感じたが、私は右の拳に大変な衝撃を受け、佐藤選手は仰向けに倒れていた。

私は、無意識に右の上段突きを打ち込んでいた。我々の空手は、顔面以外はすべて打ち込みOKで、顔面だけは、寸止めにする。一方、極真は、顔面に蹴りを入れても良いが、突きは禁止である。
つまり、極真は、顔面への蹴りはOKだが、寸止めでも突きは禁じられている。顔面への突きに対し全く無防備であり、もろに入ったものである。

私は、反則負けを覚悟したが、佐藤選手は、むくりと立ち上がり、目がらんらんとし、肩をいからせ審判に継続を願い、”反則注意”だけの異例の判定となった。この大会は、全流派、全会派が集まっており、体面からか極端に“反則勝ち”が少なく、それに救われた感じである。

試合は継続されたが、今度はクリンチの至近状態で、顔面に逆襲され、意識が遠のくほどの拳を何度か受けた。
その後は、師範からのメールの通りである。「顔面の突きが当たり疲れきっており、意識朦朧でなかったでしょうか。最後は二段蹴り二つ目の上段蹴り決まり気力の勝利でした。」

2回の延長の末に二段蹴りという大技で仕留めた。燃え尽きたかのような雑な試合運びで、次の準決勝で破れ、3位に終わったが、私の空手史では、忘れがたい一戦となった。(下写真)

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(3) 佐藤俊和著“勝つ心”から(下写真)
筆者は信念として 「自分との勝負だ。俺の好きな言葉に“克己心“というのがある。この字の通り、己れに勝つ(勝つ)心を持つ」と述べているが、その人生は闘い、精進し、闘うことに明け暮れていた。

秋田の本庄市のガキ大将まかり通るという小学校時代だった。ただ弱い者の味方で、大義名分がなければ喧嘩をしない術を身につけた。
中学時代は、野球部に没頭し、恩師のスパルタ教育を受けて、秋田県大会で準決勝まで進んでいる。

工業高校に入り、野球部で鍛錬していたが、喧嘩も多く県外まで名前が響き渡り武勇伝が数知れない。甲子園を目指したが、準決勝で敗れてしまった。

その頃、父が倒れ47歳の若さで亡くなり、卒業後は土木工事会社を友人と始めた。そして相変わらず喧嘩三昧だったが、喧嘩が縁で極真会館秋田支部に入門する。

そしてメキメキ頭角を現し、第3回極真全日本に出場する。だが、2回戦で前述の弔辞をかいた山崎照朝選手の実弟に敗れ、初めての敗北である。

翌年の第4回全日本では、憧れの人である世界チャンピオンの佐藤勝昭選手と大激闘を延長まで繰り広げ、柔道出身の佐藤勝昭選手が組み合った直後に下になっていることが多く、判定勝ちを納めた。

この動画をYOUTUBEで見たが、どちらも攻撃タイプで、当時のルールは組み合っての一瞬の投げはOKであり、佐藤俊和選手は組み打ちでも天性の足腰の強さを持っていた。喧嘩も強いはずである。この大会で、3位入賞を果たしている。

第5回全日本では、上記弔辞を書いた山崎輝朝選手に準決勝で敗れた。出す技がすべてブロックされ、右下段蹴りの当たりどころが悪かったのか痛めてしまい、立っていられないものだった。

しかし、精進を重ね、第8回全日本で優勝し、極真の頂点になった。
そして3年後の1979年第2回世界選手権の5回戦で、アントニオ猪木とも戦った熊殺しのウイリーウイリアムスと闘った。

ウイリーのパワーは凄まじいものがあったが、左前蹴りで出鼻をくじき、正拳で胸板を捉えていった。もみ合っているときに相手の膝蹴りが脇腹にはいり、呼吸が止まる強烈な一発も受けた。

延長に突入するとウイリーのパワフルな突きが速射砲のように、胸といわず、脇腹といわず、腰、腹とありとあらゆる角度で降り注いできた。ウイリーの勢いに負けて前に出ることができない。

敗れてしまった。試合後、ウイリーは、「センセイサトー、オス オス」と穏やかな表情で挨拶に来てくれた。これが、最後の試合になった。

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もの凄い闘魂の空手人生でした。謹んで哀悼の意を表します。
 

終われない人――この鬱屈感に満ちたセカンドライフ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 1月25日(金)19時49分30秒
  正月早々、かつての部下が次々とNECを12月末に退社し、退職祝いとは言えないシンミリしたまずい激励の酒を個別に連続して飲んだ。NECの今年度の3000人リストラでの一環で、退職に追い込まれたものである。

ときどき発する自嘲気味に乾いた笑いが、自分のこれまでの立脚地の先を追い求め、予感しているようだった。言葉には力なく、次の仕事へのビジョンも意欲も感じられず、虚ろな心境を露呈していた。

部課長クラスと言えども、経済的基盤が充分ではなく悲壮感さえ漂う。
我々の世代は、概してまだ良かった。海外で単身赴任をやれば、給料が2倍になった。今は成果主義が浸透し、同じ職位でも経営幹部職に昇ることができず、部長職に滞留すると大きな金額の差が出る。厚生年金も60歳から7割出たが、いまは65歳まで皆無である。

再就職にはNECの部課長クラスでは難航するだろう。大企業の中間管理職よりは、技能、技術を磨き資格を得た係長か平社員の方が優位である。マネジメント歴が長くても、ドメイン、組織風土が代わる次の会社でマネジメントを担うほどの力量は不足している。前途多難で思わずこちらもため息が出て、意図して良き時代の思い出話に話題を転じる。

まあまあ優秀な部下たちであり、リストラの対象になることなど想定外だったが、四方八方を塞がれて放り出された感がある。

私は図らずも2004年に、NEC東北のリストラを牽引させられた。構内外注を含めて2600人の規模を800人に減らし、それでも閉鎖より残存をと、歯を食いしばって敢行した。それが、ついに260人と縮小し、今回のリストラで3月には完全閉鎖となる。

あの駅前の広大な敷地、総合体育館が消え去っていくのだ。かつての部下から、「地元に残るためにNECの地方工場にはいったのにーー」とのメールが送られてきた。地方工場の将来を担う幹部候補生であった。NEC東北は、私が入社した昭和48年に操業を開始し、いま半世紀にわたる歴史に幕を下ろそうとしている。

このNECのリストラの凋落ぶりを、下記のようにBusiness Journalは酷評している。ちょっとセンセーショナルな論評が目立つメデイアだが、核心をついている。


【Business Journal 2018.5.15より抜粋】

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・ NECが末期状態…1万6千人削減→また3千人削減、事業売却の連続で稼ぐ事業消滅。

・ 16年4月に策定した中期経営計画を見直し、国内で従業員3000人の削減や、通信機器を製造するNECの子会社NECプラットフォームズが運営する国内9工場の統廃合を盛り込んだ。成長戦略より、人員削減に比重が置かれた計画である。

・ NECはこれまでにも半導体や携帯電話などの事業売却を繰り返してきた。だが、今回のリストラは、対象に祖業の通信事業があるところが決定的に違う。通信自由化とともに海外メーカーとの競争が激化し、安定した収益を稼げなくなった。

・ 人員削減に踏み切るのは、01年から4度目となる。01年に4000人、02年に2000人、12年には1万人削減を実施した。このときは「社内のモチベーションが低下した」と新野社長が吐露している。

・ 1万人の削減時点では「これ以上のリストラはしない」(新野社長)と否定的だったが、今回3000人の追加リストラを打ち出すのは、人を減らしても収益が改善しないためだ。リストラ頼みの経営の限界を露呈した。

・ 2000年代初頭にITバブルが崩壊した。01年3月期の売上高は5兆4097億円、営業利益は1851億円あった。その後、リストラを繰り返して規模を縮小した結果、18年3月期の売上高は2兆8444億円とほぼ半減、営業利益は638億円と、ピーク時の3分の1にとどまる。

・ かつて世界一を誇った半導体は10年に旧ルネサス テクノロジと経営統合してルネサスエレクトロニクスとなった。17年には保有株のほとんどを売却して撤退した。PC98シリーズで国内首位を走ったパソコンも、11年に中国のレノボに持ち分の大半を譲渡した。14年まで国内首位だった携帯電話は、カシオ計算機と日立製作所の共同出資会社、NECカシオモバイルコミュニケーションズに移行。16年に会社を解散した。インターネット黎明期からプロバイダー事業を展開してきたビッグローブは14年、投資ファンド・日本産業パートナーズに売り渡した。

・ 事業の切り売りはさらに続く。日産自動車との共同出資会社、オートモーティブエナジーサプライと、リチウムイオン電池の電極を製造する子会社を中国系ファンド・GSRキャピタルに売却した。家庭用小型蓄電池事業の終了も決めた。儲かる事業は見当たらない。

・新中期経営計画では売上高を20年度(21年3月期)に3兆円に戻し、海外比率を3割近くに引き上げる目標を掲げる。顔や指紋などの認証技術を生かした防犯・安全(セーフティー)事業に注力する。だが、どこに向かうのかが見えてこない。

・ リストラの果てに、NECは立ち枯れの危機に立たされている。

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先月この音沙汰記で書いた通り、農業革命、工業(産業)革命、そして“The Third Wave”
である情報革命が押し寄せており、AGFA(Apple, Google, Facebook, Amazon)などは、一躍世界の巨大企業にのし上がっている。情報通信分野は、急激な伸長をしているはずでビジネスチャンスは多く、新技術・新サービスも目白押しである。

NECは不採算事業の撤退ばかりが経営戦略として目立ち、“第3の波”に乗った“新しい弾出し”が出来ていない。組織文化が攻撃的な企画、開発力を失い、縮んで疲弊しきっている。

いみじくも、2000年に西垣元社長が高らかに1万人配置転換のリストラ開始する3年前に、関本元社長は警告していた。NECの“中興の祖”である関本元社長は、著書“このままでは生きられない”でリストラについて強く戒めていたのである。

私は、1987年に(入社14年目、主任)関本元社長とモノづくりをテーマに対談するチャンスに恵まれた。1m80cmを越す巨躯で、ほとばしるように紡ぐ言葉は語り部であり、大企業を率いる社長、CEOはこのようなオーラを放つものと感じ入り心酔したものである。その対談内容は、翌正月のNECライフに掲載され、NECグループ全員に配布された。

その後も歴代社長の出席する会議に出たが、各社長は優秀な凡人の域であり、関本元社長のような大物は出なかった。

関本元社長は55歳で社長の座に就いたが、1980年から会長退任の1998年までの18年間で1兆円未満だったNECの売上高を5兆円にまで成長させた。鋭い感性と頭脳明晰で剛腕を振るうカリスマ性に包まれていた。

その関本元社長は、2000年のNECの大リストラを予期し、3年前に著書“このままでは生きられない”でリストラについて次のように述べている。

【“このままでは生きられない”関本忠弘著から抜粋】

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“起業家精神を発揮して前向きのリストラを”――情報通信の分野にはニュービジネスの種が豊富にある。再び経済を活性化するには、これを実行するしかない。

・単に身を縮めて嵐が通り過ぎるのを待つのではなく。シュンペーターのいう「イノベーション」を起こしながらリストラを図っていくということです。

・とくに技術の進歩を活かして真に顧客が欲している製品やサービスを開発し、提供していくということです。つまり、新しい事業機会を見出し、ニュービジネスを創造していくことが重要です。

・企業がまさに「起業家精神」を奮い立たせ、新しい市場を創造していかない限り、新しい世界は見えてこないでしょう。

・ニュービジネスとは、ベンチャースピリットとセルプヘルプの精神に基づき、新しいアイデアによって事業を起こすことです。まさに知恵と器量・能力が問われる時代です。

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NECのトップには、金輪際不採算事業の撤退、人件費削減という負のリストラはやめて、
関本元社長の指摘するリストラに転じることを切望する。

最近の社長の事業基軸のブレをひとつ挙げてみる。
パソリンクという30年以上前からの製品がある。マイクロ波通信システムで、インフラが整備されていないところで携帯電話基地局を結ぶ通信システムとして利用されている。

ニッチな市場(大企業が通常入らない小さな市場)であるが、遠藤前社長は「事業部長時代にインドの案件に対し、リスクが高いが熟慮の末受注を決断した。その後は世界トップシェアを獲得し、いかに製品開発/販売におけるボリュームの大切かを学んだ」と述した(マイナビニュース 2012.2.26)

次の現在の新野社長はパソリンクに対し真逆の見解である。
「パソリンクは80億円程度の赤字。数量ではなく、利益にこだわって販売する。」(日経新聞 2018.4.27)
30年以上前の製品であり参入障壁が低く、中国の華為技術が参入し、低価格競争に陥ることはわかっていたはずだが。

くれぐれも縮むだけの負のリストラではなく、時代の先を読んだ生体認証、AI活用などの“新らしい弾出し”に注力していただきたい。
 

古希、余命を楽しもうーーこぞ今年

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月31日(月)19時28分7秒
  もう数時間で、“こぞ今年”になるが、数え年では年が変わり古希を迎えるという特別な心境である。
70歳代の男性では、日常生活に支障を来す健康寿命が72歳であり、平均寿命は81歳である。平均的に支障を来してから、9年間に症状が悪化していき寿命となる。
どうやら、70歳代は、余命と思って生きた方が良いだろう。五木寛之氏の次の言葉が胸に響く

「余命とは自分に残された命の時間であり、自分はもう十分に生きたと納得したあとで、さらにつけ加えられたボーナスのように受けとめたらどうか」

余命は決してペシミステイックな切迫したものではなく、余裕をもって残された期間であるということである。
ゆっくりとこれまでの人生を振り返り、想い出の幾多の抽斗を開けながら、回想し綴っていくのも至福のときである。

今日は、自分の人生を団塊世代として振り返ってみよう。“団塊”という言葉のおさらいだが、堺屋太一氏が通商産業省鉱山石炭局在籍時に、命名したものである。
鉱物の堆積岩中に周囲と成分の異なる密な物質が団塊と呼ばれており特異な性質を持ち、それを昭和22年から24年の3年間のベビーブームで生まれた800万人を指すものとした。

第二次大戦で、日本人の230万人の兵と80万の一般市民の命が失われ、平均寿命は戦後男性が50歳まで落ち込んでおり、この3年間のベビーブームの出生者数の急増はよくわかる。

しかし、それゆえ戦後直後に生まれた密な団塊世代は、周囲とは全く異なる生き方をしてきた。団塊が遭遇した社会環境の特異体験について述べ、また私の身近で起きた社会的大変動も綴る。

① 貧しいがノビノビ育った幼少時代(S31・小1~S36年・小6)
 テレビ、冷蔵庫、洗濯機など、いまではどこの家庭にもある必需品がなかった。テレビがないので、よく外遊びをしており、ガキ大将のもと、いろいろな遊びを教えてもらった。少年漫画が楽しみであり、毎週発売が楽しみであり、遠くの友人まで貸し借りに行ったものである。

いまのように塾に通うことはなく、習い事は習字、そろばんが一般的であり、私は警察署の柔道教室に通った。習い事も長閑なものだった。

日本経済は、戦後どん底に落ち込み非常に貧しかったが、全く閉塞感を味わうこともなくノビノビと育った。

② 高度成長と熾烈な競争 (S37・中1~S43高3)
東京オリンピックを梃子に、日本経済は高度成長を維持して、生活は豊かになっていった。
しかし、団塊世代は、豊かさとは逆に次第にゆとりを喪失していった。

それは、団塊世代の800万人という膨大な人口に端を発した。私の中学校は8クラスで400人を超えていた。団塊世代の3年間の為に教育施設、教員を増やすわけにもいかず、熾烈な受験競争になる。

大学進学率は10%程度であり、現在と異なり国公立大学は月謝が1000円と異常に安く、寮が格段の低料金で完備され、有能な人材が集まって一流企業への就職も有利となる好サイクルであった。
一部の裕福な家庭の者が限られた有名私大に進学し、国公立大学の入試は熾烈なものになっていった。団塊しんがりの我々は2年前の団塊世代からの影響も受け、受験戦争という言葉さえ生まれた。

私は、そのような風潮を受けた高校の偏差値至上教育に情熱を持つこともできず、むしろレジスタンスから、柔道の部活に打ち込み、本だけはよく読み青春時代特有の思考を深めていた。高校3年の1学期に停学をくらったのはやや脱線気味だったが。

③ 燃え盛る学生運動とその終焉(S43・浪人~S48卒業)
東大全共闘が安田講堂攻防戦を展開する半月前となるS43年の年末に、東大入試中止が発表された。自宅浪人で東北大学を目指していた私は、自分より偏差値が髙い受験者が、押せ押せで流れ込んでくる事象を考え、なぜこのように学生運動が荒れ狂うのか、それらに関する本を読みまくり、大きな関心を持った。

自宅浪人で籠城1年後に、合格した大学に行ってみるとまさに政治の季節で、誰もが、“反体制民主化、プロレタリアート独裁”などと唱え、革命前夜さえも彷彿させるものだった。

学生運動は燃え盛り、大学側は6月から長期夏休みとしてキャンパスを封鎖する異常な展開になった。私は、熱に浮かされたように浅はかに反体制を唱える連中を論破し、ときには手を出し、空手部の孤高の人になっていったが、裏腹に世相は激しいアジ演説とデモが続き更に激化していった。

しかし、8月に警察力の大学構内への立ち入り等を認めさせる大学立法が制定され、翌々年の昭和46年に、極左赤軍派の大量内ゲバによるリンチ殺人事件で終焉を迎えた。2か月間で女性4人を含む12名が惨殺され、それは8カ月の妊婦を含んだ想像を絶する凄惨なものだった。

④ 石油危機(S49・入社2年目)
NEC入社2年目の11月に、第四次中東戦争を引き金にしたオイルショックが起きた。かつて経験がないほどの狂乱物価となり、政府は総需要抑制を敷く。昭和49年の経済成長率はー1.2%と戦後初めてのマイナス成長となり、日本経済の高度経済成長は止まった。

NECは、総需要抑制の一環で三連休、正月休みの延長などを行ったが、入社間もない我々は会社の危機とは異次元におり、何を心配するではなく、脳天気に寮で酒盛りを繰り返していた。

ただ、長い正月休みを活用し2週間の欧州旅行に出たときに、世界経済を襲った石油危機の深刻さを感じさせられた。強硬にイスラエルを支持していたオランダは極端な石油不足に陥り、アムステルダム空港上の窓から街全体に光は乏しいのが見え、ホテルではロウソクを灯していた。

日本は、アメリカと同盟を組んでおりイスラエル支持であったが、石油確保のために急遽寝返ったので、旅行中にアムステルダムをはじめ欧州諸国で反日感情に何度か出くわした。
戦後初めてマイナス経済成長となったが、この寝返り政策で、再び経済成長は短期間で取り戻した。

⑤ 電電公社の民営化(S60)
昭和60年4月に電電公社が民営化され、これはNECに大激震をもたらした。電電ファミリーの長男坊として、受注競争、技術競争に晒されることなく、電電公社に依存していたからである。

ときのNECトップは“時代の風を肩で感じる”関本社長であり、民営化と同時に高らかに進軍ラッパを吹いた。トップのキャステイングボードが強力でかつ的確であり、この危機をバネにNECは飛躍した。
他の電電ファミリーの企業には、長らく培われた組織文化を打ち破れず、凋落していく企業も多かった、

NECの組織の学歴偏重、年功序列が音をたてて崩れ、成果主義がそのまま出世に繋がった。
私は電電公社向け製品のものづくり一筋だったが、新設された海外企業部に異動し、即タイの新工場立ち上げに携わった。国立の二流大学でも上層部に登れる手ごたえを感じていた。

⑥  第3の波、急速に立ち上がったIT(H5)
タイの赴任を3年間で終わり、職場に戻ると仕事のやり方は一変していた。担当者まで一人1台のパソコンを持ち、言葉を交わすこともなく黙々と画面に向かっている。紙のメールの集配送をしていたメールのおじさんの姿もなかった。

私は部長職で帰任しており、その職位が求める情報リテラシーに面食らい、その習得に深夜まで躍起になって取り組んだものである。

タイ出向前にアメリカ出張の際、IBMのポキプシー研究所を訪れた時の彼らの言葉が甦った。アルビン・トフラー著の“The Third Wave”を論じていた。農業革命・工業革命の後に、情報革命が起きるという推論であり、アメリカは情報化社会到来をいち早く察知していたと感じ入った。

⑦ ITバブル崩壊が引き金で凋落(H12)
日本のIT関連事業が急伸し、新規IT企業が続出した。その勢いは身の丈以上にバブルに膨れ上がり、中身が伴わずあえなく弾けてしまった。

NECはいちはやく、西垣社長がインターネット部門に1万人の配置転換を掲げ、リストラをNHKスペシャルで放映するなど敢然とITバブル崩壊へのリストラ策を掲げた。

あれから延々と歴代トップの経営戦略は目立って功を奏したものはなく、不採算部門からの撤退というリストラを幾度も断行してきた。今年も3000人減のリストラを敢行している。

リストラを開始した2000年に売上5兆4千億円、営業利益1850億円であったが、坂道を転がるように経営悪化し、今では売上は半減で、従業員も18万人から10万人未満と小さな会社になってしまった。

若い頃は、終身雇用が当たり前で、60歳を迎えた課長以上の方々には花束をお渡しして祝辞を述べてハイヤーで見送ったものである。

終身雇用は完全に崩壊し、私自身も子会社でリストラを牽引するとは夢にも思わなかった。厳しい仕事はたくさんあったが、リストラは人の生活基盤を奪う残酷なものである。本社指示とは言えこれには心身ともに苛まされ蝕まれ、終生辛い思い出となってしまった。

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人生を振り返ると、激しく団塊世代の波と時代の波に揉まれ、「余命は、自分はもう十分に生きたと納得したあとで、さらにつけ加えられたボーナスのように受けとめたらどうか」との五木寛之氏の言葉が琴線に触れる。
 

空手OB合宿講習会に参加して

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月28日(水)20時03分16秒
  もう故郷はふかぶかとした秋となり、寒気のせいかひと際鮮やかな紅葉が目に染みた。(下写真)好天に恵まれ、実家の庭の木々の雪囲いを一日早く終えたところに、四三の会のYH君とFT君から古墳を観に行かないかとの誘いがあった。

故郷に古墳があるなどと聞いたことがなかったが、車で30分くらいの所であり、便乗した。
果たして、下小松古墳は山全体が古墳群であり、202基の古墳が点在していたことに少なからず驚かされた。(下写真)

この古墳を見て、岩手県に赴任していたときの角塚古墳がフラッシュバックした。
あのときも古墳の存在は知らず、史跡を巡り歩いていたときに、傍らにあった角塚古墳に出くわしたのだ。単身赴任にまかせ、地元出身の高橋克彦著“火怨”“炎立つ”などを読み、駆り立てられるように、舞台となった江刺、平泉などを訪れていた。

角塚古墳のあった場所は、激戦の“胆沢の戦い”の戦場にある。“胆沢の戦い”は、桓武天皇の治世に中央集権に従わない蝦夷の征伐により始まった。攻撃目標が胆沢の地となり789年に始まる遠征軍は1回目が5万2千人、2回目は10万人、3回目は4万人の大軍勢に及んだ。

それでも蝦夷は、アテルイをリーダーにして13年間に渡り、戦い抜いた。しかし、ついに坂上田村麻呂に屈し、江刺の胆沢の柵は、田村麻呂の居城である多賀城の出城になってしまった。中央に支配されていく哀しい蝦夷の歴史である。

それまで、蝦夷は豪族として、江刺で静かな暮らしをして豊かな生活を送っていたのが一変した。
蝦夷の胆沢の柵近くで、その安定した集落の証として、5世紀後半に角塚古墳が造営されていたのだ。長閑で幸せな集団生活を営む蝦夷に、一方的に蛮族として侵略してきた中央集権の身勝手さに怒りを覚えたものである。

我が雪深い故郷にも、その蝦夷一族が住んでおり、古墳時代に繁栄していたことは、新しい発見であった。

ところで、この1カ月間は、空手の大きな3つのイベントがあり、それを載せる。

1 合宿講習会に参加――“武道としての空手”を学ぶ

11月3日に12名が参加して、八十三歳になられる師範直々のご指導のもと、第3回OB合宿講習会が行われた。

表題が“武道空手を目指して”であり、異種格闘技を念頭にとの師範のお言葉通りに、実戦空手の奥義でした。しかも、それは武道という深遠な暗黙知の世界を、物理学的に形式知化して教えていただいた。

特に、3年前の第1回講習会で引用された東大卒理学博士の吉福康郎氏の実測データを基にした衝撃力曲線は、今回の講習でようやく習得することができた。吉福氏自身が古武術や太極拳を学び理論を体現しており、私は早速お勧めの「格闘技奥義の科学」を読んだ。
吉福氏は、次のように述べている。

「武術の技術習得の本質が、たんに筋力やスピードを高めるのではなく、“体の動きを質的に変える”点にあったことである。この質的な変化により、スポーツ的な動きよりもすばやく、かつ力強く技を掛けられることがわかった。もちろん、人間相手の技であるから、人体の構造を熟知し、その弱点を見事に突く力学的合理性も含んでいる」

当日の講習会内容は次の通りである。

(1)攻撃の手法と衝撃力の度合い
重い、鋭い、軽い技などの表現が、科学的に解明されていることを学んだ。吉福氏の著書では縦軸が衝撃力(kgw)、横軸が時間(ミリ秒)で衝撃力曲線が測定され、その積分値が力積となり、ダメージの大きさを表す。軽い技は持続性が短く、重い技は持続性が長い。蹴りと突きの衝撃力の違いも定量的に把握できた。

突き型(逆突き、横蹴り)は重い。突きの衝撃力の全力積のうち、拳そのものは20%程度であり、前腕、上腕、胴体の寄与率が大きい。巻き藁突きでの足腰のべクトル合わせの鍛錬は肝要である。

打ち型(鉄槌、まわし蹴り)の技は鋭い。振り回す先端の部分が突きより高速となるが、その先端付近だけの運動量となる。

(2)空手技と重心の移動
この講義で、通常何気なく行っている移動稽古の大切さを痛感した。のっそりとした移動では、衝撃力が半減する。逆突きと一歩踏み出す突きの違いをサンドバックで示していただいた。和道流独自の飛び込み突きも、この素早い移動と思われる。


空手の技のみが移動して衝撃力が増すそうであり、他の格闘技では減じる。
これは空手の移動は水平であり、移動の運動量を腕から拳を通して伝えやすいが、他の格闘技は、踏み出した足がブレーキとなり、衝撃力は逆に低下するとのことである。

私は、試合で一歩踏み出す追い蹴りで、相手を幾度か倒し、反則注意を受けた。これも無意識だったが、蹴る足に重心移動が加わり、威力が増したのであろう。

寸止めの空手では、得られない感触であり、巻き藁も漫然と逆突きを繰り返すのではなく、上記のような移動からの突きの鍛錬もすべきであった。

ここで、師範からは「絶え間なく産まれる工夫は、書き留めておかなければならない。そうしないとそれらは断片的となり、体系化されていかない」というお言葉があり心に刻んだ。

(3)面と線と点(衝撃力の課題)
武道空手の真髄の教えであり、異種格闘技との闘いにも通じるものである。
接触する面積の大小と衝撃との関りは、物体の固さは同じなら衝突面積と逆比例することがポイントである。そして、人体の急所50か所以上を示す図を配られた。

私は、前に出され、サンドバックを中高一本拳で突くように指示され、確かに指はめり込んでいき威力は体感できたが、作用反作用の法則で指がとてつもなく痛い。指に大きな反作用がかかるので、きちんと中高一本拳の鍛錬を行ってから、行なわなければならない。

また作用する面の固さも大事である。手刀の接触面が柔らかいが、正拳は人指し指と中指の2本全体で突き固い面である。師範は、2本の指の付け根の関節部分で巻き藁を打ち、接触面を小さくして威力が倍増させる鍛錬を行われているとのことである。
貫手を、鍛錬すればそれは実戦向けであり、2本貫き手は眼星(目)を狙えば、難敵でも倒せる。

(4)約束組手「後先の手」
和道空手の創始者である大塚博紀最高師範は、「基本組手」(待ちの形10本)のほかに、「後先の手」「先先の先手」「先手」の「基本組手」36本を残されているが、『それらは系統的に伝承された者が皆無であるため、今となっては大塚師が演武されたときのビデオなど断片的に残るのみである。今は名を明かせないが、親しくしている某氏の資料を参考にして』と前置きし、それらに師範ご自身が考案を加えて取りまとめ、「後先の手」の中から5つを選ばれ、研修課題になった。

後先の手とは、相手の攻撃を防御すると同時に攻撃に転ずるので防御即攻撃であり、中高一本拳で稲妻(右わき腹)などの急所を突く。
いよいよ、本講習で習得した“武道としての技”の実践にはいった。極めの部分を列挙する。

① 中高一本拳で稲妻を突き、間を置かず右足を踏み込み、右掌底を持って水月に当てを決め、更に下昆(下顎)を打ってのけぞらせる。
② 左裏拳をこめかみに打ち、相手の腕を胸前まで押し崩し、右肘打ちを稲妻に打ち込む。
③ 相手の右拳を左手で内転させ、逆手に取って手首を殺して左脇腹に抱え、相手を崩して、右拳で下昆を裏突きする。
④ 中高一本拳で月影(左脇腹)を突き、相手の突いた腕を外旋させて逆を取って崩し、月影に右肘打ちを打ち込む。
⑤ 上段突きを右弧拳にて受け、内懐に跳びこみ、左右手刀で頸部、胸部を打つ。

学生時代に学んだ5本目までの組手とは異なり、すさまじい“武道としての極め技”である。
「崩して」「回して」「落とす」までが行使する一連の技法となる。その手段の中に、「当て」や「逆取り」など考えられるあらゆる技術を探る心構えが大切かと思う、と結ばれている。

2 空手世界選手権(11月)の前哨戦を観戦

10月14日にプレミアリーグ東京大会が行われる東京武道館に行った。来月のスペインでの世界選手権の前哨戦として世界のトップ選手が参集している。
全空連のオリンピック対策本部の特別顧問に就任したMHさんは、役員席で忙しそうに立ち回っていた。

席は2番目であり、TVの2次元映像と異なり、臨場感がある。アーナンダイの演武最初の吐き出す息までがはっきりと聞こえるほどだ。先日のNHKの放映で私が写っていた。(下写真)

形は、男女ともに清水、喜友名選手が見事な技で優勝した。女子は清水選手が、世界ランク1位のスペインのサンドラ選手に4対1の判定で圧勝した。銅メダルは2つとも日本。男子はメダル全てを独占した。

形の判定は、相変わらず“旗判定”であり、判定方法の改革を急ぐ必要がある。5人の審判が、どちらかの選手の旗を挙げるのは、判定に透明性がないと指摘されている。そこで、東京オリンピックでは、判定は、点数に変更される。技術点と出来栄えの競技点の20満点で競う。
この大きな改革には、審判の主観の入った判定を排除せねばならず、減点、優位性の数値化が必要であり、審判の訓練と経験に時間を要する。

課題は組手である。男子は期待の荒賀選手が、世界ランク35位の格下のカザフスタンの選手に負けてしまった。西村選手も準決勝で世界4位のイタリア選手に負けてしまった。女子も大エースの植草選手が、決勝でフランスの選手に敗れた。消える中段突きも世界で研究され尽くしている感がある。

組手の判定は一瞬であり、ビデオ判定が採り入れられていた。 寸止めゆえに実に判定は難しいものがあり、判定が覆り勝敗を左右した試合が幾つかあり、これも審判団の技量を上げなければならない。2分という短い試合時間で、ビデオ判定で流れは止まるが、止むを得ない手段と思う。

今回面白い競技があった。空手の“形”が素人には、“踊り”のように受け取られるので。実際に二人の敵が次々と攻撃を仕掛けて、“形”の技で防御し倒す技を競うもので非常に見応えがあった。

3 第40回全国国公立大学空手道選手権大会優勝――女子チーム
昨年は、横浜市平沼記念体育館で直接観戦した。女子は、1年生3人のチームであり、1回戦は大阪教育大を破り、MH選手は、サソリ蹴り(後ろ回し蹴り)の大技を決めた。2回戦は前年優勝したシード校の長崎大学であり、接戦となったが惜敗した。1年生チームであり、今年の大会におおいに期待できる試合内容であった。

今年は11月4日(日)に大阪大学吹田キャンパス体育館で開かれ,36大学が参加した。母校の女子チームが、4回戦を勝ち進み、決勝で一昨年3位、昨年ベストエイトの戦績を誇る強豪の北海道大学と戦った。2:1で撃破し、初めての優勝を達成した。(下写真) 3回戦でも、昨年敗れた長崎大学に雪辱している。

尚、男子チームは、残念ながら2回戦で秋田大学に敗れた。ただ、1年生が3人選手になっており、これからが期待できる。
 

四三の会の歩み(卒業50周年を祝う会のプレから)ーーーー3/3

 投稿者:管理人  投稿日:2018年10月11日(木)19時56分54秒
  (3) 伝国の杜コンサートーー2006年9月18日
WSさん達、四三の会の仲間から、HH君の故郷コンサートを開こうかとの企画が持ち上がった。

HH君は、東京芸術大学を卒業後、ドイツに4年間留学した。帰国後は、ドイツ歌曲演奏会の他、音楽の友ホール日本歌曲シリーズに出演など日本歌曲に本格的に取り組んでいる。またオペラでは二期会、東京室内歌劇場、各地市民オペラなど魔笛、フイガロの結婚、カルメンなどの数々の英、仏、独、伊オペラに出演している。第二回奏楽堂日本歌曲コンクール1位、山田 耕筰賞受賞している。

錚々たる経歴であるが、四三の会のメンバーは、このようなコンサートの企画運用には素人である。10カ月前の2005年11月12日に9名の委員会を立ち上げて準備に入った。
HH君は、地方では「地方での公演は都はるみ、亡くなった美空ひばりなどは一杯になるが、このジャンルではどうかとの不安がある」と経験上話していた。伝国の杜ホールは、500人の収容である。

9人のメンバーが5回の打ち合わせを重ね、母校OB会報にコンサート開催を載せたり、テレビユー山形にHH君自ら出演してもらったりした。また母校同窓会の共催を取り付け、米沢市教育委員会・米沢市芸術文化協会・山形新聞社・テレビユー山形の後援を承認していただき、獅子奮迅の働きである。

チケットは完売し、四三の会のメンバーは立ち見という、嬉しい悲鳴となった。

HH君がゆったりと登場しさすがにプロの風格である。会場全体に響き渡り、観客を圧倒し席巻する。183cmの巨漢が更に大きく見える。
この後の打ち上げで、15年来のコンビのピアノのK Yさんと歓談したときに「あの領域のバスをコントロールできるものはいない。スーパーバスは彼のための造語であり、わかりやすく言えば女性が悲鳴をあげるその領域でコントロールできるかですよ」と説明してくれた。評判通りに日本人離れした深々とした低音と叙情性豊かな歌唱力であった。

シレトコ半島漁夫の歌については、恩師HK先生が評していた。
「音楽会なんて行ったこともなかった。シレトコなんとかというのを聞いたら腹の共鳴膜がバッコン、バッコン鳴り始めた。初めてこんなふうになり、自分にもアイヌの血が流れているのかと思ったほどだ」 その感想が全てである。

(4) あら還――2009年11月11~12日
米沢は、既に深々とした秋であり、冬枯れの様相を呈し柿がたわわに色づき、山々は既に白い粧いを施していた。故郷の自然が織りなす光景は、都市部での企業人生活を送ったものには最上のいざないである。
今回の目玉は、事務局が周到に企画した“甦ったあら還暦バンド”である。

バンド開演に先立ち、23名が参加して、午前9時から上杉神社で還暦のご祈祷が、厳かに行われた。大ハプニングは、その後である。事務局が練りに練って、神社の許可を頂戴し、素っ裸になり赤褌をつけて参拝を行うことを突如提案した。

お祓いを受けた裸の若者によるお祭りは、古今に沢山ある。しかし、気温3度では、寄る年波の老骨には応え、抵抗勢力も現れた。ようやく、次々と裸になり初め、赤褌の色にも精神が鼓舞され“やるぞ”という機運が高まってきた。

勢い良く参道に飛び出すものの、いきなり寒気に晒され、足裏が冷たさを通り越し痛い。みそぎの水は飛び上がるほどに冷たい。流石に高度成長を牽引し、リストラに晒され肉体を酷使した世代である。壮観なメタボリック症候群の大群であった。

折からの直江兼続ブームで、早朝とはいえ参拝者は多く、写真を撮られ、“なんの行事ですか”などと聞かれた。文字通り冷厳な儀式らしく、イーハトーブで頂戴した拍子木で高らかに締め、当日の模様は、拍子木を打ち鳴らした写真とともに地元の米沢新聞に掲載されている。

ホテルでは、66名が参加して、メーンイベントがはじまった。最初は、物故者24名に対し、同窓生の僧侶となったIT君より、追悼の読経が捧げられ、合唱した。名簿に目を通すと、一人ひとりへの想い出がよぎる。

次に各クラス代表によるスピーチがあり、人生の年輪を刻んだだけに含蓄に富んだものであった。そして、いよいよおやじバンドの登場である。素晴らしい演奏と選曲であった。高校時代のあの日、あのとき、あの場所を彷彿させてくれる。

途中、ボーカルを演じたFK君が興じて、再び赤褌になり、おおいに湧いた。気の毒なのは、キーボード奏者の女性であり、目の前で踊り唄う姿に譜面も読めない状態に陥っていた。ホテルはじまって以来の珍事と思われたが、オーナーが同級生であり、事なきを得ている。

締めは、再び樫の拍子木で行う。事務局より、急に入手のいきさつを話してくれと言われる。退職祝いのときにいただいたもので、これからの人生は“気”が大事、まだ“気”が足りない、木(拍子木)を打って精神を高揚させてほしいとのお心使いであったことを披露し、皆さんにも“気”を発信するので共有していただきたいと述べる。

その夜は、三たびスナックへ向かったが、1日に3度同じ店で飲んだのは初めてである。深夜まで、呑み語り“あら還”の痛快な2日間の幕は閉ざされた。

(5) 鎌倉江の島散策――2010年11月19~21日
2日間にわたる鎌倉と江の島での散策では、関東地区で各々自宅に戻り泊まる者が多かった。
どうしても同宿し、温泉に浸かり酒宴を持ちたいというとのメンバーの要望で、急遽NEC熱海温泉保養所でオプショナルツアーとして前夜祭を設けた。学生時代は言葉を交わすこともなく、その後の交流もなかった友が、同宿し杯を重ねると一瞬のうちに打ち解け数々の思い出が浮かんでくる。定年後の生きざまも、おおいに参考になった。

翌朝、指定時間までに鎌倉駅に三々五々に集まってきた。本イベント推進の関東支部長のKA君が、居酒屋で開会し挨拶した。

そこから鶴岡八幡宮に繰り出す。この3月に強風により樹齢千年を誇る公卿イチョウも倒れたが、もう若木が芽を出している。

次に、鎌倉五山一位の格式を誇る建長寺に向かうが、参道は非常に険しく、途中ゆったりと憩いながら実にノンビリしたペースである。鎌倉五山第二位の円覚寺舎利殿も廻り、記念写真を撮る。HH君が、駆け付けるので、山下公園で待ち合わせをしていたところ、世界一周の飛鳥が出航していった。中華街の吉兆で本場中華を堪能し、一日目は暮れた。

2日目は江の島からの出発で橋をわたり三大弁天の一つと言われる江の島神社へ行き、島を一周する。江ノ電で長谷寺へ向かい、KA君がネットで調べ上げて予約した“Hasekamichou”での特別料理を堪能する。

長谷寺では、一本の楠で造られた高さ9mの本尊十一面観音菩薩を観て、切通しを歩き鎌倉大仏に着く。秋深い古都の名刹と最も多感な時期の仲間には、実に癒された三日間であった。林住期として迎えたターニングポイントとして、よいしるべになった。

(6) 海外の旅 2011年~2014年
① 韓国――2011年2月18日~21日
四三の会で海外に出ようとの話が持ち上がった。だれかが、現地勤務しているか、滞在経験があるところに行こうとのことになり、第一弾は、YH君の滞在する韓国に決まった。5名のみの参加である。

韓国は、私にとっても、最も近くて遠い国である。アジアの国々は殆ど訪れたが、韓国だけは縁がなく、興味だけを抱き続けていた。その歴史は、日本と密接なものがある。豊臣秀吉が明征討のために侵攻し、7年に及ぶ戦乱を起こし、ソウルの街までも戦火に見舞われ、名所も焼失してしまった。1910年には、日韓併合を行い、敗戦までの36年間に渡り統治し続けた。常に、大国シナの脅威に晒され、戦後は38度線での朝鮮分割と辛酸を舐め続けている国であるが、したたかに急成長してきた。

今回は、北朝鮮から砲撃を受けた延坪島も視察したかったが、Y君に一蹴され、軍事境界線の板門店、非武装地帯第3トンネルの見学などは行わず、戦乱をくぐりぬけ残り、無形文化財としてもきっちりと継がれている李朝時代510年間の文化に焦点を絞っていく。

現地には、勇躍韓国に単身居住したY君がいる。彼は、仕事を通じた仲間とのコミュニケーションを母国語で図りたいとのことで、夜は語学学校に通い、昼は商社時代の付き合いの会社でアドバイサーとして活躍している。彼のアグレッシブなセカンドライフへの取組みも伺い知りたく、四三の会の仲間と訪問した。

韓国では、口蹄疫が大流行だが、やはり焼肉だ。日本では禁じられている生牛レバーも絶品を食える。サンチュ、ニンニク、青唐辛子、エゴマの葉など薬味が豊富でありオンドルの暖房も心地良い。蕎麦粉のコシが強い冷麺で、はさみ切るほどである。

皆は、カフェでパンとコーヒーの朝食をとる。私は、一人大衆食堂へ入る。殆ど開店していないが、ようやく1軒見つけ出した。言葉が通じず、メニューに絵もない。客が食べている焼魚を指さすと出てきたものは、8品もあった。ふわふわの茶わん蒸し、ダイコンキムチ,巻貝、わかめスープ,白菜キムチ、味噌汁、タケノコ。キムチとわかめスープを平らげるとすかさずおかわりが出される。これで500円と破格に安い。

景福宮は朝鮮開国の王が造成したものである。やはり中国様式であったが、故宮のように壮大で威圧的なものではなく、つつましい宮殿である。この王室では、率先して言語、科学など産業振興に努めていた。文盲をなくすための表音文字のハングル語は世界記録遺産である。国文学を弱体させた功罪はあるが。農業に合わせた暦、日時計など独創的なものが産み出されている。

行列ができる参鶏湯の専門店、土俗村で昼食をとる。鶏の腹に、クリ、銀杏、もち米、松の実などが詰め込まれている。私の注文したものは、太い朝鮮人参も入っており、黄褐色で、ほんのり甘くほろ苦く、急に元気が湧いてきたようである。

古美術通りの踏十里。200件の骨董品店が、集結しており、主に李朝時代の家具や工芸品が展示されている。一見、倉庫の中のようだが、展示品の質は素晴らしい。日本の目利きのH君の眼は、家が1軒建つほどの青磁の壺に注がれている。李朝になると白磁になるので、高麗時代のものであろう。

晩飯は新宿西口の思い出横丁のようなレトロな焼肉屋街である。陽が高いうちから飲みだし優雅な気分になる。このように安く美味しい焼肉は初めてである。美味しさの秘訣は、歩いて数分の食肉市場にあった。胡麻油と塩のタレが絶妙であり、センカルビと牛レバー刺しを、たらふく食べた。眞露とマッコリを混ぜると飲み口が良く、美味しいことも発見した。

2日目も宮殿に行く。山や丘を活かした広大な庭園を持つ、自然と調和した宮殿である。歴代の王が最も長く滞在して、簡素で秩序のある美しさがある。宮殿の端に政略結婚で嫁いだ日本の皇族で最後の王妃、万子様のひときわ質素な佇まいがあった。

仁政殿前は、王の前で、右に文班、左に武班がくらい順に陣取る。両班のみが科挙試験を受けられる特権階級である。

宗廟では、歴代の王と王妃の祭祀が行われる。その祭祀は、人類の無形文化遺産に登録されている。正殿の全長は、101mである。丹青の簡素な造りである。ここで李朝の時代から、脈々と祭祀が行われている。古式にのっとった壮厳な音楽と文舞、武舞が演じられる。石畳の路は、中央は祖先、右は王、左は世子と定められている。
世界遺産を直に観たことより、韓国の苦難に満ちた歴史が理解できた。

② タイーー2012年11月21日~27日
深閑とした広い夕暮れの国際空港で、ゆったりしたソファーに身を沈め、真黒な機体が大きく旋回して夕陽に飛び込んでいく光景を見つめてときめく。

この旅は、四三の会八名が、各自で飛び立ち、バンコク駐在のST君を訪れるものである。私は、7泊8日の旅であり、皆がバラバラで一日のみ全員が揃う。

私とKT君は偶然一緒の便になり、バンコクのホテルに午前零時頃に着く。先行していたFT君と、韓国から直行したYH君が出迎えてくれた。四三の会のバンコク篇が実現したという感動が湧く。同じく先行したAS君とHT君は昼から呑み続け、明日の早朝ゴルフのために、既に寝ていた。

我々の真価は、ここから発揮され、ただちにソイカーに出撃する。
そこは真夜中ながら異次元のように煌めきすさまじい熱波を放っていた。街全体が沸騰している。米軍がパタヤ、パッポンに造った歓楽街をさらに増幅したような感じである。眠いと言っていたKT君も覚醒し、気分が高揚していた。午前3時の閉店まで呑み楽しんだが、これは時差を戻すと日本の朝5時であった、7時間に飛行の後であり、この歳では暴挙とも言える。

日本時間では午前5時に宿に戻り、11時まで泥のように眠ったが、時差のお陰で、現地時間9時起床であった。一方のKT君は、全く寝つけず、そのまま朝食をとり、朝の散歩に出て、「9時から14時まで寝るのでそれからCALLしてくれ」とのメッセージを、フロントに託していた。修復機能が充分で、さすがに旅馴れている。他のメンバーは、ゴルフあるいは寺院巡りへと、それぞれ飛び出していた。

私は、喧騒で蒸し暑いバンコクの懐かしい空気を吸い、汗まみれで歩き続けた。日本では口にしない炭酸飲料もがぶ飲みし、喉への刺激も心地よい。最初に、カムテイン夫人の家を訪れた。ジムトンプソンの家と異なり、観光客は私のみである。

次は、東南アジア最大と言われるサイアムパラゴン地下の水族館に入る。驚くことに、入場料は2930円(1100B)と物凄く高いが、入場者は非常に多く、並んで待った。熱帯地方ならではの見慣れない魚が多く、水中トンネル、水中ショーなどなかなか見応えがあった。潜水服を着てサメと戯れる西洋人も多い。

昼食は、水族館のサメから思い立ち、ペナンシャークフインズでフカヒレを食べる。1350円(500B)と高いが姿煮であり、日本では口にできない代物である。最後にライスを混ぜて雑炊にする。

そして、夕食時に、2名が日本から到着し、9名が一堂に会した。現地駐在のST君は、ミャンマーから戻ったばかりであった。
スリオンコカで、タイスキを堪能する。その店の名物であるコカエビが絶品である。

そこから全員で、バンコクトップクラスの高級クラブに出向く。丁度ロイカトーン(灯篭流し)のショーを行っていた。私がバンコク駐在の時に見た幻想的な光景が浮かぶ。家族で民族衣装に身を包み、バナナの葉で造った灯篭に、ロウソクを立て美しい花で飾り、満月のもと、ひっそりと流れる川に流していた。これは、水の精霊に感謝をささげ、魂を清める儀式である。しかし、クラブのショーは、そのようにしめやかではなく、非常に華やかなものであった。

女性全員が、あでやかな民族衣装をまとい、それぞれが英語あるいは日本語を駆使して、会話を楽しむ。
タイダンスを飛び入りで競うイベントでは、何の心得もないFT君が参加し、鉢巻をした独自の着こなしの彼の勝手な踊りに、女性達が拍手喝采である。次は、目隠しをして相手の女性にたどり着くゲームであるが、HT君は感鋭く女性にたどり着き、シャンパンを獲得。次に参加したYH君は、間違えて大爆笑の渦である。AY君はスペル当てに登場し、ここでは、四三の会が、満席の客を尻目に大活躍である。それにしても臆さず、ポンポン飛び出していく姿勢は、たいしたものである。

楽しい宴は終り、FT君、HT君、AS君の3名は翌日早朝5時の便で帰国である。3泊4日の38800円の旅で、移動が夜間と早朝フライトであり、実質滞在2日間の“弾丸旅行”であった。

宴の後、YH君とAY君の翌日のアユタヤ行きのガイド役が、急遽駄目になったとの連絡が入った。二人は慌てもせず、勝手もわからないまま独自の旅を決定する。バンコクとアユタヤ間は、100kmはある。

私が翌朝レストランに行くと、もはや旅発ちの出で立ちである。半ズボンで80円(30B)で買ったカウボーイハットを被っている。まだ薄暗く季節外れの雨が降りしきっている中を、悠然とした足取りで出て行った。

なんとか英語の出来る窓口に行き、少ない本数の汽車2等の切符を確保し、トクトク(3輪車)に交渉して借り切り、世界遺産を巡り、高速バスで戻ってる。「汽車2等は、エアコンは付いていたが、650円(240B)と高い、3等は110円(40B)だ」と不満を口にしていた。通常日本人なら、現地HISに高額でオプショナルツアーを依頼するものだが、図太い神経である。

世界遺産の素晴らしさを聞いて、今度は、KT君が突然アユタヤ行きを決める。
このKT君の衝動的な判断と事前情報不足が、大変な苦労を強いられたらしく、本人談を引用する。

YH君の高速バスの到着点を出発点と信じて向かったが、そこには高速バスが見当たらず、タイ人のみの地域であり、達者な英語を駆使する彼も全く通じず、立往生したとのことである。「アユタヤ、アユタヤ、バス、バス」と繰り返し、おばさんに連れられ、ようやくバスに乗りこんだ。おばさんは、行き先が違うのにわざわざ連れて行ってくれた親切な人だったとか。
バスの乗り込み、270円(100B)を出したら、車掌が27円(10B)しか受け取らない。怪訝な顔をしているうちに、すぐ降ろされ、そのバスは、高速バスのためのシャトルバスとわかった。

悪戦苦闘でやっと高速バスの乗ったところ、各停で停車する乗り合いバスであり、アユタヤに着いたのは午後の一時であった。私と食べた朝のバイキングで失敬したバナナ2本で空腹をしのいだという。ようやく遺跡廻りを終り、今度は順調に高速バスに乗ったが、到着地の戦勝記念塔は、ロータリーで屋台などごちゃごちゃしており、BTS高架鉄道の駅が見当たらず、またもや「BTS,BTS」と連呼して、ようやく駅にたどりついたと言う。
堂々とした英語を操る国際人の彼も、生粋のタイ語のみの世界では大変な思いをしたらしい。

これらの“地図のない旅”は、抱腹絶倒であり、おおいなる元気をもらった。
連日の宴では、コカのみならずグレートシャンハイの北京ダック、ソンブーンのカレーカニなど、期待に違わず、抜群の味を堪能した。
この四三の会のメンバーによる旅は、愉悦なものとして一生想い出に残るだろう。

③ インドネシアーー2013.年11月15~21日
AY君が、5年間インドネシアのジャカルタに勤務しており、その国を選んだ。参加者は4人で、バリ島からジャワ島のボロブドウ―ルまでの6日間の旅である。

今回は四三の会のメンバーは、AY君、IT君、YH君との4人である。久々のパッケージ旅行であるが、旅行会社が企画型として宣伝したように、メニュー豊富で行動範囲も広い。案の定、このパッケージ旅行は、殆ど我々4人だけでガイド付の贅沢なものとなった。

”地を這う旅”とは、全く異にして、ホテルは、有名なクタ・ビーチの傍らのプール付きで私には豪華すぎるレベルである。ジョグジャカルタでは、五ツ星のホテルも宿泊予定に入っている。機は順調に8時間飛行し、午後6時バリ島のデンバサール空港に着陸した。

成田は5度と寒々としていたが、降り立つと35度のすさまじい熱気がスコールに見舞われた後であった。むっとする暑さであるが、バンコクに滞在していた私には、その熱帯性気候を肌で感じ取り、懐かしさ一入であった。雨季の始まりである。このスコールが熱帯特有のものとは異なり、異常にしつこい降り方をして、この旅で悩まされるとは、このとき知る術もなかった。

鄙びた店でひとまず乾杯し晩飯の後、ホテルにチェックインして街をぶらついた。バリ島サーフインの名所として有名なクタ・ビーチ近くのバリ島随一の繁華街であり、オープンカフェと土産店がぎっしりと立ち並び、南国の熱気と情緒を肌で感じる。内臓を取り除き、ニンニク、チリ、ショウガなどを詰め込んだ名物の子豚の丸焼きにぎょっとする。


翌朝はタマンアユンを訪れ、バリ島で最も美しい寺院とも云われ、奇数層の黒い萱ぶきの塔を重ねたメル(聖なる山)が立ち並ぶ姿は、まさに壮観かつ奇観である。

世界遺産の棚田であるジャテイルイに向かう。当初は、昭和時代の段々畑のような田んぼと思っていたが、目のあたりにして、その先入観は吹き飛んだ。パノラマに広がる秩序がない曲線の美しい田んぼに圧倒される。この水の便の悪い山あいに、1000年以上前からスバックという水利システムを造り、それが評価され世界遺産になったとのことである。
この雄大なライステラスを眺望しながらの贅沢な昼食は、また格別であった。

5万ルピア紙幣の絵柄になっている名勝地ウルン・ダヌ・ブラタン寺院に行く。湖畔に浮かぶように建ち、背景の山が灰色の雲で覆われているのも趣がある。

3日目は北に向かいウブド近郊のゴアカジャに行く。11世紀に造られたが、埋もれて、1923年に発見された。僧の修業場所であり、立派な沐浴場もあり、壁には6人の女神が彫り込まれている。

奥の象の洞窟の入り口は、黒魔術を使う悪の象徴である恐ろしい魔女ランダの顔と言われている。魔女ランダの行状は、日本の鬼子母神とよく似ている。

洞窟の左は、ガネーシャである。右の牙のみが折れているべきだが、風化したせいか両方ともなくなっている。ガネーシャは、父であるシバ神より誤解を受け首を切られたが、誤解が解け、シバ神があわてて首を探したが見つからず、やむなく傍らの象の首を切り落とし、据えたという言い伝えがある。

スコールでウブドの見学をスキップしたので、持て余すほどの閑があり、ケチャックダンスのショーを見ることになった。しかし、一方、スコールの黒い雲が遠くから、見る見るうちに近付いてきて、激しい豪雨と雷が轟く。

スコールはなかなか止まず、小雨になったときにケチャックダンスは、強行された。バリを代表する伝統芸能に接しようと、観衆は傘をさして鑑賞している。
ケッチャクダンスは、悪霊を祓うための儀式である。男性全員でのリズミカルな“チャツ チャツ チャツ ”の掛け声は踊り手をトランス状態に導くと言うが、激しい雨のせいか、なかなかボルテージが上がらない。

しかし、白猿が魔王を打ち負かし、大暴れしていると、周りに燃料が浸みこまされたわらのようなものが撒かれ、火をつける。それを白猿が素足で蹴散らし、またその上を渡る。この荒技でトランス状態に陥った。それにしても特徴ある掛け声であり、まだ耳の底に残っている。


到着後、4日目にして、サーフインの人気スポットである有名なクタ・ビーチで遊んだ、いや遊ばれた。

サーファー達が集まるわけである。見た目にはたいした波でもないと高を括っていたが、いきなり足元を救われる凄い圧力である。体が一回転し、眼鏡も波にのみこまれるところであった。激しい波しぶきとともに引き潮も強く、遠浅とは聞いていたが、すぐに背が立たなくなり、あまり泳ぎが達者でない私は、あわてて砂浜に戻った。

五日目は、この旅の目的である仏教三大世界遺産のボロブドウ―ルへ向かう。
御来光は期待できないが、ホテルを午前3時45分に出発する。外は、まだ闇であり、1時間15分ほどで、ボロブドウールに着いた。月は朧にまだ天空にかかっている。その鈍い月の光の中、ボロブドウールは、その巨大な要塞のような姿を現してきた。

この仏教遺跡は、792年頃に建てられ、それはほぼ日本の奈良の大仏様と同じ頃である。しかし、この遺跡はその後、密林に1000年ほど埋もれ、1814年に発見された。
精緻に設計された基盤、方形盤、円形盤の仏教3界からなる9層の構造と72のストウーパには、幾何学的な美しさがある。

仏教3界の世界観とは、欲界、色界、無色界であり、それはボロブドウ―ルの3つの壇がそれを表している。

最下部の基壇は俗的な人間のいる欲界であり、その上の方形基壇は仏と人間が触れ合う色つまり形あるものの世界。最上部の円形壇は仏のいる無色界である。


4つ星のホテルのアマンジヲで、ボロブドウ―ルを眺望しながら、朝食をとる。古代遺跡を模倣したかなり豪華な石造りで、トイレにはいっても落ち着かない。

ジャワのもう一つの世界遺産であるプランバナンに行く。これはボロブドウ―ルが建てられてから、100年くらい後に、ジャワ南方ではイスラム教が強くなり、ヒンズー寺院として建立されたものである。

47mのシバ聖殿を中心に、炎が燃えているような独特の壮観な建築である。

最も高いシバ聖堂に登ったが、古代インド叙事詩のモチーフが壁にぎっしりと彫り刻まれている上部の暗い部屋に、有名なシバ神の妃であるドウルガー像が立っており、フラッシュを焚き、ようやくその姿を捉えた。

成田空港は、寒いながらも突き抜けるような青空であった。清々しい冷気を胸いっぱい吸いながら、旅の終わりは、軽い虚脱感に襲われる。

④ ミャンマー  ――2014年11月20日~25日
四三の会有志で、3年前から、韓国、タイ、インドネシアと旅を続け、これまで現地に駐在した者が同行し活気あるものだった。
しかし、今回は、国交が開かれ民主化間もない神秘の国ミャンマーであり、メンバーはYN君と私のみになった。私は三大仏教世界遺産のうちアンコールワットとボロブドールを廻っており、どうしてもミャンマーのバガンに行きたかった。

羽田空港を予定通り発ち、現地時間、17時にヤンゴンに着く。

夕食は、YKKOという、麺料理での専門店で、多くのチェーンストアを持つ有名店である。まずミャンマービールを飲むが、なかなかあっさりと呑み易く南国に合せた味で、タイのシンハービール並に美味しい。昨年のインドネシアのビンタンビールには、高いだけで辟易したが、この店内では180円と安い。

南東アジアは、料理に比べ、ビールは高く、ミャンマーは信仰厚い仏教徒が多いのでビールの消費は少ないと聞いていたが、以外である。料理はやはり、片っ端から油で揚げた、いや油に包まれたものばかりであるが、なかなか美味しい。この油料理がミャンマー料理の特徴であるが、つい食べ過ぎるとお腹をこわしてしまう。

主食の、モヒンガー(米粉麺)に豊富な海鮮物を載せたこの店特有の麺であり、スープになまずを使っている。

魚、海老、蟹に味が浸み渡っており、好みによりナンプラ(魚油)、超劇辛唐辛子などを混ぜると、更に味が生き返ってくる。”モ”は、米粉の麺を意味して、カウソエは小麦粉の麺、つまり日本のラーメンであるが、ミャンマーでは、圧倒的に冷麺をソーメン状にした”モ”が好まれるという。
ともかくも有名店で、ミャンマーの麺文化を満喫できた晩餐であった。

翌朝5時半に起き、ヤンゴンからバガンに1時間の飛行であり、着陸の際、現存する2700以上のパゴダが機上から見え、圧巻であった。
この乱立するバゴダを目の当たりにして、 「ついに世界三大仏教遺跡、最後の地バガンに到達した」 喜びに包まれる。

シュエジーゴンパゴダに行く。思わず息を呑むほどであった。原色に近い青空に、基盤は黄金色に塗られ、仏塔は金箔に包まれ、降り注ぐ強烈な日差しをものともせず、すさまじく照り返していた。

11世紀に、バガン王朝の初代アノーヤタ王が、勝利を記念して着工し、30年もかけてこの寺院を建立した。バガン王朝は、部族間で争いを続けていたミャンマーで、初めて国として統一を果たしていた。

テイローミンロー寺院は、昨年訪れたインドネシアのヒンズー教の寺院に似た建築物である。
13世紀に、5人の息子から王を継承させる者を選ぶときに、王が、傘の倒れた方向に座った息子を選んだ。そして、王位を継承した息子が、そのことにちなんで、傘(テイローミンロー)の寺院を建てたとの史実である。

アーナンダ寺院は、63mの大きな本堂と50mの尖塔が見事なバランスを醸し出し、バガンを代表する美しい寺院である。残念ながら漆喰を修理中で、うまく撮れなかったが。本堂には、立ち姿の4体の仏が四方を向いて、安置されている。ミャンマーのどこの寺院も東西南北に配置されていると言う。



バガンの都は、城壁で囲まれており、外濠もあり、幾多の戦火から守られてきたとのことである。門は四方に4つ設けられ、タラバー門だけが現存している。バガン王朝が国を統一する以前の9世紀に城壁は築かれた。


バガン王朝は、イラワジ川に沿って発展した。その後はマンダレー、ヤンゴンもこの川を利している。ひっそりと流れを感じさせない大河である。

その河畔にある草の葉っぱで屋根を造った、吹き抜けの、品のいいレストランで昼食をとる。料理は。定番の3品のカレー風油煮が出た。カレーと言っても、一切辛くなく、外見だけがカレーのようにドロドロしている。
食材は、チキンとジャガイモ、マナガツオ、野菜の組み合わせが多い。毎食同様のメニューであっても、スパイスは少ないがそれぞれ味に工夫があり飽きない。

マヌーハ寺院に行く。モン族タトウン国のマヌーハ王が、バガン初代国王に敗れ、囚われの身となり、この地に連行された。捕虜の身ながら、もとは部族の王であり、この寺院を建てる許可を初代国王に願い出て、許可され建立したものである。

バガン初代国王は、寺院を許可したうえ、捕虜となった元部族の王様の名を寺院に冠し、弾圧を皮肉るような仏さまの設計を許すなど、かなり寛容な人物と思われる。己の心情を物語るように壁一杯の寝仏など窮屈そうなものが多い。

日没の時間が迫ってきたので、本日見学予定のダマヤンジー寺院を明日の延ばし、急遽夕陽を眺めるスポットであるシェサンドー寺院に向かう。高さ50mであり、登れる数少ないパゴダであり、既に観光客が群がっていた。

いよいよ、1000年前に建てられた数々のパゴダの背後に、夕陽が沈んでいく。
つい先ほどまでは、原色の真っ青な空に白燃化していた太陽が、オレンジ色の火の玉になり、天空にパノラマ状の夕映えを、グラヂュエーションに急速に広げていく。

釣瓶落としのような、あっというまの没し方であるが、天空全体が夕映えに染まり、パゴダが黒いシルエットに化していく。形容しがたい大自然と1000年前の仏教遺跡が織りなす壮厳で、幻想的なコラボレーションである。欧米人が、一斉に夕陽に向かって拍手していた。

そして、虚しくも黄昏が始まり、夕映えは蒼い色に圧され、更にそれは群青色となり、やがて漆黒の闇となっていく。あまりに非日常的な感動する光景に 「ここまできた甲斐があった。生きていて良かった」 との思いである。

ナンダで操り人形を見ながら晩餐をとった。操り人形は、なかなか高いレベルの芸であったが、あまり面白くなかった。ホーチミンで見た水上で水面下から操る人形劇が神技とも思えるほどで、この類ではもう感動もしないだろう。
伝統料理を期待したが、やはりチキン、マナガツオ、ポテトのカレー風煮を、バナナの葉の皿で食べるものである。

翌朝9時にホテルを出る。最初に赤レンガ造りの美しい幾何学的模様のスラマニ寺院に行く。どの寺院も、窓や照明設備はなく、東西南北に安置した仏像の前を、拝顔場所として開口したところから光を採り入れており、非常に内部は薄暗い。この寺院は、フレスコ画が有名であるが、残念ながら暗がりである。しかし、素朴だが活き活きしたフレスコ画は見事である。

車の窓から、突如廃墟のような巨大な寺院が見えた。ダマヤンジー寺院は、悲しい歴史を持っており、父と長兄、関係者を暗殺し、王位継承権を得たバガン王朝5代目国王ナラトウが、贖罪のためにこの寺院を建てた。しかし、その国王が暗殺され、未完成のままであり、ガイドは幽霊が出る寺院との噂もあるという。残虐な国王は、僧侶を迫害し、妻、工夫までも処刑したとのことである。たしかに重々しくひんやりとして、この寺院で一晩寝たら、血ぬられた歴史に、魑魅魍魎の跋扈をみるような気がする。

22時10分にヤンゴンを発ち、日本時間6時15分に成田空港到着する。
寒々とした小雨降るまだ薄暗い空港であり、私の心も寒々と空虚なものであった。旅の終わりはいつもこうだ。
 

四三の会の歩み(卒業50周年を祝う会のプレから)ーーーー2/3

 投稿者:管理人  投稿日:2018年10月 1日(月)19時56分24秒
  (2) 関東支部懇親会――1997年7月 渋谷・大橋会館
私が幹事になり、NEC大橋会館で第1回懇親会を開催した。30名が参加し、プロジェクターをFT君が米沢から持ち込み、高校時代の懐かしい写真と説明に当時を想い返した。2次会はHJ君馴染みの米沢出身者の渋谷のスナックでおこなった。

それを皮切りに22年後の今年まで16回の懇親会を催している。1999年~2005年までは休止したが、私がNECの岩手の地方工場に出向しており、開催できなかったものである。

しかし、その間は、仙台在住のFK君と連携し、仙台のケヤキ並木のイルミネーションに合わせ、仙台中心の懇親会を開いた。とくに2004年12月は、秋保温泉に舞台を移し、米沢勢も駆け付け、12人で盛会になった。
関東支部懇親会は、毎回20~30人が参加し、年一回の定例化した懇親会として定着した。


(3) OB白布駅伝大会
従来から母校のOB白布駅伝は行われていたが、これに参加しようと発案し推進したのは、KA君である。もう56歳であり、急な舟坂峠の山道を含む17kmのコースで競争することには誰もが尻込みした。しかし、KA君は、強引に仲間を募って推し進め、チームと単独走のOSさんが出場することになった。
前日は、HJ君の大舟の別荘で芋煮会を行い、泊まり込み気勢をあげた。

当日、追いつ追われつの激戦となり、なんと2位に13メートルの僅差の2時間25分で優勝を勝ち取った。単独走もOSさんが優勝である。彼女は、ボストンマラソン50歳代世界3位、フルマラソンはサブスリー(3時間未満)の記録の持ち主である。

IT監督の勝つことへの執念は、すさまじかった。発起人のKA君の走法は、長距離をゆっくりとジョギングするものであり、スピードが全然上がらない。容赦なくIT監督は「代われ」と交代させた一幕もあった。

翌年、雪辱に燃えるKA君は、果敢に17kmの単独走に挑んだ。スピードはないが、コツコツと練習量をかなり積んできたらしい。
チームが昨年記録を6分短縮するぶっちぎりの優勝となり、KA君をゴールで待ち構えた。“暴挙じゃないか、倒れているんじゃねーのか”など懸念する声が上がる

“Kがきたぞ~”と誰かが大声を上げた。なんと記録はOSさんの昨年レコードに8分遅れでゴールした。素晴らしい記録であると同時に、我々団塊の世代に新しい可能性を示唆してくれた。時の流れに抗ったのである。この年でこのような快挙に遭遇し、柄にもなく感動した。
四三の会は、初出場の2005年から2010年(61歳)まで前人未踏の6連覇を達成したのである。

(4) 芋煮会
1994年の本部懇親会の2次会で、芋煮会の企画が持ち上がった。1996年9月に大舟の人里離れたHJ君の茅葺の別荘を根城に、泊まり込みながら、芋煮会を行った。
それ以来、この江戸時代の重厚な茅葺屋敷が好評で、9回の芋煮会を行っている。

深々とした秋に包まれ、分厚い緑に包まれた樹林も明るい空間を持ち始めた。芋煮鍋に入れるため、数十年ぶりに茸狩りを楽しんだ。心地よい疲れとともにHJ邸に戻ると、芋煮の準備中であり、早速収穫した茸も放り込む。新鮮な岩魚も大量に差し入れがあり、串塩焼きにする。

まだ初秋の陽が高いうちから宴会がはじまり、夜のとばりが落ちるまでに延々と続く。とりとめもなく高校時代のエピソードなどを語り、おおいに湧く。

2006年9月の芋煮会は、翌日のOB白布駅伝を控え、30人も集結した。このときは、近所のマタギから熊の肉の差し入れがあった。翌日の熊汁は固く脂っこいというイメージを一転させ、料理酒できっちりとアク抜きされ、ネギ、大根を入れ、しっとりとコクがあり非常に美味しいものであった。このとき、初めてイワナの骨酒を飲んだ。イワナを食べた後、その骨とヒレをあぶり、熱燗の日本酒に浸すだけで、とても香ばしくコクのあるこれまで口にしたことのない味わいとなった。

秋になると、里の茅葺屋敷で立ち上る芋煮の煙が思い出される。

2 イベント

(1) 奈良修楽旅行――2001年10月6~8日
誰しもが青春の貴重な想い出になる修学旅行が、我々の高校では廃止されていた。いまさらながらだが、誰かが「四三の会で修学旅行に行こう」と言い出しその輪が広がっていった。そして、33年振りに2泊3日で27名が参加する“奈良修楽旅行”が実現した。
下記の思いがあった。

「あの白燃化した陽光も、初秋の艶のない澄み切った光に変わり、石舞台と私たちに注いでいた。いま、人生の収穫期“林住”である秋に、私たちも入り始めた。収穫の形態はさまざまあろうが、この節目に憩い、癒され、また新たな出発を目指そう」

行きの新幹線から、高校時代のもう鈍色の想い出であろうか、ポツリポツリ話し込むうちに、あの日あの時、ひたむきに孤高に生きた青春が甦ってくる。米沢勢も合流し、ついに宴会モードとなり、6号車に不思議な喧騒な空間が出来上がっていた。

奈良に到着するとすぐに、710年の平安遷都とともに 藤原不比等により建立された興福寺を廻る。阿修羅像は憤怒の鬼神であるが、眉をひそめりりしく、思慮深そうにも見える

次に、定番の東大寺大仏に向かう。聖武天皇が発願して752年に開眼供養し、盧舎那仏像であり無限の空間と時間を表す。その圧倒する姿と慈眼に、煩悩も失せ慄然としながらも安らぎを得る。遷都710年から74年にわたる天平文化の息吹を感じ、平城京20万人の盛都が偲ばれた。

他にも名刹を廻り、宿に行く前に奈良公園を散策し、黄昏迫る奈良のもつ静けさ、優しさに溶け込む。鹿と戯れるのは何年振りであろうか。

第一日目の圧巻は食事後のカラオケ会場だった。昼は高潔に微笑むドクターK、夜は踊る月光仮面となり、突然の大乱舞に、唖然とし、そして湧いた。コップ2ヶが破損。

1日目にして10年来の付き合いの様相。中途半端な校風で修学旅行もない無味乾燥な高校生活だったが一人ひとりが必死に生き方を模索し、団塊の世代として修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。すっかり意気投合し和気あいあいで、宿に戻っても酒盛りは続く。

2日目、法隆寺金堂 五重塔を廻る。 607年聖徳太子が造営し、世界最古の木造建築である。斑鳩の里に塔や伽藍が映える光景が損なわれていたのは残念だった。

飛鳥寺は、596年に蘇我馬子が創建した最古の寺院で、深閑なお堂で凛とした声で説明する老僧が印象深かった。法隆寺をしのぐ壮大な昔の伽藍配置であり隆盛を誇ったとか
室生寺は幽玄なる渓谷の山寺である。室生寺の石段は聞きしに勝る勾配と長さであり、登りきった満足度も一入である。女性は全員完歩し、男性6名脱落して途中で喫煙し始めた。

疲れも見せずに宴会第二夜は、2日連続で同じカラオケ屋に繰り出し、前日以上の盛り上がりであった。前日K君が踊り狂い破損したコップの破片が残っていた。そして、ラーメン食って、また酒盛りで2日間で7時間は寝ただろうか。

3日目は、薬師寺から廻る。南都七大寺隋一の華やかな寺であり、七彩の寺を取り戻しつつある。金堂、西塔、中門そして大講堂を、K君の親戚である住職自らがご説明していただいた。玄装三蔵の17年かけた偉業、そして国宝である美しい裳階の三重東塔の内部にはいり、構造説明を受け講話も頂戴した。

卒業三十三年後実現したこの叶わぬはずの修学旅行は、数々の想い出を残してくれた。

(2) 那須高原温泉の旅――2003年8月2~3日
四三の会は、高校同窓会で最高幹事学年となり、とりしきることになり、米沢と東京の中間地点となる那須高原温泉で四三の会を開くことにした。

長く湿潤な梅雨空がようやくきれて、爽快な陽が射し始めたその日、卒業以来の懐かしいメンバーも含めて四十三名も集まった。仕事の触れ合いもなく数年経ても、不思議に親近感がある。宿へのバスの中でまず銀河ビールで乾杯、温泉にどっぷり浸かり、いっきに宴会で和気あいあいになる。

3名の先生方から含蓄ある挨拶をいただき、AS君が米沢織,SM君がセゾンファクトリーの素材を活かしたジャムを贈呈してくれた。
2次会ではI氏が持ち込んだプロジェクターとPCで奈良旅行と本日の宴会模様を映し出した。

夜半こんもりした木々の葉を打つ雨音に心地よい眠りに入る。翌日は南ヶ丘牧場で自然を満喫し三々五々に帰っていった。
 

四三の会の歩み(卒業50周年を祝う会のプレから)ーーーー1/3

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 9月28日(金)20時06分15秒
  空手道部の先輩が、国立新美術館で10月1日まで行われている新制作展に入選している。(下写真)
主催の新制作協会は、自由と純粋さを標榜し82年の歴史があり、他の団体と比較し、厳選され権威のある展示会である。先輩は、12回も入選している。

早速、21日に出向くと、先輩は受付で待ち受けてくれた。
絵画は、300号の巨大なもので、題名は“巣 冷蔵”である。モチーフが、さっぱりわからないで眺めていると、協会の松木会員という眼力の高そうな方が、先輩に話しかけてきた。 「最近は新制作らしさが少なくなってきたが、今年は2点非常に良い作品があった。冷蔵庫の発想は素晴らしい」と褒めていた。

先輩から、「問題提起のテーマだ、北海道の震災を考えてみろ」と説明され、ようやくなんとなくモチーフが浮かび上がってきた。何気なく赤色が見えたので質問すると、下地に補色を使ったものだと言われ、その下地効果が微妙なグラデーションを醸し出している。昨年は、“巣 領域Ⅱ”1昨年は“巣 領域”で入選しており、コンセプトは一環していた。 更に、展示場全体にわたり、絵画、彫刻、そしてスペースデザインを案内していただいた。

会場の片隅の喫茶店で、絵に対する取り組みを伺ったところ、幼くして雑誌などに掲載され、己の画才に目覚め、また好きであったという。しかし、工学部を専攻し、企業生活では、崩壊前のソ連、戦争直前のイラクのバスラ駐在など過酷な体験をしていたが、絵心は捨てられず、通信で美術大学を短大から編入し6年かけて卒業している。
家業の為に企業を早めに退職し、十分な自由になる時間ができ、花が開いたと思われた。
芸術の秋を充分に満喫した1日であった。

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今月の中旬は、1週間ほど故郷周りをウロウロし、飲んだくれていた。
15日は、高校同窓会・総会に参加した。翌日の四三の会の催しのついでに、久しぶりに高校全体の同窓会に出席したものである。今年の暑さは異常であり、残暑も執念深く居座り、駅に降り立っても関東と変わらず、この時期は朝夕冷え込むはずであったが、これも日中の気温からあまり下がらず、肌寒さを感じない故郷に違和感を持つ。

同年生は、12名参加したが(下写真)、卒業後よく顔を合せている連中で懐かしさはない。今年のテーマは”さらば平成 新しい時代に向けて KOJO”である。”新しい時代に向けて”という言葉は、団塊世代は“終わった人”であり耳障りだが、さらば平成と言う言葉には、既に昭和も終えており、2つの時代が終わろうとしていることに、卒業50周年を迎える明日の四三の会のイベントにむけて感慨深いものがある。総会は滞りなく終わり、その後の、二次会で各人の晩年の生き様に触れ、興味深く楽しいひとときであった。

翌日は、四三の会のその大イベントである。
古希を迎えての四三の会全体の記念式典と思ったが、古希(古来稀なり)の年寄りめいた響きが嫌われたのか、”卒業59周年を祝う会”と称されていた。
59名も参加している。9年前に還暦を祝い”あら還”の行事を行い66名の参加であり、古希を迎えた我々の世代としては大健闘の人数である。

HM先生とUT先生の薫陶あるお話で始まった。我々の青春時代の学生生活に立ち戻っての話であり、懐かしくもあり面白かった。

私は、”四三の会の歩み”と題しての、パワーポイント使ってプレゼンテーションを行った。31年前の四三の会発足、恒例行事、イベントの3つにわたり、写真を中心に説明した。終わったあと、何人かに褒められ好評だったと思う。
親父バンドの演奏、各クラスの代表スピーチなどが続き、2時間半があっというまに過ぎてしまった。

幾人かの卒業以来のメンバーに会い、当初は青春時代のイメージと結びつかない戸惑いが、話しているうちに人柄を思い出し、イメージが重なってくるのは、不思議なものである。
88名から近況連絡があり、59名が参加しており、まだ在校時代の半数から音信があるのは、これからも続く四三の会の活動に心強いものがある。

私の“43も会の歩み”のプレゼンテーションは好評であり、貴重な記録で良くまとまっているとのことで、手元の資料を加えて今日から3回にわたり紹介していく。

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【43の会の歩み】

1 発足(下写真)

昭和43年に高校を卒業した集いであり、“四三の会”と命名し、1968年6月、37歳のときに発足された。4人の恩師にご臨席いただき、19人の仲間が出席している。

2 恒例行事(下写真)

(1) 本部懇親会
① 第一回――1994年9月、米沢サンルート
四三の会は発足したが、8年間何も活動しないままにうち過ぎた。
記録的な猛暑を連れ去る風がようやく吹き抜けた頃で、燃え盛った人生の頃合とみたか、45歳のときに、米沢事務局のFT君が八面六臂の働きで東奔西走して各人の消息を調べ上げ、四三の会の名簿を完成させた。この名簿が、それからの活性化した活動の原点であり礎になった。

卒業以来27年ぶりの懇親会には、同学年生数の30%近い91名が参加した。実に懐かしい顔ぶれであり、受付後に控え室に入ろうとすると気品のあるロータリークラブのような面々に出くわし”失礼、部屋を間違えました”と戻るがやはり間違いではなかった。会った瞬間にわからずとも、会話を重ねるうちに当時のイメージが湧き繋がってきたものである。本会を契機に、個人の交流も高まり同窓会が活気付いていく。

② 第2回――2006年4月、米沢サンルート
関東支部が立ち上がり、種々のイベントも行われたが、本部懇親会は、実に8年ぶりとなる。
これまで秋保温泉、奈良、那須高原など恩師のご参加も得て遊びまわっており、時の経過を感じなかった。この年は6月に関東支部同窓会、9月に白布駅伝、伝国の杜コンサートが行われ、いよいよ本格展開といった感じである。

22日は穏やかに薄く春霞がたなびき武蔵浦和からは富士山も眺望できたが、米沢は桜が固いツボミで冷え冷えとして、2日前にはみぞれが降ったとのことである。
同窓会は、35名が参加しFT君の進行でK先生とHK先生からの挨拶で始まった。K先生は御年80歳である。八名信夫(悪役商会)のような凄みがでていた。普通に話してもごしゃかれているような錯覚に陥る。

事務局が事前にお渡しした第一回からの同窓会の経過を克明にボロボロに紙が千切れるほど読んできた、しかし、「今日皆さんが立派になっており誰が誰かわからないが、関東町の古い校舎を思い出し、皆さんと語らいながら思いかえしたい」というご挨拶を頂戴した。

HK先生は、例の頭脳明晰なややシニカルな口調で、鮮明な記憶をもとに那須旅行、仙台地区同窓会への参加を述べるが、いちいち話しているのが面倒になりいっきに総括した。その後、4年前の70歳前後での英語教育、3年間のブランクを持ちながらも九里、母校、米商での取り組みについて正確にお話しするが面倒になり、これもいっきに総括。H 節は健在であった。

久しく参加していない方々から挨拶もあり、参加人数は減少したが、懇親が深まった。
 12時に同窓会が始まったが、蕎麦屋で2次会、韓国料理で3次会と7時間も呑み通した。

③ 第三回――2008年7月12日 米沢第一ホテル
相次いでお亡くなりにあった4人の先生を偲び、また還暦の同年会に向けての親睦と結束の集いが米沢で開催された。

同窓会会場への途上、重ねた齢とともに故郷の馴染みのある公園で、五十九回目の夏を感じていた。この歳月は、あの木製の太鼓橋を、鮮明な赤いなだらかな曲線のコンクリートに変えていた。つゆの湿潤さと夏の峻烈な光が交錯する日であり、五時半になっても群青色の夕闇は訪れようせず、雨雲を浮かべながらも陽の光は衰えようとはしていない。濃い緑色いきれの中に身を包まれながら、青春時代の鈍色の想い出を追ってみた。

既に21名の方が逝去されたが、今年は関東、米沢地区でそれぞれ30名近い参画で、卒業時の20%程度の者が顔を合わせている。

 会場には、久方ぶりの顔合せも増えて、明るい笑顔で話が弾む。
AO先生が初登場だったが、当初は同窓生か先生かの判別もつかず、先生は若作りで同窓生には貫禄を増してきた者も多い。見かけ上10年程度の歳のバラつきが、出てきただろうか。AO先生は、熱っぽく生物学の大家らしく、ミトコンドリアについて語ってくれた。
ミトコンドリアは、細胞内でエネルギーをつくっているもので、核DNAが両親一対で引き継がれるが、母性遺伝によるものとか。ミトコンドリアは運動能力にも長寿にも大きく影響するという。異様なまでの情熱を帯びて語られたミトコンドリアの内容に魅かれ、
生物学という無味乾燥な分野も、このような切り口から入れば、興味を持てるのであろう。
 

人生末期小説を読んで

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 8月21日(火)11時36分43秒
  例年にない猛暑だったが、大学OB月例稽古と暑気払いが敢行された。
OB月例稽古は、恒例ではお盆休みであったが、幹事のやる気で急遽開催されたものである。
沼津からわざわざ私の次の主将を務めたOT師範が、駆けつけてくれた。今年3度目の参加である。夕方には、自分の道場の指導があり、午後の暑気払いに参加できず、トンボがえりであった。
10ヵ月ぶりに20代のK君も参加してくれた。前回は、T君と激しい自由組手を演じており、いまも町田の和道流道場に通っているという。

練習は、まずピンアンの中で、重要だという初段と四段の形を行う。(下写真)一つひとつの技の意味するところの丁寧な説明を受け、更にナイハンチの練習を行った。大塚最高師範が編み出した和道流独自の基本組手の一本目も行う。

攻撃は、上段突っ込み突きが浅い、受けは体裁きでの流しと縦セイシャンからの右回りの転位の極めの注意を何度も受けた。相手の防御の手の位置により、咄嗟に水月か丹田かの急所を打つとの指導もあった。基本組手は、約束組手とも呼ばれるように、決まった手順であるが、このような応用問題の訓練があった。
基本組手は、柔術から取り入れた転位、転体、転技が深く織り込まれていることを改めて感じた次第である。

午後からは、暑気払いである。新幹事になり早速3つの新しい試みが 為された。
恒例では9月であるが、今年は8月に月例稽古が設けられ、その後に暑気払いとなった。2つ目は、2次会との併合で、最初からカラオケ店を予約し完全個室で移動の必要はなく、低コストである。3つ目は、そこは本格的な韓国料理を提供する店であった。

目論見は的中したが、折からの猛暑だけは想定外であった。エアコンはフル回転でも効かず、更に焼肉の熱で暑かったが、流石に強者ぞろいで、逆に水代わりで酒量は増えていた。飲み放題も的を得た企画であった。

S会長より、飛鳥前師範からの和道会総本部副会長のご就任祝いに対する返礼のお手紙の紹介があり、回覧された。

最後に若手?のK君が、「3年上の(奴隷、平民、天皇)神様だったKM君の時代を思い返してみたが、大学の空手部は70年の歴史を持っている。その長い歴史の中に先輩たちがおり、ここに集まっておられる」との挨拶は、なかなか感慨深いものがあった。
関東支部は発足して20周年を迎えるが、そのときの会長のO先輩も一際豪快で健在でいらっしゃる。(下写真)

ところで、今月はちょっと意外な本を読み、たちまち惹き込まれた。
私も死と対峙する年代となり、小池真理子著“沈黙の人”を読んだ。筆者の父親をモデルとしており、76歳頃からパーキンソン病を発症し、だんだんコミュニケーション力を失い、亡くなっていく過程と、死後に全くわからなかった家庭生活と別の一面が明らかにされていく。

そして引き続き今年3月に発刊された“死の島”を読んだ。私と同じ69歳の男が、プライド高く生きてきたが、腎臓がんで余命を知って、生き方よりもどのような死に方をするかを希求していくものである。
今日は、小池真理子著書へのこれまでの私の読書歴、“沈黙の人”、“”死の島“の感想を述べる。

1.小池真理子著書の私の読書歴――2つのジャンルと思っていたが

いまから41年前、25歳で“知的悪女のすすめ”というエッセイ集で文壇にデビューし、いきなりベストセラーになった。私は、男社会に挑む女性像とタイトルに似つかわしくない可愛い作家程度の記憶しかなかった。

その後、36歳のときに発刊した“墓地を見おろす家”に衝撃を受けた。
西洋風な日本で初めての本格的幻想怪奇小説と思った。おどろおどろしい日本の霊と異なり、得体のしれない恐怖であり戦慄のモダンホラーと評されている。
その不気味な持ち味は、“水無月の墓”でもおおいに発揮され、その後次々と幻想怪奇小説が発刊された。

そしてもう一つのジャンルは、恋愛小説である。43歳のときに“恋”で直木賞を受賞する。どろどろした人間関係と倒錯した愛、その狭間で揺れ動く機微が鋭く描かれている。

“無伴奏”では、仙台の女子高校生が、1969年に当時の学生運動を背景に制服廃止委員会を立ち上げる。彼女の感性と情熱はすさまじく、倒錯した愛を持つ大学生2人と複雑な関係に陥っていく。

このモデルは、小池真理子女史自身である。彼女は、仙台の第三女子高に通学し、実際に制服廃止委員会を立ち上げ、デモにも参加していたらしい。大学入試で落ちて予備校に通うことまでそっくりである。仙台では、男子は一高、二高、三高、女性は一女、二女、三女の序列であり、彼女はあまり勉強が得意でなかったと思われる。

“望みは何かと訊かれたら”も学生運動を背景とし、赤軍派のような過激派集団にはいる女子大生がモデルであり、これも小池真理子女史自身の学生運動の疑似体験に基づき、過激に創造されて描かれていた。

カルト的集団から脱走した女子大生は学生運動で挫折した男に半年間囲まれ愛を深める。そして女子大生は何事もなかったように上流階級の奥様になったが、かくまってくれた男と三十数年ぶりに運命の再会をする。

私は、幻想怪奇と恋愛の2つのジャンルと思っていたが、小池真理子女史は60歳近くなり、新ジャンルを展開してくれた。
私のこれまでの小池真理子女史のジャンルでは考えられなかった小説である。

この6月の音沙汰記で、五木寛之著“70歳!人と社会の老いの作法”の指摘に基づき、たしかに青春、壮年、老年期で読む本が異なる、古典は異なると書いた。
まさに、小池真理子女史も60歳近くなったので、(沈黙の人は2012年発行)若かった時代とはまったく異なるジャンルで書けたのだろう。“人生末期小説”と名付けてみた。読者のみならず、書き手も年齢に応じたジャンルがあると思う。

過去の“怪奇幻想小説”と“恋愛小説”とは一線を画した新ジャンル“人生末期小説”に出会った。

2、“沈黙の人”

(1)モデルとした父親の実像 (文芸春秋 books  2013.6.8他)
旧東北帝大法科を卒業して、昭和石油に入社し、仙台の支店長レベルまで務める。ロシア文学、ドイツ文学に傾倒し、多くの蔵書があった。短歌を詠み、朝日歌壇に投稿し、たびたび入選している。煙草は吸うが、酒が弱く、帝大出、ということを生涯の誇りにして、知性と教養に関してはまぎれもなく他者にひけをとらなかった。

76歳頃から、パーキンソン病を発症し、じわじわと蝕まれて85歳で没する。
小説のように離婚はしていないが、筆者が赤ん坊だったころ、外に女性を作り父の子を宿している。母が女性の家に出向き、お腹の子を中絶してもらい別れてもらったという。

しかし、父には常に女性の影がつきまとっていたが、そのことに対する不安、悲しみ、怒り、絶望を娘にぶつけることは決してしない母であり、家族の均衡は守られていたという。

(2)あらすじ
50代の離婚歴のある女性三國衿子が主人公であり、筆者自身である。父泰造が、介護老人ホームで4年4か月過ごし、享年85歳で逝った。

泰造は76歳頃パーキンソン病を発症し、手足が不自由になっていき、しゃべることもできず、キーボードを打てる力もなくなり、文字表の文字を震える手で指差しようやく最小限のコミュニケーションをとる。

タイトルの”沈黙の人“はそのような状態を示すものとして決められたと思う。更に、死後残されたワープロのデータから思わぬ生前の下記の幾つかの面が暴露され、生前の生き方も含めて”沈黙の人“と名付けたのかもしれない。

    ・妻への不満と批判、生前疎遠だった別れた妻の娘衿子への感謝と熱い思い
    ・死ぬ寸前までの仙台支店長時代の愛人との交流
    ・歌人としての女性の仲間との純粋な知的な文通と最後の対面

そして、段ボールひと箱に詰められた幾つかの性具とビニ本は、生前の泰造のインテリで気取った物腰から実に意外なものであった。

(3)感じ入ったこと
①人生末期を我が身とも思える実感
私の健康寿命も間近に迫ってきた。健康寿命とは、健康上の理由で日常生活が制限されることなく過ごせる年齢であり、男性は72歳である。平均寿命は81歳だから、私たちの世代もまもなく何らかの日常生活に支障がある病が発症し、9年間じわじわと体が蝕まれ重体化して、お迎えがくることが統計上言える。

泰造が76歳でパーキンソン病を発症し、不治の病と覚悟しながら9年間にわたり闘病生活を送る様子は実話であり、小池真理子女史の天才的な臨場感ある迫真の表現で如実に描かれていた。泰造と自分の身を置き換えながら、読み進んでいった。

言語の障害が起きすくみ足となり身体の自由を失う一方、思考は極めて正常であることが痛ましい。すくみ足とは、脳神経の欠陥で身体だけが傾斜してうつぶせに倒れてしまうものである。

もう杖での外出も不可能になったとき、一人で電車に乗ろうとし、電車の隙間に足を落としてしまい、引き取りに来た妻に強く叱責される。首には名前と住所、連絡先と共に「パーキンソン病患者です。字が書けないこと、言葉が不自由で声が出しづらいこと」と書いたビニールケースをかけていたという。

ついに介護ホームにはいり、ほどなくして脳梗塞を発症する。本人の残されたワープロ原文では、「寝たきりどうぜん。車椅子に座っても自力ではうごけず、声も出ずだるまのようです。なにごとも天命に従うしかないと思います。」

パーキンソン病が進行しキーボードも打てなくなったが、衿子は文字表を考え出し、震える手でようやく字を示し最小限のコミュニケーションはとれるようになった。

しかし、死の2年前から肘が震え腕を持ち上げる力すら衰えて、文字表で文字を指し示すことが困難になる。当然、テレビのリモコン操作もできず、思考だけは正常だった。

病状は更に悪化し、食物も飲み込めない状態に陥り、飲み込んでも誤嚥となり、胃ろうを勧められた。自尊心の高い泰造が同意することはないと思ったが、意外にも承諾し生きる意欲を示し、胃ろうを作った。手術はうまくいったが、脳梗塞を起こしそれが命取りになってしまった。
常に、自分自身の末期を想定しながら読んだが、実に重苦しい気持ちになった。

②歌友としての高潔な交際
知的で教養ある面を彷彿させたエピソードも、死後にワープロ原文からわかった。
朝日歌壇に泰造が46歳頃入選し、短歌を通じて知り合った小松日出子という女性と、教養溢れた文通を続け、短歌を交わし続けた。

泰造は、病床の中から、友に対し「長生きしすぎるから 難病に出会うんだと パーキンソンの われいうに 膠原病の友 力なく笑う」と詠む。この膠原病の友はまもなく召されて逝ってしまった。死の淵でのやりとりに日出子はいたく感動する。

そして泰造の死の前に、その女性が夫を伴い、初めて泰造の介護ホームを訪れて、詠んだ秀逸な短歌がある。生前唯一の面会だった。
「ひとたびも君のみ声を聞けぬままに言語障害すすむは哀し」

衿子は、その女性を訪れ、父の最後と生前の交流のお礼を述べ、その高潔な優しい人格に触れる。

③性愛を保ち続ける
これは、輝かしい学歴や高い教養、知性を備えた泰造とは異なる深淵な穴をのぞいたような出来事である。

仙台支店長時代に、行きつけの飲み屋の鶴見ちえ子と愛人関係を続けていた。結婚して二人の娘がいる凡庸などこにでもいる会社員でない別の男の姿があった。単なる浮気ではなく、妻は疎い存在となり、ちえ子とお互いにひたむきな心を寄せ合っていた。

ホームに入る前年、衰弱した体で、三日間行方をくらまし、ちえ子に会いに行った。「待っていてくれ、何があっても、這ってでも、必ずきみに会いに行く」と。

衰えて死にかけている虫のように、這いつくばるかのごとく、駅構内を進み、ほとんど動かなくなった指を使って切符を買い求め、決死の思いで仙台のちえ子の部屋まで行ったのだ。

妻は、行方を詰問したが、頑としてしらを切り、答えなかった。妻は、病気を利用して答えぬとひどくなじったが、それきりだった。

そして、死後介護ホームの父の部屋から段ボールひと箱の幾つかの性具、ビニ本などが見つかり、一同は教養深い気取り屋の泰造から想像できず、驚愕する。

筆者は、下記のように述べている。
「あれほど気取って生きていた父。文学好きで、自らも文章を書き綴ることを愛していた父。ロマンティストな学者肌だった父。時に家族の前で朗々と漢詩を詠みあげ、短歌を作っては投稿し、気の合う人間との文通をこまめに続けた父がと驚く一方、最後まで性愛の灯、エロスに向かおうとする力が消えずに残されていたことに、心底、救われる思いがした」と述べている。

肉体を鍛えた体育会の男の残滓ならわかるが、文学ぶくれの泰造にこのような情熱が残っていたことが信じられないが、私の父も亡くなる前に異常な気力、体力を発揮したことがあった。

亡くなる1年前であろうか、父は殆どベッドに臥せ、廊下を杖をついて歩くのが精一杯であった。肺気腫を起こし、食事も満足に摂れず、大好きな煙草さえもやめていた。

酒も医者から止められていたが、酒にだけは異常なる執念を見せた。雪の日に、小銭をもって向かいの商店の自動販売機に、杖をつき、転び、這いつくばいながらたどり着き購入したのを、孫が2階から観て感心していたのだ。

その後、病状は更に悪化し、奥の部屋のベッドにほぼ寝たきりになった。ある晩、茶の間に座っていた母が、異様な気配で廊下の方を見ると、障子越しに人影がスーッと動いていくという。後を追って行くと、寝たきりの父が起きて、台所の冷蔵庫の冷酒を飲んでいたらしい。医者も驚いた執念であった。

3 “死の島”を読んで

(1) あらすじ
69歳の主人公、澤登志男は、出版社で文芸編集者として勤務し、定年を迎えたあとはカルチャースクールで小説の書き方を教えていた。

49歳のときに女性問題が続き、妻以外の女との関係を結婚生活に必要としてきた彼の“獣性”を、妻からなじられ離婚されて、娘も憎しみを持って会おうとせず、文字通り独り暮らしを続けている。

そして、ステージⅣの腎臓がんに侵され、骨にも移転しており余命いくばくもないことを知る。カルチャースクールを辞め自宅に引きこもった後、かつての恋人、三枝貴美子の妹から電話があり、「先月、姉が亡くなりました。63歳。……がんでした」と告げられる。

貴美子は、生涯独身で末期がんだったが、在宅のまま尊厳死を選んだ。最後が近づいたときに、点滴も経管栄養も行わず、延命の措置を一切やめた。

妹は、貴美子の遺品整理をしていたときに、「自分が死んだら、澤登志男さんに渡してほしい」という一冊の本があった。

“ベックリーン 死の島”と題した絵の解説書だった。島に向かう一艘の小舟みは、あたかも神から授けられた最後の月明かりのように、静かでゆるぎない。落ち着いた光が差し込んでいる。その光によって照らし出された棺には、白装束姿の人物の影がやわらかく落ちている。(下写真)

澤は、“死の島”に己の姿を重ね合わせ、身体のあちこちに不調を覚え、人生の終幕について準備を始めたとき、カルチャースクールの教え子で、26歳の宮島樹里が現れた。

樹里は、自らの家庭内の辛い体験を基にした『抹殺』という小説に書き、辛口の澤に褒められ慕っており、澤の力になりたいと申し出る。澤は全身の力を絞り出し、スターバックスで樹里に会い、久々に会話をたのしむ。

刻々と腎臓がんは骨から肺を蝕み、樹里との会話もきつくなるが、樹里は気遣いながらマンションに出入りするようになる。澤と樹里の会話は、彩を失った孤独な男の空間をつかの間癒してくれた。

澤は、死んだ恋人貴美子のように、抗がん剤や放射線治療を受けず、痛みを和らげる鎮痛剤のみで死を待つ。ついに尊厳死として自ら命を絶つ用意をする。

離婚の際に得た佐久の別荘に身辺を整理して向かった。樹里には、「おれが死んだら、おれのこと書け。小説にするんだ」と言い残した。

佐久の別荘で、点滴の在宅医療で点滴を受け、その点滴装置のコックを外し、2リットル以上の血を排出し、“脱血死”として自殺する予定であった。しかし、末期がんにも関わらず、まだ通院できるので、在宅治療を断られ、練りに練った目論みは失敗する。

しかし、雪景色に見とれ凍てつくベランダに佇み、睡眠導入剤とウイスキーを飲み、ペチカの前で転寝して肺炎寸前となる。駆けつけた医師は、点滴を施し、ようやく澤は“壮厳な死”を決行できた。貴美子の残した”死の島“に行くのだろうか。

(2) 感じ入ったこと
① 絵画“死の島”は末期に安らぎ
ベックリーンの描いた“死の島”は、この物語のあちこちを支配している。不吉な絵に思われるが、澤は「怖いタイトルだけど、静かで気持ちが穏やかになる」と感じる。先に亡くなった貴美子も、死が近づいていく中で尊厳死を決意しながら、慰められていったとのことである。

厳かな静寂な死であり、死を自分で選ぶという尊厳死する者には、なぜかぎりない安らぎを与えるのだろうか。

この絵を調べてみたところ、ギリシャ神話に基づいており、櫂を持ち襤褸をまとったカーロンがこぎ手となり、死者の魂を彼岸へと案内する。水はつまりステュクス、あるいはアケローン川であり、白で覆われた棺は死後の世界に連れて行かれ亡くなったばかりの人間の亡霊となる
渡し賃は1オボロス(ギリシャ通貨)とされ、古代ギリシアでは死者の口の中に1オボロス銅貨を含ませたという。

日本の冥途の旅の三途の川を渡るイメージだろうか。日本では渡し賃は。6文銭であり、現在使われていない貨幣であり、代わりに紙に6文銭を印刷して、棺に入れている。

結局、此岸(現世)から彼岸(あの世)に渡れば、また別世界があり永遠の魂が存在していくという宗教観で、眼前に迫る死に対し、癒され安らぎを得ているのだろう。

② 人生末期は難しい生き方
まず主人公が私と同じ年齢であり、プライド高く、孤高になりがちであり、末期がんで助からぬとわかったときの心情は実によくわかった。主人公の、末期がんによる体調悪化がつぶさに描かれ、人生に自ら終幕を引いた尊厳死も頷ける。

ただ、“沈黙の人”泰造も、同じくプライド高く知性・教養にあふれていたが、澤とは逆に、身体が不自由極まりない状態になっても胃ろうを作り生きようとする情熱を示した。

私は、この主人公の年代にさしかかっており、いつこのような事態に陥ってもおかしくなく、我が身と思って読んでみたが、まだ、おぼろげである。もう少し人生末期小説を読んで、考えてみよう。

尚、小池真理子女史の母親の末期も壮絶であった。本人談によると、次の通りである。

【長らくの認知症に加えて、閉塞性動脈硬化症という病気で足が壊死して最初は片足を切断したんですが、2年後にはもう片方にも壊死が始まった。「こちらも切断します」と言われた時は、妹と一緒に「同意できません」って、思わず言ってしまったの。
認知症で自分の足がどうなっているのかもわからなくなっている老人の足をたとえ娘でも切ってほしいと言えなかった。結局、そっちの足を温存したまま、母は亡くなりました。末期のころは、病室に入るたびに母の足が腐っている臭いがしてましたね】 (文春オンライン2018.5.20)

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この想定外の猛暑でも、灼熱の太陽の熱波に抗うように向かい合い、黄色い原色鮮やかに咲き誇っていた向日葵も、季節が流れ、ときの流れの前に枯れかかってきた。敢然とエネルギーに満ち溢れた時代を送っても、誰しもにも訪れることだ。(下写真)
 

北朝鮮をどれほどわかっているのかーーー拉致問題から

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月27日(金)19時50分18秒
  NEC時代の同期で、富士5湖周辺と箱根の観光に行った。早朝から飛び出し、富士山に雲がかかる前に新道峠の絶景ポイントに到着しようとした。

車で、新道峠の林道の分岐点で“行き止まり”の看板を打ちすぎて更に登っていくと、林道は白線もガードレールもなくなり先細っていく。さっきの“行き止まり”の道が撮影スポットに通じる道と気づき、旋回することもできず、肝を冷やしてそのまま山道をバックした。ようやく予定通り午前8時過ぎに、車を止め、急激な坂を上り、富士山眺望の絶景ポイントに立つ。(下写真)

河口湖と富士山の組み合わせ、そして湖から広がる雄大な裾野の曲線が美しく感動した。ただ、やはり富士山は山頂に雪をいただいた方が神々しく映える。他の富士山の観光スポットは中国人らでひしめいているが、ここは人影もなかった。
眼下に見える、河口湖はすごく大きい。45歳のときに息子とフルマラソンに参加して、途中でタイムアウトとなったが、湖を2周半も廻ろうとしたのだ。若かった。

おりからのギラつく暑さであるが、箱根のスカイラインを通ると、温度が一気に下がり、視界20メートルほどの濃霧であり、やむなく一般道に降り、宿に向かう。さすがに箱根は涼しく窓を開けると、ヒグラシの蝉時雨に包まれる。露天風呂で、山歩きの汗を流し、同期と昔話を掘り起こしながら宴を続けた。

9月に四三の会全体の行事である“卒業50周年を祝う会”が、“あら還”以来9年振りに行なわれる。関東支部の意見にも耳を傾けようと、米沢から実行委員長のIT君がやってきた。関東支部の常連4名が集まり、意見交換をした。(下写真)一声かけるとサッと集まり、主賓が帰っても2次会を楽しむところがいい。

てっきり“古希を迎えて”とのお祝いと思ったが、古希の響きが年寄りじみているせいか却下されていた。周到な準備計画であり、OB白布駅伝大会も前日企画されており、楽しみである。

22日は猛暑の中、予定通りに四三の会の関東支部懇親会を催した。今年は20名の参加であり、暑さにめげず一人の欠員もでなかった。(下写真)2次会は、うだるような暑さの中トボトボ歩いて半数近くも参加し、古希を迎えて寄る年波を感じていた私は元気をもらった。

9月の“卒業50周年を祝う会”の中心的牽引役のIT君も再び故郷から懇親会に駆けつけ、詳細を説明していただいた。参加者数の目標に70名一抹の不安がある。いろいろな飲み会を通じて、この年代になるとかなりフットワークが重くなってきているのを感じていたからである。

各人が指名制で近況を述べていったが、KT君が、突如この会はずいぶん長いがいつから始めたかと質問した。私は、48歳のとき、1997年からと答えた。
答えると同時に、もう20年もやってきたのかと我ながら驚いた。第一回は、NECの大橋会館で30人が参加し、HJ君馴染みの米澤出身者の渋谷のスナックで2次会を行った。卒業後初めて会うメンバーも多かったが、しがらみや損得のない多感な時期を過ごした仲間は、時空を超えて通じ合うものだと感じ入ったものだ。

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ところで、5月にこの掲示板で安倍内閣の品格のない忖度と不祥事を糾弾したが、最近は安倍総理の拉致問題への他人事のような対応に業を煮やしている。拉致問題は、国家によるテロであり、国際的には誰もが厳しい批判をするものだ。

「トランプ大統領にしっかり提起してもらいたいとお伝えした」との安倍総理の言動は呆れ返るばかりである。その挙句、4月27日の南北首脳会談で、韓国の文在寅大統領が、日本が拉致問題の解決を求めていることを伝えると、金正恩委員長は、「韓国やアメリカなど、周りばかりが言ってきているが、なぜ日本は、直接言ってこないのか」とテロを行った国の最高指導者が平然とうそぶく。

安倍総理は、2006年就任時に、「私の内閣で拉致問題を完全解決する」と表明していたはずであり、それから為す術もなく12年の歳月が流れ、拉致被害家族者が政治利用と怒っているのももっともである。

一方、トランプ大統領は、自ら行動を起こし、拘束された米人3人解放と朝鮮戦争での55人の米兵の遺骨の取戻しを瞬く間に実現した。日本人の拉致問題とは比較にならないほどの難しい交渉であったはずである。

日本は、北朝鮮との過去の密接な歴史に疎く、相変わらず“近くて遠い国”との意識から脱し切れていない。北朝鮮を理解するために、日本とアメリカに対する憎しみの感情を、歴史的に振り返ってみる必要がある。
そして小泉総理が拉致問題を打開した経緯も着眼しなければならない。また、世界一の大国アメリカを相手に最貧国の一つ小さな国のしたたかに立ち回る最高指導者の若いときの生きざまも調べてみる必要がある。

1 朝鮮半島を分断したのは日米

(1)1910年の韓国(朝鮮半島)併合――日本が植民地化
現代の日本人にとっては、最も近い朝鮮半島が最も遠い国のようである。ここでいう韓国併合の韓国とは、現在の北朝鮮と韓国の両方を指し、南北分裂前のことである。韓国の反日感情は日本人にはよく浸透しているが、北朝鮮も同様の歴史を持っているので、我々は彼らが同様な感じ方をしていることを認識しなければならない。

朝鮮半島では1392年に李朝が建国し、1910年までに500年間以上も一つの国家単一の王朝として君臨してきた。中国、ソ連の圧力を受け、時には日本脅かされながらも、500年間の単一国体維持は、日本の室町時代3代将軍足利義満から、明治43年までに相当する。

ただ正確には、1662年に清が明を滅ぼし中国に統一王朝を築き、李朝国家の宗主国となったが、降伏して臣下になったもので、植民地支配ではなかった。
その清国による支配を日本が解放させた。日本が、日清戦争で勝利して、翌1895年に下関条約で清朝の朝鮮王朝に対する宗主権を放棄させ、李朝国家の独立を承認させたものである。

その後は、日本軍守備隊450名が、李朝国家の王宮である京福宮を占領し、親露派の閔妃を無残にも斬殺するなどの暴挙を重ね、じわじわと保護国化を図り、その外交や軍事という主権国家としての権限を奪っていった。

そして、ついに1910年に韓国併合条約が調印された。内容は、「韓国皇帝は統治権を日本皇帝に永久に譲与」、「日本国皇帝はその譲与を受託して韓国を日本国へ併合する」というものであり、保護から併合に移行し、朝鮮半島全体が日本の植民地になった。

ここで、李朝国家は消滅し、北朝鮮、韓国に対する36年間の日本の植民地政治が始まる。根深い反日感情、領土争いは、この歴史に基づいており、北朝鮮国民にも同様の感情があることを忘れてならない。

私は、2011年に王宮である京福宮を訪れ、朝鮮半島で500年間統一王朝として君臨したこの場所を、日本軍の軍靴が響き、踏みにじってきたことに想いを馳せた。(下写真)

(2)朝鮮戦争―――アメリカが北朝鮮と分断
1945年8月15日の日本の敗戦と同時に、朝鮮半島は独立した。しかし、ソ連軍が朝鮮半島の北部を占領し、南部を米軍が占領し、また新たな悲劇が始まった。
ようやく日本の長い植民地化で失っていた統治能力が芽生え、1948年9月に大韓民国(韓国)が設立され李承晩大統領が就任し、南部は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立され、金日成首相体制となった。

1950年6月に、北朝鮮が国境の38度線を越え、ソ連から供与された戦車250両で攻め込んできた。韓国軍と米軍を攻め立て、ソウルを陥落し、1950年9月にはいっきに釜山周辺のエリアだけに追い詰め、朝鮮半島軍事統一の寸前まできた。韓国が消え去り、朝鮮半島がベトナムのように共産主義に染まる寸前であった。

このとき、金日成首相は致命的な戦略ミスをした。背後を突くためにマッカサ―司令官が、仁川から260隻70万人の大軍を上陸させて挟み撃ちし、形勢を一変させたのだ。そのまま
韓国軍と米軍は北上を続け、11月には逆に平壌を占領し、北朝鮮を中国との国境近くまでに追い込んだ。

しかし、ここで、毛沢東が北朝鮮を支援することを決定し、100万人の中国の人民解放軍が参戦して再び反撃により38度線まで押し込んきた。
現在の北朝鮮と中国の深い絆はここにある。

結局、1953年7月に3年間に近い戦いの末、休戦協定に至り結局戦争前と同様な38度線に戻ったのである。実に戦死者数は、韓国軍240万人、北朝鮮292万人、米軍14万人、中国軍90万人に及んだ。

2 小泉総理の拉致問題対処

北朝鮮の経済は、皮肉にも金日成首相
の提唱した「チュチェ(主体)思想」が浸透するに従って、惨憺なる経済状況になってきた。後ろ盾のソ連の社会主義が崩壊し、中国も共産主義に市場競争原理を取り入れ共産党の態勢とは名ばかりとなった。北朝鮮は、頑なに世界趨勢で誤っていると指摘される共産主義体制を守り、経済情勢は破綻寸前になった。

2代目の金正日委員長は、2002年9月に拉致問題を梃子に、日本から5億ドルの経済協力を引き出した。小泉総理と直接会談し、初めて拉致を認め、謝罪することを引き換えにしたのである。

日朝平壌宣言には、拉致の再発防止を明記したが、根強く日本は過去の植民地支配に適切な反省と心からのお詫びも記されていた。

翌10月に拉致被害者5名は、一時帰国した。そして、小泉総理は、拉致被害者本人の意思を尊重し、北朝鮮に戻ることを拒んだので、家族が北朝鮮に取り残されるという大きな課題を背負った。
中央大法学部3年のときに新潟の海岸で拉致された蓮池薫氏は、著書“拉致と決断”の冒頭に、北朝鮮に戻ることを拒み、人質となった子供を思う複雑に揺れ動く胸中が描いていた。

それから事態は膠着したが、1年7カ月後の2004年5月に小泉総理は直々動いた。
平壌を訪問し金正日委員長と会談し、25万トンの食糧援助と1000万ドルの医療援助と引き換えに、子供達5人を引き連れて一緒に帰国した。次いで曽我ひとみさんの夫と2人の娘も帰国して、ようやく拉致被害者の人質問題は解決した。

日本政府が認定している拉致被害者は、12件計17人だが、民間団体の「特定失踪者問題調査会」は、拉致の可能性を否定できないとする特定失踪者は約700人としている。
蓮池薫氏は、拉致されて24年間過ごした北朝鮮の生活を、“拉致と決断”で生々しく克明に描いている。

日本の拉致被害者は、北朝鮮には何の害も与えない善良な一般市民がテロに遭ったようなものである。2004年の小泉総理以降は事態がピクリとも動かず、被害者の親は高齢化してきており、安倍総理にも、トランプ大統領にしっかりお伝えするにとどまらず、直接行動を起こしてもらいたいものである。

3 金正恩委員長の意外な教育履歴

この5月の音沙汰記で、安倍内閣の散々の体たらくを、彼の幼少時からの凡庸としてきた生きざまを追って解明し、自民党政権の腐敗体質を醸成したことを描いた。

拉致問題ではキーマンであり、絶対権力者の金正恩委員長の幼少時の人格形成環境を掘り下げてみる。

金正恩委員長は、27歳で最高指導者の地位につき、後見人だったナンバー2の叔父である張成沢とその多数の部下を粛清し、更に異母兄の好人物の金正男の暗殺まで行う悪行が伝えられている。

破滅的な経済情勢下にあり、暴挙を振る舞う金正恩委員長は、教養のない独裁者とみられるが、安部総理のような惰性的で凡庸な教育は受けていなく、気概をもってエリート教育を重ねたことは、あまり知られていない。

12歳から17歳まで、5年間スイスの首都ベルンに留学していたのである。ベルンでは、当初英語でのベルンインターナショナルスクールに通っていたが、1学期で辞めて、ドイツ語圏であり当然授業も日常もドイツ語で行う公立学校に転入した。

ドイツ語は苦手であったが、あえて挑戦している。大学卒業後、カリフォルニアの語学学校でわずか6講座しかとらず2年間遊学していた安倍総理とは心構えが違う。

バスケットが上手く、ゲームを組み立てていく積極的なプレーヤーと評価されている。バスケットの試合を見るために、パリとの往復600kmも車で往復するほどであった。

帰国前の校長の評価では、「すべてに一生懸命取り組む努力家だった。負けず嫌いですべてにおいて自分がよりいいポイントを取ろうと目指していて、そうできると喜んでいた」と褒めている、

欧州の学生の街には、いまだ中世の良き学問の風土を継承し面影を留めるところも多い。
2009年12月に、欧州に行き、私はそれを直に感じていた。私が観て感じ取った欧州の学生気質について述べる。

最初はドイツから入り、ハイデルベルグを訪れた。
ドイツ最古の大学を有する学生の街であり、この街は大学構内と見なされ、警察が介入できず、大学当局自身が暴れ者の学生を処罰するために設けた学生牢を見学した。鉄格子と鉄製のベッド、粗末な食事とのことで監獄と変わらなく思えたが、収監された者は、世に出て名士になったものが多いという。

つまり、度を過ぎたバンカラな学生を収容する場所で、学生は収監されることを名誉にし、壁一面に自分の似顔絵、記録などを刻み付けている。気のあった者は頬に傷つけて結束を誓い、血判を押したという。

丘には中世最大の山城があり、石畳、赤い瓦屋根の家並み、ゆったりと流れるネッカ河と石造りの橋は、中世の景観であり、学生は良き風土に恵まれて育っている。

次に、私は、ロマンチック街道を辿り、ノイシュバインシュタイン城を廻りスイスにはいった。そしてジュネーブに向かうが、途中金正恩委員長が留学していたベルンに立ち寄った。

ベルンの街は、中世のヨーロッパの面影をとどめ、世界遺産に認定されている。バラ園からの眺望は、ドイツと一味違った中世の街の風情であり格別である。鉛色の空のもと小雪が舞う公園のシーンは映画の一コマのように圧巻であった。

ベルン中心街の時計台までの目抜き通りを練り歩くが、クリスマスといえども、静かで厳粛な飾り付けが心地よかった。私は、石造りの建造物と石畳の中世を思わせる旧市街の時計台の前に立ち、タイムスリップを体感した。(下写真)

アインシュタインは、チューリッヒ連邦工科大学を卒業し、ベルンにいた3年の間に、“特殊相対性理論”を発表し、ベルン大学の講師も務めた。
学生が学び、創造力を引き出してくれる素晴らしい学び舎の環境である。

北朝鮮の金正恩委員長は、最も多感時期の5年間、このベルンの街で学んでいたのだ。な
かなか奥深い人物と心して、対話に持っていかなければならない。

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こうして歴史の蓋然性を追ってみると、総理大臣としては、狭量であり、統率力、深い思索に欠けており、拉致問題を解決することは困難と思われる。しかし、公約に近いものであり、謙虚に歴史を研究して戦略を練り一念発起して身を挺してもらうか、9月の新総理誕生を待ちたい。
 

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