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終われない人――この鬱屈感に満ちたセカンドライフ

 投稿者:管理人  投稿日:2019年 1月25日(金)19時49分30秒
  正月早々、かつての部下が次々とNECを12月末に退社し、退職祝いとは言えないシンミリしたまずい激励の酒を個別に連続して飲んだ。NECの今年度の3000人リストラでの一環で、退職に追い込まれたものである。

ときどき発する自嘲気味に乾いた笑いが、自分のこれまでの立脚地の先を追い求め、予感しているようだった。言葉には力なく、次の仕事へのビジョンも意欲も感じられず、虚ろな心境を露呈していた。

部課長クラスと言えども、経済的基盤が充分ではなく悲壮感さえ漂う。
我々の世代は、概してまだ良かった。海外で単身赴任をやれば、給料が2倍になった。今は成果主義が浸透し、同じ職位でも経営幹部職に昇ることができず、部長職に滞留すると大きな金額の差が出る。厚生年金も60歳から7割出たが、いまは65歳まで皆無である。

再就職にはNECの部課長クラスでは難航するだろう。大企業の中間管理職よりは、技能、技術を磨き資格を得た係長か平社員の方が優位である。マネジメント歴が長くても、ドメイン、組織風土が代わる次の会社でマネジメントを担うほどの力量は不足している。前途多難で思わずこちらもため息が出て、意図して良き時代の思い出話に話題を転じる。

まあまあ優秀な部下たちであり、リストラの対象になることなど想定外だったが、四方八方を塞がれて放り出された感がある。

私は図らずも2004年に、NEC東北のリストラを牽引させられた。構内外注を含めて2600人の規模を800人に減らし、それでも閉鎖より残存をと、歯を食いしばって敢行した。それが、ついに260人と縮小し、今回のリストラで3月には完全閉鎖となる。

あの駅前の広大な敷地、総合体育館が消え去っていくのだ。かつての部下から、「地元に残るためにNECの地方工場にはいったのにーー」とのメールが送られてきた。地方工場の将来を担う幹部候補生であった。NEC東北は、私が入社した昭和48年に操業を開始し、いま半世紀にわたる歴史に幕を下ろそうとしている。

このNECのリストラの凋落ぶりを、下記のようにBusiness Journalは酷評している。ちょっとセンセーショナルな論評が目立つメデイアだが、核心をついている。


【Business Journal 2018.5.15より抜粋】

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・ NECが末期状態…1万6千人削減→また3千人削減、事業売却の連続で稼ぐ事業消滅。

・ 16年4月に策定した中期経営計画を見直し、国内で従業員3000人の削減や、通信機器を製造するNECの子会社NECプラットフォームズが運営する国内9工場の統廃合を盛り込んだ。成長戦略より、人員削減に比重が置かれた計画である。

・ NECはこれまでにも半導体や携帯電話などの事業売却を繰り返してきた。だが、今回のリストラは、対象に祖業の通信事業があるところが決定的に違う。通信自由化とともに海外メーカーとの競争が激化し、安定した収益を稼げなくなった。

・ 人員削減に踏み切るのは、01年から4度目となる。01年に4000人、02年に2000人、12年には1万人削減を実施した。このときは「社内のモチベーションが低下した」と新野社長が吐露している。

・ 1万人の削減時点では「これ以上のリストラはしない」(新野社長)と否定的だったが、今回3000人の追加リストラを打ち出すのは、人を減らしても収益が改善しないためだ。リストラ頼みの経営の限界を露呈した。

・ 2000年代初頭にITバブルが崩壊した。01年3月期の売上高は5兆4097億円、営業利益は1851億円あった。その後、リストラを繰り返して規模を縮小した結果、18年3月期の売上高は2兆8444億円とほぼ半減、営業利益は638億円と、ピーク時の3分の1にとどまる。

・ かつて世界一を誇った半導体は10年に旧ルネサス テクノロジと経営統合してルネサスエレクトロニクスとなった。17年には保有株のほとんどを売却して撤退した。PC98シリーズで国内首位を走ったパソコンも、11年に中国のレノボに持ち分の大半を譲渡した。14年まで国内首位だった携帯電話は、カシオ計算機と日立製作所の共同出資会社、NECカシオモバイルコミュニケーションズに移行。16年に会社を解散した。インターネット黎明期からプロバイダー事業を展開してきたビッグローブは14年、投資ファンド・日本産業パートナーズに売り渡した。

・ 事業の切り売りはさらに続く。日産自動車との共同出資会社、オートモーティブエナジーサプライと、リチウムイオン電池の電極を製造する子会社を中国系ファンド・GSRキャピタルに売却した。家庭用小型蓄電池事業の終了も決めた。儲かる事業は見当たらない。

・新中期経営計画では売上高を20年度(21年3月期)に3兆円に戻し、海外比率を3割近くに引き上げる目標を掲げる。顔や指紋などの認証技術を生かした防犯・安全(セーフティー)事業に注力する。だが、どこに向かうのかが見えてこない。

・ リストラの果てに、NECは立ち枯れの危機に立たされている。

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先月この音沙汰記で書いた通り、農業革命、工業(産業)革命、そして“The Third Wave”
である情報革命が押し寄せており、AGFA(Apple, Google, Facebook, Amazon)などは、一躍世界の巨大企業にのし上がっている。情報通信分野は、急激な伸長をしているはずでビジネスチャンスは多く、新技術・新サービスも目白押しである。

NECは不採算事業の撤退ばかりが経営戦略として目立ち、“第3の波”に乗った“新しい弾出し”が出来ていない。組織文化が攻撃的な企画、開発力を失い、縮んで疲弊しきっている。

いみじくも、2000年に西垣元社長が高らかに1万人配置転換のリストラ開始する3年前に、関本元社長は警告していた。NECの“中興の祖”である関本元社長は、著書“このままでは生きられない”でリストラについて強く戒めていたのである。

私は、1987年に(入社14年目、主任)関本元社長とモノづくりをテーマに対談するチャンスに恵まれた。1m80cmを越す巨躯で、ほとばしるように紡ぐ言葉は語り部であり、大企業を率いる社長、CEOはこのようなオーラを放つものと感じ入り心酔したものである。その対談内容は、翌正月のNECライフに掲載され、NECグループ全員に配布された。

その後も歴代社長の出席する会議に出たが、各社長は優秀な凡人の域であり、関本元社長のような大物は出なかった。

関本元社長は55歳で社長の座に就いたが、1980年から会長退任の1998年までの18年間で1兆円未満だったNECの売上高を5兆円にまで成長させた。鋭い感性と頭脳明晰で剛腕を振るうカリスマ性に包まれていた。

その関本元社長は、2000年のNECの大リストラを予期し、3年前に著書“このままでは生きられない”でリストラについて次のように述べている。

【“このままでは生きられない”関本忠弘著から抜粋】

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“起業家精神を発揮して前向きのリストラを”――情報通信の分野にはニュービジネスの種が豊富にある。再び経済を活性化するには、これを実行するしかない。

・単に身を縮めて嵐が通り過ぎるのを待つのではなく。シュンペーターのいう「イノベーション」を起こしながらリストラを図っていくということです。

・とくに技術の進歩を活かして真に顧客が欲している製品やサービスを開発し、提供していくということです。つまり、新しい事業機会を見出し、ニュービジネスを創造していくことが重要です。

・企業がまさに「起業家精神」を奮い立たせ、新しい市場を創造していかない限り、新しい世界は見えてこないでしょう。

・ニュービジネスとは、ベンチャースピリットとセルプヘルプの精神に基づき、新しいアイデアによって事業を起こすことです。まさに知恵と器量・能力が問われる時代です。

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NECのトップには、金輪際不採算事業の撤退、人件費削減という負のリストラはやめて、
関本元社長の指摘するリストラに転じることを切望する。

最近の社長の事業基軸のブレをひとつ挙げてみる。
パソリンクという30年以上前からの製品がある。マイクロ波通信システムで、インフラが整備されていないところで携帯電話基地局を結ぶ通信システムとして利用されている。

ニッチな市場(大企業が通常入らない小さな市場)であるが、遠藤前社長は「事業部長時代にインドの案件に対し、リスクが高いが熟慮の末受注を決断した。その後は世界トップシェアを獲得し、いかに製品開発/販売におけるボリュームの大切かを学んだ」と述した(マイナビニュース 2012.2.26)

次の現在の新野社長はパソリンクに対し真逆の見解である。
「パソリンクは80億円程度の赤字。数量ではなく、利益にこだわって販売する。」(日経新聞 2018.4.27)
30年以上前の製品であり参入障壁が低く、中国の華為技術が参入し、低価格競争に陥ることはわかっていたはずだが。

くれぐれも縮むだけの負のリストラではなく、時代の先を読んだ生体認証、AI活用などの“新らしい弾出し”に注力していただきたい。
 
 

古希、余命を楽しもうーーこぞ今年

 投稿者:管理人  投稿日:2018年12月31日(月)19時28分7秒
  もう数時間で、“こぞ今年”になるが、数え年では年が変わり古希を迎えるという特別な心境である。
70歳代の男性では、日常生活に支障を来す健康寿命が72歳であり、平均寿命は81歳である。平均的に支障を来してから、9年間に症状が悪化していき寿命となる。
どうやら、70歳代は、余命と思って生きた方が良いだろう。五木寛之氏の次の言葉が胸に響く

「余命とは自分に残された命の時間であり、自分はもう十分に生きたと納得したあとで、さらにつけ加えられたボーナスのように受けとめたらどうか」

余命は決してペシミステイックな切迫したものではなく、余裕をもって残された期間であるということである。
ゆっくりとこれまでの人生を振り返り、想い出の幾多の抽斗を開けながら、回想し綴っていくのも至福のときである。

今日は、自分の人生を団塊世代として振り返ってみよう。“団塊”という言葉のおさらいだが、堺屋太一氏が通商産業省鉱山石炭局在籍時に、命名したものである。
鉱物の堆積岩中に周囲と成分の異なる密な物質が団塊と呼ばれており特異な性質を持ち、それを昭和22年から24年の3年間のベビーブームで生まれた800万人を指すものとした。

第二次大戦で、日本人の230万人の兵と80万の一般市民の命が失われ、平均寿命は戦後男性が50歳まで落ち込んでおり、この3年間のベビーブームの出生者数の急増はよくわかる。

しかし、それゆえ戦後直後に生まれた密な団塊世代は、周囲とは全く異なる生き方をしてきた。団塊が遭遇した社会環境の特異体験について述べ、また私の身近で起きた社会的大変動も綴る。

① 貧しいがノビノビ育った幼少時代(S31・小1~S36年・小6)
 テレビ、冷蔵庫、洗濯機など、いまではどこの家庭にもある必需品がなかった。テレビがないので、よく外遊びをしており、ガキ大将のもと、いろいろな遊びを教えてもらった。少年漫画が楽しみであり、毎週発売が楽しみであり、遠くの友人まで貸し借りに行ったものである。

いまのように塾に通うことはなく、習い事は習字、そろばんが一般的であり、私は警察署の柔道教室に通った。習い事も長閑なものだった。

日本経済は、戦後どん底に落ち込み非常に貧しかったが、全く閉塞感を味わうこともなくノビノビと育った。

② 高度成長と熾烈な競争 (S37・中1~S43高3)
東京オリンピックを梃子に、日本経済は高度成長を維持して、生活は豊かになっていった。
しかし、団塊世代は、豊かさとは逆に次第にゆとりを喪失していった。

それは、団塊世代の800万人という膨大な人口に端を発した。私の中学校は8クラスで400人を超えていた。団塊世代の3年間の為に教育施設、教員を増やすわけにもいかず、熾烈な受験競争になる。

大学進学率は10%程度であり、現在と異なり国公立大学は月謝が1000円と異常に安く、寮が格段の低料金で完備され、有能な人材が集まって一流企業への就職も有利となる好サイクルであった。
一部の裕福な家庭の者が限られた有名私大に進学し、国公立大学の入試は熾烈なものになっていった。団塊しんがりの我々は2年前の団塊世代からの影響も受け、受験戦争という言葉さえ生まれた。

私は、そのような風潮を受けた高校の偏差値至上教育に情熱を持つこともできず、むしろレジスタンスから、柔道の部活に打ち込み、本だけはよく読み青春時代特有の思考を深めていた。高校3年の1学期に停学をくらったのはやや脱線気味だったが。

③ 燃え盛る学生運動とその終焉(S43・浪人~S48卒業)
東大全共闘が安田講堂攻防戦を展開する半月前となるS43年の年末に、東大入試中止が発表された。自宅浪人で東北大学を目指していた私は、自分より偏差値が髙い受験者が、押せ押せで流れ込んでくる事象を考え、なぜこのように学生運動が荒れ狂うのか、それらに関する本を読みまくり、大きな関心を持った。

自宅浪人で籠城1年後に、合格した大学に行ってみるとまさに政治の季節で、誰もが、“反体制民主化、プロレタリアート独裁”などと唱え、革命前夜さえも彷彿させるものだった。

学生運動は燃え盛り、大学側は6月から長期夏休みとしてキャンパスを封鎖する異常な展開になった。私は、熱に浮かされたように浅はかに反体制を唱える連中を論破し、ときには手を出し、空手部の孤高の人になっていったが、裏腹に世相は激しいアジ演説とデモが続き更に激化していった。

しかし、8月に警察力の大学構内への立ち入り等を認めさせる大学立法が制定され、翌々年の昭和46年に、極左赤軍派の大量内ゲバによるリンチ殺人事件で終焉を迎えた。2か月間で女性4人を含む12名が惨殺され、それは8カ月の妊婦を含んだ想像を絶する凄惨なものだった。

④ 石油危機(S49・入社2年目)
NEC入社2年目の11月に、第四次中東戦争を引き金にしたオイルショックが起きた。かつて経験がないほどの狂乱物価となり、政府は総需要抑制を敷く。昭和49年の経済成長率はー1.2%と戦後初めてのマイナス成長となり、日本経済の高度経済成長は止まった。

NECは、総需要抑制の一環で三連休、正月休みの延長などを行ったが、入社間もない我々は会社の危機とは異次元におり、何を心配するではなく、脳天気に寮で酒盛りを繰り返していた。

ただ、長い正月休みを活用し2週間の欧州旅行に出たときに、世界経済を襲った石油危機の深刻さを感じさせられた。強硬にイスラエルを支持していたオランダは極端な石油不足に陥り、アムステルダム空港上の窓から街全体に光は乏しいのが見え、ホテルではロウソクを灯していた。

日本は、アメリカと同盟を組んでおりイスラエル支持であったが、石油確保のために急遽寝返ったので、旅行中にアムステルダムをはじめ欧州諸国で反日感情に何度か出くわした。
戦後初めてマイナス経済成長となったが、この寝返り政策で、再び経済成長は短期間で取り戻した。

⑤ 電電公社の民営化(S60)
昭和60年4月に電電公社が民営化され、これはNECに大激震をもたらした。電電ファミリーの長男坊として、受注競争、技術競争に晒されることなく、電電公社に依存していたからである。

ときのNECトップは“時代の風を肩で感じる”関本社長であり、民営化と同時に高らかに進軍ラッパを吹いた。トップのキャステイングボードが強力でかつ的確であり、この危機をバネにNECは飛躍した。
他の電電ファミリーの企業には、長らく培われた組織文化を打ち破れず、凋落していく企業も多かった、

NECの組織の学歴偏重、年功序列が音をたてて崩れ、成果主義がそのまま出世に繋がった。
私は電電公社向け製品のものづくり一筋だったが、新設された海外企業部に異動し、即タイの新工場立ち上げに携わった。国立の二流大学でも上層部に登れる手ごたえを感じていた。

⑥  第3の波、急速に立ち上がったIT(H5)
タイの赴任を3年間で終わり、職場に戻ると仕事のやり方は一変していた。担当者まで一人1台のパソコンを持ち、言葉を交わすこともなく黙々と画面に向かっている。紙のメールの集配送をしていたメールのおじさんの姿もなかった。

私は部長職で帰任しており、その職位が求める情報リテラシーに面食らい、その習得に深夜まで躍起になって取り組んだものである。

タイ出向前にアメリカ出張の際、IBMのポキプシー研究所を訪れた時の彼らの言葉が甦った。アルビン・トフラー著の“The Third Wave”を論じていた。農業革命・工業革命の後に、情報革命が起きるという推論であり、アメリカは情報化社会到来をいち早く察知していたと感じ入った。

⑦ ITバブル崩壊が引き金で凋落(H12)
日本のIT関連事業が急伸し、新規IT企業が続出した。その勢いは身の丈以上にバブルに膨れ上がり、中身が伴わずあえなく弾けてしまった。

NECはいちはやく、西垣社長がインターネット部門に1万人の配置転換を掲げ、リストラをNHKスペシャルで放映するなど敢然とITバブル崩壊へのリストラ策を掲げた。

あれから延々と歴代トップの経営戦略は目立って功を奏したものはなく、不採算部門からの撤退というリストラを幾度も断行してきた。今年も3000人減のリストラを敢行している。

リストラを開始した2000年に売上5兆4千億円、営業利益1850億円であったが、坂道を転がるように経営悪化し、今では売上は半減で、従業員も18万人から10万人未満と小さな会社になってしまった。

若い頃は、終身雇用が当たり前で、60歳を迎えた課長以上の方々には花束をお渡しして祝辞を述べてハイヤーで見送ったものである。

終身雇用は完全に崩壊し、私自身も子会社でリストラを牽引するとは夢にも思わなかった。厳しい仕事はたくさんあったが、リストラは人の生活基盤を奪う残酷なものである。本社指示とは言えこれには心身ともに苛まされ蝕まれ、終生辛い思い出となってしまった。

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人生を振り返ると、激しく団塊世代の波と時代の波に揉まれ、「余命は、自分はもう十分に生きたと納得したあとで、さらにつけ加えられたボーナスのように受けとめたらどうか」との五木寛之氏の言葉が琴線に触れる。
 

空手OB合宿講習会に参加して

 投稿者:管理人  投稿日:2018年11月28日(水)20時03分16秒
  もう故郷はふかぶかとした秋となり、寒気のせいかひと際鮮やかな紅葉が目に染みた。(下写真)好天に恵まれ、実家の庭の木々の雪囲いを一日早く終えたところに、四三の会のYH君とFT君から古墳を観に行かないかとの誘いがあった。

故郷に古墳があるなどと聞いたことがなかったが、車で30分くらいの所であり、便乗した。
果たして、下小松古墳は山全体が古墳群であり、202基の古墳が点在していたことに少なからず驚かされた。(下写真)

この古墳を見て、岩手県に赴任していたときの角塚古墳がフラッシュバックした。
あのときも古墳の存在は知らず、史跡を巡り歩いていたときに、傍らにあった角塚古墳に出くわしたのだ。単身赴任にまかせ、地元出身の高橋克彦著“火怨”“炎立つ”などを読み、駆り立てられるように、舞台となった江刺、平泉などを訪れていた。

角塚古墳のあった場所は、激戦の“胆沢の戦い”の戦場にある。“胆沢の戦い”は、桓武天皇の治世に中央集権に従わない蝦夷の征伐により始まった。攻撃目標が胆沢の地となり789年に始まる遠征軍は1回目が5万2千人、2回目は10万人、3回目は4万人の大軍勢に及んだ。

それでも蝦夷は、アテルイをリーダーにして13年間に渡り、戦い抜いた。しかし、ついに坂上田村麻呂に屈し、江刺の胆沢の柵は、田村麻呂の居城である多賀城の出城になってしまった。中央に支配されていく哀しい蝦夷の歴史である。

それまで、蝦夷は豪族として、江刺で静かな暮らしをして豊かな生活を送っていたのが一変した。
蝦夷の胆沢の柵近くで、その安定した集落の証として、5世紀後半に角塚古墳が造営されていたのだ。長閑で幸せな集団生活を営む蝦夷に、一方的に蛮族として侵略してきた中央集権の身勝手さに怒りを覚えたものである。

我が雪深い故郷にも、その蝦夷一族が住んでおり、古墳時代に繁栄していたことは、新しい発見であった。

ところで、この1カ月間は、空手の大きな3つのイベントがあり、それを載せる。

1 合宿講習会に参加――“武道としての空手”を学ぶ

11月3日に12名が参加して、八十三歳になられる師範直々のご指導のもと、第3回OB合宿講習会が行われた。

表題が“武道空手を目指して”であり、異種格闘技を念頭にとの師範のお言葉通りに、実戦空手の奥義でした。しかも、それは武道という深遠な暗黙知の世界を、物理学的に形式知化して教えていただいた。

特に、3年前の第1回講習会で引用された東大卒理学博士の吉福康郎氏の実測データを基にした衝撃力曲線は、今回の講習でようやく習得することができた。吉福氏自身が古武術や太極拳を学び理論を体現しており、私は早速お勧めの「格闘技奥義の科学」を読んだ。
吉福氏は、次のように述べている。

「武術の技術習得の本質が、たんに筋力やスピードを高めるのではなく、“体の動きを質的に変える”点にあったことである。この質的な変化により、スポーツ的な動きよりもすばやく、かつ力強く技を掛けられることがわかった。もちろん、人間相手の技であるから、人体の構造を熟知し、その弱点を見事に突く力学的合理性も含んでいる」

当日の講習会内容は次の通りである。

(1)攻撃の手法と衝撃力の度合い
重い、鋭い、軽い技などの表現が、科学的に解明されていることを学んだ。吉福氏の著書では縦軸が衝撃力(kgw)、横軸が時間(ミリ秒)で衝撃力曲線が測定され、その積分値が力積となり、ダメージの大きさを表す。軽い技は持続性が短く、重い技は持続性が長い。蹴りと突きの衝撃力の違いも定量的に把握できた。

突き型(逆突き、横蹴り)は重い。突きの衝撃力の全力積のうち、拳そのものは20%程度であり、前腕、上腕、胴体の寄与率が大きい。巻き藁突きでの足腰のべクトル合わせの鍛錬は肝要である。

打ち型(鉄槌、まわし蹴り)の技は鋭い。振り回す先端の部分が突きより高速となるが、その先端付近だけの運動量となる。

(2)空手技と重心の移動
この講義で、通常何気なく行っている移動稽古の大切さを痛感した。のっそりとした移動では、衝撃力が半減する。逆突きと一歩踏み出す突きの違いをサンドバックで示していただいた。和道流独自の飛び込み突きも、この素早い移動と思われる。


空手の技のみが移動して衝撃力が増すそうであり、他の格闘技では減じる。
これは空手の移動は水平であり、移動の運動量を腕から拳を通して伝えやすいが、他の格闘技は、踏み出した足がブレーキとなり、衝撃力は逆に低下するとのことである。

私は、試合で一歩踏み出す追い蹴りで、相手を幾度か倒し、反則注意を受けた。これも無意識だったが、蹴る足に重心移動が加わり、威力が増したのであろう。

寸止めの空手では、得られない感触であり、巻き藁も漫然と逆突きを繰り返すのではなく、上記のような移動からの突きの鍛錬もすべきであった。

ここで、師範からは「絶え間なく産まれる工夫は、書き留めておかなければならない。そうしないとそれらは断片的となり、体系化されていかない」というお言葉があり心に刻んだ。

(3)面と線と点(衝撃力の課題)
武道空手の真髄の教えであり、異種格闘技との闘いにも通じるものである。
接触する面積の大小と衝撃との関りは、物体の固さは同じなら衝突面積と逆比例することがポイントである。そして、人体の急所50か所以上を示す図を配られた。

私は、前に出され、サンドバックを中高一本拳で突くように指示され、確かに指はめり込んでいき威力は体感できたが、作用反作用の法則で指がとてつもなく痛い。指に大きな反作用がかかるので、きちんと中高一本拳の鍛錬を行ってから、行なわなければならない。

また作用する面の固さも大事である。手刀の接触面が柔らかいが、正拳は人指し指と中指の2本全体で突き固い面である。師範は、2本の指の付け根の関節部分で巻き藁を打ち、接触面を小さくして威力が倍増させる鍛錬を行われているとのことである。
貫手を、鍛錬すればそれは実戦向けであり、2本貫き手は眼星(目)を狙えば、難敵でも倒せる。

(4)約束組手「後先の手」
和道空手の創始者である大塚博紀最高師範は、「基本組手」(待ちの形10本)のほかに、「後先の手」「先先の先手」「先手」の「基本組手」36本を残されているが、『それらは系統的に伝承された者が皆無であるため、今となっては大塚師が演武されたときのビデオなど断片的に残るのみである。今は名を明かせないが、親しくしている某氏の資料を参考にして』と前置きし、それらに師範ご自身が考案を加えて取りまとめ、「後先の手」の中から5つを選ばれ、研修課題になった。

後先の手とは、相手の攻撃を防御すると同時に攻撃に転ずるので防御即攻撃であり、中高一本拳で稲妻(右わき腹)などの急所を突く。
いよいよ、本講習で習得した“武道としての技”の実践にはいった。極めの部分を列挙する。

① 中高一本拳で稲妻を突き、間を置かず右足を踏み込み、右掌底を持って水月に当てを決め、更に下昆(下顎)を打ってのけぞらせる。
② 左裏拳をこめかみに打ち、相手の腕を胸前まで押し崩し、右肘打ちを稲妻に打ち込む。
③ 相手の右拳を左手で内転させ、逆手に取って手首を殺して左脇腹に抱え、相手を崩して、右拳で下昆を裏突きする。
④ 中高一本拳で月影(左脇腹)を突き、相手の突いた腕を外旋させて逆を取って崩し、月影に右肘打ちを打ち込む。
⑤ 上段突きを右弧拳にて受け、内懐に跳びこみ、左右手刀で頸部、胸部を打つ。

学生時代に学んだ5本目までの組手とは異なり、すさまじい“武道としての極め技”である。
「崩して」「回して」「落とす」までが行使する一連の技法となる。その手段の中に、「当て」や「逆取り」など考えられるあらゆる技術を探る心構えが大切かと思う、と結ばれている。

2 空手世界選手権(11月)の前哨戦を観戦

10月14日にプレミアリーグ東京大会が行われる東京武道館に行った。来月のスペインでの世界選手権の前哨戦として世界のトップ選手が参集している。
全空連のオリンピック対策本部の特別顧問に就任したMHさんは、役員席で忙しそうに立ち回っていた。

席は2番目であり、TVの2次元映像と異なり、臨場感がある。アーナンダイの演武最初の吐き出す息までがはっきりと聞こえるほどだ。先日のNHKの放映で私が写っていた。(下写真)

形は、男女ともに清水、喜友名選手が見事な技で優勝した。女子は清水選手が、世界ランク1位のスペインのサンドラ選手に4対1の判定で圧勝した。銅メダルは2つとも日本。男子はメダル全てを独占した。

形の判定は、相変わらず“旗判定”であり、判定方法の改革を急ぐ必要がある。5人の審判が、どちらかの選手の旗を挙げるのは、判定に透明性がないと指摘されている。そこで、東京オリンピックでは、判定は、点数に変更される。技術点と出来栄えの競技点の20満点で競う。
この大きな改革には、審判の主観の入った判定を排除せねばならず、減点、優位性の数値化が必要であり、審判の訓練と経験に時間を要する。

課題は組手である。男子は期待の荒賀選手が、世界ランク35位の格下のカザフスタンの選手に負けてしまった。西村選手も準決勝で世界4位のイタリア選手に負けてしまった。女子も大エースの植草選手が、決勝でフランスの選手に敗れた。消える中段突きも世界で研究され尽くしている感がある。

組手の判定は一瞬であり、ビデオ判定が採り入れられていた。 寸止めゆえに実に判定は難しいものがあり、判定が覆り勝敗を左右した試合が幾つかあり、これも審判団の技量を上げなければならない。2分という短い試合時間で、ビデオ判定で流れは止まるが、止むを得ない手段と思う。

今回面白い競技があった。空手の“形”が素人には、“踊り”のように受け取られるので。実際に二人の敵が次々と攻撃を仕掛けて、“形”の技で防御し倒す技を競うもので非常に見応えがあった。

3 第40回全国国公立大学空手道選手権大会優勝――女子チーム
昨年は、横浜市平沼記念体育館で直接観戦した。女子は、1年生3人のチームであり、1回戦は大阪教育大を破り、MH選手は、サソリ蹴り(後ろ回し蹴り)の大技を決めた。2回戦は前年優勝したシード校の長崎大学であり、接戦となったが惜敗した。1年生チームであり、今年の大会におおいに期待できる試合内容であった。

今年は11月4日(日)に大阪大学吹田キャンパス体育館で開かれ,36大学が参加した。母校の女子チームが、4回戦を勝ち進み、決勝で一昨年3位、昨年ベストエイトの戦績を誇る強豪の北海道大学と戦った。2:1で撃破し、初めての優勝を達成した。(下写真) 3回戦でも、昨年敗れた長崎大学に雪辱している。

尚、男子チームは、残念ながら2回戦で秋田大学に敗れた。ただ、1年生が3人選手になっており、これからが期待できる。
 

四三の会の歩み(卒業50周年を祝う会のプレから)ーーーー3/3

 投稿者:管理人  投稿日:2018年10月11日(木)19時56分54秒
  (3) 伝国の杜コンサートーー2006年9月18日
WSさん達、四三の会の仲間から、HH君の故郷コンサートを開こうかとの企画が持ち上がった。

HH君は、東京芸術大学を卒業後、ドイツに4年間留学した。帰国後は、ドイツ歌曲演奏会の他、音楽の友ホール日本歌曲シリーズに出演など日本歌曲に本格的に取り組んでいる。またオペラでは二期会、東京室内歌劇場、各地市民オペラなど魔笛、フイガロの結婚、カルメンなどの数々の英、仏、独、伊オペラに出演している。第二回奏楽堂日本歌曲コンクール1位、山田 耕筰賞受賞している。

錚々たる経歴であるが、四三の会のメンバーは、このようなコンサートの企画運用には素人である。10カ月前の2005年11月12日に9名の委員会を立ち上げて準備に入った。
HH君は、地方では「地方での公演は都はるみ、亡くなった美空ひばりなどは一杯になるが、このジャンルではどうかとの不安がある」と経験上話していた。伝国の杜ホールは、500人の収容である。

9人のメンバーが5回の打ち合わせを重ね、母校OB会報にコンサート開催を載せたり、テレビユー山形にHH君自ら出演してもらったりした。また母校同窓会の共催を取り付け、米沢市教育委員会・米沢市芸術文化協会・山形新聞社・テレビユー山形の後援を承認していただき、獅子奮迅の働きである。

チケットは完売し、四三の会のメンバーは立ち見という、嬉しい悲鳴となった。

HH君がゆったりと登場しさすがにプロの風格である。会場全体に響き渡り、観客を圧倒し席巻する。183cmの巨漢が更に大きく見える。
この後の打ち上げで、15年来のコンビのピアノのK Yさんと歓談したときに「あの領域のバスをコントロールできるものはいない。スーパーバスは彼のための造語であり、わかりやすく言えば女性が悲鳴をあげるその領域でコントロールできるかですよ」と説明してくれた。評判通りに日本人離れした深々とした低音と叙情性豊かな歌唱力であった。

シレトコ半島漁夫の歌については、恩師HK先生が評していた。
「音楽会なんて行ったこともなかった。シレトコなんとかというのを聞いたら腹の共鳴膜がバッコン、バッコン鳴り始めた。初めてこんなふうになり、自分にもアイヌの血が流れているのかと思ったほどだ」 その感想が全てである。

(4) あら還――2009年11月11~12日
米沢は、既に深々とした秋であり、冬枯れの様相を呈し柿がたわわに色づき、山々は既に白い粧いを施していた。故郷の自然が織りなす光景は、都市部での企業人生活を送ったものには最上のいざないである。
今回の目玉は、事務局が周到に企画した“甦ったあら還暦バンド”である。

バンド開演に先立ち、23名が参加して、午前9時から上杉神社で還暦のご祈祷が、厳かに行われた。大ハプニングは、その後である。事務局が練りに練って、神社の許可を頂戴し、素っ裸になり赤褌をつけて参拝を行うことを突如提案した。

お祓いを受けた裸の若者によるお祭りは、古今に沢山ある。しかし、気温3度では、寄る年波の老骨には応え、抵抗勢力も現れた。ようやく、次々と裸になり初め、赤褌の色にも精神が鼓舞され“やるぞ”という機運が高まってきた。

勢い良く参道に飛び出すものの、いきなり寒気に晒され、足裏が冷たさを通り越し痛い。みそぎの水は飛び上がるほどに冷たい。流石に高度成長を牽引し、リストラに晒され肉体を酷使した世代である。壮観なメタボリック症候群の大群であった。

折からの直江兼続ブームで、早朝とはいえ参拝者は多く、写真を撮られ、“なんの行事ですか”などと聞かれた。文字通り冷厳な儀式らしく、イーハトーブで頂戴した拍子木で高らかに締め、当日の模様は、拍子木を打ち鳴らした写真とともに地元の米沢新聞に掲載されている。

ホテルでは、66名が参加して、メーンイベントがはじまった。最初は、物故者24名に対し、同窓生の僧侶となったIT君より、追悼の読経が捧げられ、合唱した。名簿に目を通すと、一人ひとりへの想い出がよぎる。

次に各クラス代表によるスピーチがあり、人生の年輪を刻んだだけに含蓄に富んだものであった。そして、いよいよおやじバンドの登場である。素晴らしい演奏と選曲であった。高校時代のあの日、あのとき、あの場所を彷彿させてくれる。

途中、ボーカルを演じたFK君が興じて、再び赤褌になり、おおいに湧いた。気の毒なのは、キーボード奏者の女性であり、目の前で踊り唄う姿に譜面も読めない状態に陥っていた。ホテルはじまって以来の珍事と思われたが、オーナーが同級生であり、事なきを得ている。

締めは、再び樫の拍子木で行う。事務局より、急に入手のいきさつを話してくれと言われる。退職祝いのときにいただいたもので、これからの人生は“気”が大事、まだ“気”が足りない、木(拍子木)を打って精神を高揚させてほしいとのお心使いであったことを披露し、皆さんにも“気”を発信するので共有していただきたいと述べる。

その夜は、三たびスナックへ向かったが、1日に3度同じ店で飲んだのは初めてである。深夜まで、呑み語り“あら還”の痛快な2日間の幕は閉ざされた。

(5) 鎌倉江の島散策――2010年11月19~21日
2日間にわたる鎌倉と江の島での散策では、関東地区で各々自宅に戻り泊まる者が多かった。
どうしても同宿し、温泉に浸かり酒宴を持ちたいというとのメンバーの要望で、急遽NEC熱海温泉保養所でオプショナルツアーとして前夜祭を設けた。学生時代は言葉を交わすこともなく、その後の交流もなかった友が、同宿し杯を重ねると一瞬のうちに打ち解け数々の思い出が浮かんでくる。定年後の生きざまも、おおいに参考になった。

翌朝、指定時間までに鎌倉駅に三々五々に集まってきた。本イベント推進の関東支部長のKA君が、居酒屋で開会し挨拶した。

そこから鶴岡八幡宮に繰り出す。この3月に強風により樹齢千年を誇る公卿イチョウも倒れたが、もう若木が芽を出している。

次に、鎌倉五山一位の格式を誇る建長寺に向かうが、参道は非常に険しく、途中ゆったりと憩いながら実にノンビリしたペースである。鎌倉五山第二位の円覚寺舎利殿も廻り、記念写真を撮る。HH君が、駆け付けるので、山下公園で待ち合わせをしていたところ、世界一周の飛鳥が出航していった。中華街の吉兆で本場中華を堪能し、一日目は暮れた。

2日目は江の島からの出発で橋をわたり三大弁天の一つと言われる江の島神社へ行き、島を一周する。江ノ電で長谷寺へ向かい、KA君がネットで調べ上げて予約した“Hasekamichou”での特別料理を堪能する。

長谷寺では、一本の楠で造られた高さ9mの本尊十一面観音菩薩を観て、切通しを歩き鎌倉大仏に着く。秋深い古都の名刹と最も多感な時期の仲間には、実に癒された三日間であった。林住期として迎えたターニングポイントとして、よいしるべになった。

(6) 海外の旅 2011年~2014年
① 韓国――2011年2月18日~21日
四三の会で海外に出ようとの話が持ち上がった。だれかが、現地勤務しているか、滞在経験があるところに行こうとのことになり、第一弾は、YH君の滞在する韓国に決まった。5名のみの参加である。

韓国は、私にとっても、最も近くて遠い国である。アジアの国々は殆ど訪れたが、韓国だけは縁がなく、興味だけを抱き続けていた。その歴史は、日本と密接なものがある。豊臣秀吉が明征討のために侵攻し、7年に及ぶ戦乱を起こし、ソウルの街までも戦火に見舞われ、名所も焼失してしまった。1910年には、日韓併合を行い、敗戦までの36年間に渡り統治し続けた。常に、大国シナの脅威に晒され、戦後は38度線での朝鮮分割と辛酸を舐め続けている国であるが、したたかに急成長してきた。

今回は、北朝鮮から砲撃を受けた延坪島も視察したかったが、Y君に一蹴され、軍事境界線の板門店、非武装地帯第3トンネルの見学などは行わず、戦乱をくぐりぬけ残り、無形文化財としてもきっちりと継がれている李朝時代510年間の文化に焦点を絞っていく。

現地には、勇躍韓国に単身居住したY君がいる。彼は、仕事を通じた仲間とのコミュニケーションを母国語で図りたいとのことで、夜は語学学校に通い、昼は商社時代の付き合いの会社でアドバイサーとして活躍している。彼のアグレッシブなセカンドライフへの取組みも伺い知りたく、四三の会の仲間と訪問した。

韓国では、口蹄疫が大流行だが、やはり焼肉だ。日本では禁じられている生牛レバーも絶品を食える。サンチュ、ニンニク、青唐辛子、エゴマの葉など薬味が豊富でありオンドルの暖房も心地良い。蕎麦粉のコシが強い冷麺で、はさみ切るほどである。

皆は、カフェでパンとコーヒーの朝食をとる。私は、一人大衆食堂へ入る。殆ど開店していないが、ようやく1軒見つけ出した。言葉が通じず、メニューに絵もない。客が食べている焼魚を指さすと出てきたものは、8品もあった。ふわふわの茶わん蒸し、ダイコンキムチ,巻貝、わかめスープ,白菜キムチ、味噌汁、タケノコ。キムチとわかめスープを平らげるとすかさずおかわりが出される。これで500円と破格に安い。

景福宮は朝鮮開国の王が造成したものである。やはり中国様式であったが、故宮のように壮大で威圧的なものではなく、つつましい宮殿である。この王室では、率先して言語、科学など産業振興に努めていた。文盲をなくすための表音文字のハングル語は世界記録遺産である。国文学を弱体させた功罪はあるが。農業に合わせた暦、日時計など独創的なものが産み出されている。

行列ができる参鶏湯の専門店、土俗村で昼食をとる。鶏の腹に、クリ、銀杏、もち米、松の実などが詰め込まれている。私の注文したものは、太い朝鮮人参も入っており、黄褐色で、ほんのり甘くほろ苦く、急に元気が湧いてきたようである。

古美術通りの踏十里。200件の骨董品店が、集結しており、主に李朝時代の家具や工芸品が展示されている。一見、倉庫の中のようだが、展示品の質は素晴らしい。日本の目利きのH君の眼は、家が1軒建つほどの青磁の壺に注がれている。李朝になると白磁になるので、高麗時代のものであろう。

晩飯は新宿西口の思い出横丁のようなレトロな焼肉屋街である。陽が高いうちから飲みだし優雅な気分になる。このように安く美味しい焼肉は初めてである。美味しさの秘訣は、歩いて数分の食肉市場にあった。胡麻油と塩のタレが絶妙であり、センカルビと牛レバー刺しを、たらふく食べた。眞露とマッコリを混ぜると飲み口が良く、美味しいことも発見した。

2日目も宮殿に行く。山や丘を活かした広大な庭園を持つ、自然と調和した宮殿である。歴代の王が最も長く滞在して、簡素で秩序のある美しさがある。宮殿の端に政略結婚で嫁いだ日本の皇族で最後の王妃、万子様のひときわ質素な佇まいがあった。

仁政殿前は、王の前で、右に文班、左に武班がくらい順に陣取る。両班のみが科挙試験を受けられる特権階級である。

宗廟では、歴代の王と王妃の祭祀が行われる。その祭祀は、人類の無形文化遺産に登録されている。正殿の全長は、101mである。丹青の簡素な造りである。ここで李朝の時代から、脈々と祭祀が行われている。古式にのっとった壮厳な音楽と文舞、武舞が演じられる。石畳の路は、中央は祖先、右は王、左は世子と定められている。
世界遺産を直に観たことより、韓国の苦難に満ちた歴史が理解できた。

② タイーー2012年11月21日~27日
深閑とした広い夕暮れの国際空港で、ゆったりしたソファーに身を沈め、真黒な機体が大きく旋回して夕陽に飛び込んでいく光景を見つめてときめく。

この旅は、四三の会八名が、各自で飛び立ち、バンコク駐在のST君を訪れるものである。私は、7泊8日の旅であり、皆がバラバラで一日のみ全員が揃う。

私とKT君は偶然一緒の便になり、バンコクのホテルに午前零時頃に着く。先行していたFT君と、韓国から直行したYH君が出迎えてくれた。四三の会のバンコク篇が実現したという感動が湧く。同じく先行したAS君とHT君は昼から呑み続け、明日の早朝ゴルフのために、既に寝ていた。

我々の真価は、ここから発揮され、ただちにソイカーに出撃する。
そこは真夜中ながら異次元のように煌めきすさまじい熱波を放っていた。街全体が沸騰している。米軍がパタヤ、パッポンに造った歓楽街をさらに増幅したような感じである。眠いと言っていたKT君も覚醒し、気分が高揚していた。午前3時の閉店まで呑み楽しんだが、これは時差を戻すと日本の朝5時であった、7時間に飛行の後であり、この歳では暴挙とも言える。

日本時間では午前5時に宿に戻り、11時まで泥のように眠ったが、時差のお陰で、現地時間9時起床であった。一方のKT君は、全く寝つけず、そのまま朝食をとり、朝の散歩に出て、「9時から14時まで寝るのでそれからCALLしてくれ」とのメッセージを、フロントに託していた。修復機能が充分で、さすがに旅馴れている。他のメンバーは、ゴルフあるいは寺院巡りへと、それぞれ飛び出していた。

私は、喧騒で蒸し暑いバンコクの懐かしい空気を吸い、汗まみれで歩き続けた。日本では口にしない炭酸飲料もがぶ飲みし、喉への刺激も心地よい。最初に、カムテイン夫人の家を訪れた。ジムトンプソンの家と異なり、観光客は私のみである。

次は、東南アジア最大と言われるサイアムパラゴン地下の水族館に入る。驚くことに、入場料は2930円(1100B)と物凄く高いが、入場者は非常に多く、並んで待った。熱帯地方ならではの見慣れない魚が多く、水中トンネル、水中ショーなどなかなか見応えがあった。潜水服を着てサメと戯れる西洋人も多い。

昼食は、水族館のサメから思い立ち、ペナンシャークフインズでフカヒレを食べる。1350円(500B)と高いが姿煮であり、日本では口にできない代物である。最後にライスを混ぜて雑炊にする。

そして、夕食時に、2名が日本から到着し、9名が一堂に会した。現地駐在のST君は、ミャンマーから戻ったばかりであった。
スリオンコカで、タイスキを堪能する。その店の名物であるコカエビが絶品である。

そこから全員で、バンコクトップクラスの高級クラブに出向く。丁度ロイカトーン(灯篭流し)のショーを行っていた。私がバンコク駐在の時に見た幻想的な光景が浮かぶ。家族で民族衣装に身を包み、バナナの葉で造った灯篭に、ロウソクを立て美しい花で飾り、満月のもと、ひっそりと流れる川に流していた。これは、水の精霊に感謝をささげ、魂を清める儀式である。しかし、クラブのショーは、そのようにしめやかではなく、非常に華やかなものであった。

女性全員が、あでやかな民族衣装をまとい、それぞれが英語あるいは日本語を駆使して、会話を楽しむ。
タイダンスを飛び入りで競うイベントでは、何の心得もないFT君が参加し、鉢巻をした独自の着こなしの彼の勝手な踊りに、女性達が拍手喝采である。次は、目隠しをして相手の女性にたどり着くゲームであるが、HT君は感鋭く女性にたどり着き、シャンパンを獲得。次に参加したYH君は、間違えて大爆笑の渦である。AY君はスペル当てに登場し、ここでは、四三の会が、満席の客を尻目に大活躍である。それにしても臆さず、ポンポン飛び出していく姿勢は、たいしたものである。

楽しい宴は終り、FT君、HT君、AS君の3名は翌日早朝5時の便で帰国である。3泊4日の38800円の旅で、移動が夜間と早朝フライトであり、実質滞在2日間の“弾丸旅行”であった。

宴の後、YH君とAY君の翌日のアユタヤ行きのガイド役が、急遽駄目になったとの連絡が入った。二人は慌てもせず、勝手もわからないまま独自の旅を決定する。バンコクとアユタヤ間は、100kmはある。

私が翌朝レストランに行くと、もはや旅発ちの出で立ちである。半ズボンで80円(30B)で買ったカウボーイハットを被っている。まだ薄暗く季節外れの雨が降りしきっている中を、悠然とした足取りで出て行った。

なんとか英語の出来る窓口に行き、少ない本数の汽車2等の切符を確保し、トクトク(3輪車)に交渉して借り切り、世界遺産を巡り、高速バスで戻ってる。「汽車2等は、エアコンは付いていたが、650円(240B)と高い、3等は110円(40B)だ」と不満を口にしていた。通常日本人なら、現地HISに高額でオプショナルツアーを依頼するものだが、図太い神経である。

世界遺産の素晴らしさを聞いて、今度は、KT君が突然アユタヤ行きを決める。
このKT君の衝動的な判断と事前情報不足が、大変な苦労を強いられたらしく、本人談を引用する。

YH君の高速バスの到着点を出発点と信じて向かったが、そこには高速バスが見当たらず、タイ人のみの地域であり、達者な英語を駆使する彼も全く通じず、立往生したとのことである。「アユタヤ、アユタヤ、バス、バス」と繰り返し、おばさんに連れられ、ようやくバスに乗りこんだ。おばさんは、行き先が違うのにわざわざ連れて行ってくれた親切な人だったとか。
バスの乗り込み、270円(100B)を出したら、車掌が27円(10B)しか受け取らない。怪訝な顔をしているうちに、すぐ降ろされ、そのバスは、高速バスのためのシャトルバスとわかった。

悪戦苦闘でやっと高速バスの乗ったところ、各停で停車する乗り合いバスであり、アユタヤに着いたのは午後の一時であった。私と食べた朝のバイキングで失敬したバナナ2本で空腹をしのいだという。ようやく遺跡廻りを終り、今度は順調に高速バスに乗ったが、到着地の戦勝記念塔は、ロータリーで屋台などごちゃごちゃしており、BTS高架鉄道の駅が見当たらず、またもや「BTS,BTS」と連呼して、ようやく駅にたどりついたと言う。
堂々とした英語を操る国際人の彼も、生粋のタイ語のみの世界では大変な思いをしたらしい。

これらの“地図のない旅”は、抱腹絶倒であり、おおいなる元気をもらった。
連日の宴では、コカのみならずグレートシャンハイの北京ダック、ソンブーンのカレーカニなど、期待に違わず、抜群の味を堪能した。
この四三の会のメンバーによる旅は、愉悦なものとして一生想い出に残るだろう。

③ インドネシアーー2013.年11月15~21日
AY君が、5年間インドネシアのジャカルタに勤務しており、その国を選んだ。参加者は4人で、バリ島からジャワ島のボロブドウ―ルまでの6日間の旅である。

今回は四三の会のメンバーは、AY君、IT君、YH君との4人である。久々のパッケージ旅行であるが、旅行会社が企画型として宣伝したように、メニュー豊富で行動範囲も広い。案の定、このパッケージ旅行は、殆ど我々4人だけでガイド付の贅沢なものとなった。

”地を這う旅”とは、全く異にして、ホテルは、有名なクタ・ビーチの傍らのプール付きで私には豪華すぎるレベルである。ジョグジャカルタでは、五ツ星のホテルも宿泊予定に入っている。機は順調に8時間飛行し、午後6時バリ島のデンバサール空港に着陸した。

成田は5度と寒々としていたが、降り立つと35度のすさまじい熱気がスコールに見舞われた後であった。むっとする暑さであるが、バンコクに滞在していた私には、その熱帯性気候を肌で感じ取り、懐かしさ一入であった。雨季の始まりである。このスコールが熱帯特有のものとは異なり、異常にしつこい降り方をして、この旅で悩まされるとは、このとき知る術もなかった。

鄙びた店でひとまず乾杯し晩飯の後、ホテルにチェックインして街をぶらついた。バリ島サーフインの名所として有名なクタ・ビーチ近くのバリ島随一の繁華街であり、オープンカフェと土産店がぎっしりと立ち並び、南国の熱気と情緒を肌で感じる。内臓を取り除き、ニンニク、チリ、ショウガなどを詰め込んだ名物の子豚の丸焼きにぎょっとする。


翌朝はタマンアユンを訪れ、バリ島で最も美しい寺院とも云われ、奇数層の黒い萱ぶきの塔を重ねたメル(聖なる山)が立ち並ぶ姿は、まさに壮観かつ奇観である。

世界遺産の棚田であるジャテイルイに向かう。当初は、昭和時代の段々畑のような田んぼと思っていたが、目のあたりにして、その先入観は吹き飛んだ。パノラマに広がる秩序がない曲線の美しい田んぼに圧倒される。この水の便の悪い山あいに、1000年以上前からスバックという水利システムを造り、それが評価され世界遺産になったとのことである。
この雄大なライステラスを眺望しながらの贅沢な昼食は、また格別であった。

5万ルピア紙幣の絵柄になっている名勝地ウルン・ダヌ・ブラタン寺院に行く。湖畔に浮かぶように建ち、背景の山が灰色の雲で覆われているのも趣がある。

3日目は北に向かいウブド近郊のゴアカジャに行く。11世紀に造られたが、埋もれて、1923年に発見された。僧の修業場所であり、立派な沐浴場もあり、壁には6人の女神が彫り込まれている。

奥の象の洞窟の入り口は、黒魔術を使う悪の象徴である恐ろしい魔女ランダの顔と言われている。魔女ランダの行状は、日本の鬼子母神とよく似ている。

洞窟の左は、ガネーシャである。右の牙のみが折れているべきだが、風化したせいか両方ともなくなっている。ガネーシャは、父であるシバ神より誤解を受け首を切られたが、誤解が解け、シバ神があわてて首を探したが見つからず、やむなく傍らの象の首を切り落とし、据えたという言い伝えがある。

スコールでウブドの見学をスキップしたので、持て余すほどの閑があり、ケチャックダンスのショーを見ることになった。しかし、一方、スコールの黒い雲が遠くから、見る見るうちに近付いてきて、激しい豪雨と雷が轟く。

スコールはなかなか止まず、小雨になったときにケチャックダンスは、強行された。バリを代表する伝統芸能に接しようと、観衆は傘をさして鑑賞している。
ケッチャクダンスは、悪霊を祓うための儀式である。男性全員でのリズミカルな“チャツ チャツ チャツ ”の掛け声は踊り手をトランス状態に導くと言うが、激しい雨のせいか、なかなかボルテージが上がらない。

しかし、白猿が魔王を打ち負かし、大暴れしていると、周りに燃料が浸みこまされたわらのようなものが撒かれ、火をつける。それを白猿が素足で蹴散らし、またその上を渡る。この荒技でトランス状態に陥った。それにしても特徴ある掛け声であり、まだ耳の底に残っている。


到着後、4日目にして、サーフインの人気スポットである有名なクタ・ビーチで遊んだ、いや遊ばれた。

サーファー達が集まるわけである。見た目にはたいした波でもないと高を括っていたが、いきなり足元を救われる凄い圧力である。体が一回転し、眼鏡も波にのみこまれるところであった。激しい波しぶきとともに引き潮も強く、遠浅とは聞いていたが、すぐに背が立たなくなり、あまり泳ぎが達者でない私は、あわてて砂浜に戻った。

五日目は、この旅の目的である仏教三大世界遺産のボロブドウ―ルへ向かう。
御来光は期待できないが、ホテルを午前3時45分に出発する。外は、まだ闇であり、1時間15分ほどで、ボロブドウールに着いた。月は朧にまだ天空にかかっている。その鈍い月の光の中、ボロブドウールは、その巨大な要塞のような姿を現してきた。

この仏教遺跡は、792年頃に建てられ、それはほぼ日本の奈良の大仏様と同じ頃である。しかし、この遺跡はその後、密林に1000年ほど埋もれ、1814年に発見された。
精緻に設計された基盤、方形盤、円形盤の仏教3界からなる9層の構造と72のストウーパには、幾何学的な美しさがある。

仏教3界の世界観とは、欲界、色界、無色界であり、それはボロブドウ―ルの3つの壇がそれを表している。

最下部の基壇は俗的な人間のいる欲界であり、その上の方形基壇は仏と人間が触れ合う色つまり形あるものの世界。最上部の円形壇は仏のいる無色界である。


4つ星のホテルのアマンジヲで、ボロブドウ―ルを眺望しながら、朝食をとる。古代遺跡を模倣したかなり豪華な石造りで、トイレにはいっても落ち着かない。

ジャワのもう一つの世界遺産であるプランバナンに行く。これはボロブドウ―ルが建てられてから、100年くらい後に、ジャワ南方ではイスラム教が強くなり、ヒンズー寺院として建立されたものである。

47mのシバ聖殿を中心に、炎が燃えているような独特の壮観な建築である。

最も高いシバ聖堂に登ったが、古代インド叙事詩のモチーフが壁にぎっしりと彫り刻まれている上部の暗い部屋に、有名なシバ神の妃であるドウルガー像が立っており、フラッシュを焚き、ようやくその姿を捉えた。

成田空港は、寒いながらも突き抜けるような青空であった。清々しい冷気を胸いっぱい吸いながら、旅の終わりは、軽い虚脱感に襲われる。

④ ミャンマー  ――2014年11月20日~25日
四三の会有志で、3年前から、韓国、タイ、インドネシアと旅を続け、これまで現地に駐在した者が同行し活気あるものだった。
しかし、今回は、国交が開かれ民主化間もない神秘の国ミャンマーであり、メンバーはYN君と私のみになった。私は三大仏教世界遺産のうちアンコールワットとボロブドールを廻っており、どうしてもミャンマーのバガンに行きたかった。

羽田空港を予定通り発ち、現地時間、17時にヤンゴンに着く。

夕食は、YKKOという、麺料理での専門店で、多くのチェーンストアを持つ有名店である。まずミャンマービールを飲むが、なかなかあっさりと呑み易く南国に合せた味で、タイのシンハービール並に美味しい。昨年のインドネシアのビンタンビールには、高いだけで辟易したが、この店内では180円と安い。

南東アジアは、料理に比べ、ビールは高く、ミャンマーは信仰厚い仏教徒が多いのでビールの消費は少ないと聞いていたが、以外である。料理はやはり、片っ端から油で揚げた、いや油に包まれたものばかりであるが、なかなか美味しい。この油料理がミャンマー料理の特徴であるが、つい食べ過ぎるとお腹をこわしてしまう。

主食の、モヒンガー(米粉麺)に豊富な海鮮物を載せたこの店特有の麺であり、スープになまずを使っている。

魚、海老、蟹に味が浸み渡っており、好みによりナンプラ(魚油)、超劇辛唐辛子などを混ぜると、更に味が生き返ってくる。”モ”は、米粉の麺を意味して、カウソエは小麦粉の麺、つまり日本のラーメンであるが、ミャンマーでは、圧倒的に冷麺をソーメン状にした”モ”が好まれるという。
ともかくも有名店で、ミャンマーの麺文化を満喫できた晩餐であった。

翌朝5時半に起き、ヤンゴンからバガンに1時間の飛行であり、着陸の際、現存する2700以上のパゴダが機上から見え、圧巻であった。
この乱立するバゴダを目の当たりにして、 「ついに世界三大仏教遺跡、最後の地バガンに到達した」 喜びに包まれる。

シュエジーゴンパゴダに行く。思わず息を呑むほどであった。原色に近い青空に、基盤は黄金色に塗られ、仏塔は金箔に包まれ、降り注ぐ強烈な日差しをものともせず、すさまじく照り返していた。

11世紀に、バガン王朝の初代アノーヤタ王が、勝利を記念して着工し、30年もかけてこの寺院を建立した。バガン王朝は、部族間で争いを続けていたミャンマーで、初めて国として統一を果たしていた。

テイローミンロー寺院は、昨年訪れたインドネシアのヒンズー教の寺院に似た建築物である。
13世紀に、5人の息子から王を継承させる者を選ぶときに、王が、傘の倒れた方向に座った息子を選んだ。そして、王位を継承した息子が、そのことにちなんで、傘(テイローミンロー)の寺院を建てたとの史実である。

アーナンダ寺院は、63mの大きな本堂と50mの尖塔が見事なバランスを醸し出し、バガンを代表する美しい寺院である。残念ながら漆喰を修理中で、うまく撮れなかったが。本堂には、立ち姿の4体の仏が四方を向いて、安置されている。ミャンマーのどこの寺院も東西南北に配置されていると言う。



バガンの都は、城壁で囲まれており、外濠もあり、幾多の戦火から守られてきたとのことである。門は四方に4つ設けられ、タラバー門だけが現存している。バガン王朝が国を統一する以前の9世紀に城壁は築かれた。


バガン王朝は、イラワジ川に沿って発展した。その後はマンダレー、ヤンゴンもこの川を利している。ひっそりと流れを感じさせない大河である。

その河畔にある草の葉っぱで屋根を造った、吹き抜けの、品のいいレストランで昼食をとる。料理は。定番の3品のカレー風油煮が出た。カレーと言っても、一切辛くなく、外見だけがカレーのようにドロドロしている。
食材は、チキンとジャガイモ、マナガツオ、野菜の組み合わせが多い。毎食同様のメニューであっても、スパイスは少ないがそれぞれ味に工夫があり飽きない。

マヌーハ寺院に行く。モン族タトウン国のマヌーハ王が、バガン初代国王に敗れ、囚われの身となり、この地に連行された。捕虜の身ながら、もとは部族の王であり、この寺院を建てる許可を初代国王に願い出て、許可され建立したものである。

バガン初代国王は、寺院を許可したうえ、捕虜となった元部族の王様の名を寺院に冠し、弾圧を皮肉るような仏さまの設計を許すなど、かなり寛容な人物と思われる。己の心情を物語るように壁一杯の寝仏など窮屈そうなものが多い。

日没の時間が迫ってきたので、本日見学予定のダマヤンジー寺院を明日の延ばし、急遽夕陽を眺めるスポットであるシェサンドー寺院に向かう。高さ50mであり、登れる数少ないパゴダであり、既に観光客が群がっていた。

いよいよ、1000年前に建てられた数々のパゴダの背後に、夕陽が沈んでいく。
つい先ほどまでは、原色の真っ青な空に白燃化していた太陽が、オレンジ色の火の玉になり、天空にパノラマ状の夕映えを、グラヂュエーションに急速に広げていく。

釣瓶落としのような、あっというまの没し方であるが、天空全体が夕映えに染まり、パゴダが黒いシルエットに化していく。形容しがたい大自然と1000年前の仏教遺跡が織りなす壮厳で、幻想的なコラボレーションである。欧米人が、一斉に夕陽に向かって拍手していた。

そして、虚しくも黄昏が始まり、夕映えは蒼い色に圧され、更にそれは群青色となり、やがて漆黒の闇となっていく。あまりに非日常的な感動する光景に 「ここまできた甲斐があった。生きていて良かった」 との思いである。

ナンダで操り人形を見ながら晩餐をとった。操り人形は、なかなか高いレベルの芸であったが、あまり面白くなかった。ホーチミンで見た水上で水面下から操る人形劇が神技とも思えるほどで、この類ではもう感動もしないだろう。
伝統料理を期待したが、やはりチキン、マナガツオ、ポテトのカレー風煮を、バナナの葉の皿で食べるものである。

翌朝9時にホテルを出る。最初に赤レンガ造りの美しい幾何学的模様のスラマニ寺院に行く。どの寺院も、窓や照明設備はなく、東西南北に安置した仏像の前を、拝顔場所として開口したところから光を採り入れており、非常に内部は薄暗い。この寺院は、フレスコ画が有名であるが、残念ながら暗がりである。しかし、素朴だが活き活きしたフレスコ画は見事である。

車の窓から、突如廃墟のような巨大な寺院が見えた。ダマヤンジー寺院は、悲しい歴史を持っており、父と長兄、関係者を暗殺し、王位継承権を得たバガン王朝5代目国王ナラトウが、贖罪のためにこの寺院を建てた。しかし、その国王が暗殺され、未完成のままであり、ガイドは幽霊が出る寺院との噂もあるという。残虐な国王は、僧侶を迫害し、妻、工夫までも処刑したとのことである。たしかに重々しくひんやりとして、この寺院で一晩寝たら、血ぬられた歴史に、魑魅魍魎の跋扈をみるような気がする。

22時10分にヤンゴンを発ち、日本時間6時15分に成田空港到着する。
寒々とした小雨降るまだ薄暗い空港であり、私の心も寒々と空虚なものであった。旅の終わりはいつもこうだ。
 

四三の会の歩み(卒業50周年を祝う会のプレから)ーーーー2/3

 投稿者:管理人  投稿日:2018年10月 1日(月)19時56分24秒
  (2) 関東支部懇親会――1997年7月 渋谷・大橋会館
私が幹事になり、NEC大橋会館で第1回懇親会を開催した。30名が参加し、プロジェクターをFT君が米沢から持ち込み、高校時代の懐かしい写真と説明に当時を想い返した。2次会はHJ君馴染みの米沢出身者の渋谷のスナックでおこなった。

それを皮切りに22年後の今年まで16回の懇親会を催している。1999年~2005年までは休止したが、私がNECの岩手の地方工場に出向しており、開催できなかったものである。

しかし、その間は、仙台在住のFK君と連携し、仙台のケヤキ並木のイルミネーションに合わせ、仙台中心の懇親会を開いた。とくに2004年12月は、秋保温泉に舞台を移し、米沢勢も駆け付け、12人で盛会になった。
関東支部懇親会は、毎回20~30人が参加し、年一回の定例化した懇親会として定着した。


(3) OB白布駅伝大会
従来から母校のOB白布駅伝は行われていたが、これに参加しようと発案し推進したのは、KA君である。もう56歳であり、急な舟坂峠の山道を含む17kmのコースで競争することには誰もが尻込みした。しかし、KA君は、強引に仲間を募って推し進め、チームと単独走のOSさんが出場することになった。
前日は、HJ君の大舟の別荘で芋煮会を行い、泊まり込み気勢をあげた。

当日、追いつ追われつの激戦となり、なんと2位に13メートルの僅差の2時間25分で優勝を勝ち取った。単独走もOSさんが優勝である。彼女は、ボストンマラソン50歳代世界3位、フルマラソンはサブスリー(3時間未満)の記録の持ち主である。

IT監督の勝つことへの執念は、すさまじかった。発起人のKA君の走法は、長距離をゆっくりとジョギングするものであり、スピードが全然上がらない。容赦なくIT監督は「代われ」と交代させた一幕もあった。

翌年、雪辱に燃えるKA君は、果敢に17kmの単独走に挑んだ。スピードはないが、コツコツと練習量をかなり積んできたらしい。
チームが昨年記録を6分短縮するぶっちぎりの優勝となり、KA君をゴールで待ち構えた。“暴挙じゃないか、倒れているんじゃねーのか”など懸念する声が上がる

“Kがきたぞ~”と誰かが大声を上げた。なんと記録はOSさんの昨年レコードに8分遅れでゴールした。素晴らしい記録であると同時に、我々団塊の世代に新しい可能性を示唆してくれた。時の流れに抗ったのである。この年でこのような快挙に遭遇し、柄にもなく感動した。
四三の会は、初出場の2005年から2010年(61歳)まで前人未踏の6連覇を達成したのである。

(4) 芋煮会
1994年の本部懇親会の2次会で、芋煮会の企画が持ち上がった。1996年9月に大舟の人里離れたHJ君の茅葺の別荘を根城に、泊まり込みながら、芋煮会を行った。
それ以来、この江戸時代の重厚な茅葺屋敷が好評で、9回の芋煮会を行っている。

深々とした秋に包まれ、分厚い緑に包まれた樹林も明るい空間を持ち始めた。芋煮鍋に入れるため、数十年ぶりに茸狩りを楽しんだ。心地よい疲れとともにHJ邸に戻ると、芋煮の準備中であり、早速収穫した茸も放り込む。新鮮な岩魚も大量に差し入れがあり、串塩焼きにする。

まだ初秋の陽が高いうちから宴会がはじまり、夜のとばりが落ちるまでに延々と続く。とりとめもなく高校時代のエピソードなどを語り、おおいに湧く。

2006年9月の芋煮会は、翌日のOB白布駅伝を控え、30人も集結した。このときは、近所のマタギから熊の肉の差し入れがあった。翌日の熊汁は固く脂っこいというイメージを一転させ、料理酒できっちりとアク抜きされ、ネギ、大根を入れ、しっとりとコクがあり非常に美味しいものであった。このとき、初めてイワナの骨酒を飲んだ。イワナを食べた後、その骨とヒレをあぶり、熱燗の日本酒に浸すだけで、とても香ばしくコクのあるこれまで口にしたことのない味わいとなった。

秋になると、里の茅葺屋敷で立ち上る芋煮の煙が思い出される。

2 イベント

(1) 奈良修楽旅行――2001年10月6~8日
誰しもが青春の貴重な想い出になる修学旅行が、我々の高校では廃止されていた。いまさらながらだが、誰かが「四三の会で修学旅行に行こう」と言い出しその輪が広がっていった。そして、33年振りに2泊3日で27名が参加する“奈良修楽旅行”が実現した。
下記の思いがあった。

「あの白燃化した陽光も、初秋の艶のない澄み切った光に変わり、石舞台と私たちに注いでいた。いま、人生の収穫期“林住”である秋に、私たちも入り始めた。収穫の形態はさまざまあろうが、この節目に憩い、癒され、また新たな出発を目指そう」

行きの新幹線から、高校時代のもう鈍色の想い出であろうか、ポツリポツリ話し込むうちに、あの日あの時、ひたむきに孤高に生きた青春が甦ってくる。米沢勢も合流し、ついに宴会モードとなり、6号車に不思議な喧騒な空間が出来上がっていた。

奈良に到着するとすぐに、710年の平安遷都とともに 藤原不比等により建立された興福寺を廻る。阿修羅像は憤怒の鬼神であるが、眉をひそめりりしく、思慮深そうにも見える

次に、定番の東大寺大仏に向かう。聖武天皇が発願して752年に開眼供養し、盧舎那仏像であり無限の空間と時間を表す。その圧倒する姿と慈眼に、煩悩も失せ慄然としながらも安らぎを得る。遷都710年から74年にわたる天平文化の息吹を感じ、平城京20万人の盛都が偲ばれた。

他にも名刹を廻り、宿に行く前に奈良公園を散策し、黄昏迫る奈良のもつ静けさ、優しさに溶け込む。鹿と戯れるのは何年振りであろうか。

第一日目の圧巻は食事後のカラオケ会場だった。昼は高潔に微笑むドクターK、夜は踊る月光仮面となり、突然の大乱舞に、唖然とし、そして湧いた。コップ2ヶが破損。

1日目にして10年来の付き合いの様相。中途半端な校風で修学旅行もない無味乾燥な高校生活だったが一人ひとりが必死に生き方を模索し、団塊の世代として修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。すっかり意気投合し和気あいあいで、宿に戻っても酒盛りは続く。

2日目、法隆寺金堂 五重塔を廻る。 607年聖徳太子が造営し、世界最古の木造建築である。斑鳩の里に塔や伽藍が映える光景が損なわれていたのは残念だった。

飛鳥寺は、596年に蘇我馬子が創建した最古の寺院で、深閑なお堂で凛とした声で説明する老僧が印象深かった。法隆寺をしのぐ壮大な昔の伽藍配置であり隆盛を誇ったとか
室生寺は幽玄なる渓谷の山寺である。室生寺の石段は聞きしに勝る勾配と長さであり、登りきった満足度も一入である。女性は全員完歩し、男性6名脱落して途中で喫煙し始めた。

疲れも見せずに宴会第二夜は、2日連続で同じカラオケ屋に繰り出し、前日以上の盛り上がりであった。前日K君が踊り狂い破損したコップの破片が残っていた。そして、ラーメン食って、また酒盛りで2日間で7時間は寝ただろうか。

3日目は、薬師寺から廻る。南都七大寺隋一の華やかな寺であり、七彩の寺を取り戻しつつある。金堂、西塔、中門そして大講堂を、K君の親戚である住職自らがご説明していただいた。玄装三蔵の17年かけた偉業、そして国宝である美しい裳階の三重東塔の内部にはいり、構造説明を受け講話も頂戴した。

卒業三十三年後実現したこの叶わぬはずの修学旅行は、数々の想い出を残してくれた。

(2) 那須高原温泉の旅――2003年8月2~3日
四三の会は、高校同窓会で最高幹事学年となり、とりしきることになり、米沢と東京の中間地点となる那須高原温泉で四三の会を開くことにした。

長く湿潤な梅雨空がようやくきれて、爽快な陽が射し始めたその日、卒業以来の懐かしいメンバーも含めて四十三名も集まった。仕事の触れ合いもなく数年経ても、不思議に親近感がある。宿へのバスの中でまず銀河ビールで乾杯、温泉にどっぷり浸かり、いっきに宴会で和気あいあいになる。

3名の先生方から含蓄ある挨拶をいただき、AS君が米沢織,SM君がセゾンファクトリーの素材を活かしたジャムを贈呈してくれた。
2次会ではI氏が持ち込んだプロジェクターとPCで奈良旅行と本日の宴会模様を映し出した。

夜半こんもりした木々の葉を打つ雨音に心地よい眠りに入る。翌日は南ヶ丘牧場で自然を満喫し三々五々に帰っていった。
 

四三の会の歩み(卒業50周年を祝う会のプレから)ーーーー1/3

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 9月28日(金)20時06分15秒
  空手道部の先輩が、国立新美術館で10月1日まで行われている新制作展に入選している。(下写真)
主催の新制作協会は、自由と純粋さを標榜し82年の歴史があり、他の団体と比較し、厳選され権威のある展示会である。先輩は、12回も入選している。

早速、21日に出向くと、先輩は受付で待ち受けてくれた。
絵画は、300号の巨大なもので、題名は“巣 冷蔵”である。モチーフが、さっぱりわからないで眺めていると、協会の松木会員という眼力の高そうな方が、先輩に話しかけてきた。 「最近は新制作らしさが少なくなってきたが、今年は2点非常に良い作品があった。冷蔵庫の発想は素晴らしい」と褒めていた。

先輩から、「問題提起のテーマだ、北海道の震災を考えてみろ」と説明され、ようやくなんとなくモチーフが浮かび上がってきた。何気なく赤色が見えたので質問すると、下地に補色を使ったものだと言われ、その下地効果が微妙なグラデーションを醸し出している。昨年は、“巣 領域Ⅱ”1昨年は“巣 領域”で入選しており、コンセプトは一環していた。 更に、展示場全体にわたり、絵画、彫刻、そしてスペースデザインを案内していただいた。

会場の片隅の喫茶店で、絵に対する取り組みを伺ったところ、幼くして雑誌などに掲載され、己の画才に目覚め、また好きであったという。しかし、工学部を専攻し、企業生活では、崩壊前のソ連、戦争直前のイラクのバスラ駐在など過酷な体験をしていたが、絵心は捨てられず、通信で美術大学を短大から編入し6年かけて卒業している。
家業の為に企業を早めに退職し、十分な自由になる時間ができ、花が開いたと思われた。
芸術の秋を充分に満喫した1日であった。

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今月の中旬は、1週間ほど故郷周りをウロウロし、飲んだくれていた。
15日は、高校同窓会・総会に参加した。翌日の四三の会の催しのついでに、久しぶりに高校全体の同窓会に出席したものである。今年の暑さは異常であり、残暑も執念深く居座り、駅に降り立っても関東と変わらず、この時期は朝夕冷え込むはずであったが、これも日中の気温からあまり下がらず、肌寒さを感じない故郷に違和感を持つ。

同年生は、12名参加したが(下写真)、卒業後よく顔を合せている連中で懐かしさはない。今年のテーマは”さらば平成 新しい時代に向けて KOJO”である。”新しい時代に向けて”という言葉は、団塊世代は“終わった人”であり耳障りだが、さらば平成と言う言葉には、既に昭和も終えており、2つの時代が終わろうとしていることに、卒業50周年を迎える明日の四三の会のイベントにむけて感慨深いものがある。総会は滞りなく終わり、その後の、二次会で各人の晩年の生き様に触れ、興味深く楽しいひとときであった。

翌日は、四三の会のその大イベントである。
古希を迎えての四三の会全体の記念式典と思ったが、古希(古来稀なり)の年寄りめいた響きが嫌われたのか、”卒業59周年を祝う会”と称されていた。
59名も参加している。9年前に還暦を祝い”あら還”の行事を行い66名の参加であり、古希を迎えた我々の世代としては大健闘の人数である。

HM先生とUT先生の薫陶あるお話で始まった。我々の青春時代の学生生活に立ち戻っての話であり、懐かしくもあり面白かった。

私は、”四三の会の歩み”と題しての、パワーポイント使ってプレゼンテーションを行った。31年前の四三の会発足、恒例行事、イベントの3つにわたり、写真を中心に説明した。終わったあと、何人かに褒められ好評だったと思う。
親父バンドの演奏、各クラスの代表スピーチなどが続き、2時間半があっというまに過ぎてしまった。

幾人かの卒業以来のメンバーに会い、当初は青春時代のイメージと結びつかない戸惑いが、話しているうちに人柄を思い出し、イメージが重なってくるのは、不思議なものである。
88名から近況連絡があり、59名が参加しており、まだ在校時代の半数から音信があるのは、これからも続く四三の会の活動に心強いものがある。

私の“43も会の歩み”のプレゼンテーションは好評であり、貴重な記録で良くまとまっているとのことで、手元の資料を加えて今日から3回にわたり紹介していく。

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【43の会の歩み】

1 発足(下写真)

昭和43年に高校を卒業した集いであり、“四三の会”と命名し、1968年6月、37歳のときに発足された。4人の恩師にご臨席いただき、19人の仲間が出席している。

2 恒例行事(下写真)

(1) 本部懇親会
① 第一回――1994年9月、米沢サンルート
四三の会は発足したが、8年間何も活動しないままにうち過ぎた。
記録的な猛暑を連れ去る風がようやく吹き抜けた頃で、燃え盛った人生の頃合とみたか、45歳のときに、米沢事務局のFT君が八面六臂の働きで東奔西走して各人の消息を調べ上げ、四三の会の名簿を完成させた。この名簿が、それからの活性化した活動の原点であり礎になった。

卒業以来27年ぶりの懇親会には、同学年生数の30%近い91名が参加した。実に懐かしい顔ぶれであり、受付後に控え室に入ろうとすると気品のあるロータリークラブのような面々に出くわし”失礼、部屋を間違えました”と戻るがやはり間違いではなかった。会った瞬間にわからずとも、会話を重ねるうちに当時のイメージが湧き繋がってきたものである。本会を契機に、個人の交流も高まり同窓会が活気付いていく。

② 第2回――2006年4月、米沢サンルート
関東支部が立ち上がり、種々のイベントも行われたが、本部懇親会は、実に8年ぶりとなる。
これまで秋保温泉、奈良、那須高原など恩師のご参加も得て遊びまわっており、時の経過を感じなかった。この年は6月に関東支部同窓会、9月に白布駅伝、伝国の杜コンサートが行われ、いよいよ本格展開といった感じである。

22日は穏やかに薄く春霞がたなびき武蔵浦和からは富士山も眺望できたが、米沢は桜が固いツボミで冷え冷えとして、2日前にはみぞれが降ったとのことである。
同窓会は、35名が参加しFT君の進行でK先生とHK先生からの挨拶で始まった。K先生は御年80歳である。八名信夫(悪役商会)のような凄みがでていた。普通に話してもごしゃかれているような錯覚に陥る。

事務局が事前にお渡しした第一回からの同窓会の経過を克明にボロボロに紙が千切れるほど読んできた、しかし、「今日皆さんが立派になっており誰が誰かわからないが、関東町の古い校舎を思い出し、皆さんと語らいながら思いかえしたい」というご挨拶を頂戴した。

HK先生は、例の頭脳明晰なややシニカルな口調で、鮮明な記憶をもとに那須旅行、仙台地区同窓会への参加を述べるが、いちいち話しているのが面倒になりいっきに総括した。その後、4年前の70歳前後での英語教育、3年間のブランクを持ちながらも九里、母校、米商での取り組みについて正確にお話しするが面倒になり、これもいっきに総括。H 節は健在であった。

久しく参加していない方々から挨拶もあり、参加人数は減少したが、懇親が深まった。
 12時に同窓会が始まったが、蕎麦屋で2次会、韓国料理で3次会と7時間も呑み通した。

③ 第三回――2008年7月12日 米沢第一ホテル
相次いでお亡くなりにあった4人の先生を偲び、また還暦の同年会に向けての親睦と結束の集いが米沢で開催された。

同窓会会場への途上、重ねた齢とともに故郷の馴染みのある公園で、五十九回目の夏を感じていた。この歳月は、あの木製の太鼓橋を、鮮明な赤いなだらかな曲線のコンクリートに変えていた。つゆの湿潤さと夏の峻烈な光が交錯する日であり、五時半になっても群青色の夕闇は訪れようせず、雨雲を浮かべながらも陽の光は衰えようとはしていない。濃い緑色いきれの中に身を包まれながら、青春時代の鈍色の想い出を追ってみた。

既に21名の方が逝去されたが、今年は関東、米沢地区でそれぞれ30名近い参画で、卒業時の20%程度の者が顔を合わせている。

 会場には、久方ぶりの顔合せも増えて、明るい笑顔で話が弾む。
AO先生が初登場だったが、当初は同窓生か先生かの判別もつかず、先生は若作りで同窓生には貫禄を増してきた者も多い。見かけ上10年程度の歳のバラつきが、出てきただろうか。AO先生は、熱っぽく生物学の大家らしく、ミトコンドリアについて語ってくれた。
ミトコンドリアは、細胞内でエネルギーをつくっているもので、核DNAが両親一対で引き継がれるが、母性遺伝によるものとか。ミトコンドリアは運動能力にも長寿にも大きく影響するという。異様なまでの情熱を帯びて語られたミトコンドリアの内容に魅かれ、
生物学という無味乾燥な分野も、このような切り口から入れば、興味を持てるのであろう。
 

人生末期小説を読んで

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 8月21日(火)11時36分43秒
  例年にない猛暑だったが、大学OB月例稽古と暑気払いが敢行された。
OB月例稽古は、恒例ではお盆休みであったが、幹事のやる気で急遽開催されたものである。
沼津からわざわざ私の次の主将を務めたOT師範が、駆けつけてくれた。今年3度目の参加である。夕方には、自分の道場の指導があり、午後の暑気払いに参加できず、トンボがえりであった。
10ヵ月ぶりに20代のK君も参加してくれた。前回は、T君と激しい自由組手を演じており、いまも町田の和道流道場に通っているという。

練習は、まずピンアンの中で、重要だという初段と四段の形を行う。(下写真)一つひとつの技の意味するところの丁寧な説明を受け、更にナイハンチの練習を行った。大塚最高師範が編み出した和道流独自の基本組手の一本目も行う。

攻撃は、上段突っ込み突きが浅い、受けは体裁きでの流しと縦セイシャンからの右回りの転位の極めの注意を何度も受けた。相手の防御の手の位置により、咄嗟に水月か丹田かの急所を打つとの指導もあった。基本組手は、約束組手とも呼ばれるように、決まった手順であるが、このような応用問題の訓練があった。
基本組手は、柔術から取り入れた転位、転体、転技が深く織り込まれていることを改めて感じた次第である。

午後からは、暑気払いである。新幹事になり早速3つの新しい試みが 為された。
恒例では9月であるが、今年は8月に月例稽古が設けられ、その後に暑気払いとなった。2つ目は、2次会との併合で、最初からカラオケ店を予約し完全個室で移動の必要はなく、低コストである。3つ目は、そこは本格的な韓国料理を提供する店であった。

目論見は的中したが、折からの猛暑だけは想定外であった。エアコンはフル回転でも効かず、更に焼肉の熱で暑かったが、流石に強者ぞろいで、逆に水代わりで酒量は増えていた。飲み放題も的を得た企画であった。

S会長より、飛鳥前師範からの和道会総本部副会長のご就任祝いに対する返礼のお手紙の紹介があり、回覧された。

最後に若手?のK君が、「3年上の(奴隷、平民、天皇)神様だったKM君の時代を思い返してみたが、大学の空手部は70年の歴史を持っている。その長い歴史の中に先輩たちがおり、ここに集まっておられる」との挨拶は、なかなか感慨深いものがあった。
関東支部は発足して20周年を迎えるが、そのときの会長のO先輩も一際豪快で健在でいらっしゃる。(下写真)

ところで、今月はちょっと意外な本を読み、たちまち惹き込まれた。
私も死と対峙する年代となり、小池真理子著“沈黙の人”を読んだ。筆者の父親をモデルとしており、76歳頃からパーキンソン病を発症し、だんだんコミュニケーション力を失い、亡くなっていく過程と、死後に全くわからなかった家庭生活と別の一面が明らかにされていく。

そして引き続き今年3月に発刊された“死の島”を読んだ。私と同じ69歳の男が、プライド高く生きてきたが、腎臓がんで余命を知って、生き方よりもどのような死に方をするかを希求していくものである。
今日は、小池真理子著書へのこれまでの私の読書歴、“沈黙の人”、“”死の島“の感想を述べる。

1.小池真理子著書の私の読書歴――2つのジャンルと思っていたが

いまから41年前、25歳で“知的悪女のすすめ”というエッセイ集で文壇にデビューし、いきなりベストセラーになった。私は、男社会に挑む女性像とタイトルに似つかわしくない可愛い作家程度の記憶しかなかった。

その後、36歳のときに発刊した“墓地を見おろす家”に衝撃を受けた。
西洋風な日本で初めての本格的幻想怪奇小説と思った。おどろおどろしい日本の霊と異なり、得体のしれない恐怖であり戦慄のモダンホラーと評されている。
その不気味な持ち味は、“水無月の墓”でもおおいに発揮され、その後次々と幻想怪奇小説が発刊された。

そしてもう一つのジャンルは、恋愛小説である。43歳のときに“恋”で直木賞を受賞する。どろどろした人間関係と倒錯した愛、その狭間で揺れ動く機微が鋭く描かれている。

“無伴奏”では、仙台の女子高校生が、1969年に当時の学生運動を背景に制服廃止委員会を立ち上げる。彼女の感性と情熱はすさまじく、倒錯した愛を持つ大学生2人と複雑な関係に陥っていく。

このモデルは、小池真理子女史自身である。彼女は、仙台の第三女子高に通学し、実際に制服廃止委員会を立ち上げ、デモにも参加していたらしい。大学入試で落ちて予備校に通うことまでそっくりである。仙台では、男子は一高、二高、三高、女性は一女、二女、三女の序列であり、彼女はあまり勉強が得意でなかったと思われる。

“望みは何かと訊かれたら”も学生運動を背景とし、赤軍派のような過激派集団にはいる女子大生がモデルであり、これも小池真理子女史自身の学生運動の疑似体験に基づき、過激に創造されて描かれていた。

カルト的集団から脱走した女子大生は学生運動で挫折した男に半年間囲まれ愛を深める。そして女子大生は何事もなかったように上流階級の奥様になったが、かくまってくれた男と三十数年ぶりに運命の再会をする。

私は、幻想怪奇と恋愛の2つのジャンルと思っていたが、小池真理子女史は60歳近くなり、新ジャンルを展開してくれた。
私のこれまでの小池真理子女史のジャンルでは考えられなかった小説である。

この6月の音沙汰記で、五木寛之著“70歳!人と社会の老いの作法”の指摘に基づき、たしかに青春、壮年、老年期で読む本が異なる、古典は異なると書いた。
まさに、小池真理子女史も60歳近くなったので、(沈黙の人は2012年発行)若かった時代とはまったく異なるジャンルで書けたのだろう。“人生末期小説”と名付けてみた。読者のみならず、書き手も年齢に応じたジャンルがあると思う。

過去の“怪奇幻想小説”と“恋愛小説”とは一線を画した新ジャンル“人生末期小説”に出会った。

2、“沈黙の人”

(1)モデルとした父親の実像 (文芸春秋 books  2013.6.8他)
旧東北帝大法科を卒業して、昭和石油に入社し、仙台の支店長レベルまで務める。ロシア文学、ドイツ文学に傾倒し、多くの蔵書があった。短歌を詠み、朝日歌壇に投稿し、たびたび入選している。煙草は吸うが、酒が弱く、帝大出、ということを生涯の誇りにして、知性と教養に関してはまぎれもなく他者にひけをとらなかった。

76歳頃から、パーキンソン病を発症し、じわじわと蝕まれて85歳で没する。
小説のように離婚はしていないが、筆者が赤ん坊だったころ、外に女性を作り父の子を宿している。母が女性の家に出向き、お腹の子を中絶してもらい別れてもらったという。

しかし、父には常に女性の影がつきまとっていたが、そのことに対する不安、悲しみ、怒り、絶望を娘にぶつけることは決してしない母であり、家族の均衡は守られていたという。

(2)あらすじ
50代の離婚歴のある女性三國衿子が主人公であり、筆者自身である。父泰造が、介護老人ホームで4年4か月過ごし、享年85歳で逝った。

泰造は76歳頃パーキンソン病を発症し、手足が不自由になっていき、しゃべることもできず、キーボードを打てる力もなくなり、文字表の文字を震える手で指差しようやく最小限のコミュニケーションをとる。

タイトルの”沈黙の人“はそのような状態を示すものとして決められたと思う。更に、死後残されたワープロのデータから思わぬ生前の下記の幾つかの面が暴露され、生前の生き方も含めて”沈黙の人“と名付けたのかもしれない。

    ・妻への不満と批判、生前疎遠だった別れた妻の娘衿子への感謝と熱い思い
    ・死ぬ寸前までの仙台支店長時代の愛人との交流
    ・歌人としての女性の仲間との純粋な知的な文通と最後の対面

そして、段ボールひと箱に詰められた幾つかの性具とビニ本は、生前の泰造のインテリで気取った物腰から実に意外なものであった。

(3)感じ入ったこと
①人生末期を我が身とも思える実感
私の健康寿命も間近に迫ってきた。健康寿命とは、健康上の理由で日常生活が制限されることなく過ごせる年齢であり、男性は72歳である。平均寿命は81歳だから、私たちの世代もまもなく何らかの日常生活に支障がある病が発症し、9年間じわじわと体が蝕まれ重体化して、お迎えがくることが統計上言える。

泰造が76歳でパーキンソン病を発症し、不治の病と覚悟しながら9年間にわたり闘病生活を送る様子は実話であり、小池真理子女史の天才的な臨場感ある迫真の表現で如実に描かれていた。泰造と自分の身を置き換えながら、読み進んでいった。

言語の障害が起きすくみ足となり身体の自由を失う一方、思考は極めて正常であることが痛ましい。すくみ足とは、脳神経の欠陥で身体だけが傾斜してうつぶせに倒れてしまうものである。

もう杖での外出も不可能になったとき、一人で電車に乗ろうとし、電車の隙間に足を落としてしまい、引き取りに来た妻に強く叱責される。首には名前と住所、連絡先と共に「パーキンソン病患者です。字が書けないこと、言葉が不自由で声が出しづらいこと」と書いたビニールケースをかけていたという。

ついに介護ホームにはいり、ほどなくして脳梗塞を発症する。本人の残されたワープロ原文では、「寝たきりどうぜん。車椅子に座っても自力ではうごけず、声も出ずだるまのようです。なにごとも天命に従うしかないと思います。」

パーキンソン病が進行しキーボードも打てなくなったが、衿子は文字表を考え出し、震える手でようやく字を示し最小限のコミュニケーションはとれるようになった。

しかし、死の2年前から肘が震え腕を持ち上げる力すら衰えて、文字表で文字を指し示すことが困難になる。当然、テレビのリモコン操作もできず、思考だけは正常だった。

病状は更に悪化し、食物も飲み込めない状態に陥り、飲み込んでも誤嚥となり、胃ろうを勧められた。自尊心の高い泰造が同意することはないと思ったが、意外にも承諾し生きる意欲を示し、胃ろうを作った。手術はうまくいったが、脳梗塞を起こしそれが命取りになってしまった。
常に、自分自身の末期を想定しながら読んだが、実に重苦しい気持ちになった。

②歌友としての高潔な交際
知的で教養ある面を彷彿させたエピソードも、死後にワープロ原文からわかった。
朝日歌壇に泰造が46歳頃入選し、短歌を通じて知り合った小松日出子という女性と、教養溢れた文通を続け、短歌を交わし続けた。

泰造は、病床の中から、友に対し「長生きしすぎるから 難病に出会うんだと パーキンソンの われいうに 膠原病の友 力なく笑う」と詠む。この膠原病の友はまもなく召されて逝ってしまった。死の淵でのやりとりに日出子はいたく感動する。

そして泰造の死の前に、その女性が夫を伴い、初めて泰造の介護ホームを訪れて、詠んだ秀逸な短歌がある。生前唯一の面会だった。
「ひとたびも君のみ声を聞けぬままに言語障害すすむは哀し」

衿子は、その女性を訪れ、父の最後と生前の交流のお礼を述べ、その高潔な優しい人格に触れる。

③性愛を保ち続ける
これは、輝かしい学歴や高い教養、知性を備えた泰造とは異なる深淵な穴をのぞいたような出来事である。

仙台支店長時代に、行きつけの飲み屋の鶴見ちえ子と愛人関係を続けていた。結婚して二人の娘がいる凡庸などこにでもいる会社員でない別の男の姿があった。単なる浮気ではなく、妻は疎い存在となり、ちえ子とお互いにひたむきな心を寄せ合っていた。

ホームに入る前年、衰弱した体で、三日間行方をくらまし、ちえ子に会いに行った。「待っていてくれ、何があっても、這ってでも、必ずきみに会いに行く」と。

衰えて死にかけている虫のように、這いつくばるかのごとく、駅構内を進み、ほとんど動かなくなった指を使って切符を買い求め、決死の思いで仙台のちえ子の部屋まで行ったのだ。

妻は、行方を詰問したが、頑としてしらを切り、答えなかった。妻は、病気を利用して答えぬとひどくなじったが、それきりだった。

そして、死後介護ホームの父の部屋から段ボールひと箱の幾つかの性具、ビニ本などが見つかり、一同は教養深い気取り屋の泰造から想像できず、驚愕する。

筆者は、下記のように述べている。
「あれほど気取って生きていた父。文学好きで、自らも文章を書き綴ることを愛していた父。ロマンティストな学者肌だった父。時に家族の前で朗々と漢詩を詠みあげ、短歌を作っては投稿し、気の合う人間との文通をこまめに続けた父がと驚く一方、最後まで性愛の灯、エロスに向かおうとする力が消えずに残されていたことに、心底、救われる思いがした」と述べている。

肉体を鍛えた体育会の男の残滓ならわかるが、文学ぶくれの泰造にこのような情熱が残っていたことが信じられないが、私の父も亡くなる前に異常な気力、体力を発揮したことがあった。

亡くなる1年前であろうか、父は殆どベッドに臥せ、廊下を杖をついて歩くのが精一杯であった。肺気腫を起こし、食事も満足に摂れず、大好きな煙草さえもやめていた。

酒も医者から止められていたが、酒にだけは異常なる執念を見せた。雪の日に、小銭をもって向かいの商店の自動販売機に、杖をつき、転び、這いつくばいながらたどり着き購入したのを、孫が2階から観て感心していたのだ。

その後、病状は更に悪化し、奥の部屋のベッドにほぼ寝たきりになった。ある晩、茶の間に座っていた母が、異様な気配で廊下の方を見ると、障子越しに人影がスーッと動いていくという。後を追って行くと、寝たきりの父が起きて、台所の冷蔵庫の冷酒を飲んでいたらしい。医者も驚いた執念であった。

3 “死の島”を読んで

(1) あらすじ
69歳の主人公、澤登志男は、出版社で文芸編集者として勤務し、定年を迎えたあとはカルチャースクールで小説の書き方を教えていた。

49歳のときに女性問題が続き、妻以外の女との関係を結婚生活に必要としてきた彼の“獣性”を、妻からなじられ離婚されて、娘も憎しみを持って会おうとせず、文字通り独り暮らしを続けている。

そして、ステージⅣの腎臓がんに侵され、骨にも移転しており余命いくばくもないことを知る。カルチャースクールを辞め自宅に引きこもった後、かつての恋人、三枝貴美子の妹から電話があり、「先月、姉が亡くなりました。63歳。……がんでした」と告げられる。

貴美子は、生涯独身で末期がんだったが、在宅のまま尊厳死を選んだ。最後が近づいたときに、点滴も経管栄養も行わず、延命の措置を一切やめた。

妹は、貴美子の遺品整理をしていたときに、「自分が死んだら、澤登志男さんに渡してほしい」という一冊の本があった。

“ベックリーン 死の島”と題した絵の解説書だった。島に向かう一艘の小舟みは、あたかも神から授けられた最後の月明かりのように、静かでゆるぎない。落ち着いた光が差し込んでいる。その光によって照らし出された棺には、白装束姿の人物の影がやわらかく落ちている。(下写真)

澤は、“死の島”に己の姿を重ね合わせ、身体のあちこちに不調を覚え、人生の終幕について準備を始めたとき、カルチャースクールの教え子で、26歳の宮島樹里が現れた。

樹里は、自らの家庭内の辛い体験を基にした『抹殺』という小説に書き、辛口の澤に褒められ慕っており、澤の力になりたいと申し出る。澤は全身の力を絞り出し、スターバックスで樹里に会い、久々に会話をたのしむ。

刻々と腎臓がんは骨から肺を蝕み、樹里との会話もきつくなるが、樹里は気遣いながらマンションに出入りするようになる。澤と樹里の会話は、彩を失った孤独な男の空間をつかの間癒してくれた。

澤は、死んだ恋人貴美子のように、抗がん剤や放射線治療を受けず、痛みを和らげる鎮痛剤のみで死を待つ。ついに尊厳死として自ら命を絶つ用意をする。

離婚の際に得た佐久の別荘に身辺を整理して向かった。樹里には、「おれが死んだら、おれのこと書け。小説にするんだ」と言い残した。

佐久の別荘で、点滴の在宅医療で点滴を受け、その点滴装置のコックを外し、2リットル以上の血を排出し、“脱血死”として自殺する予定であった。しかし、末期がんにも関わらず、まだ通院できるので、在宅治療を断られ、練りに練った目論みは失敗する。

しかし、雪景色に見とれ凍てつくベランダに佇み、睡眠導入剤とウイスキーを飲み、ペチカの前で転寝して肺炎寸前となる。駆けつけた医師は、点滴を施し、ようやく澤は“壮厳な死”を決行できた。貴美子の残した”死の島“に行くのだろうか。

(2) 感じ入ったこと
① 絵画“死の島”は末期に安らぎ
ベックリーンの描いた“死の島”は、この物語のあちこちを支配している。不吉な絵に思われるが、澤は「怖いタイトルだけど、静かで気持ちが穏やかになる」と感じる。先に亡くなった貴美子も、死が近づいていく中で尊厳死を決意しながら、慰められていったとのことである。

厳かな静寂な死であり、死を自分で選ぶという尊厳死する者には、なぜかぎりない安らぎを与えるのだろうか。

この絵を調べてみたところ、ギリシャ神話に基づいており、櫂を持ち襤褸をまとったカーロンがこぎ手となり、死者の魂を彼岸へと案内する。水はつまりステュクス、あるいはアケローン川であり、白で覆われた棺は死後の世界に連れて行かれ亡くなったばかりの人間の亡霊となる
渡し賃は1オボロス(ギリシャ通貨)とされ、古代ギリシアでは死者の口の中に1オボロス銅貨を含ませたという。

日本の冥途の旅の三途の川を渡るイメージだろうか。日本では渡し賃は。6文銭であり、現在使われていない貨幣であり、代わりに紙に6文銭を印刷して、棺に入れている。

結局、此岸(現世)から彼岸(あの世)に渡れば、また別世界があり永遠の魂が存在していくという宗教観で、眼前に迫る死に対し、癒され安らぎを得ているのだろう。

② 人生末期は難しい生き方
まず主人公が私と同じ年齢であり、プライド高く、孤高になりがちであり、末期がんで助からぬとわかったときの心情は実によくわかった。主人公の、末期がんによる体調悪化がつぶさに描かれ、人生に自ら終幕を引いた尊厳死も頷ける。

ただ、“沈黙の人”泰造も、同じくプライド高く知性・教養にあふれていたが、澤とは逆に、身体が不自由極まりない状態になっても胃ろうを作り生きようとする情熱を示した。

私は、この主人公の年代にさしかかっており、いつこのような事態に陥ってもおかしくなく、我が身と思って読んでみたが、まだ、おぼろげである。もう少し人生末期小説を読んで、考えてみよう。

尚、小池真理子女史の母親の末期も壮絶であった。本人談によると、次の通りである。

【長らくの認知症に加えて、閉塞性動脈硬化症という病気で足が壊死して最初は片足を切断したんですが、2年後にはもう片方にも壊死が始まった。「こちらも切断します」と言われた時は、妹と一緒に「同意できません」って、思わず言ってしまったの。
認知症で自分の足がどうなっているのかもわからなくなっている老人の足をたとえ娘でも切ってほしいと言えなかった。結局、そっちの足を温存したまま、母は亡くなりました。末期のころは、病室に入るたびに母の足が腐っている臭いがしてましたね】 (文春オンライン2018.5.20)

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この想定外の猛暑でも、灼熱の太陽の熱波に抗うように向かい合い、黄色い原色鮮やかに咲き誇っていた向日葵も、季節が流れ、ときの流れの前に枯れかかってきた。敢然とエネルギーに満ち溢れた時代を送っても、誰しもにも訪れることだ。(下写真)
 

北朝鮮をどれほどわかっているのかーーー拉致問題から

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 7月27日(金)19時50分18秒
  NEC時代の同期で、富士5湖周辺と箱根の観光に行った。早朝から飛び出し、富士山に雲がかかる前に新道峠の絶景ポイントに到着しようとした。

車で、新道峠の林道の分岐点で“行き止まり”の看板を打ちすぎて更に登っていくと、林道は白線もガードレールもなくなり先細っていく。さっきの“行き止まり”の道が撮影スポットに通じる道と気づき、旋回することもできず、肝を冷やしてそのまま山道をバックした。ようやく予定通り午前8時過ぎに、車を止め、急激な坂を上り、富士山眺望の絶景ポイントに立つ。(下写真)

河口湖と富士山の組み合わせ、そして湖から広がる雄大な裾野の曲線が美しく感動した。ただ、やはり富士山は山頂に雪をいただいた方が神々しく映える。他の富士山の観光スポットは中国人らでひしめいているが、ここは人影もなかった。
眼下に見える、河口湖はすごく大きい。45歳のときに息子とフルマラソンに参加して、途中でタイムアウトとなったが、湖を2周半も廻ろうとしたのだ。若かった。

おりからのギラつく暑さであるが、箱根のスカイラインを通ると、温度が一気に下がり、視界20メートルほどの濃霧であり、やむなく一般道に降り、宿に向かう。さすがに箱根は涼しく窓を開けると、ヒグラシの蝉時雨に包まれる。露天風呂で、山歩きの汗を流し、同期と昔話を掘り起こしながら宴を続けた。

9月に四三の会全体の行事である“卒業50周年を祝う会”が、“あら還”以来9年振りに行なわれる。関東支部の意見にも耳を傾けようと、米沢から実行委員長のIT君がやってきた。関東支部の常連4名が集まり、意見交換をした。(下写真)一声かけるとサッと集まり、主賓が帰っても2次会を楽しむところがいい。

てっきり“古希を迎えて”とのお祝いと思ったが、古希の響きが年寄りじみているせいか却下されていた。周到な準備計画であり、OB白布駅伝大会も前日企画されており、楽しみである。

22日は猛暑の中、予定通りに四三の会の関東支部懇親会を催した。今年は20名の参加であり、暑さにめげず一人の欠員もでなかった。(下写真)2次会は、うだるような暑さの中トボトボ歩いて半数近くも参加し、古希を迎えて寄る年波を感じていた私は元気をもらった。

9月の“卒業50周年を祝う会”の中心的牽引役のIT君も再び故郷から懇親会に駆けつけ、詳細を説明していただいた。参加者数の目標に70名一抹の不安がある。いろいろな飲み会を通じて、この年代になるとかなりフットワークが重くなってきているのを感じていたからである。

各人が指名制で近況を述べていったが、KT君が、突如この会はずいぶん長いがいつから始めたかと質問した。私は、48歳のとき、1997年からと答えた。
答えると同時に、もう20年もやってきたのかと我ながら驚いた。第一回は、NECの大橋会館で30人が参加し、HJ君馴染みの米澤出身者の渋谷のスナックで2次会を行った。卒業後初めて会うメンバーも多かったが、しがらみや損得のない多感な時期を過ごした仲間は、時空を超えて通じ合うものだと感じ入ったものだ。

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ところで、5月にこの掲示板で安倍内閣の品格のない忖度と不祥事を糾弾したが、最近は安倍総理の拉致問題への他人事のような対応に業を煮やしている。拉致問題は、国家によるテロであり、国際的には誰もが厳しい批判をするものだ。

「トランプ大統領にしっかり提起してもらいたいとお伝えした」との安倍総理の言動は呆れ返るばかりである。その挙句、4月27日の南北首脳会談で、韓国の文在寅大統領が、日本が拉致問題の解決を求めていることを伝えると、金正恩委員長は、「韓国やアメリカなど、周りばかりが言ってきているが、なぜ日本は、直接言ってこないのか」とテロを行った国の最高指導者が平然とうそぶく。

安倍総理は、2006年就任時に、「私の内閣で拉致問題を完全解決する」と表明していたはずであり、それから為す術もなく12年の歳月が流れ、拉致被害家族者が政治利用と怒っているのももっともである。

一方、トランプ大統領は、自ら行動を起こし、拘束された米人3人解放と朝鮮戦争での55人の米兵の遺骨の取戻しを瞬く間に実現した。日本人の拉致問題とは比較にならないほどの難しい交渉であったはずである。

日本は、北朝鮮との過去の密接な歴史に疎く、相変わらず“近くて遠い国”との意識から脱し切れていない。北朝鮮を理解するために、日本とアメリカに対する憎しみの感情を、歴史的に振り返ってみる必要がある。
そして小泉総理が拉致問題を打開した経緯も着眼しなければならない。また、世界一の大国アメリカを相手に最貧国の一つ小さな国のしたたかに立ち回る最高指導者の若いときの生きざまも調べてみる必要がある。

1 朝鮮半島を分断したのは日米

(1)1910年の韓国(朝鮮半島)併合――日本が植民地化
現代の日本人にとっては、最も近い朝鮮半島が最も遠い国のようである。ここでいう韓国併合の韓国とは、現在の北朝鮮と韓国の両方を指し、南北分裂前のことである。韓国の反日感情は日本人にはよく浸透しているが、北朝鮮も同様の歴史を持っているので、我々は彼らが同様な感じ方をしていることを認識しなければならない。

朝鮮半島では1392年に李朝が建国し、1910年までに500年間以上も一つの国家単一の王朝として君臨してきた。中国、ソ連の圧力を受け、時には日本脅かされながらも、500年間の単一国体維持は、日本の室町時代3代将軍足利義満から、明治43年までに相当する。

ただ正確には、1662年に清が明を滅ぼし中国に統一王朝を築き、李朝国家の宗主国となったが、降伏して臣下になったもので、植民地支配ではなかった。
その清国による支配を日本が解放させた。日本が、日清戦争で勝利して、翌1895年に下関条約で清朝の朝鮮王朝に対する宗主権を放棄させ、李朝国家の独立を承認させたものである。

その後は、日本軍守備隊450名が、李朝国家の王宮である京福宮を占領し、親露派の閔妃を無残にも斬殺するなどの暴挙を重ね、じわじわと保護国化を図り、その外交や軍事という主権国家としての権限を奪っていった。

そして、ついに1910年に韓国併合条約が調印された。内容は、「韓国皇帝は統治権を日本皇帝に永久に譲与」、「日本国皇帝はその譲与を受託して韓国を日本国へ併合する」というものであり、保護から併合に移行し、朝鮮半島全体が日本の植民地になった。

ここで、李朝国家は消滅し、北朝鮮、韓国に対する36年間の日本の植民地政治が始まる。根深い反日感情、領土争いは、この歴史に基づいており、北朝鮮国民にも同様の感情があることを忘れてならない。

私は、2011年に王宮である京福宮を訪れ、朝鮮半島で500年間統一王朝として君臨したこの場所を、日本軍の軍靴が響き、踏みにじってきたことに想いを馳せた。(下写真)

(2)朝鮮戦争―――アメリカが北朝鮮と分断
1945年8月15日の日本の敗戦と同時に、朝鮮半島は独立した。しかし、ソ連軍が朝鮮半島の北部を占領し、南部を米軍が占領し、また新たな悲劇が始まった。
ようやく日本の長い植民地化で失っていた統治能力が芽生え、1948年9月に大韓民国(韓国)が設立され李承晩大統領が就任し、南部は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が樹立され、金日成首相体制となった。

1950年6月に、北朝鮮が国境の38度線を越え、ソ連から供与された戦車250両で攻め込んできた。韓国軍と米軍を攻め立て、ソウルを陥落し、1950年9月にはいっきに釜山周辺のエリアだけに追い詰め、朝鮮半島軍事統一の寸前まできた。韓国が消え去り、朝鮮半島がベトナムのように共産主義に染まる寸前であった。

このとき、金日成首相は致命的な戦略ミスをした。背後を突くためにマッカサ―司令官が、仁川から260隻70万人の大軍を上陸させて挟み撃ちし、形勢を一変させたのだ。そのまま
韓国軍と米軍は北上を続け、11月には逆に平壌を占領し、北朝鮮を中国との国境近くまでに追い込んだ。

しかし、ここで、毛沢東が北朝鮮を支援することを決定し、100万人の中国の人民解放軍が参戦して再び反撃により38度線まで押し込んきた。
現在の北朝鮮と中国の深い絆はここにある。

結局、1953年7月に3年間に近い戦いの末、休戦協定に至り結局戦争前と同様な38度線に戻ったのである。実に戦死者数は、韓国軍240万人、北朝鮮292万人、米軍14万人、中国軍90万人に及んだ。

2 小泉総理の拉致問題対処

北朝鮮の経済は、皮肉にも金日成首相
の提唱した「チュチェ(主体)思想」が浸透するに従って、惨憺なる経済状況になってきた。後ろ盾のソ連の社会主義が崩壊し、中国も共産主義に市場競争原理を取り入れ共産党の態勢とは名ばかりとなった。北朝鮮は、頑なに世界趨勢で誤っていると指摘される共産主義体制を守り、経済情勢は破綻寸前になった。

2代目の金正日委員長は、2002年9月に拉致問題を梃子に、日本から5億ドルの経済協力を引き出した。小泉総理と直接会談し、初めて拉致を認め、謝罪することを引き換えにしたのである。

日朝平壌宣言には、拉致の再発防止を明記したが、根強く日本は過去の植民地支配に適切な反省と心からのお詫びも記されていた。

翌10月に拉致被害者5名は、一時帰国した。そして、小泉総理は、拉致被害者本人の意思を尊重し、北朝鮮に戻ることを拒んだので、家族が北朝鮮に取り残されるという大きな課題を背負った。
中央大法学部3年のときに新潟の海岸で拉致された蓮池薫氏は、著書“拉致と決断”の冒頭に、北朝鮮に戻ることを拒み、人質となった子供を思う複雑に揺れ動く胸中が描いていた。

それから事態は膠着したが、1年7カ月後の2004年5月に小泉総理は直々動いた。
平壌を訪問し金正日委員長と会談し、25万トンの食糧援助と1000万ドルの医療援助と引き換えに、子供達5人を引き連れて一緒に帰国した。次いで曽我ひとみさんの夫と2人の娘も帰国して、ようやく拉致被害者の人質問題は解決した。

日本政府が認定している拉致被害者は、12件計17人だが、民間団体の「特定失踪者問題調査会」は、拉致の可能性を否定できないとする特定失踪者は約700人としている。
蓮池薫氏は、拉致されて24年間過ごした北朝鮮の生活を、“拉致と決断”で生々しく克明に描いている。

日本の拉致被害者は、北朝鮮には何の害も与えない善良な一般市民がテロに遭ったようなものである。2004年の小泉総理以降は事態がピクリとも動かず、被害者の親は高齢化してきており、安倍総理にも、トランプ大統領にしっかりお伝えするにとどまらず、直接行動を起こしてもらいたいものである。

3 金正恩委員長の意外な教育履歴

この5月の音沙汰記で、安倍内閣の散々の体たらくを、彼の幼少時からの凡庸としてきた生きざまを追って解明し、自民党政権の腐敗体質を醸成したことを描いた。

拉致問題ではキーマンであり、絶対権力者の金正恩委員長の幼少時の人格形成環境を掘り下げてみる。

金正恩委員長は、27歳で最高指導者の地位につき、後見人だったナンバー2の叔父である張成沢とその多数の部下を粛清し、更に異母兄の好人物の金正男の暗殺まで行う悪行が伝えられている。

破滅的な経済情勢下にあり、暴挙を振る舞う金正恩委員長は、教養のない独裁者とみられるが、安部総理のような惰性的で凡庸な教育は受けていなく、気概をもってエリート教育を重ねたことは、あまり知られていない。

12歳から17歳まで、5年間スイスの首都ベルンに留学していたのである。ベルンでは、当初英語でのベルンインターナショナルスクールに通っていたが、1学期で辞めて、ドイツ語圏であり当然授業も日常もドイツ語で行う公立学校に転入した。

ドイツ語は苦手であったが、あえて挑戦している。大学卒業後、カリフォルニアの語学学校でわずか6講座しかとらず2年間遊学していた安倍総理とは心構えが違う。

バスケットが上手く、ゲームを組み立てていく積極的なプレーヤーと評価されている。バスケットの試合を見るために、パリとの往復600kmも車で往復するほどであった。

帰国前の校長の評価では、「すべてに一生懸命取り組む努力家だった。負けず嫌いですべてにおいて自分がよりいいポイントを取ろうと目指していて、そうできると喜んでいた」と褒めている、

欧州の学生の街には、いまだ中世の良き学問の風土を継承し面影を留めるところも多い。
2009年12月に、欧州に行き、私はそれを直に感じていた。私が観て感じ取った欧州の学生気質について述べる。

最初はドイツから入り、ハイデルベルグを訪れた。
ドイツ最古の大学を有する学生の街であり、この街は大学構内と見なされ、警察が介入できず、大学当局自身が暴れ者の学生を処罰するために設けた学生牢を見学した。鉄格子と鉄製のベッド、粗末な食事とのことで監獄と変わらなく思えたが、収監された者は、世に出て名士になったものが多いという。

つまり、度を過ぎたバンカラな学生を収容する場所で、学生は収監されることを名誉にし、壁一面に自分の似顔絵、記録などを刻み付けている。気のあった者は頬に傷つけて結束を誓い、血判を押したという。

丘には中世最大の山城があり、石畳、赤い瓦屋根の家並み、ゆったりと流れるネッカ河と石造りの橋は、中世の景観であり、学生は良き風土に恵まれて育っている。

次に、私は、ロマンチック街道を辿り、ノイシュバインシュタイン城を廻りスイスにはいった。そしてジュネーブに向かうが、途中金正恩委員長が留学していたベルンに立ち寄った。

ベルンの街は、中世のヨーロッパの面影をとどめ、世界遺産に認定されている。バラ園からの眺望は、ドイツと一味違った中世の街の風情であり格別である。鉛色の空のもと小雪が舞う公園のシーンは映画の一コマのように圧巻であった。

ベルン中心街の時計台までの目抜き通りを練り歩くが、クリスマスといえども、静かで厳粛な飾り付けが心地よかった。私は、石造りの建造物と石畳の中世を思わせる旧市街の時計台の前に立ち、タイムスリップを体感した。(下写真)

アインシュタインは、チューリッヒ連邦工科大学を卒業し、ベルンにいた3年の間に、“特殊相対性理論”を発表し、ベルン大学の講師も務めた。
学生が学び、創造力を引き出してくれる素晴らしい学び舎の環境である。

北朝鮮の金正恩委員長は、最も多感時期の5年間、このベルンの街で学んでいたのだ。な
かなか奥深い人物と心して、対話に持っていかなければならない。

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こうして歴史の蓋然性を追ってみると、総理大臣としては、狭量であり、統率力、深い思索に欠けており、拉致問題を解決することは困難と思われる。しかし、公約に近いものであり、謙虚に歴史を研究して戦略を練り一念発起して身を挺してもらうか、9月の新総理誕生を待ちたい。
 

古希を迎えてーー今日は私の誕生日

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 6月23日(土)15時45分57秒
  ひさびさに全軒離れの庭、温泉付きのひっそりした山の里に佇む高級旅館に泊まった。(下写真)2人で6万5千円であり、私の常宿する一泊3000円の宿の十倍以上の宿泊費である。

和風の造りで、入口右手に囲炉裏部屋があり薪がくべられ懐かしい赤橙色の炎が揺れ、年季の入った鉄瓶が掛けてある。ロビーには古いボンボン時計が掛けられ、雑然と並べた高級な椅子とテーブルが寛いだ空間を創り上げている。

離れは全部で20軒ほどだが、一軒に5部屋もあり、まるで迷路のように渡り廊下が入り組んで長く続いている。蔵王連峰を望みながら、木漏れ日のもと山小屋風のヨガ教室に登っていくのも一興だ。アンテークな家財とインテリアの談話室で、のんびりしているのもいい。

部屋の外庭には椅子を備えたテラスもあり、部屋の風呂で一杯やりながら、湯上りをテラスで涼むのも心地良い。食事も格別で山菜料理をはじめ手の込んだ数々の料理であった。悠久なる贅沢なときが、ゆっくりと流れた。

その帰途、故郷には、3日間しかいなかったが、2日間は四三の会のメンバーと飲んだくれた。

いつもの極上美味のとんかつ店で、四三の会のFT君とSA君とで飲んでいるうちに、ひょんなことからHAさんとIRさん(旧姓)と合流することになった。(下写真)カラオケ店で、いつも開かない想い出の抽斗をあけて、懐かしい青春時代の記憶を追いながら、心地よく唄っていた。FT君は、私の歌を聴いたのは、タイ以来と言った。

翌日は、四三の会全体で9月に開催する“卒業50周年記念を祝う会”の一大イベントの打ち合わせだった。(下写真)古希を祝って、満60歳の“あら還”のフェステバル以来の9年振りの大イベントである。古希は数え年で行うが、社会を退場してからもう10年近く経ったのだろうか。今日は私の誕生日であり、その古希を迎えた。

古希という言葉は、杜甫が詠んだ“曲江”の「酒債は尋常、行く処に有り。人生七十 古来稀なり。」にちなんでいる。
「酒代の借金はあたりまえのことで、行くところどこにでもある。人生は、七十歳まで長生きすることは稀なのだから、酒を飲んで今のうちに楽しんでおく。」
そのとおり実践し、杜甫は58歳で亡くなった。

私も、60歳の定年退職を機会に杜甫の心境になった。仕事をやっていた現役時代は週に1回、必死の思いで禁酒日を断行してきたが、退場した身では、もう好きにやろうと1日4合以上は連日飲み続けてきた。

4合に抑えている理由は、5合を10年間飲み続けているとアルコール依存症となり、肝障害は80%と高頻度で起きるという医学的根拠による。
ただ、危ない飲酒量であり、多分、再生不可能な沈黙の臓器である肝臓が壊れていくだろうと覚悟していた。

しかし、9年間飲み続けても、アルコールによる異常値が出るといわれるγ-GTPは全く問題なし。当然GOT、GPTも良好であり、自分の強靭な肝臓を褒めてやりたい。(下写真)

定期健康診断の上では、全く問題はないが、肝心なのは体の老化の把握である。
6月3日に第62回大学OB月例稽古が行われた。そのとき、同期のST君に上段前蹴りと上段回し蹴りを録画してもらった。

1年振りに自分の技を分析したが、がっかりである。上半身が固くなり軸が崩れ、両腕の構えも崩れている。廻し蹴りの腰が廻り切らず、足首が斜め45度上を向いている。(下写真)スピードは鈍っていないので、課題はストレッチ体操の強化である。
先輩には、「70近くで上段回しを出すとはたいしたもんだ」と雑駁に褒められたが。

頭の方(認知)も問題ないと思う。空手OB役員会で関東支部創立20周年記念として、ホームページ開設の企画が出された。つい酔っぱらって引き受けてしまったが、ホームページビルダーのマニュアルを見ることもなく。滞りなく総会までの1週間で造り上げ、コンテンツの出来栄えも良く、絶賛された。

古希を迎えたことに至っては、いろいろ想いを馳せることがある。五木寛之著 “70歳!人と社会の老いの作法”を紐解いて感じるところを述べたい。

① 現代の70歳とは

まず、老いの位置づけを明確にしなければならないらしい。これまで、人生は“50年”と“50年以降の次の人生”とだいたい2分されてきたが、これは、高齢社会では見直さなくてはならない。
生まれてから30歳まで、30歳から60歳まで、そして60歳から90歳までと3分化する。

確かに、高齢社会では、男性は1947年に50歳であった平均寿命が、現在81歳と驚異的な伸びを示しており、男女の平均寿命は世界第3位である。
これでは、信長が好んで舞ったという“敦盛”の「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」も長寿化を踏まえて見直さなければならない・

しかし、長寿化したととはいえ、70歳といえば体力も落ちてゆっくりしたい年で、そろそろお迎えを待つ覚悟がなくてはならない年齢でもある。

② 3つの区分で古典は異なる

人生論とか宗教論、あるいは、哲学とか思想とか文化にしても3つに分化していく。“徒然草”の「つれづれなるままに、日ぐらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなごとを」など、人生の荒波を経験してようやくわかる。一方、いまゲーテの“若きウエルテルの悩み”を手にとっても、正直に言ってまともには読めない。

文壇の最重鎮の五木寛之氏にしては大胆な見方である。
図星の指摘であり、私の読書歴を振り返っても、30歳までの“三太郎の日記”、60歳までの高杉良、城山三郎の企業小説は、もうまともに読めない。なるほど、このような読書傾向からも、自分が老いたことを知らされる。

③ 死生観を持てるか

“死”を現実のものと意識して、考えを成熟していく期間は60歳から30年間ある。

キューブラー・ロス(注;アメリカの精神科医、終末期研究の先駆者)によれば、人が死を受容するまでには、5つの段階があるという。
第一段階は死期が近づいていることを“否定”、第2段階は自分がなぜと“怒り”、第3段階は善行を積むなどで死を回避する神との“取引”、第4段階はそれが功を奏さないとわかり“抑鬱”、最後は死を自然に受け入れる“受容”の5段階である。

五木寛之氏は、この調査分析に対して欧米流の分析と否定的である。論理的に階段を上っていって最後の目的地に達するというような合理的なことではなくて、どこかで高い壁をひょいと乗り越える(宗教的な)物語の力があるという。

日本の宗教には2つあり、“頓教”と“漸教”だそうである。頓教は一瞬にして教えに到達するというもの、漸教はじわじわと長く修行して手に入れる教えであり、親鸞の浄土真宗が、頓教である。

私は、五木寛之著“親鸞”の大作も読んだが、親鸞が重視した、死生観を握る信心・信仰が頓教的性格を帯びるということがわからない。
長く厳しい修行を積んだ者に悟りがあり澄んだ心で極楽往生できれば良いが、念仏を唱えて身を投げ出せば、死に向かう覚悟を、論理的でなく、直感的に身に着けさせる力をもっていることは、うなずけない。

私は、キューブラー・ロスの5段階を冷静に受け止めて、自分の心象風景を分析しながら心境を綴り、死へのステップを準備しながら踏んでいきたい。

④ 見えない世界を語る

昔から多くの人々は難しい理論や哲学とは別に、物語の世界で生きているものである。死についても、それを解明するとか論ずるというのとはまったく別の次元で、死を“物語”としてとらえている。

感じ取って、物語を創り上げて投げ返すのが作家の仕事。物語は、時空を超えて人を教化していく力がある。聖書の持つ物語性はすごいものだ。親鸞の歎異抄も面白い。

五木寛之氏の対談相手の釈徹宗氏(宗教学者、浄土真宗本願寺派如来寺住職)は、この物語を次のように評している。

「五木さんは、神も来世も、我々の人生も善悪も、すべてひとつの物語である本に書いておられますが、本当にその通りですね。われわれ自身も、物語の中に生きている。その中で、ああこれは私のために用意された物語だ、とリアルに感じるもの出会ったら、それはもう他のものに代えることができない、私にはこれしかない、となる。そこに宗教の救いが成り立つのではないでしょうか」

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“低成長・高成熟社会”、“大量自然死社会”で、死と対峙しながら準備していくことは、なかなか難しい。死に関する自己決定のための死生観を持つことが求められている。

周りに迷惑をかけず、滑稽な印象も与えずに、淡々と自分で世を去っていくにはどうしたらいいか。これは我々世代にとっては、切実な問題と五木寛之氏は結んでいる。
 

この国のかたちはどうなるーー政治家と官僚の体たらくと憲法改正

 投稿者:管理人  投稿日:2018年 5月10日(木)19時32分46秒
  行雲流水のように浮世離れして生きているが、最近はこれまでになく政治がらみの卑劣な言動、行動が世相を騒がし否応なく耳に入る。

安倍一強に追従し尊厳も矜持も失い政治家と思えぬ小規模で姑息な仕業、そして4年前の内閣人事局の設置により人事権が官邸に握られ茶坊主に成り下がった官僚達の忖度と品格低下が顕著である。

2年前の終戦記念日の後に、“戦争を身近に感じた団塊も社会から退場――戦争を知らない世代へ”と題して、“負ける戦争”になぜ突入していったかを分析し述べた。

今回は、身近な小さな不祥事だが、物事には蓋然性があり、憲法改正論議も控えており紐解いてみる。まず、不祥事の前に、急展開する朝鮮半島に対する安部外交を評価する。

1.安部外交は大丈夫かーー朝鮮半島は融和へ

文在寅韓国大統領の朝鮮半島政策が、驚くべき成果を挙げた。

4月27日に北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長と板門店で11年ぶりの南北首脳会談を行い、北朝鮮のトップが韓国側入りしたことはかってなかった。

そして、朝鮮半島の完全な非核化と朝鮮戦争の終戦を締結する板門店宣言を共同で発表したのである。一筋縄ではいかない金委員長であり、今後の予断を許さないが。

2010年11月に北朝鮮人民軍が延坪島に向けて砲弾170発で攻撃した3か月後に、私は韓国ソウルを訪れていた。(下写真)

緊張状態の坩堝であり、商社退職後に現地に語学留学していた四三の会のYH君が、驚くほど立派に長大に整備された地下街に対し、「これは、北朝鮮が攻め込んできたときの防空壕だ」と説明してくれ、納得しながら驚き入った。

その臨戦態勢には、平和ボケした日本人は戸惑うだろう感じた。そもそも大半の日本人は、1910年に朝鮮半島を日韓併合として、第2次大戦の敗戦まで36年間に渡り統治し続け植民地化していたことさえもよく知らないのだ。

北朝鮮は、2010年の延坪島砲撃後も、核開発を加速し、ミサイル実験を繰り返し、核の脅威に日本も晒される状況になってしまった。

いま韓国、アメリカ、中国が北朝鮮に強く介在し、日本の外交は全くの置いてけぼりであり、単にアメリカの尻馬に乗り、北朝鮮を非難するのみであった。韓国の文大統領は、温厚な風貌からは感じられない戦略家であり、着任時から融和政策を打ち出し、この度実現させている。

佐藤優著“日本でテロが起きる日”に記述されている。「日本外交は孤立主義が強まっている。安部首相は50カ国以上も訪問しているが。1点の成績ばかりで、85点を占める中国、韓国、米国、ロシア、北朝鮮には触れようとしていないか失敗である。」
アメリカ、ロシアとの交渉は、コウモリ外交であるとも揶揄している。

拉致問題では、安倍首相は2006年就任時に、「私の内閣で拉致問題を完全解決する」と表明したが、加藤拉致担当大臣を任命しただけであり、その政治利用のみの活動は、蓮池透著“拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々”に如実に描かれている。

トランプ大統領は、有言実行で今日、3人のアメリカ人を北朝鮮に解放させ、午前3時にワシントンの基地で自ら出迎えた。

2 品格がない忖度と不祥事

安倍内閣の不祥事はこれでもかと思うほど相次いでいる。例を挙げてみる。

① 加計問題
加計獣医学部に総理のご意向と書かれた文書を、菅官房長官が怪文書と切り捨て、松野文科大臣は、存在しないと隠し続けていたが、実在したことに平謝りである。柳瀬元首相秘書官も、「記憶の限りではお会いしたことはない」と言い切ったが、これも議事録が実在し記憶が戻ってきたらしく、3度も加計学園と会ったとお詫びし、他は“丁寧”に木で鼻をくくったような答弁だった。

②森友問題
森友学園の8億円値引きの忖度を追及されたが、関係政治家も官僚もしらを切り続け逃げまくる。佐川元長官が偽証し、それに合わせて、公文書を改ざんしたことがようやく判明し、処分される。大阪地検特捜で捜査中である。公文書改ざんに関しては、組織にまたがって行われたが、麻生大臣は「個人がやったこと、どの組織でも改ざんはあり得る」と突拍子もない発言をした。

③ 防衛省問題
稲田防衛大臣が南スーダン派遣日誌問題紛失で辞任し、後釜の小野寺防衛大臣もイラク派遣日誌を発見後隠蔽し、謝罪した。軍部に対するシビリアンコントロールが効かなくなってきた。
他にも小西議員に、暴言を浴びせた3等空佐を防衛省は訓戒処分としたが、これは戦前の軍部ファシズムの“黙れ事件”を彷彿させる。

枚挙に暇はないが、品格を疑う問題も起こしている。

④ セクハラ問題
福田次官のパワハラ問題である。音声データまで提出され、麻生財務大臣は被害者の話を聞きたい、福田にも人権があると強弁したが、積みあがる証拠に財務省は、セクハラを認め減給し処分した。それでも麻生大臣は、セクハラ罪はないとの非常識な発言を行う。週刊新潮は、これに対し、阿呆太郎と命名した。財務省は幹部に対するセクハラ防止研修を行ったが、肝心の麻生大臣は出席していなかった。

⑤ ヨガ教室問題
林文科相が紛糾する国会の休息時間に公用車でヨガ教室に2時間ほど行く。元ヌードグラビアタレントが経営する店で美女揃いで個室で1:1の指導のうえ、マッサージあり。それでも公用車使用は公務の間で問題なしとする無神経さである。マッサージ嬢は全員無資格で保健所の指導を受けてしまった。


なぜ、内閣全体がかくも、“忖度”にあふれ、品格を欠いてきたのだろう。
2014年に内閣人事局が官邸により牛耳られることになり、官僚達の極端な“忖度”が始まったと思う。安倍一強といわれる、彼の力量、品格がこの組織風土を醸成してきたと思われ、彼の政治家になるまでの生きざまを追ってみた。

急死した総理大臣候補の父安倍晋太郎の地盤、看板、カバンを引き継いだ後は、この政治家界隈では順風が当たり前であり、それ以前の生き方が、その人の知行体系に影響するので、そこに焦点をあてる。

3 安部総理の生きざま

(1) 小学校時代
父の晋太郎からは、「大学は東大しかない」と、晋太郎の母校に入ることを強いられ、家庭教師が付き、週3回も教えられた。
家庭教師は、連立の公明党を公然と批判する硬骨漢、衆議院議員の平沢勝栄であり、当時東大法学部に在学していた。
あの頃の家庭教師は一部の家庭のみであり、それも週2回程度であり、遊び盛んな小学生には稀でかつ酷なものだったと思う。

(2) 中、高校時代
勉強には相変わらず精が出なかったが、この頃父の道である職業政治家を意識し始めたという。晋太郎は、「東大に行け、東大に行け」と尻を叩いたが、勉強が好きでなかったので、成蹊大学へのエスカレーションを考えていた。部活動も目立ったものもなく、高校時代に地理研究部に所属していた程度である。

(3) 大学時代
成蹊大学では、法学部政治学科に進んだ。真っ赤なアルファロメロで通学し、アーチェリー部に所属し、雀荘に通ったそうである。
成蹊大学のアーチェリー部は、関東学生リーグの2部と強くなく、補欠と正選手の間くらいで、交代要員程度でしか、試合に出られなかった。ただ他大学とのコンパが楽しみで、居心地よく4年間所属していた。
謳歌した学園生活だが、安倍自身は後に次のように反省している。

「コンプレックスのない人間なんて、世の中にそういないですからね。一つは、小学校から大学までずっと成蹊学園にいたので、受験を経験していないんです。人間というのは、ある時、目先の目標を達成するため、大変な思いをして、勉強するということが必要ではないのかという気がします」【Yomiuri Weekly 2004年2月】

(4) 遊学時代
成蹊大学を卒業すると、祖父の代から親交ある人の世話でサンフランシスコに下宿し、9カ月間ほど語学学校に通った。それから南カリフォルニア大学に入学し、1年強で辞めて、帰国する。当初から、MBAなどを取得する気はさらさらなかった。この時代に、問題の加計理事長と知り合っている。

この遊学を、経歴書に“南カリフォルニア大学政治学科に2年留学”と記しており、2004年2月に週刊ポストで学歴詐称としてスクープされてしまった。専攻に政治学はなく、取得した講座は全部で6つであり、そのうち3つは“外国人のための英語”だった。以降、自身の経歴から留学経験を削除している。

(5) 神戸製鋼所時代――3年7カ月
大物政治家の晋太郎の口利きではどんな会社にも入れる。選挙区で最も大きい企業の長府製造所を有する神戸製鋼所を選んだ。帰国したタイミングでは入社試験も入社式も終わっていたので、翌年4月まで、ニューヨーク事務所での嘱託としての研修となった。

翌年ようやく正社員になり、5月に他の新入社員とともに加古川製鉄所勤務の辞令を受けた。学卒が3年間勤める仕事はたいてい現場と営業の調整であった。寮は、6畳一間の相部屋で共同浴場である。

私も寮は同じ環境で、テレビもなく冷房もなく6畳の相部屋だった。仕事は、専ら品質問題を起こした事故処置であり、原因と再発防止で現場を走り回っていた。まずは、現場から怒られながら、3年間仕事の仕方を身に着けていく時代であった。

ただ、晋三は、育ちが良すぎたせいか、正式入社の翌年夏に体を壊し、東京の病院に入院して療養生活にはいる。酒は、一切飲まなかったのだが、却ってそれが災いしたのか。

現場は無理とその翌年2月に東京本社に移る。転勤先は冷延鋼板輸出課で総勢8人だった。そこは、水が合ったらしく仕事に精力を注いだが、異動の翌年晋太郎から、退職して自分の元で働けとの強い指示があり、11月に退社した。
そして、外務大臣の政務秘書官として、政治の世界に放り込まれた。


彼の生きざまを見ると、やっぱりという感じである。総理大臣としては、狭量であり、統率力、深い思索に欠けている。親の七光りでいまの地位を得たものと思う。
佐高信は、「狭量で批判を受け入れない権力は絶対的に腐敗する」と指摘している。

4 私が最も気になる政策――憲法改正

果たして、上記のような凡庸な生きざまの総理に、国の命運を握る憲法9条改正のキャステイングボードを委ねて良いものであろうか。

安倍総理は、2015年9月に安保保障関連法案を成立させているが、その中に憲法9条の戦争放棄に反する“集団的自衛権”がある。明らかに違憲であり、誇大な憲法解釈であり、これを歴史に残すまいといま憲法改正に躍起なのだろう。

あの悪名高い60年安保を成立させた安部総理の祖父の岸信介でさえ次のように言い切っており、孫の政策は、草葉の陰で暴挙と嘆いているのではないか。

【岸信介 1960年2月参院本会議】
「自国と密接な関係にあるほかの国が侵略された場合に、これを自国が侵害されたと同じような立場から、その侵略されておる他国にまで出かけていって、これを防衛することが、集団的自衛権の中心になると思います。そういうものは、日本憲法においてそういうことができないことはこれは当然でありまして、そういう意味における集団安全保障というものは、ないのでございます」


集団的自衛権で、アメリカが他国と戦火を交えた時に、戦争に巻き込まれる可能性はいっきに増した。憲法改正に際しては、憲法9条に「必要最小限度の実力組織である自衛隊の保持を妨げない」と明記するらしい。

2年前8月にこの音沙汰記で、“戦争を身近に感じた団塊も社会から退場――戦争を知らない世代へ”と題して、“負ける戦争”に突入していったかを分析したが、この憲法改正がこの国の大過になることを危惧している。
先日、たまたまテレビの日本映画専門チャネルで“二百三高地”を観た。戦争の怖さ、悲惨さを如実に描いていた。

5 映画“二百三高地”

日露戦争の旅順攻撃における、二百三高地の日露両軍の壮烈な戦いを描いた作品である。東映が15億円かけて、1980年に上演し、瀬島龍三が監修している。

第三軍の司令官・乃木希典を中心として戦況が臨場感あふれており、戦争の悲惨さ、凄惨さが伝わってくる。要塞から狙い撃ちされる前線の兵士の惨状、特に戦争とは縁もない民間人が招集され、妻、子供などを残して戦死していく姿は胸に迫るものがある。

日本軍13万人のうち、戦死者1万5千人、負傷者4万5千人と半数近くの死傷者が出た凄まじい戦いだ。

2003年1月1日、中国の遼東半島南端に位置する旅順を、私は訪問した。ロジア軍が築いたコンクリートの要塞に対し、下から駆け上って肉弾戦を繰り返す日本軍を想像し慄然とした。要塞と地形からして味方の屍を土塁にして、突貫攻撃という表現は大げさではなかった。

原爆まで投下されたこの国は、永久に戦争を放棄しなければならない。
 

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